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次の文章は 読むに堪えますか?

▲ (ニーチェ:《猛禽と仔羊》) ~~~~~~~~~~~~~~~
――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つの起源の
問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間が考え出した
《よい》の問題がその解決を待っているから。

――仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。

また仔羊どもが 《あの猛禽は〈悪い( Böse)》 従って 猛禽になる
べく遠いもの むしろその反対物が すなわち仔羊が――〈善い( Gut )〉
というわけではないか》と互いの間で言い合うとしても この理想の樹立
にはいささかの難ずべき点もない。

もっとも 猛禽の方ではこれに幾らか嘲笑的な眼を向けながら 《俺たち
は奴らを あの善良な仔羊どもをちっとも恨んでなんかいない。俺たちは
奴らを愛してさえいるのだ。柔らかい仔羊より旨いものはないから》とお
そらく独り言を言うであろう。 

――強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し 暴圧欲・圧
服欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは 弱さに対して
それが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。

ある量の力とは それと同量の衝動・意志・活動の謂いである――という
よりはむしろ まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほか
ならない。それがそうでなく見えるのは ただ すべての作用を作用者に
よって すなわち《主体》によって制約されたものと理解し かつ誤解す
るあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)
に引きずられるからにすぎない。

[・・・(力とその作用 あるいはつまり逆に言って 作用と作用者=主体
とを分けて捉えるのは 例の《イデア》論にそそのかされたアヤマチだと
論じている。省略します)・・・]

作用が一切なのだ。



[・・・(今度は チカラにも《原因としてのチカラと作用としてのチカラ
とがある》といったあやまった見方をすることがあると論じている。省き
ます。ただしこのような言葉=観念の誘惑にみちびかれることからの派生
的なあやまちだというものが 次に挙げられている。)・・・]

内攻して蔭で燃え続けている復讐と憎悪の感情が 強者は自由に弱者にな
れるし 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し 
その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても 
それは別に異とすべきことではない。――実にこの信仰によってこそ彼ら
は 猛禽に対して猛禽であることの責めを負わせる権利を獲得するのだ・
・・。

抑圧された者 蹂躙された者 圧服された者が 無力の執念深い奸計から 
《われわれは悪人とは別なものに すなわち善人になろうではないか。そ
してその善人とは 暴圧を加えない者 何人(なんぴと)をも傷つけない
者 攻撃しない者 返報しない者 復讐を神にゆだねる者 われわれのよ
うに隠遁している者 あらゆる邪悪を避け およそ人生に求むるところ少
ない者の謂(い)いであって われわれと同じく 辛抱強い者 謙遜な者 
公正な者のことだ》――と言って自らを宥(なだ)めるとき この言葉が
冷静に かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても それは本当
は 《われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力に
余ることは何一つしないから善人なのだ》というより以上の意味はもって
いない。

[・・・(長くなるのでもう省略に従います。書かれていることは このよ
うに《仔羊》たることに甘んじる《弱者》たちは その何もしない方針を 
信仰としての主体・つまりその魂の成せるわざだと言って 《自己欺瞞》
に落ち入っているという批判である。そのくだりで この断章は終えられ
ている。)・・・]

(ニーチェ / 木場深定訳:『道徳の系譜』 第一論文 《善と悪》・《よ
いとわるい》 十三 (訳:1940/1964改版))
 
・独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM
・英訳:http://nietzsche.holtof.com/Nietzsche_on_the_gen …

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?

(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。

(い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世
界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を
言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサ
ンチマンのなせるわざであるに過ぎない。

質問者からの補足コメント

  • №6お礼欄からのつづき(1)

    《求道者》なる主体存在を 弱い者がただでっち上げたまぼろしの観念
    だと言おうとしていたのでは?

    ★ (ニーチェにしたら、自分の書いた事を鵜呑みにするようでは駄目
    だと思っていたんじゃないですかね?)
    ☆ 鵜呑みにしては駄目だと言っていても ニーチェ自身が 文体とし
    ては 鵜呑みにしていると思われますが?

    ★ ニーチェ自身の弱さは、自分がわからない事でも、何かが存在する
    と思っていた事です。(超人は、そのような概念です)
    ☆ ここでも 超人なる《行為のみ》があると思い込んでいたのでは?

    ★ そういう意味では、ニーチェ自身も、プラトンの「イデア」や、カ
    ントの「物そのもの」と同じように、見えない到達点があると想定した
    と言う事です。(それを、人間の価値基準にゆだねたと言う事です)
    ☆ それが 《猛禽にあこがれつつこれを仮面として着つつ・・・

    つづく

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 06:31
  • №6つづき(2)

    ☆ それが 《猛禽にあこがれつつこれを仮面として着つつ 仔羊のパ
    クリしか出来ない文体》なのでは?

    ブーメラン問題です。:
    ★☆ それは、ニーチェがプラトンやカントを批判した目で、自身も批
    判されると言う事です。(考え方は、違っても、やはり、何かを「信仰」
    していたと言う事になります)

    ★ ハイデガー流に言えば、ニーチェは、観念論と形而上学の最後の完
    成者と言う事なのでしょう。
    ☆ 観念論は ヘーゲルで完成。
    そして《現実の行為》に寄って行き観念論を解きほぐそうとし解きほぐ
    し過ぎたマルクスと
    世界精神を何とか現実のものとしたかった(けれど 神学のパクリとモ
    ドキしか書けなかった)ニーチェ。では?

    ★ (全体性は無目的であり、その価値は、人間の「生」そのものにあ
    ると断じたと言う事です)
    ☆ 前者が目指された。後者は まぼろしに終わったのでは?

    つづく

      補足日時:2017/09/16 06:42
  • つづき(3)

    ★ 「ツァラトゥストラはかく語りき」において、終章でツァラトス
    トラは、坂をおりて、大地の人間に戻っていきます。
    ☆ すでに《超人》は 《大地・大河》のことだったのでは?

    ★ それは、創世記における楽園追放のオマージュであり、原罪によ
    り大地に向かうアダムとイブでは無く、1人の人間として、楽園を後
    にする人間を意味しているのでしょう。
    ☆ その種のオマージュと言えば すでにピコ・デラ・ミランドラが
    『人間の尊厳について』を著わしていますね。

    ★ それは、原罪を背負った駱駝でも無く、強者である獅子でも無く、
    人間と言う幼子への回帰です。
    ☆ ピコは 人間が自由意志をつうじて何でも好きなことが出来ると
    いう内容を 神が語ったという構成にしているのは 微妙ですが。

    《悪事に対して幼子になり 考え方においては 大人になれ》。ある
    いは 《鳩の心 蛇の頭》。

    つづく

      補足日時:2017/09/16 06:56
  • つづき(4)

    ★☆ (「ツァラトゥストラはかく語りき」自体が、新約聖書
    (福音書)のパロディーとの解釈もあるようです)

    ★ 皮肉なのは、ブルジョアのような浪費生活していた、ユダ
    ヤ人のマルクスが「資本論」を書いた事と、ほとんど弱者同然
    だったプロテスタントの牧師の息子のニーチェが「アンチ・ク
    ライスト」を書いた事ですね。
    ☆ いや 世界観はむしろ支配階級の立ち場に立って構築され
    るとは考えます。

    『アンチ・クリスト』は シリメツレツです。例証なしですが。

    ★ これは、逆にそのような生活をしていたから、それぞれが、
    欺瞞性をきちんと認識できたのでは?と言う見識もあります。
    ☆ これは 生活の実態について知らないわたしには 承って
    おきたいと思います。

    つづく

      補足日時:2017/09/16 07:03
  • つづき(5)

    ★ (ニーチェもどちらかというと、ユダヤ教やカトリックのような
    戒律・律法主義よりも、プロテスタントの精神主義の方が根が深いと
    考えていたような感じはします)
    ☆ ここは わたしにははっきりとした読み取りの像を結びません。

    ユダヤ教イエス派は パウロをとおしてのキリスト論として すでに
    律法主義から自由です。律法は 結果的には 罪のあることをおしえ
    るためにだけある。

    プロテスタントにしても けっきょく集団ないし組織から自由ではな
    い。
    万人司祭というのは なおまだ司祭と平信徒というヒエラルキアが残
    っています。(《弟子を持たず 同朋のみ》と比べ得ます。のちに組
    織が復活しましたが)。

    《信仰(非思考)と宗教(思考)とは峻別すべし》なる旗をかかげま
    す。

    お門違いでなければ。

      補足日時:2017/09/16 07:15
  • 補足のおぎないです。

    ☆☆ №6つづき(2) ~~~
     ★ ハイデガー流に言えば、ニーチェは、観念論と形而上学の最後の
     完成者と言う事なのでしょう。
     ☆ 観念論は ヘーゲルで完成。・・・
     世界精神を何とか現実のものとしたかった(けれど 神学のパクリと
     モドキしか書けなかった)ニーチェ。
    ~~~~~~
    ☆ ですが 《神は死んだ》と言ったのは ヘーゲルだったのでは?

    とひと言つけ添えます。(出典をいま出せないでいるわたしですが)。

      補足日時:2017/09/16 08:11
  • №10お礼欄よりつづき

    ★ キリスト教自身が持つ矛盾と言えます。
    ☆ 相対世界における矛盾をかかえつつ矛盾を超えた絶対性の問題を 
    イエスが 思想(生活態度)として議論しました。

    ★ 「愛」
    ☆ も この非知ないし非思考の庭におさまります。思考の緑野では愛
    憎が入り混じり ルサンチマンがあり得ます。

    非思考の庭に:
    ★ 欺瞞も排他性
    ☆ もあり得ません。ハカリゴトがないのですから。

    ★ ニーチェの立場は、普遍などは認めず
    ☆ 思考としての普遍(それに付随する排他性)ではなく 非思考とし
    ての普遍神が キモです。

    ★ ゾロアスター教では、「善神」、「悪神」は単なる対立概念であり
    ☆ いえ。最終的に悪神がほろぼされるまでは(:おかしな設定ですが) 
    対立する両者の二元論です。

    非知の次元における想定としての二元論は 無効です。互いに相い容れ
    ない善神と悪神とを想定するからです。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 12:41
  • №13です。

    うけたまわりました。

    お礼欄は 予備のスペースとして取っておきます。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/16 14:02
  • ニーチェについては どうしても言いたいことがあります。

    ディオニュソス崇拝を言っているとしたら それは バッコスの信女
    たちが――そして 殺されることになるペンテウスのその母親までが
    ――復讐のためなら ペンテウスを殺してもよいし 一般に人殺しを
    やってもよい・・・と言ったことになるはずです。

    つまり ルサンチマンに浸りこれにもとづき復讐の鬼と化すことを勧
    めている・・・というのが 実際です。

    ルサンチマンは それを抱くことを畜群とも呼ぶべき弱者のくせだと
    して 口を酸っぱくして 貶めていると言うのに。

    『悲劇の誕生』は 若気の至りで 失敗作だと言っていたかとも思い
    ますが。

    つまり ディオニュソス賛歌は どこから見ても いただけません。

    アポロンに対して 光と影といった対照では済まない間違いです。特
    殊な例外的な狂気=狂喜を持ち出したのです。

      補足日時:2017/09/17 20:06
  • 回答№22へのコメントです。

    ★ 独善
    ☆ と開き直っているかぎり 理論として批判し切ることは きわめてむ
    つかしい。そう思います。

    なぜか 京都派――梅原猛・河合隼雄・山折哲雄・・・――にそういった文
    体が多いです。

    ということは ニーチェ・スクールの論客を相手にして 批判を展開する。
    この方法が 考えられます。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/09/18 15:05

A 回答 (30件中21~30件)

蛇足ですが、ニーチェが、ツァラトストラの名を借りたのは、誠実なツァラトストラならば、「善」、「悪」の判断の根拠が一番わかっているだろうから、と言っていたようです。

(単純に、その判断は選択でしか無いと言う事に気付いていたと想定したのでしょう)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ (そういう意味では、何らかの概念に依存する哲学自体も否定してい
ます)
☆ いえ。人間性の否定です。

★ カントの要請は、まさに(ニーチェにとっての)キリスト教のルサン
チマンの根拠と一緒です。
☆ 宗教なるオシヘと信仰とは別です。

★ 「善」が保証されるために、その「善」の主体である精神の永遠性と、
そのジャッジを行う形而上の存在が「要請」されると言う事です。
☆ だけれども 非知なる神は 善悪の彼岸として捉えられるのは 元か
らの相場です。:
▼ (ヨハネ福音 3:8 ) 風は気ままに吹く
☆ 組織宗教とその神学における神論は ただの規範哲学です。

★ (これは、「善」なる概念を持つ宗教の正当性を認める事になります)
☆ 元凶です。

★ ニーチェがルサンチマンの欺瞞とするのは、そこに「救済」と言う正
当性をはらんでいるからで、その思想自体は、単なる憎悪の正当化です。
☆ 善悪〔なる人知による判断〕を超えている――愛憎を超えている――
というのが 神です。

《救済》は あくまで 個別絶対性としての個人における特定のわれとし
ての主観(夢想)であり そこにおける神観≒信仰観です。と言えばよい
し 言わなければなりません。


★ ニーチェにおいて、「善」・「悪」の対立などもあり得ません。
☆ でも 神論が確立していません。


★ ニーチェ流に言えば、キリスト教における救済はまだ成されていませ

☆ 先ほどの《わが主観としての 特殊絶対性》の中に すくいは おさ
まります。永遠にいつまでも救済はおこなわれないという見方と併存しま
す。

★ 審判の日がこなければ、救済は完成しません。
☆ じつは 《審判・救済》といった概念規定は イエス・キリスト以後
の普遍神のもとでは 屁の河童です。

その真偽も成否もさだかではないわが特殊絶対性において 《永遠の現在》
が さばきの日であり すくひの時です。
▼ (イザヤ書 49:8 ) わたし(=神)は恵みの時に、あなたに答え、
救いの日にあなたを助けた
▼ (コリント後書 6:2 ) 今こそ神の恵みの時 今こそ救いの日です。

★ 審判の日がくれば、人類は完成するかもしれませんが、全ての「生」
は、魂だけに昇華されてしまいます。
☆ こういうオシヘは 屁でもありません。

つづく

お礼日時:2017/09/16 12:36

お礼ありがとうございます。


まず、(あ)猛禽と仔羊のたとえ(例話)についてですが、実を言えば「生」を根本欲求とするたとえにしても良かったのに、なぜか猛禽に関しては、その根拠を美味である事と言う価値においています。(ニーチェがこれで何を意味したかったのかは、読者にゆだねられます)
実際問題、仔羊が食べられる理由は、おいしいからとしか書かれていません。
仔羊からしたら、別の動物にしてくれと言える可能性はあるとは言えます。(ただし、他の動物が同じような事を言い出すのは、必然でしょう)
DPRKの場合は、このたとえとは違い、仔羊が猛禽を襲う(襲う事もできる)事を想定しているのでは無いですか?(少なくとも、論理としては、自身を仔羊として、敵対対象を猛禽とみなしているでしょう)
ニーチェ流に言えば、キリスト教では無く、報復も許容するユダヤ教の立場です。(ただし、DPRKの場合は、襲われる前から、報復方法を考えている点が違うと言えば、言えますけどね)
むしろ、DPRKが報復だけを考えているならば、それ自体が非難されるゆえんは無いとは言えるでしょう。(その敵対者同士は、仮に当事者以外から見たら、同じ穴(論理)のむじなです)
このたとえは、単純に猛禽が仔羊を襲う事に正当性が無い事を通じて、善・悪と言う概念がそこには無い事を示したと考えるのが妥当だと言えます。(あえて、両者を「生」でつないでいないのは、そこに「根本欲求」と言う正当性を抜くためです)
猛禽が仔羊を選ぶのは、単純においしいものを食べたいと言う欲求だけで、そこに善・悪と言う概念はありません。
そして、仔羊が食べられてしまうのも、仔羊が単純に猛禽より弱いからです。(そうでなければ、猛禽に文句は言わないでしょう)
このたとえを使用したのは、単純に力の差で起きている現象として、単純だからと言う事と、動物を擬人化できる寓話としても利用できるからでしょう。
これを、後段の論理(前段も同じでしょう)に使えるかどうかを判断するのは、読者です。
大事な事は、猛禽も仔羊も実際には、善・悪で行動していない事です。
人間の場合も、その行為をきちんと善・悪で判断する事は難しいですが、倫理と言う物を社会の中で持っているのは、社会が成り立つうえでは必要だと言う事です。(別に倫理と名付けなくても、必要なルールである法でもかまわないわけですが、哲学的には、ルールや法の根拠として、倫理概念を使用しています)
ニーチェ自体は、既成の倫理概念が、人間の認識機能としての、因果性によるとしたら、それ自体に根拠は無いと判断しています。(そういう意味では、何らかの概念に依存する哲学自体も否定しています)
カントは、「純粋理性批判」において、純粋理性のみでは、人間の観念の正当性は保証されない事を明らかにしました。
ニーチェの立場は、この点において、カントと一致します。
ニーチェのカント批判の主点は、保証されない「善」をカントは実践理性において、論理の逆転で、その原因者を要請した事です。
これは、結果が正当化される為の条件として、「要請」である原因を定めた事にほかなりません。
カントは、非常に誠実な人ですから、自分がわからない事をわかったとは言えなかったので、「要請」としか表現できませんでした。(人によっては、これは誠実の名をかりた欺瞞と受け取る場合もあるでしょう)
カントの要請は、まさに(ニーチェにとっての)キリスト教のルサンチマンの根拠と一緒です。
「善」が保証されるために、その「善」の主体である精神の永遠性と、そのジャッジを行う形而上の存在が「要請」されると言う事です。(これは、「善」なる概念を持つ宗教の正当性を認める事になります)
ニーチェがルサンチマンの欺瞞とするのは、そこに「救済」と言う正当性をはらんでいるからで、その思想自体は、単なる憎悪の正当化です。(「善」・「悪」の対立でしか無いと言う事です)
ニーチェにおいて、性善説や原罪などは存在しませんし、「善」・「悪」の対立などもあり得ません。(それは、単なる観念の遊びです)
ニーチェ流に言えば、キリスト教における救済はまだ成されていませんし、もし永遠と言う概念のもとにあるとしたら、いつまでも救済は行われないと言う事です。(救済を求める魂は、死後も永遠に腐臭を放ちながら存在し続ける事になります)
このようなキリスト教理解に関しては、いくらでも異論はあるでしょう。(しかし、素直な神学者は、一理あるとは思っているようです)
これは、勝手な憶測ですが、ニーチェはこの事に気付いたのでは無いでしょうか?
審判の日がこなければ、救済は完成しません。
ただし、審判の日がくれば、人類は完成するかもしれませんが、全ての「生」は、魂だけに昇華されてしまいます。
どちらにしろ、肉体としての生は、その日で終わるわけです。
これは、キリスト教自身が持つ矛盾と言えます。(救済と滅亡は同時に起こると言う事です)
そして、その矛盾は、「愛」で結ばれるならば、全人類をキリスト教にしなければ、欺瞞になってしまうと言う事です。(これが、ニーチェも指摘するキリスト教の普遍性と絶対的な排他性です)
ユダヤ教は、その選民思想によって、全人類の教化は考えません。(そういう意味では、唯一絶対神教とは呼べません)
ニーチェの立場は、普遍などは認めず、それに付随する排他性も合理的な理由は無いと言う事です。(もっと単純化すれば、ルサンチマンの正当性は、単なる数の大小の問題でしか無いと断じています)
そうは言っても、ツァラトストラの名を使った以上、そこに「善」・「悪」は存在していますが、それはゾロアスター教とヒンズー教の対比によって、単なる選択の結果と見なしているのでしょう。
ゾロアスター教とヒンズー教では、「善神」、「悪神」は単なる対立概念であり、どちらを選択するかの違いでしかありえません。(両者の「善神」、「悪神」は、入れ替わっています)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まづ:
▲ 作用が一切なのだ。
☆ 極論でしょうが 言い方(文体)も内容も いただけません。

★ (あ)猛禽と仔羊のたとえ(例話):実を言えば「生」を根本欲求とす
るたとえにしても良かったのに、
☆ その兆しは ないですね。この一節では。

★ DPRKの場合は、少なくとも、論理としては、自身を仔羊として、敵対
対象を猛禽とみなしているでしょう
☆ けれども ニーチェは 仔羊や猛禽という主体ではなくてやはり《襲う
・襲われる》という行為を扱っています。

★ 仔羊が猛禽を襲う(襲う事もできる)事を想定しているのでは無いです
か?
▲ われわれはわれわれの力に余ることは何一つしないから善人なのだ
☆ と自己規定する仔羊です。



★ ニーチェ流に言えば、キリスト教では無く、報復も許容するユダヤ教の
立場です。
☆ 《聖絶》を命令するのですから それを否定するものではありませんが:
▼ (ホセア書 6:6⇒マタイ9:13 ) わたし(=神)が望むのは いけに
えではなく あわれみであり
▼ (申命記 32:35⇒ローマ書12:19) 復讐はわたし(=神)がすること
であり
☆ と語る一面もあります。

★ (ただし、DPRKの場合は、襲われる前から、報復方法を考えている点
が違うと言えば、言えますけどね)
☆ 拉致と麻薬と暗殺などは どうなりますか?


★ このたとえは、単純に猛禽が仔羊を襲う事に正当性が無い事を通じて、
善・悪と言う概念がそこには無い事を示したと考えるのが妥当だと言えま
す。
☆ 善悪は薄いかも知れませんが 強弱の差を 現実における人間関係と
して合理か不合理かで捉えて言っています。:
▲ 強さに対してそれが強さとして現われないことを要求し 暴圧欲・圧
服欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲でないことを要求するのは 弱さに対して
それが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。



★ ニーチェ自体は、既成の倫理概念が、人間の認識機能としての、因果
性によるとしたら、それ自体に根拠は無いと判断しています。
☆ 仮りにその見方をレアルポリティークだとするならば 哲学は 人間
と世界は それだけではないと――たとえ無力であっても 人間性にとっ
ての有効性として――うったえます。

№10お礼欄へ。

お礼日時:2017/09/16 11:55

#7です



ニーチェは全体として、人間 対 「神・悪魔概念」と言った「過去の思想」に囚われることなく、「人間 対 人間」という問題として捉え直すべきだと言っている(いた)のではないでしょうか?
今更、「神・悪魔概念」を引っ張り出してDRPK問題を捉えるのは、面前の問題からヴァーチャルの世界に逃げるだけの話でしか無いでしょう。
無論、そうしたい人々を想定されてというのなら分からないでも無いですが、もしそうであるなら、問いの立て方が不適切でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ニーチェは全体として、人間 対 「神・悪魔概念」と言った
「過去の思想」に囚われることなく、「人間 対 人間」という問
題として捉え直すべきだと言っている(いた)のではないでしょう
か?
☆ いや むしろそうだと捉えた上で たとえばこの一節を――
ひとまとまりですから それとして――どう読むか? です。

わたしには読むに堪えない文章ですが そうは見ない向きが日本
には 多いようです。



★ 今更、「神・悪魔概念」を引っ張り出してDRPK問題を捉え
るのは、面前の問題からヴァーチャルの世界に逃げるだけの話で
しか無いでしょう。
☆ 読み違えでしょう。誰もそんなことを言っていません。

☆☆ 神のごとく如何なる者の下にも立つまいと堅く誓ったキャ
ラクターをどう扱うか?
☆ は まぎれもなく 人間・対・人間の問題です。

★ 無論、そうしたい人々を想定されてというのなら分からな
いでも無いですが、もしそうであるなら、問いの立て方が不適
切でしょう。
☆ たとえば:
★ 「神・悪魔概念」を引っ張り出して
☆ というのは どこで感じましたか?

お礼日時:2017/09/16 08:07

DPRKの...が主たる目的の問いなのですか?


であれば、持ってこられている文章が、良くないと言えるかもしれませんね。
人間に対する人間という世界での倫理問題について、猛禽と子羊の喩え話は無理があるでしょう。
どちらかと言えば、猛禽と子羊の話は、人間に対する神・悪魔概念での話なのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ DPRKの...が主たる目的の問いなのですか?
☆ ニーチェのこのくだりに表われた思想は:

DPRKの《論理(?)》のようなものではないですか?

という意味です。(一面的な見方ではありましょう)。


★ であれば、持ってこられている文章が、良くないと言えるかも
しれませんね。
☆ 確かにそういった《遡行》において 対話〔におけるわたし〕
の論旨を捉え返すなら そうなるかも知れません。


★ 人間に対する人間という世界での倫理問題について、猛禽と子
羊の喩え話は無理があるでしょう。
☆ それは 一概には言えないのでは? 

冒頭に:
▲ ――だがわれわれは引き返そう。《よい( Gut )》のもう一つ
の起源の問題 すなわち《反感( Ressentiment )》をもった人間
が考え出した《よい》の問題がその解決を待っているから。

☆ というように はっきりと人間論 としての倫理問題 を扱っ
ているはずです。

★ どちらかと言えば、猛禽と子羊の話は、人間に対する神・悪魔
概念での話なのではないでしょうか?
☆ いや これは ほとんど明らかなかたちで そうではないと思
います。

▲ ~~~~
内攻して蔭で燃え続けている復讐と憎悪の感情が 強者は自由に弱
者になれるし 猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分の
ために利用し その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心
に保持するとしても それは別に異とすべきことではない。
~~~~

☆ この《信仰》をいだく仔羊は 明らかにキリスト信徒または組
織宗教としてのキリスト教徒のことですし 

《猛禽》は けっして形而上なる《悪魔》でもなく 人間のうちの
《〔弱い者の意志も生活をも踏みにじる〕強者》のことを指して言
っているのでは? と思いますがねぇ。

お礼日時:2017/09/16 07:33

(あ)仔羊は、猛禽に文句をつける理由はあります。

(自分が食べられるから) ただし、文句をつけても、猛禽はそれをやめる理由を持ちません。(なぜならば、仔羊はとてもおいしいから)
(い)現象は、現象そのものであって、その背後にある原因を考えるのは、人間の認識能力としての因果性による。 ルサンチマンは、起きてしまった現象が、起きなかった可能性を、現象の背後にある原因に求める。 結果的に、ルサンチマンは、勝手に原因を推測して、それが起きない場合を想定する事により、原因の善・悪を判断している。
ニーチェの表現とは違いますが、弱かったのは、単純に弱かっただけで、迫害されたのも、単なる力の差の結果でしかない。それを、善・悪で評価する事に正当性はあるのかと言う議論ではないでしょうか?
もちろん、意味も無く、弱者を迫害する立場にも、正当性が無いのは、当たり前の事です。
ニーチェ自身が、どう考えていたのかはわかりませんが、「道徳の系譜(学)」においては、道徳とはどのように形成されたかを論じているので、その道徳の内容自体を主張しているかどうかはわかりません。(むしろ、ニーチェは、道徳などというのは、あくまで、それを主張する立場に存在する観念として捉えているのでは無いでしょうか?)
ただし、ニーチェ自身は、「(生への)力」が、人類にとって優先すべき自然欲求だと考えていたのは確かです。
ただし、それは、人類自体が滅亡する為の欲求では無く、人類が生きる為の「力への意志」だと考えていたのは確かでしょう。
具体的にどうすれば良いかは述べていません。
「(生への)力への意志」をどのように生かすかを判断するには、相当思索しなければいけません。(いくつかは、アフォリズムで述べてはいますけどね)
単なる、無神論者のたわごとと考えるか、「(生への)力の意志」の具体化へ向かった求道者と読み取るかは、読者にゆだねられていると言う事ですね。(ニーチェにしたら、自分の書いた事を鵜呑みにするようでは駄目だと思っていたんじゃないですかね?)
ニーチェ自身の弱さは、自分がわからない事でも、何かが存在すると思っていた事です。(超人は、そのような概念です)
そういう意味では、ニーチェ自身も、プラトンの「イデア」や、カントの「物そのもの」と同じように、見えない到達点があると想定したと言う事です。(それを、人間の価値基準にゆだねたと言う事です)
それは、ニーチェがプラトンやカントを批判した目で、自身も批判されると言う事です。(考え方は、違っても、やはり、何かを「信仰」していたと言う事になります)
ハイデガー流に言えば、ニーチェは、観念論と形而上学の最後の完成者と言う事なのでしょう。(全体性は無目的であり、その価値は、人間の「生」そのものにあると断じたと言う事です)
ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」において、終章でツァラトストラは、坂をおりて、大地の人間に戻っていきます。
それは、創世記における楽園追放のオマージュであり、原罪により大地に向かうアダムとイブでは無く、1人の人間として、楽園を後にする人間を意味しているのでしょう。
それは、原罪を背負った駱駝でも無く、強者である獅子でも無く、人間と言う幼子への回帰です。(ニーチェ自身も、最後は本当に幼子になってしまいましたけどね)
ニーチェ流に言えば、「無知である事は、幸いである、何故ならば、知者に比べれば、考える事も、知る事もできるからである」なのかもしれません。(「ツァラトゥストラはかく語りき」自体が、新約聖書(福音書)のパロディーとの解釈もあるようです)
皮肉なのは、ブルジョアのような浪費生活していた、ユダヤ人のマルクスが「資本論」を書いた事と、ほとんど弱者同然だったプロテスタントの牧師の息子のニーチェが「アンチ・クライスト」を書いた事ですね。
これは、逆にそのような生活をしていたから、それぞれが、欺瞞性をきちんと認識できたのでは?と言う見識もあります。(ニーチェもどちらかというと、ユダヤ教やカトリックのような戒律・律法主義よりも、プロテスタントの精神主義の方が根が深いと考えていたような感じはします)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ (あ)仔羊は、猛禽に文句をつける理由はあります。(自分が食べ
られるから) ただし、文句をつけても、猛禽はそれをやめる理由を持
ちません。(なぜならば、仔羊はとてもおいしいから)
☆ お分かりのように:

DPRKの《論理(?)》のようなものではないですか?

を問うています。


★ (い)・・・もちろん、意味も無く、弱者を迫害する立場にも、正
当性が無いのは、当たり前の事です。
☆ つまり 世界を観るに際して《行為〔の相互関係ないし縁起〕》だ
けではなく その行為の主体についても考慮することは 当たり前のこ
とです――になると思います。

これは ニーチェ批判になるはずです。すなわち:

★ 「道徳の系譜(学)」においては、道徳とはどのように形成された
かを論じているので、その道徳の内容自体を主張しているかどうかはわ
かりません。

☆ たとえば次のように自己表現したと捉えるなら 自己の道徳観を表
明しているのではないでしょうか?

▲ 《われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれはわれわれの力
に余ることは何一つしないから善人なのだ》というより以上の意味はも
っていない。
☆ 《より以上の意味を持つ》はずです。自分〔たち〕をほかの人とカ
テゴリとして区別しつつ《善人》と規定するのは独り善がりもはなはだ
しいわけですが そこでは 行為関係からのみ世界が成るといった――
構造主義ですね の――思想に異をとなえているとは言えそうです。

つまり――このあと ニーチェのブーメラン問題になるようですが――
ニーチェの《主張》と捉えざるを得ないものとなる文体ですね?


★ (むしろ、ニーチェは、道徳などというのは、あくまで、それを主
張する立場に存在する観念として捉えているのでは無いでしょうか?)
☆ 質問の表題に《道徳観》と書いたのはヘマでしたが 焦点は 行為
主体の有無にあるのでは?


★ 人類が生きる為の「力への意志」だと考えていたのは確かでしょう。
★ 単なる、無神論者のたわごとと考えるか、「(生への)力の意志」
の具体化へ向かった求道者と読み取るかは、読者にゆだねられていると
言う事ですね。
☆ ここでも 行為だけか 主体はどうなのかが問われるべきでは?

つづく。

お礼日時:2017/09/16 06:27

>☆ であれば 回り回って:


>☆☆ (あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。
>☆ となります。

あんた本当に論理的に物事を考えることができない人なんだね。
それとも主観と客観の区別が付けられないのかな?
仔羊が猛禽を恨むのも文句を言うのも仔羊の主観の問題であって、それは仔羊の自由。子羊の勝手。子羊の感情の問題だから、仔羊が恨むのも文句を言うのも至極当然なの。だから子羊が文句を言う理由はあるの。
だけど、猛禽を咎めるのは客観の問題であって、仔羊の主観は全く関係ない。第三者の立場から猛禽を責めるのが適当かどうかの話。

悪いけど、こんなことは本当に小学生でも簡単に理解できる問題なんだよ?
このページを読む人は間違いなくあなたの知能を疑うよ?てか、№2か№3の回答のお礼を読んだ時点で呆れてるよ?
本気で自分の頭の具合を心配したほうがいい。
10年位前まで地域ボランティアで子供の世話をしたていたことがあるけど、小学生低学年でもあなたより頭良かったよ。
自覚できているかどうかわからないけど、理解力が幼稚園児レベルというのはかなり深刻だよ?
もう哲学以前の問題だから、こんなところに質問なんかしてないで精神科か心療内科を受診しないさい。じゃないと本当にもうどうしようもないよ?
実際、社会生活をまともに営めてないでしょ?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~
ここで ニーチェは 次のように言っていますか?

(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。
~~~~~~~~~~~~~
☆ という問いです。

もちろん回答者の見解を尋ねているのですが それは ニーチェがどう
言っていると見るか? についてです。

★ 仔羊の主観の問題であって
☆ これはただの一般論であり 初めから誰もうたがったり尋ねたりす
る必要のない・問いの前提です。

★ 第三者の立場から猛禽を責めるのが適当かどうかの話。
☆ についても それはそうですが げんみつさを求めるなら 《第三
者の立ち場を ニーチェがどのように捉えて みづからの判断をくだし
ているか》です。

ニーチェの道徳観をめぐって:
☆☆(№1お礼欄) (あ):《猛禽に文句をつける理由》は ある
のですか? ないのですか?



質問の趣旨を 読み取れないでいることについて:
★☆ このページを読む人は間違いなくあなたの知能を疑うよ?

☆ 赤恥ぢをさらさせてしまいましたね。

お礼日時:2017/09/16 05:43

>★ (う):ここで言う「恨むのは異とするに足りない」というの


>は、・・・より直接的に表現するならば「恨むのは当然だ」になる
>んです。

>☆ では 《しかし》以下の(え)については どうなりますか?

あんたホントに日本語が分かってないね。
そんなことは№1の回答に既に書いてあるだろ。それとも一つの事を覚えたらその前の事はすっかり忘れてしまう位記憶力が無いのか?

仔羊が猛禽を恨むのは当然だが、だからといって猛禽を咎めることは適当ではないとニーチェは言ってるんだよ。
仔羊が猛禽を恨むことと、猛禽の罪を云々するのはどうかは全く別問題なんだよ。
何でそんな小学生でも簡単に理解できることが理解できないの?
いくら発達障害だからってそこまで理解力が乏しいとさすがに知的障害まで疑いたくなるよ?
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この回答へのお礼

★ 仔羊が猛禽を恨むのは当然だが、だからといって猛禽を咎めることは
適当ではないとニーチェは言ってるんだよ。

☆ であれば 回り回って:
☆☆ (あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。
☆ となります。

しかるに これまでの回答の結果は:
★★ (回答№2) ~~~~~~~~~
 (あ):《猛禽に文句をつける理由》は あるのですか? 

ありますよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ となっています。

お礼日時:2017/09/15 23:09

えっと・・・もう完全に国語の授業でやる問題なんですが




>▲ 仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
>しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
>ならない。

ここで言う「恨むのは異とするに足りない」というのは、現代の口語にすると「恨むのは(筋が)違うだろと否定するにはあたらない」と言う感じになります。
つまり、日本語に特有の表現で何かを否定する事を否定することで、より強烈に肯定する事になるんです。外国人が日本語を学ぶ上で最も理解に苦しむ表現方法の一つなんですが、あなたも理解してないんですね。
要するに「恨むのは異とするに足りない」をより直接的に表現するならば「恨むのは当然だ」になるんです。

>☆ この場合は 《理由はない》。ほかに どういう場合がありますか?

「恨むのは当然だ」とニーチェは言ってるんですから、「理由はない」という事は全くありません。逆です。
完全にあなたの勘違いです。


>☆ (い):《あの猛禽は〈悪い( Böse)》という道徳ないし価値観
>は 取るに足りない〔と言っている〕のではないですか? という問い
>です。

あー・・・・あなたはやはり初心者向けの入門書から入った方がいいですね。
知識もないくせに「ニーチェの道徳観はおかしい」という変な先入観を持ってしまっています。
実存主義って何かわかってますか?・・・・いや、わかってないからこんな質問が出てくるんですよね。
私は「道徳の系譜」は読んだことありませんが、おそらくニーチェが言わんとしているのはニーチェの道徳観についての話じゃなくて、道徳とか倫理とか言うものが介入する以前の事象そのものの話をしてるんだと思いますよ。道徳とか倫理とか正義なんていうものはあくまでも後天的なものであって、天然自然に存在する法則とは無関係なんだという実存主義の基本的な立場から道徳や倫理について述べているのがその本でしょ?
そもそも読み終わったうえでの質問ですか?
こういう質問は読み終わってからした方がいいですよ。なんだか実存主義の考え方自体を理解してないようですし、それ以前に文章の意味を正しく読み取れてさえいない状態で内容について質問しても恥をかくだけです。


>このように倫理の問題です。

倫理の話ではなくあなたの話をしてるんですよ。
あなたが引用してきたニーチェの文章は確かに道徳とか倫理についてのものですが、あなたの質問は完全に語学の問題なんです。
あなたはニーチェの文章を正しく読み取れていないんですよ。だから、今回のような頓珍漢な質問が出てくる。
意味を正しく理解できていない文章について、誤解に基づいた質問をしているから日本語の問題だと言ってるんです。
現に(あ)の問題なんか、文章の意味を本来とは完全に逆転して理解してしまっているじゃないですか・・・哲学する前に日本語の勉強をやり直したほうがいいですし、今回のような馬鹿げた失敗を防ぐためにも、まずは初心者向けの入門書から読みなさいと言ってるんです。
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この回答へのお礼

▲ ~~~~~~
(う) 仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないこと
だ。
(え) しかしそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎
め立てる理由にはならない。
~~~~~~~~~

★ (う):ここで言う「恨むのは異とするに足りない」というの
は、・・・より直接的に表現するならば「恨むのは当然だ」になる
んです。

☆ では 《しかし》以下の(え)については どうなりますか?

お礼日時:2017/09/15 20:38

>(あ):《猛禽に文句をつける理由》は あるのですか? ないの


>ですか?

ありますよ。
№1にも質問文で引用された文章でも書いてあるでしょ。


>(い):《あの猛禽は〈悪い( Böse)》という道徳ないし価値観
>は 有効なのですか? そうではないのですか?

あなたの言う「有効」とはどういう意味ですか?


>広く哲学の内の倫理にかかわる問い求めです。

違います。
あなたの読解力の問題です。
ニーチェに限らず哲学書ってのは当たり前のことしか書いてないんですよ。当たり前の事が何故当たり前なのかを掘り下げ、その結果を文章にして本にまとめたのが哲学書なんです。あなたは重大な問題が隠されているように考えているようですが、あいにくとそんな陰謀論者を喜ばせるようなけったいな事は書かれていません。

それなのにあなたが引用された文章の意味を正しく読み取ることも出来ず、「哲学の内の倫理にかかわる」なんて重大視しているのは純粋にあなたの国語力の問題です。
日本語訳だけで済む話なのにわざわざドイツ語版や英訳版のリンクを張っている事からも、これが純粋にあなたの国語力が問題の原因であることは明らかです。

哲学書独特の言い回しや古い翻訳の文法に慣れてないんでしょ?
素直に入門書から入りなさい。
竹田青嗣あたりが書いてる入門書は初心者でも読みやすいですよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ (あ):《猛禽に文句をつける理由》は 
★ ありますよ。
☆ つまり:
▲ 仔羊どもが大きな猛禽を恨むのは異とするに足りないことだ。しか
しそれは 大きな猛禽が小さな仔羊を捉えることを咎め立てる理由には
ならない。
☆ この場合は 《理由はない》。ほかに どういう場合がありますか?


★ あなたの言う「有効」とはどういう意味ですか?
☆ (い):《あの猛禽は〈悪い( Böse)》という道徳ないし価値観
は 取るに足りない〔と言っている〕のではないですか? という問い
です。


このように倫理の問題です。

お礼日時:2017/09/15 10:00

>次の文章は 読むに堪えますか?



堪えます。


>(あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。

違います。
子羊が文句を言うのは当然だと言っています。
子羊が文句を言うのは当然だが、だからといって猛禽を咎める理由はないと言っているのであって、(あ)の内容は不正確です。


>(い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世
>界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を
>言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサ
>ンチマンのなせるわざであるに過ぎない。

引用されている範囲の文章ではそこまで言ってません。



この質問は哲学じゃなくて文章問題です。
現にあなたは文章の意味についての質問しかしていません。
文章の問題ならば、たとえそれが哲学書の文章であったとしても、「哲学」ではなくて「文学」か「その他(人文学)」、あるいは「日本語」のカテゴリーが適当です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


(あ):《猛禽に文句をつける理由》は あるのですか? ないの
ですか?


(い):《あの猛禽は〈悪い( Böse)》という道徳ないし価値観
は 有効なのですか? そうではないのですか?



広く哲学の内の倫理にかかわる問い求めです。

お礼日時:2017/09/15 00:03

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