プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

物事の大小や多寡を判断するには通常決まった形容表現があります。ところが、「可能性」(「蓋然性」等も同様)については、いろいろな言い方が用いられています。
(例)
・失敗に終わった可能性が大きい(または「大である」)
・犯人は既に海外に逃亡した可能性が強い
・景気は失速する可能性が高い

一見いずれもありうる表現のようですが、これら「大きい」「強い」「高い」については、
(1)いずれか1つが正解で、他は誤り(そうだとすればどれが正解でその根拠は?)
(2)事例により使い分けるべき(その場合使い分けの基準は?)
(3)いずれも使用可能(それは何故そういえるのか?)
(4)その他
のうちどれが正解でしょう?

さらにこの事情は英語においても極めて似た状況(「highly probable」「strong possibility」「huge oppoortunity」などいずれの形容詞もやはり使えそうです)のように感じるのですが、英語の場合は上記(1)~(4)についてはどうでしょうか。

以上、日本語・英語片方でも結構ですので、ご教示方よろしくお願い申し上げます。

A 回答 (2件)

 「可能性」という表現仕方の、視点の違いにポイントを置いて考えてみました。



1.将来において物事が実現しうる、またしかるべき状態になりうる見込み。
 この場合は未来時制に対しての予測・推測・憶測なので、原則としてあるかないかの表現であり、それをやや緩めても、大いに実現しうる側か、殆んどありえない方なのかとなる。
 充分可能性がある。(good/strong possibillity)
 殆んど可能性に乏しい。(utterly inpossible)
 したがってhighlyなどがそぐわない。

2.どこまで実現できるか未確定な要素を表す。
 そもそも未確定で仮定的な用法なので、この場合は程度を表す表現にはそぐわない。
 可能性を試す。(do one's possible)
 十分な可能性を秘めている。(have great possibillties)

3.あることが実現する条件が、それを妨げる条件よりも優勢であるという確からしさ。蓋然性や公算・適遇、また確率密度。
 この場合は現在形で使用されるし、その実現性の度合いや多寡の表現も多様化される。
 ただ、原則は可否の境界があるのだが、その次元をどう表すか、また中間的領域(スレッショホールド・レベル)をどう扱うかによってその多寡表現も異なる。
 
 大きな(高い)公算がある。(a strong (a high) probability)

 したがって、例で上げられた3点の内、1と2は現在での公算に触れているので、分類3にあたる。
 成功⇔失敗の公算・確率と見れば、あるいは海外か否かの公算や蓋然性としては、まずは高低でしょうか。強弱や多少なども使えそうに思えますけど。
 3は将来予測なので1になりそうで、その場合は景気が失速するか否かに関しての可能性があるなしの二極択一が原則でしょう。
   
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この回答へのお礼

「時点で切り分ける」というのは非常に新鮮な切り口で、大変参考になりました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/14 07:40

「ご教示」はできませんが、「個人的見解」を。



「可能性」というのは、まだ起こっておらず未確定のこと、すでに起こっているが未確認のものについて、パーセンテージとしての「量的イメージ」を与えることだと思います。その「量的イメージ」をどのようなスタイルのものにするかで、「可能性」を修飾する言葉も選択されるものと考えます。

私自身は、「可能性」という言葉を、ほかの視覚的イメージに代替させるとしたら、たとえば円グラフや棒グラフのようなものを思い浮かべます。円や棒の中で色彩を帯びたエリアの大小によって「可能性」を表せます。これが「可能性」という言葉の自分の中でのひとつの翻訳になります(もちろんいつもそのようにイメージしているわけではありませんが、あえて翻訳してみると、このように置き換えられる、ということです)。

ですから、「可能性が大きい」「可能性が高い」は、自分の中では○です。「可能性が強い」というのは何も考えず使ってしまいそうですし、そういう風に言う人もいるでしょうが、私の場合は多少違和感があります。視覚的なイメージに変換しにくいからだと思います(「可能性」という言葉が、見て比較できるような物量的イメージを要求しているように自分には感じられるので)。あくまで、そういう気がする、といったレベルなのですが…。

「可能性がある/ない」という表現が成り立つのは言うまでもありませんが、「その可能性が濃厚になってきた」あるいは「その可能性は希薄だ(あまり言いませんが)」という表現もあると気づきました。この表現は、先ほどの円グラフや棒グラフにはそぐいません。しいて言えば、円グラフの上に掛かる霧の濃度で、その量性を表現していると言えるかもしれません。

結論としては、「可能性」という形のないものに、比喩的な量的イメージが与えられれば、それに呼応した修飾語は、「あり」だということなのではないか?ということです。

ですから、新しい比喩像がこれから生まれれば、それに呼応した新しい修飾語も生まれてくる「可能性」があるとも思います。
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この回答へのお礼

ご指摘のとおり、「濃淡」でも表現としては違和感がありませんね。
結論をだすのは困難なのでしょうが、どうやらいずれも明確に誤りと指摘できるような表現ではなさそうです。
「可能性」といった概念の捉え方にもよるのでしょうが、ものの大小や多寡のように一律には捉えづらいためこのような表現が可能なのかもしれません。
英語でもよく似た状況にあるのは興味深く思っています。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/22 08:26

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