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京都、大阪に観光にいきますが
応仁の乱に関係ある場所に行きたいのですがおすすめはありますか?
応仁の乱は戦国時代の前哨戦ですごく興味深いです

A 回答 (1件)

>応仁の乱に関係ある場所に行きたいのですがおすすめはありますか?



 特にありません(^_^;
寺社仏閣、全部燃えちゃったので

上御霊神社
 ここが応仁の乱のスタート、これも建て替えですが

銀閣寺
 唯一残った寺社だそうです。

西陣
 堀川通りを挟んで東に細川、西に山名が陣取ったことから、それぞれ東陣、西陣と呼ばれ、今でも西陣の地名が残っています。

京都市内全部焼野原になっちゃったので、記念になるような物は残っていません
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>応仁の乱は市街戦がほとんどですか?
戦闘の場所は市街地が多いというものではなかったようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E
「大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、9月1日に義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ醍醐の三宝院に火を放った。6日に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた。9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BA%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


>応仁の乱が長引いた原因は、将軍足利義政の力量不足によるところが大きいですか?
「義政にどのような力量があったら、どの程度の期間で終わったのか」
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>応仁の乱は市街戦がほとんどですか?
戦闘の場所は市街地が多いというものではなかったようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E
「大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、9月1日に義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ醍醐の三宝院に火を放った。6日に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた。9月18日に京都郊外の南禅寺山...続きを読む

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それぞれの戦闘を当事者が適当に呼んでいて、「乱」「大乱」と名付けるようなことはないと思います。もちろん 応仁の大乱を一括して一つの戦いや乱というように認識するようなこともないと思います。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/11/post-305d.html

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存在する最も古い畳は奈良時代の畳です。
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多賀城は平城京と同じ時期の城ですが、ここから先はまだアイヌなどの異民族がいて「ヤマト」を守る前線基地でありました。そのため、防衛と攻撃を同時に考えた、出城でもあったのです。

この地図(グーグルマップの地形図)を見てください。
https://goo.gl/maps/3jQZEYFPvLz

地形を見てもらうとわかるのですが、鉄道線と道路が通っているところは、北や西に向かって山間の通りやすい地形になっており、多賀城跡から南は仙台平野がひろがっています。
つまり、奈良時代、稲作を主とする倭人が仙台平野を開拓するにあたって、東夷とされた狩猟民族であるアイヌ人などが侵入してこないように、平地を望む山側に城を作ったのです。

軍隊と言うのは集団ですから、分散して険しい山を登ったり下ったりすることはしません。可能な限り隊列を組んで行動できる場所を移動するのです。ですから、多賀城周辺でいえば、七北田川などの河川敷を移動してきたでしょう。高台にある多賀城からみれば西の岩切中学校ぐらいまで来た軍隊は容易に見つけることができたわけです。
いまでこそ、護岸されていますが、当時の川の敷地は広く、また海も現在より近かったので、東北本線の線路あたりから南西は湿地帯で高い木などがなく、高台にある多賀城からは良く見えたでしょう。

また、利府町の方角からやってきたとしても、今度は多賀城の真横を通過することになります。海を北から来るにしても城のすぐ下の砂押川に船を用意しておけば、すぐに攻撃に移れます。

その上で、軍勢を多く城に置いた時でも、すぐ北にある加瀬沼から水が豊富に来ますので、水源の確保も容易だったといえるでしょう。

つまり、古代の軍隊が城を築いて守るにはうってつけの高台だった、ということです。たぶん、どんな軍人でも「守る」ということを考えたら、この高台に城を作ったと思います。

以下蛇足、地形と城について
長篠城 戦国時代、長篠の戦いと呼ばれる、この城を舞台にした戦いがありました。織田・徳川の軍勢と武田軍との戦いです。織田・徳川は尾張から甲斐に向けて軍勢を送るのですが、甲斐に向かっては木曽の深い山があるので、ルートは事実上2本しかありませんでした。その1本を守るのが長篠城です。

現在でいえば、JRの飯田線が走っている場所で、鉄道は急な勾配を登れないので、鉄道線が走っているということは、昔なら軍隊が隊列を組んで移動できたルートになります。そして長篠城は尾張ー甲斐のルート上「絶対に通る」場所で、しかも川が合流するT字の場所にあったのです。
地図 https://goo.gl/maps/YfcXjjyUA8C2

地図を見てもらえばわかりますが、尾張からくる軍勢は絶対に川を渡らないと、長篠城にたどり着けません。しかも川は谷底なので、崖上にある城から矢を射かければ容易に軍勢を阻むことができたわけです。
ですから、この場所に城を作れば「甲斐へのルートを守ることができた」のです。

上田城 昨年の大河でも上田城は良く出てきましたが、この城も良くできています。ルート的には関東・東海・関西と真田家が戦ったほぼすべて(特に徳川)が攻めてくるルートが合流する場所に城があり、この上田城を超えないと真田家の領地には入れなかったわけです。

上田城は盆地の平地部分にあるのですが、なぜここかというと、千曲川だけでなく、安曇野方面からくる道(現在の143号など)が千曲川流域に出てくる谷を見渡せるからです。またドラマにもでてきますが、神川に堰をあらかじめ作っておくことで、大軍勢がやってこれる、千曲川の下流域を分断することも可能になります。

上田城を攻められたら、神川の堰を切って、城攻めの前線の兵が退却できないようにしつつ、後ろに控えている援軍や補給部隊を神川の上流にある真田本城からの部隊で攻める、という構図が作れます。

つまり、上田城の場所も地形的に「あそこじゃないとダメ」だったのです。

ということで、ブラタモリじゃないですが「地形」を見ればどのように考えて城を置いたのか、が良く分かる、ということです。

平城京や平安京(京都)、大宰府などは大和朝廷の力が最高潮に達した平和な時代で「都市」を作ることを念頭においた造りになっているので、平地にあります。平城京と平安京は当時の唐の首都である長安を模倣したのですが、長安と違って城壁を作りませんでした。なぜなら、すでに日本は朝廷によって統一国家になっていて九州から関東まででは異民族の侵入がありえなかったからです。

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16世紀や17世紀の男性の平均身長は160cmもなかったらしいから、
ドチビ・・・・というほどではなかったかもしれませんよ。

ただ、小柄だから見返してやりたい!という気持ちは確かに強かったでしょうね。

Q桃太郎の鬼退治や竹取物語のかぐや姫や七夕の織姫彦星物語は日本書記から作られたのでしょうか? 桃太郎は

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で、鬼は葦原中国のこと?

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天皇は弟媛の家に着いたが、弟媛がいないので、近くの池に鯉を離して朝夕見て過ごしていた。

弟媛は鯉の話を聞いて、どうしても鯉が見たくて竹林を出て池に出て来てしまった。

天皇は弟媛に気付いて、妃となるように言ったら、弟媛は私は美人ではないので、姉の方が美人なので姉を妃としてくださいとお願いをし、天皇はそれを受け入れて弟媛の姉を妃とした。

そして姉の入媛は11人の子を産み、7人の男子と4人の女子を産んだ。

日本書記って竹取物語のかぐや姫と七夕の織姫彦星物語の元になってませんか?

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Aベストアンサー

気のせいでしょう。

かぐや姫の話の原型は、広く世界に分布していることが知られていて、西洋に伝わったものはトゥーランドットというオペラになってたりします。七夕の話は中国原産です。桃太郎は、成立は江戸時代と言われていて、結構新しい昔話だったりします。

Q劉備のすごさ、よさ

私が不勉強ゆえ、劉備ファンの皆様には大変失礼な質問だと思うのですが、劉備のすごさ、よさってどのあたりにあるのでしょうか?
三国志演義は脚色が入っているので、あくまで史実に基づいたところから知りたいのですが、経歴をみるに、よく戦争に負けてるし、逃げてるし、家族は放り出します。城もすぐのっとられたりします。

しかし、曹操陣営に、厚遇で迎えられたこともあるし、「人の下に収まる器ではない」ともいわれています。
なぜそのような評価がついたり、どんどん味方に恵まれたのでしょうか?
よかったらご教授下さい。

Aベストアンサー

まず、三国志演義における劉備の人物像は、全くのウソっぱちです。
品行方正どころか、「チンピラの頭目」と言うところです。

「中山靖王劉勝の後裔」かどうかは別としても、後漢の劉氏一族に連なることは確かな様で、貧乏ながら親族の支援を得て、名士の公孫瓚と机を並べて勉強したりもしています。
ただ、蜀志 先主傳に「先主は読書を甚だ楽しまず、狗馬や音楽、美い衣服を喜んだ」とあり、勉強嫌いでチャラチャラした人です。

また「豪侠との交結を好み、年少者が争って附いた」とあるので、ちょっとした結社の親分だったかと。
従い、何らか事件を起こし名前を変えて、劉備の地元に流入した関羽と、その子分であった張飛が、身を寄せたのでしょう。

ただ、旗揚げ早々から、後々まで活躍する豪将を手に入れた「器量」はホンモノでしょうね。
その後も行く先々で、そう言う武将や文官を手に入れています。

それと、特に関羽や諸葛亮に代表されますが、この二人は劉備にも勝るとも劣らない有名人ながら、もし劉備と出会わなければ、どうなってただろう?と言う人物でもあります。
劉備とは無関係に名前を残したであろう人は、曹操に対し反乱を起こした馬超くらいで、それ以外では、もし劉備の配下じゃなければ、野に埋もれていたかも知れません。
すなわち劉備は、人材発掘や、発掘した人物を活かすことに関しては、天才的かも?と言うところです。

まず、三国志演義における劉備の人物像は、全くのウソっぱちです。
品行方正どころか、「チンピラの頭目」と言うところです。

「中山靖王劉勝の後裔」かどうかは別としても、後漢の劉氏一族に連なることは確かな様で、貧乏ながら親族の支援を得て、名士の公孫瓚と机を並べて勉強したりもしています。
ただ、蜀志 先主傳に「先主は読書を甚だ楽しまず、狗馬や音楽、美い衣服を喜んだ」とあり、勉強嫌いでチャラチャラした人です。

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江戸時代の下級武士のことです。
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 幕府の小普請組なんか、仕事そのものはほとんどないのに、俸禄だけは支給されるという形でした。反面、有能な人に仕事が集中し、幕末には過労死っぽく短命だった人も何人かいます。

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史実にお詳しい方、お教え頂けると幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

映画の演出らしいですよ。
下記ページのエピソードのところに書いてあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E7%99%BE%E4%B8%89%E9%AB%98%E5%9C%B0


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