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引き寄せなどのニューエイジ思想を否定
批判する声、本がたくさんあり、実際どうなのか?を知りたいです

アファメーション ビジュアリゼーション これらをして成功した人はたくさんいるでしょうが、同じように成功しなかった人もそれ以上にいると思うのですね

それなら成功した人はアファメーション ビジュアリゼーションなどしなくても成功してたのではと思ってしまうのです

成功するぐらいですから意識も高いでしょうし、自己啓発に興味を持つのも必然です
彼等はそれを学ばなくても成功出来てたかも

そして成功者だけが、このやり方は効果あるなどの本を出せる訳ですよね。
彼等は成功したのですが、自己啓発の手法を学ばなくても自分が成功した事を知らず、そしてよかれと思い、本を出す
また自己啓発書が増えていく

しかし成功者以上に失敗者がいて、彼らの声は届かない。

もちろん目標設定などのゴールはそこに到達するための行動を決めるという点で大事だとは思います

ただ引き寄せの法則はフリーメーソンがつくったなどの説もあるみたいですし、何か陰謀めいた事があるのでしょうか?

例えばポジティブ思考は民衆に都合が悪い政策を黙って見過ごす事に繋がったりするのでは。

あと仏教 禅などは思考や欲が苦しみを生んでいると説きます

引き寄せや自己啓発は簡単に言うと思考を使い欲を満たそうという事だと思うのですが、苦しみを助長させる事になりませんかね?

質問者からの補足コメント

  • WindFallerさん
    お世話になりました
    素晴らしい回答を頂き迷いが吹っ切れたみたいです
    自らの道を歩めという教えの下 地に足つけて頑張って行きたいと思います

    グレイトベストアンサーを付けたいと思いますが無いのでベストアンサーで勘弁して下さい

    ありがとうございました

      補足日時:2017/08/28 16:14

A 回答 (3件)

>○△□はたまたまです


残念! 禅にお詳しいかと思いました。

私は、そうはいうものの、禅も仏教も門外漢です。特に禅は苦手です。
なかなか、文章がまとまらなくなってきてしまい、時間が経ってしまいました。昔ですと、半年間ぐらいはほったらかしでも良かったけれども、今は、1週間と期限が決められているので、そんなに放置できません。ここの黎明期には、閉じないままにしておいて、年賀の挨拶に使った人もいました。その頃のほうが良かったです。

もう一度、刷新して考えてみたのですが、究極的な別け方をすると、形而上の問題と形而下の問題は、現実の世界では片方だけでは済まないということだと思います。10代から20代始めの青年のような、理想主義だけではいけないし、片岡鶴太郎さんのようなストイックな生活は、ガンジーさんと同じく、周りの人たちを巻き込まざるをえないわけで、その犠牲を払ってまでは、そう簡単にはいきません。修験道の千日回峰行でもそうなのですが、口の悪い人は、やはり自己満足だと言われかねないし、仏教的な見方をすれば、中庸・中道を守っていないということになってしまいます。

ただ、これだけは言っておくと、一旦、「一般人(general people)」の生活から逸脱したら、元に戻ることは、すこぶる困難であるということです。社会的な認知を受ければよいけれども、登山家の植村直己さんさえ、同じ話をしていたことがあります。いわゆる「アウトサイダー」というのは、言葉は格好良くても実際は、大学教授クラスでもならない限りは、何をしているのか、近所からさえ不審者と言われかねません。

○△□さんのおっしゃることは手に取るように理解できますが、危険な領域に踏み込もうとしてはいないか、と、ご自身が自覚をするしないに関わらず、一歩踏み出してしまえば、異界に入ってしまうものだと思います。

>仏陀が最後の弟子に語った自灯明 法灯明や臨済録の仏に会ったら仏を殺せという言葉だけが真理なんだと思いました
これだけ核心が分かっている人は、絶対に、道は外さないと思います。しかし、「一般人」の人生とは違った「アウトサイダー」にならないとも限らないのです。この私は、一般の世界からは離れてしまいました。といっても、病をいくつも抱えてしまっているだけですが。

仏教というのは、不思議なもので、形而上の問題と形而下の問題で、形而上の問題を深く追求しないようになっているようです。しかし、「一切皆苦」という「苦」は、究極的には「存在苦」だと言われても、私にはよく理解できないのです。生きている限りは、誰かを傷つけ、何かにこころが傷つけられたり、それでも、生きていくという命題が与えられているわけですが、そんなネガティブな面を強調していれば、この社会は衰退してしまいます。人並みな欲が、この社会を支え、この社会を活気づけているとも言えるのではないでしょうか。

南方仏教(あえてテーラワーダとかいうつもりはありませんが)と北方仏教の違いというのは、北方仏教は、出家であろうが在家であろうが、基本的には、自立をしなければならないということで、中国でも、日本でも、食を得るための仕事をすることを返って奨励している傾向があります。そこに教義的な矛盾が生じるかどうかは分かりませんが、南方仏教の言うような仏教のオリジナル性や純粋性を問うのは間違っています。時の流れの中で生きてきた宗教は、古代のままであるわけがないし、時代とともに変化してきたからこそ、今日まで生き残っているわけです。イスラームは、7世紀では、もっとも輝いていた宗教だったのに、時代に対応しきれていない一部の人がいるということです。(あくまでも、個人的な意見で、他者と意見の違いを戦わせようと思っているわけではありません)

話を元に戻しますと、引き寄せの法則にしろ、ポジティブシンキングにしろ、マーフィーの成功法則にしても、概ね、無宗教を標榜しているとも言えますが、その裏にあるものは、宗教が絡んでいるものなのです。つまり、前回から触れてきましたが、宗教的なものの土台があって成立する、こうしたものは、その土台がないと暴走してしまうのだろうと思います。

>今まで色々読み過ぎてしまったなぁと思うのが正直なところです
もっともっとジャンルに拘らないでいろんな本を読んで、いろんな人の話を聞いてみるのかよいと思います。ただ、良い本と思われるものが、今は、どんどん絶版になって手に入りにくくなっているように思います。あまり最近のものは、つまらないものが多いようです。
自灯明・法灯明などの後に加えると、禅のスローガンには、「莫妄想」という言葉があります。もうひとつ、私が、ハッとした言葉に、蓮如の「仏法には無我にて候」という言葉があります。別に、仏教が専門ではないのですが、この言葉の凄さは、この現代だからこそ、分かるものがあるような気がします。

高校生の頃、伊藤整の『文学入門』(光文社)で、なぜ、古典が優れているか、ヒューマニズムとかいうものを問われないからだ、ということが書かれてあって、すごく刺激になりました。また、同じ頃『歎異鈔』を読んでみて、当時(鎌倉時代)は、その内容の会話程度は、常識的ではなかったのかと思うのです。現代人では、その内容の意味が取れなくなってしまっているのでしょう。この常識的な思想を、「日本的霊性」というそうですが、今は、廃れてしまっているようです。

何か、いくら書いても解答には近づきそうにありませんが、私の長年来の知人に、禅書の中で、『正法眼蔵』をよく読むというのに、座禅はしないという人がいました。別に、人に強いるようなものでもないのですが、まったくしないというのも、おかしな話のような気がしました。そんな座禅をしても、瓦が鏡に変わるわけでもないのですが、だから、書籍だけというのは、ちょっとさびしいのです。

最後に、行けるところまで行くことも、悪くはないと思います。それで、人生を踏み外さない程度ならですが。そして、西洋のもの、とりわけキリスト教などに首を突っ込んでみるのも悪くはないと思うのです。詳しい話は割愛しますが、思わぬ大発見があるはずです。そこに、今回の質問の答えが見いだせるかもしれません。
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この回答へのお礼

>仏教で形而上の問題を深く追求しないように >北方仏教は自立を‥‥
そうなのですね 禅なども体験を重視してますし、本物の教えは現実世界を疎かにしていないのですね 受取手の問題なのかもしれませんね。つまり僕が悪い(笑)

インドの聖者を訪ね、自分はまだ目覚めていない、どうすればいいのか?など教えを請う探求者が多いですが、彼らは精神世界に傾倒し過ぎて、自分を幸せにしてくれるはずの教えで不幸になってます
つまり、こんなに学んでいるのに、こんなに瞑想しているのに何故 私は苦しいままなのか? 真剣に探求している人でこれですから、悟り体験などは一般人は手を出すべきではないと思います
学んでどうなるものでもないでしょうし、坐禅 瞑想なども脳の機能向上には良いのでしょうが、目覚め、悟りとは別物だという見解もあるし、おそらく真実でしょう

ただ脳は受信機だという事ですので、より高次なメッセージを受信できるかもしれませんが、そういう期待もまた人を苦しませている考えの一つになってますね

そして昔より今の方が精神世界の書物が手軽に手に入り、市場に出回る事によって本来ならそっち方面に興味のなかった人までもが目覚めを熱望するようになる
正に悟りビジネス(笑)
自分も情け無いことにそのくちでしょうね
西洋の哲学の名著は大体 東洋思想の影響を受けているような印象を受けるのですが、キリスト教もニューエイジの本当か嘘か分からない解釈で知っているぐらいで読んだ気になってましたが、なかなかあの分厚い本を読む気力がありません。あとヨブ記などは確かに興味がありましたが結局 読んでないですね。信心深いヨブは全てを奪われても信仰を失わないのか、みたいな内容の本でしたっけ?
あれこそ今回の話題に通じるところがありますね
windFallerさん ものすごく苦労されているのですね
一般の世界から離れたから、見えたものは数限りないでしょう。自分のような半端の知識とは明らかに違う良質な知識に正直、脱帽ですし、反論のしようもありません
色々 貴重なお話ありがとうございます
こんなハイレベルな回答が来ると思わなかったので正直、驚いてます
知識の差が露呈して自分が恥ずかしいです(笑)
病 大丈夫なのでしょうか?
お身体に気を付けて下さい

お礼日時:2017/08/26 23:35

○△□さん、早速、返事をつけてくださりありがとうございます。


(禅に「○△□」という書がありましたね、私の持っている禅書にあったと思います。)

私は、自分では、そんなにセンスは悪くはないとは思うけれど、専門的に勉強することもなかったので、その弱点をつかれることが時々あります。しかし、その弱点とやらは、相手方の教義そのものであって、史実とは違うこともおうおうにしてあります。そんな時に、まんまと罠にはまったなと思います。

なかなか、深い部分をテーマにしておられるようですので、私ごときが、満足できるようなお答えはむつかしいとは思いつつも、おっしゃっていること、ご指摘されている部分は、よく理解しているつもりです。

私たちというのは、しょせん、出家の宗教家としては生きてはいけないし、経済活動をして食を得なくてはならないわけで、そこで矛盾を孕んでしまうのだと思うのです。

結論的な言い方をすれば、
>引き寄せ 自己啓発の思考が人生を構築している
自分の中で、こういう矛盾をずっと保ちながら生きているということなんだろうとは思いますが、矛盾を持ち続けているかぎりは、ブレーキとアクセルの同時に押せば、どこかでつまずき、故障してしまいます。その未来を予想しつつ運転していくしかないのだ、ということになるのかと思います。

瀬戸内寂聴にしろ、仏教研究家のひろさちや氏にしろ、お金儲けは得意のようです。ある時、ひろさちや氏夫妻が旅行中に、自宅マンションから現金を盗まれたそうですが、その金額が、1億円を超えるというので、一体、どんな仕事をすれば、自宅に現金一億円を置くようなことになるのか、と急速にこの人への興味が覚めたおぼえがあります。

>確かに仏教でも無我論や行為者はいないなどの言葉もありますが同時にカルマや生まれ変わりも教えています

「行為者はいない」については、私は知りません。違っていたらすみませんが、アドヴァィタ(advaita-vāda=monism)は、ヴェーダーンタ学派の思想のことでしょうけれども、仏教史には出てきても、直接は関わり合いを持たないはずです。

しかし、もしも「自空性」のことを指すとしたら、それを後年の中観派は、「自空説」として、何もないはずなのに、なぜ存在するのかという議論がなされたという話があります。

これに答えられるほど、知識はありません。

生まれ変わり(輪廻転生)についても、「自空性」に何が原動力になるかというと、仏教は、輪廻する行為の主体者はなく、カルマ(業)が、力を与え存在足らしめているのだというのです。

ただ、これは、よく調べてみると、無我(anātman)と、輪廻思想とは時代が大幅に異なるわけで、仏教を両方が同時に成立し維持してきたとは思えないのです。

私は、不肖ではあるのですが、「無我」について、私の教わった禅にしても、キリスト教についても、難しい理論とか理屈とかは抜きにして、近代文明は「私が……」という、個の主張から個人というものが確立したのなら、禅の「無我」にしても、それを引っ込めることが大事だというわけです。エゴイズムの克服と放棄ということだと言っています。

>引き寄せ 自己啓発の思考が人生を構築している
>だからアファメーションやイメージングみたいな自己暗示をして、

とても鋭いポイントですね。私も、そういう部分は気がついていました。NHKのハーバード大の白熱教室だったと思いますが、カーネギーの兵役をお金で買って、自分は免れたということの是非を問う議題がありました。それは、兵役というよりも、お金さえあれば、自分の死さえ免れるわけですが、逆の立場の人がいるわけです。虫の良い話なのです。

ここらへんで、微妙な具合に宗教が絡んでくるわけです。日本には、キリスト教のように、神の御前で頭を垂れるというようなことはしません。すぐに「俺様」になってしまうのです。(カーネギーについての結論も答えもありません)
自己満足から自己肯定、すなわち「アファーメーション」となってしまえば、ますます、仏教的なものとは違ってきてしまいます。しかし、仏教にはそれを止めるものがありません。(私個人は、そう考えています。)

私は、有名な禅僧の一人に、講演の後に「先生は、仏教系の新興宗教団体をご批判されていますが、そのための活動を何かなさっているのですか?」と伺うと、「いや、私は何もしていない。」という返事が返ってきました。いくら、「仏教とはは無我であり、無霊魂主義である」と主張しても、今の人たちに通用するわけがないのです。

一頃、オウム真理教に若者を走らせた原因は、こうした仏教者の責任でもある、という声も聞こえていました。ネットの掲示板でオウム真理教批判や中国の法輪功の批判を書くと、ネットの管理者自体が辞めてほしいなどとクレームが付きました。それなのに、逆の肯定派はアンタッチャブルでは、本末転倒ではないかと思いました。

オウム真理教の発端は、「マーフィーの成功法則」であり、密教系の新興宗教団体なのです。どちらも、また「引き寄せの法則」も、まかり間違えば、善悪の是非なく個人の欲を増大していく思想になってしまうからです。ご指摘の懸念は、ここらにあるのではないでしょうか?

ここらはまた、日本の宗教カルトの独特の問題点なのだろうと思いますし、朝鮮・韓国も同様なのだと思うのです。また、それは天皇家に憧れながら、天皇の真似をして、自分をオカシクしてしまう者も、明治近辺からの新興宗教史にも出てくる話です。不思議なことに、日本の天皇家というのは、どうもキリスト教を幼い頃から教わり、キリスト教に関わり合いを持つというのも、天皇や天皇家を崇める人たちにとって皮肉なものだと思います。

私は、明快な解答を持っていませんが、引き寄せの法則もマーフィの成功法則も、自己満足を克服する部分に、キリスト教が関わっているのだと考えています。そうしないと、やはり人間は暴走してしまうのだろうと考えます。かといって、本来、北方仏教は、無我・無欲を徹底するとは教えていないはずなのです。昨今、南方仏教もどきが日本でも聞かれるようになりましたが、似ていてもまったく違うものだと思います。今の人たちには、免疫がないので、感化される人も多いようですが。
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この回答へのお礼

再度 ご返信ありがとうございます

○△□はたまたまです
僕はその書物を知りません(笑)

>経済活動をして食を得なくては

おっしゃる通りです
だから自分としては引き寄せや自己啓発で言われているような事を信じたいのです

それが本当なら、どれだけ生きるのが楽になるかと思うのです
自分も人間の欲を否定したくないですし、無欲は至福だと言いますが、その欲を無くせないから苦しんでいるのであって無くせるなら無くしたいですし、悟った側からそんな事語られても、どうしようもないです。

そもそも思考が自分じゃないのなら欲を無くす事は出来ない 結局 目覚めも恩寵任せになってしまうし、事実 努力云々は関係ないのでしょう

それなら自分の欲を叶えて、それが幸福に結びつかなくても、どんどん求めていった方がいいとは思うのですね

今の資本主義みたく、度が過ぎた少数の欲で大多数の労働者の不幸が生まれている世の中は論外ですが‥。

健全な欲も満たせない 悟りもしないじゃ、あまりにも不幸では無いですが。
いくら思考が自分じゃないと知識で理解しても、体験として腑に落ちない限り、それは牢獄の中です

>無我と輪廻思想とは時代が大幅に異なる 仏教を両方が同時に成立し維持してきたとは思えない

確かにそうですね 仏陀が死んで何百年後かに仏陀の教えが記された書物も完成した訳ですし。
そこで仏教内だけでも色々な派閥が生まれ矛盾が生まれるのは必然だと思います

仏陀があらゆる修行 苦行を行い最期に菩提樹の下でしたのが坐禅だったと言うのが、大乗仏教、禅であり、ヴィパッサナー瞑想だったというのがミャンマーの上座仏教だったりします

本当のところは何一つ分からないのでしょう

やはり仏陀が最後の弟子に語った自灯明 法灯明や臨済録の仏に会ったら仏を殺せという言葉だけが真理なんだと思いました

今まで色々読み過ぎてしまったなぁと思うのが正直なところです

読み過ぎて自分で訳が分からなくなり、その知識を整理出来てない状態で読む前より不幸になってる感じがします(笑)
目覚めや悟りというものに執着してるのでしょう
こういう書物を学ぶ事が現実逃避になっていますね

こういう書物を一気に売れば、どれだけ気持ち良いか考えたりもします

お礼日時:2017/08/22 20:35

こんばんは。



>引き寄せなどのニューエイジ思想

昔、私はニューエイジ思想の評価をしたら、ネットで叩かれたことがありました。その人物は、いわゆるメンズ・リブのリーダー格の一人で、大学の講師をしているそうでしたが、知識はあっても、考え方は子供のようでした。

ニューエイジ思想を全体的に否定すること自体をインテリのシンボルのように思わせるのは、ここの占いの否定派のようなもので、相手のことを考えずに、自己主張に留まるだけで、毎度同じことを繰り返す内容には、一体何を目的にしているのだろうか、と思わせてしまうのです。占い否定派であろうが、ニューエイジ否定派であろうが、本質的な部分に触れないまま、冷水をかけるような言動は、大人げないと思うのです。

つまり、ご指摘のように、欲求の本質は、苦悩に導くのではないかという懸念は、まさしく至言です。

>仏教 禅などは思考や欲が苦しみを生んでいると説きます。
北方仏教というのは、南方仏教とは違い、経済活動を認め、社会の経済発展と信仰の両立を肯定しているところが特徴だと思うのです。本来は、僧侶は托鉢によって生きること、乞食(こつじき)道に生きるのが正しいとされているそうですが、実際は、なかなかそうはいきそうにもないようです。

仏教そのものは、生きている限り存在する苦を認め(存在苦)てはいるけれども、「欲」については、特に愛欲(カーマ)についてを指摘していることが多いようです。特に、執着欲を否定するのであって、精神的・向上性的意欲までを否定しているわけではないそうなのです。「存在苦」というのは、いわば哲学的な問題なのだろうと思います。

一部の禅仏教で、不幸と幸福は、その感じる感覚であるからこそ、不幸を嫌うなら幸福を求めないならば、不幸に遭わずに済むというのですが、私は、オリジナルにそのような主張があるのかは知りません。それは、虚無主義のようで、そこからは何も生まれないし、仏教でさえないと思うのです。

ご存知だとは思いますが、『マズローの欲求5段階説』といって、
三角形の底辺から「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「尊厳欲求」「自己実現欲求」と段階をつけて上位に向かっていく、プリミティブな欲求から、内面的・社会的欲求を経ていくことで自己実現を図ることだとしています。実は、私は、こうした分類法が好きではありません。一種の努力目標ですが、段階的な欲求の実現というものではなく、パラレロに存在するものだと考えます。

ニューエイジに、どの範囲までを含めるのかは分かりませんが、例えば、カーネギーの教える、不安を回避するための「最悪の事態に心で対処する」(『人を動かす』)
》最悪の事態になったら「その時はその時」と受け入れることができれば、不安は和らぎます。
と教えることによって、多くの人は救われるのではないでしょうか。

結局のところ、自力で自分の問題の解決方法を見出す人もいますが、こうしたものに頼ったところで、私は悪いとは思いません。

「成功者以上に失敗者がいて、彼らの声は届かない。」
私は、引き寄せの法則などで成功する者とそうでない者の差というものについて考えたことがあります。ある程度の年齢になれば、一応、自分の知人の中にも、直接ではなくても、風の便りに成功した何人かの話を耳にします。
ある日テレビを何気なくつけると、その一人がある専門家として登場していたりすると、本当に驚かされました。今現在、本人は否定するかもしれませんが、明らかに、ニューエイジ思想に頼っていたという記憶があります。それが悪いわけではないと思います。

逆に失敗者とよく名指しされるのが、石川啄木です。
石川啄木の『一握の砂』の中に、
「はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る」

ある意味では、彼は、自己憐憫がたまらなく好きのようです。ただ、私たちが誰でもあるような感情のうねりを文学として表現する卓越した能力があるようです。

とんとん拍子に有名になって人や「引き寄せの法則」や「マーフィーの成功法則」で、すんなりと目的を叶えていく人と差は、私は、「業」の深さゆえではないのか、と思うのです。私は、前世がどうとかいうこともあるかもしれませんが、典型的な話として、うつ病の親に育てられた子供は、将来、その子供は九分九厘うつ病になると言います。「業」というのは、心の癖(潜在的な心のプログラム)のようなもので、無意識の中にうごめく第三の意思かもしれません。

>引き寄せや自己啓発は簡単に言うと思考を使い欲を満たそうという事だと思うのですが、苦しみを助長させる事になりませんかね?

そう思う人と、そう思わない人がいるのは分かりますね。
そう思う人は、そう思う原点というものが自分でありながら自分ではない所の意識が働いているようにも思えます。それが「業」だと思います。

聖書の中にある「不正の管理人(ルカ 16:1~)」という例え話を何度も読んで考えたことがあります。

》ある金持ちに一人の管理人がいて、仕事を取り上げられそうなので、周りのものに助けてもらうために、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、借りている金額を皆減らしてあげたそうです。主人は、それを知って、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。
「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」という結びになっているのです。《

「不正にまみれた富」という聖書の表現に問題があるのかもしれません。管理人はそれで、お金を手に入れたわけではありません。

ニューエイジ思想が好きそうな、一種の成功談です。分かるような、分からないような話です。間違って解釈すれば、大変なことになってしまいます。(私個人は、一定の理解をしていますが、これは原文を読んで、各々が考えてもらったほうがよいと思います。)

>ポジティブ思考は民衆に都合が悪い政策を黙って見過ごす事に繋がったりするのでは。
確かに、ご指摘の部分はあります。それは、過去、そのような団体もありました。ひじょうに難しいところだと思います。ただ、この話は、個人の範囲を越えたもの、国の行末までについては、もう私たちではどうしようもないような気もしてきます。

自分のためだけに、欲を使えば、それは結果的に不幸をもたらすけれども、他の人のためになることを考えて、行いをすれば救いになるのではないかと思うのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます

物凄い博識な方ですね

何故自分がこんな疑問を持ったのか?
最近 アドヴァイダ、非二元の書物が続々出版されました

その本の中で、個人はいない
選択できる人はいない
運命は決まっているなどと書かれていたからです

確かに仏教でも無我論や行為者はいないなどの言葉もありますが同時にカルマや生まれ変わりも教えています
これらは矛盾してないでしょうか?

カルマや生まれ変わりは悟ってない人間への方便だったのでしょうか?

ご存知でしょうが脳科学でも自由意志は無いという考えが定説のようです

何かをしようと顕在意識が意図する前に、その行動を司る脳の部位が作動している事がわかったというのです

引き寄せ 自己啓発の思考が人生を構築している
だからアファメーションやイメージングみたいな自己暗示をして、自分を鼓舞して努力しましょうって考えも理屈は分かるのですが、実際どうなのか?と疑問が出た訳です

お礼日時:2017/08/22 01:57

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