1. 法則とは 経験事象に見られる共通の要素についての規則性などが
一般的・普遍的であると捉えたときに その普遍的な規則性をよぶ言葉で
ある。

2. しかるに 神は 超経験の場だと 相場は決まっている。あらゆる
経験事象から自由なわけです。

3. 超えているからこそ そこでその神が あたかも経験世界を覆い包
むかのごとく 何らかのハタラキカケを持つのではないかと 人間は忖度
することになる。

4. 経験的な事物が・つまりその法則が 神に成るのなら――つまり人
間の理性(知解)と意志によって 神は宇宙の法則であると認識し判断し
たとするのなら―― そこら中にうようよ神がいることになる。

5. もしその論理に寄り添って考えるとしても その法則とやらなる神
々は 超経験の場なる神の依り代なのだ。神という正解へと到ろうとする
ために人間が引いた補助線なのだ。

6. たとえば 《神は愛なり》とか《神は真理である。絶対である。無
限である》等々といった経験合理性にもとづく説明をしたとしても その
認識内容は そのままが神ではありません。それらは 神を指し示すシル
シです。
この補助線ないし依り代をどうして 神と見るのか?

7. どうして神が法則なのか?

8. 法則を知ったというのは 人間の能力である。その知解能力の内に
神は おさまると言うのだろうか?

9. 法則の認識が間違っていたなら どうするか? 法則におさまらな
い現象があったら どうするのか?

10. 経験世界の法則性は あくまで部分的・局所的あるいは一時的だ
ということではないのか。

11. 哲学が 《神は 宇宙の法則である》なる命題をゆるしていてよ
いのだろうか?

質問者からの補足コメント

  • ★(回答№2)  嘘つきを検索してどうする(笑)
    ☆ 嘘つきも 人間であるとみとめるからであり 互いに人間である
    とみとめあうところを目指すからです。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/13 08:50

A 回答 (15件中11~15件)

ほとんどの分野の専門家に言えることですが、素人の見学者が自分の職場に来て自分の仕事について説明する時、素人には分からない専門用語を使って説明してしまう人というのは、ほぼ間違いなく自分の仕事に就いて正しく理解していません。

きちんと理解している人は素人にもわかりやすいように平易な言葉を使って説明します。専門用語を使うと正しく理解していなくても、それなりに説明できてしまえるので、理解したような気分になってしまうんですよね。

 あなたもそういう理解してないのに理解している気分になってしまっている人の一例のように思えます。

 訊きたい質問と、質問の背景や前提の説明と、自分の意見がごちゃごちゃになってしまっていて大変読みづらい。
 つまり、あなたは自分の考えをまとめ上げることができていないんです。小難しい言葉をこねくり回して考えた気分になってしまっているが、実際のところは何も考えていない。おそらく自分が使っている単語の意味も理解しきれていないのでしょう。散らかった部屋を片付けなさいと言われて、モノを右から左へ置き換えているだけで何も片付いていないのと同じです。文章の頭に番号付けて整理したつもりなんでしょうが、全然整理できていません。訊きたい質問と説明を箇条書きにするなら別々に箇条書きにするものです。訊きたい質問と説明を一緒くたに並べて箇条書きのスタイルをとって何の意味があるんですか?一言で言って幼稚です。

 哲学を気取っているようですが、あなたのそれは哲学でも何でもありません。ただの妄想です。

 哲学とは実践にあります。
 考えることでも悩むことでも学ぶことでもありません。ただ、自分がどう生きるかを実践する・・・そこに一貫性を持たせるのが哲学です。世の哲学書はその一貫性の理由を小難しい言葉で説明しているにすぎません。
 何もせず、小難しい言葉をこねくりまわして考えた気分になって哲学を気取られても周りが迷惑するだけだからやめときなさい。あなたも成長しません。

 次からは質問する前に自分で文章を3回読み直しなさい。
 そして、相手にきちんと伝わるかどうか?字や言葉を間違ってないか?もっと平易な言葉に置き換えられないかどうか?誤解を招く表現や紛らわしい言い回しを使っていないかどうか?数年前の今より無知な自分でも理解できるか?をチェックしなさい。
 おおよそ「哲学」と呼ぶに値する悩みや疑問は、そのセルフチェックだけで自己解決できるものです。そういう癖がつけば自然と自分を客観視できるようになります。
 自分と同等、あるいは自分より頭のいい人ならこの文章を理解できるだろう・・・という考えは捨てなさい。それはただの「甘え」でしかありません。そして、その甘えは確実にあなたを愚かにします。
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この回答へのお礼

要するに ご自分は素人だから もっと分かりやすくかみ砕いて
書いてくれと言ってるんですね。


ですが その文面は 字面としてだけだといいのだけれど 読ん
でいるこちらが むしろ赤面するほど:
★ 幼稚
☆ である。

そういう:
★ 甘え
☆ は 放っておくことを わたしのつねとしています。

お礼日時:2017/05/13 11:24

>嘘つきも 人間であるとみとめるからであり 互いに人間である


とみとめあうところを目指すからです。

じゃあ「嘘だ」ってことを認めたわけだ(笑)。
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この回答へのお礼

★ じゃあ「嘘だ」ってことを認めたわけだ(笑)。
☆ そちらの言葉を そのまま――批判するしないを棚に上げて――
用いたというのみ。

お礼日時:2017/05/13 11:18

だから何教の神かって聞いてんじゃん。



人の言うことを聞くのはおまえだろ(笑)。
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この回答へのお礼

☆☆(№2お礼欄) ~~~~~~~
 ☆☆(趣旨説明欄) 11. 哲学が 《神は 宇宙の法則である》なる
  命題をゆるしていてよいのだろうか?
 ☆ という質問の趣旨です。

 哲学カテにおける発言をも その対象にふくむということです。

 ひとの言うことを ちゃんと聞きなさい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

関係ないことを訊く必要はないぢゃん。

お礼日時:2017/05/13 11:17

>出て来るよ。



嘘つきを検索してどうする(笑)

ところで何教の神かって聞いてんじゃん。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

☆☆(趣旨説明欄) 11. 哲学が 《神は 宇宙の法則である》なる
命題をゆるしていてよいのだろうか?
☆ という質問の趣旨です。

哲学カテにおける発言をも その対象にふくむということです。

ひとの言うことを ちゃんと聞きなさい。

お礼日時:2017/05/13 08:48

だから何教の神かって聞いてんじゃん。


少なくとも哲学に神なんか出てこねえよ(笑)。
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    • 1
この回答へのお礼

出て来るよ。

▲ (教えて! goo 検索:神 宇宙の法則) ~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/search_goo/result/?MT= …

検索結果 (835件)
~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/05/13 08:40

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Q《神》は 補助線である。その神という言葉が かんなび山や磐座と同じく《依り代》である。

1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するものは 
あるか?

2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か
らない。

3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カ
ミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》として
のあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。

5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので
あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。

6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその
中でも 創造者としての神を立てている。

7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無
神論である。

8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分から
ないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。

9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによっ
て(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。

10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言
葉で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。

11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面にお
いて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合う
ことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態
としてあり得て―― 信仰とよばれる。

11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ
の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の
庭》として ひとの自然本性の内にあると想定される。

11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン
(霊我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼
びならわしている。

12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と
して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対立
していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん 
無神論となる。

12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内
容とする信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》
と証明しなければならない。

13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ
理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなもの
である。

14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心なる
《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足
りている。(と推測される)。

ご教授ください。

1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するものは 
あるか?

2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か
らない。

3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カ
ミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》として
のあり方であ...続きを読む

Aベストアンサー

今回の印象を簡単に言ってみます。

源泉と大海。
湧き水は澄んできれいですが、大海に行着く迄の道中で様々なモノを身に付けてしまいます。
大海に着けば着いたで漠とし過ぎていて、そこから逃れる、の一手は気化、蒸して天に帰るしかありません。

この問いは気化現象の様に思いました。

Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q《神即自然》は 《一切衆生 悉有仏性》と同じか

 スピノザの言う

   《神すなわち自然( Deus sive Natura )》

 は ゴータマ・ブッダがついぞ言葉としては表わし得なかったところを一般大衆がおぎなったと考えられるその命題としての

   《一切衆生 悉有仏性》

 と同じか?
 どう同じで どう違うか? 




 たたき台は ありません。学び中の見切り発車です。それでも質問者ながら(またはそれゆえに)ツッコミだけは入れます。

 1. 《神とはすなわち自然である》の自然とは、《植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと》。らしい
 ▲ ヰキぺ:バールーフ・デ・スピノザ § 2.2 存在論・認識論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6  

 2. 《衆生》は 有情とも呼ばれ 生命あるものすべてのこと。らしい。

 3. 《ブッダター(仏性)》は アートマンと同じく霊としての存在であろう。神もむろん《自然》であるというとき その存在は 目に見えるものではなく・心の目にさえ見えるものではなく ナゾの何ものかとしての霊であるはずだ。

 4. スピノザでは 神を《実体 Substantia 》として何やら面倒な議論があるようです。《思惟するもの Res Cogitans 》とは そもそも第一に神のことであるのだとか。それをつうじてこそ自然としての人間も考えることを成す。

 ▲ (前掲ヰキぺ) ~~~~~
 神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。
 ~~~~~~~~~~~~

 5. 心身平行論
 ▲ 身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。

 6. ▲ ~~~~~
 その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、

 7. ▲ ~~~~~~
 この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。

 すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。
 両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。
 ~~~~~~~~~~~

 8. ▼(ヰキぺ:仏性) ~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7

  § 1.1 歴史的な流れ

 仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。

 さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること(一切衆生悉有仏性 - いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。

  § 1.2 宗派による違い

 さらに日本の天台宗では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え(一切悉有仏性)までが、後世に生まれた。
 ~~~~~~~~~~~


 ご教授ください。

 スピノザの言う

   《神すなわち自然( Deus sive Natura )》

 は ゴータマ・ブッダがついぞ言葉としては表わし得なかったところを一般大衆がおぎなったと考えられるその命題としての

   《一切衆生 悉有仏性》

 と同じか?
 どう同じで どう違うか? 




 たたき台は ありません。学び中の見切り発車です。それでも質問者ながら(またはそれゆえに)ツッコミだけは入れます。

 1. 《神とはすなわち自然である》の自然とは、《植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと》。ら...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんはです。

直観的に、
どちらも《理神論》ではあるけれど、
スピノザの《神即自然》と大乗の《法界(の平等)思想》とは、本質的に異なる!!
ですね。

スピノザの主著「エチカ」は、持ってはいるのですけれども、全文を読んだことがないので間違っているかもしれませんが(無味乾燥なので、読書する気にならない!!)、
スピノザにおいては《宇宙は精妙なシステム》であって、しかも、ギリシア以来伝統の《全体と部分は異なる》という考え方が背景にあると思うのですよ。
しかし、大乗ブディズムにおいては、部分と全体とは基本的に同じ構造、《自己同一性》や《自己相似性》を持ったものであって、部分と全体とはまったく同じもの。大乗の《仏性》や《如来蔵》の思想は、この《法界》の《平等生》、《一味性》、《自己相似性》を背景として生まれていると思うのですよ。
スピノザと大乗ブディズムは、ともに《理神論》だから、結果的に同じであると考えるのは、あまりに安易なのではないでしょうか。

わかり易い例えでいうならば、
スピノザの宇宙は、時計。部分は、歯車やゼンマイ、ネジといった構成部品であって、全体である時計とその構成部品であるゼンマイや歯車といった部分とは異なる。
対する大乗仏教は、宇宙・法界とは、よく溶け合った塩水。そのどの部分をとって飲んでみても、塩辛さという味は変わらない、つまり、《一味平等》であって、全体と部分の差はない。
この両者の差は、大きいと思います。

スピノザの考え方は、一種の《機械論》だと思うのですよ。カタい決定論であって、運命論じゃないですかね。
スピノザの思想について、よく知らないので、踏み込んだ発言をするのはコワいのですが、
眠り猫は、そう思っています。

こんばんはです。

直観的に、
どちらも《理神論》ではあるけれど、
スピノザの《神即自然》と大乗の《法界(の平等)思想》とは、本質的に異なる!!
ですね。

スピノザの主著「エチカ」は、持ってはいるのですけれども、全文を読んだことがないので間違っているかもしれませんが(無味乾燥なので、読書する気にならない!!)、
スピノザにおいては《宇宙は精妙なシステム》であって、しかも、ギリシア以来伝統の《全体と部分は異なる》という考え方が背景にあると思うのですよ。
しかし、大乗ブディズムにおい...続きを読む

Q《アルケーの神》は 《信じる》のではないのか?

 1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?

 2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。
 他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?

 3. 言えまい。ならば 宇宙の法則だという説明は あくまで仮りのもの・単なる補助線だと捉えなくてはならない。本体は 分からない――つまり分かるから分からないかが 人間には分からない――と想定し規定するのが 哲学としてかなっている。

 4. すなわち 《アルケーの神》は 《感じる》ものであって《信じる》ものではないと高らかに宣言しているようであるが 《感じる》のは 単なる補助線としての経験事象であるに過ぎない。のではないか?
 《本体》については けっきょく《感じる》ではなくまた《考える》でもなく やはり《信じる》ということではないか?

 5. 《信じる》というのは 《思考:考える》や《感性:感じる》をも超えたところのナゾの何ものかを それでもわが心に受け容れるということである。
 受け容れるのは ふつうの経験事象としての人間の意志行為であり その対象は 何であるかが分からないナゾの何ものかである。これが 《信じる》という行為である。

 6. かくのごとくして わが心なる《非思考の庭》における・雲をつかむようなコトが起きていると 人間という人間にかんして 普遍的に言える。のではないか?




  ○ 参考:《非思考の庭》のわが存在における位置 ~~~~~

   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 7. なお この《信じる》をオシエにして組織をつくり その信仰の度合いを基準にして組織内外の人間を評価し さらにはこれらのよわく薄い信仰の者らをみちびくと言っているのは じつは・じつに《信仰》の自殺行為である。
 教義化・組織化は 仮りの補助線を現実の神としてしまうおそれに満ち満ちている。そのヒエラルキアは 聖なるものでも何でもない。むしろ人間に対する支配欲によってみづからが支配され 信仰を利用して世界を心としての自殺行為にみちびく準犯罪行為である。


 ご見解をどうぞ。

 1. アルケーの神とは 宇宙の法則であると言う。けれどもこの表現による規定は あくまで仮りのもの・すなわち《補助線》を引いただけのことではないか?

 2. すなわち もし神が宇宙の法則であるとすれば 一方で たとえば山に登り 虹が出てきれいな自然を見ると それは アルケーの神の意志の現われだということらしい。
 他方では ではもし雪崩に遭ったりクレバスに足をすべらせたりしたら それは 引力という宇宙の法則であるから やはりアルケーの神の意志の現われであると言えるか?

 3...続きを読む

Aベストアンサー

相対と絶対は言葉ではセットになっているが、相対でも絶対でもないものというのはあり得る。
それが何かと問われれば答えるのは難しいが、おそらく無数にあり得る。例えばカオスの内容物が計り知れず得体もしれないように、謎の何物かというのは、善悪はおろか、一切が謎であるのであるから、その性質を想定する主観を持った人間に、どのようなものであるかという想定は、一意に預けられる。
ここに、その主観の好き放題に謎の何者かを設定できる隙がある。

Q《神》という言葉は 《方便》だ。

 《神》という言葉は 《方便》である。

 《神》という漢字  《かみ》という日本語・その発音 みな方便だ。

 《補助線》である。《神》を知る上で引いた補助線でしかない。

 補助線は 神本体ではない。

 
 タトエであり 仮りの表現であり シルシである。

 
 方便として用いているに過ぎない。




 これを問います。どうでしょう。

Aベストアンサー

> 《神》という言葉は 《方便》である。
⇒確かに、そのとおりでしょうね。その内容、というか、経緯・背景・目的・当為などを、例によって箇条書きしながら考えてみたいと思います。すでにどこかのスレで読んだことのあることも含まれるかも知れませんが、その節は悪しからず。

(1)その昔(ある意味では、現代も)、人間は弱い存在でした。天変地異・生老病死・内憂外患など、常に危険に翻弄されて、どう考え、判断し、対応したらよいか…。何かに頼りたくなったであろうことは容易に推量できます。
(2)神はそのような状況の中から要請されたことでしょう。キリスト教のような、いわゆる一神教にとっては、神は「絶対者」です。信徒らは、「すべてを神に仮託」していました。
(3)ただし、そういう絶対的存在者としての神といえども、人間のすることに直接手を下すことはしない(実は、「できない」)。ですから、悲惨なことが起こって、神に泣きついても、神は何もしない(実は、「できない」)。せがんでも、せいぜい「それはあなた(人間)自身の問題です。自分でよく考えて対応するように」とか言うのが関の山…。
(4)一方、哲学者が「神の存在を想定する」ことがあります。それは、人間に分からないこと、人間の智恵を越えることを司る者として「全能神」を想定するような場合です。つまり、哲学者にとっての神は、人智を越えるものを統括する、統覚者的存在です。
(5)キリスト教徒が「絶対性」を神に仮託するように、哲学者は「人智を越えること」を神に仮託する。何のためか。1つには、人間が持てる知力を尽しても分からないことがあっても、それを等閑視することのないようにするためである。あるいはその探求や模索を厭い、不可知論などに陥ってしまうようなことを阻止するためである。すなわち、「(神への)一時預かり」という措置を講じるためである、と考えます。
(6)ゆえに、神を想定することは、最も人間らしい知的営為の1つであり、古今東西の人々の英知であるとも思います。私は特に宗教を奉じている篤信者でも何でもありませんが、上に述べたような神(的絶対者)には、こよなく親しみを覚える者です。
(7)ですから私は、特定宗教の入信の誘いなどにはまったく関心がありませんが、仏典であれ聖書であれコーランであれ、その「教えそのもの」には大いに関心・興味を抱く者でもあります。その教えを考えることはまさに「哲学する」ことでもあると感じています。
(8)(「絶対性」を神に仮託する)第2の理由は、地球上の生命全体の生殺与奪の力を持ってしまった人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の1つである、と考えます。
(9)繰り返しますが、神とは、「人智の及ばないことを統覚し、それを司る絶対的存在者」のことを呼ぶ別名でしょう。ですから、当然ながら、フォイエルバッハも言うように、「神とは、まさしく人間自身、人間の自己写像」に過ぎません。
(10)ところが我々人間は、知識を増やすことに汲々として、肝心な「智恵」を育むことに意を用いない傾向があると思います。アインシュタインは言ったそうです。「無限なものに2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさだが、前者については確信がない」、と。これすなわち、「人類の愚かさについては確信がある」ということではないでしょうか。こういう愚かさから逃れようと願うならば、真摯に学んで「本当の智恵」を求めることにこそ腐心すべきではないでしょうか。
(11)かつて外国の新聞で読んだ記事によると、人間は99.7%の確率で自滅する、とのことです。「中途半端に頭がよくなる」と、破壊する能力が創造の能力を上回って、地球もろともダメにしてしまう、というのです。数値の信憑性は定かではありませんが、その内容、言わんとすることは、「さもありなん」ですね。つまり人間は、ほとんど「自殺に近い形で滅亡する」可能性が高いということであり、それも「中途半端に頭がよくなった」ことが原因になる、ということでしょう。
(12)とはいえ、一縷の望みはあります。「自滅の確率が100%ではない」ということです。我々は、残る0.3%にこそ頭を使うべきだと思います。そのためにこそ、「こういう問題を考えましょう!」。そのためにこそ、「哲学しましょう!」。

以上、ご回答まで。

> 《神》という言葉は 《方便》である。
⇒確かに、そのとおりでしょうね。その内容、というか、経緯・背景・目的・当為などを、例によって箇条書きしながら考えてみたいと思います。すでにどこかのスレで読んだことのあることも含まれるかも知れませんが、その節は悪しからず。

(1)その昔(ある意味では、現代も)、人間は弱い存在でした。天変地異・生老病死・内憂外患など、常に危険に翻弄されて、どう考え、判断し、対応したらよいか…。何かに頼りたくなったであろうことは容易に推量できます。
(2)...続きを読む


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