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「正論」を辞書で引いてみると、「道理にかなう理論・主張のこと」とあります。

また、「道理」を辞書で引きますと、「物事の正しい道筋・人として行うべき正しい道」
とあります。

「道理」とは哲学・思想のことになります。現代においてはこの部分は混とんとしていると
言っていいと思います。
もはや、真摯な議論など成り立たないほどに。

となりますと、「正論」とは何か?ということになり、牽強付会(こじつけ)、詭弁との区別
がつかなくなるだろうと、いや、なっているだろうと思います。

1、現代において「正論」とはなんでしょうか?

2、その根拠となる「倫理」「道徳」をどう考えたらよいと思いますか?

A 回答 (14件中11~14件)

正しい論を語れる人は多分、賢聖くらいで、今も昔も多くはいないだろうと思います。

ただ、現代日本では、おおっぴらには賢聖を求めなくなったのかなと。でも実際には、本当のところを知りたいって言う人は少なくないと思います。
道徳や倫理が社会の一枠組みに過ぎないことが知れ渡り、人の行動指針はより多様性を増しています。だからこそ一層、内心では正論が求められていると思うのですが、それは従来の倫理や道徳に依拠したものではないと言うことです。
言うなれば、しっかりと理を明らかにしたものでなければなりません。
科学的思考が人の考えの基盤としての道徳や倫理の代替として人気?なのは、理路整然としているためだからと思います。しかし科学は哲学とは扱うモチーフが異なります。そこが歯がゆいところでしょう。
人を生物学的に解像しても、人の生きるべき指針は見出せないと思うのです。そのアプローチだと、いい飯食って人と話して、よく運動してよく寝る、くらいの答えしか見つからないのではないでしょうか。
複雑な形而上の事柄については科学は解像できないでしょう。

先程も言ったように、形而上の事柄に対しての関心は、潜在的に高いと思います。

現代の辿ってきた道として、
1.倫理や道徳は社会の一枠組みであり道具でしかない。
2.科学は物事の成り立ちを理路立てて明らかにしてくれる。
3.しかし、人生の答えは科学では見出せない。

であるから、必要な第四のステップは、形而上的な事柄に関する需要の顕在化を引き起こすきっかけだと思います。それは、自分らしく生きるとはどう言うことか、の具現ではないでしょうか。与えられた縛りとしての道徳や倫理ではなく、自分が納得できるものとしての生き方です。それは決して無理なことではないと思うのです。

だから、
4.心から思える自分らしい生き方の発見
だと思います。
これが、現代、正論に代替するものだと思います。
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この回答へのお礼

>心から思える自分らしい生き方の発見

一人の人間として切実な最も大事な問題だと思います。
若いうちに「これだ」というものに出会える人は幸せですよね。

「人間はいかに生きるべきか」という「正論」から導かれた「個別」の部分ということが
できると思います。

ここで私の言う「正論」とは哲学のことで、そのエッセンスが「倫理・道徳」と言ってい
いと思います。従来の枠組みでいいと思います。

しかし、あなたも同じお考えだと思いますが、「正論」があっても、個々の人間の中で具現
化されなければ価値はないということになると思います。
つまり、「真善美」の「真」は価値ではない、と。

科学が現代人に信頼されているのは、証明において実に厳密なやり方をしているからだと思
います。自然科学は特にそうなのでしょう。
しかし、精神科学においても、また異なるやり方で厳密さを追求することは可能だと考えます。
尤も、この辺りはプロにお任せするしかないのですが、一般大衆の一人として色々考えてゆき
たいですね。

お礼日時:2017/08/24 00:00

考えさせる問いですね。

ちょっと時間がかかりました。というのも、正論は、右翼の方が使う言葉になりつつあり、私はあんまり使わないです。右翼の「正論」には具体的な中身があります。次のようなことだと思っております。
・人としてどうするべきか。
・家族、国土、国家を守るべきである。
・そうした人たちに敬意を払うべきである(以下、戦犯をどうするかという話につながって行く)。
私個人は右翼的なロジックに反対しており、故に、正論という言葉を避けるようになりました。

しかしDRさんが書いてくださった意味で別途考えます。

まず1について。まずは国民の三大義務とかでしょうか。納税、勤労、教育。基本的には法律が正論だと思います。
しかし憲法の全てが認められるわけではありません。9条は賛否両論あります。
また別で非核三原則になってくると、正論と認められなくなりつつあります。私は賛成ですが、反対する人も出てきます。
ワタミとか電通のような企業の社訓だと、社内で正論ですが、はたから見ると狂っているということもあるでしょう。私も反対です。場所が変われば、「正論」は単なるローカル・ルールであり、普遍的ではなくなります。

しかし私自身は、1789年のフランス人権宣言のようなものは、普遍的に「正論」であってほしいと願っています。つまり2世紀半も前の他国でうまれたものですが、それを承知の上で、現代の日本でも有効であってほしいと思っているということです。

2は人権宣言の下支えとなる思想ということですから、フランス革命の思想ということになるでしょうか。革命それ自体に対して批判は出ているし、この人権宣言が実行されなかったとも言えます。またその後の法は、これを踏襲せず、逆行しました。フランスであっても20世紀に入るまで、この人権宣言は忘れ去られていたとか。まあ少しずつ前進してきていると思っています。
私の時代も一歩前進させたいと思っています。
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この回答へのお礼

分かりにくい質問文を理解していただき、恐縮です。

>納税、勤労、教育。基本的には法律が正論だと思います

ふうむ、これは大変興味深いお答えだと思います。
「法律」というものは、言うなれば国家が定めた、国民が遵守するべき義務だと思います。
これが正論だということは、国民は国家に従うものであるというニュアンスを多分に含んで
いると思います。

現代は大抵の人が、意識するとしないにかかわらず、そういうものだとしているように見え
ます。
昭和という時代でも、基本的には同じだったと思いますが、国民の権利・自由というものの
方が正論であるという風潮があったと思います。

何故そういう方向に向かったかといえば、「学校教育」だと見ています。つまり、霞が関の
企画する「グランドデザイン」ということなのでしょう。

我々日本人はやはり敗戦によって、背骨が抜けちゃんたのでしょうか?
哲学をしっかり考えないといけませんね。

お礼日時:2017/08/23 00:06

No.1です。



「「倫理・道徳」は不要なものであるという考え方が現代において少なくないと思います」
⇒その通りですね。

その理由は、何事もお金で解決しようとする現代の風潮です。
つまり、日々の楽しみである趣味やスポーツ、旅行、飲食などがお金で解決しているからです。
それは若者だけでなく、40代から60代でも同じ風潮ですね。
それらは特に都市社会で顕著です。

「哲学・思想の骨髄は「道理」だと思うのです。倫理・道徳を無視するということは、哲学・思想の背骨を抜くようなものだと思うのですが、どうでしょうか?という質問でした。相変わらず、分かりにくい質問文でした、いやはや」
⇒大丈夫です。David_Rossiさんの云いたいことは十分伝わっていますよ。

「道理ということになるのでしょうが、それは人それぞれ異なるわけです」
⇒その通りだと思います。
幼少の頃から両親の影響はとても大きいです。
親の価値観(道理)が子供の心の中に一生残ります。
ですから、親の違いが道理の違いとなって議論がかみ合わないことになるでしょうね。
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この回答へのお礼

人それぞれで細かい違いはあるけれども、現代人は概ね、

宗教・哲学は廃棄、倫理・道徳は無視、一度きりの限られた人生を
「細々と」楽しむーこれが人間の生き方であり「道理」であると考
えているのではないでしょうか?

大抵の現代人にとって、それが哲学であり、それを信じていると思
います。
私に言わせれば、これも信仰・宗教です。

お礼日時:2017/08/21 22:50

「1、現代において「正論」とはなんでしょうか?」


⇒会話において、”それは正論だよ”という場合がありますね。
その意味は、その会話の中の事例に対して具体性がないいい方ということです。

例えば
戦争のない平和な世界の会話をしている時に、”どの国も武器を廃棄し、軍隊を解散すればいい”という人がいれば、”それは正論だよ”と云われます。
つまり、実現性のない建前を正論という場合がありますね。

「2、その根拠となる「倫理」「道徳」をどう考えたらよいと思いますか?」
⇒これは最終的には、教育にたどり着きます。
その教育とは学校教育に限りません。
最も重要な家庭教育、そして社会教育など広範囲の教育でしょうね。

特に、幼少期に「倫理」や「道徳」の基本となる人間性を教育されていないと、人間性の大切さを理解できない大人になってしまいますね。
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この回答へのお礼

「それは正論だけど」という言い方は私もしたことがありますが、
人による、とも言えないでしょうか?

まるで人ごとのように、当たり前のことを言って悦に入っているよ
うな人もいれば、「何か根拠がありそうだ」という感じの人もいる。

私の疑問は、「論理的整合性」というのは一体何と整合しているの
かということです。
「道理」ということになるのでしょうが、それは人それぞれ異なる
わけです。

異なる哲学・思想がぶつかった場合、議論という方法で結論が出る
ものなのか?
仮に、自分の間違いを素直に認める人ばかりだった場合、やり方に
よって決着がつくものなのか?

こう言い換えてもいいでしょう。


「倫理・道徳」は不要なものであるという考え方が現代において少
なくないと思います。
「道理」とは、「物事の正しい道筋・人として行うべき正しい道」
つまり、倫理・道徳のことだと思います。

哲学・思想の骨髄は「道理」だと思うのです。
倫理・道徳を無視するということは、哲学・思想の背骨を抜くよう
なものだと思うのですが、どうでしょうか?という質問でした。

相変わらず、分かりにくい質問文でした、いやはや。

お礼日時:2017/08/21 03:46

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