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日本のアーティストとか文化人に下手くそだ!とか批判すると結構な確率でこのような人が出てきます。それは彼は頑張って努力してるんだ。なぜ認めない?貴方達にはできるのか?という人です。
僕が思うに、舞台やステージに立つ人、または何かの芸術作品って結局は多くの人に届くものがあったり需要があればいいと思うんです。何が言いたいかというと感動したりすごかったらいいと思うんです。
なのに彼は昔このような努力をしていたんだ!とか、頑張ってるからとかなぜか日本ではこれまでの苦労の過程を褒めたたえようという風潮がよく分かりません。この言い分は一言で終わらせることができます。それは「だからなんだ?」で終わらせられます。
そもそもステージに立つ人、または何かの作品ってその人が頑張ってたからといってその作品や音楽が良いものになるわけではないです。村を救ったヒーローなら分かりますが。
海外の例を使わせてください。海外では完全に実力がなければ見向きにされないと思います。海外で有名なXfactorというオーディション番組では、明らかに下手な人が歌うと審査員全員大爆笑します。
日本みたいに笑ってはいけないみたいな気を使う雰囲気にもなりません。気持ちいいくらいに笑われてました。でもそれは人間の正直な反応だと思います。日本が間違っているという話をしているわけではありません。
仮に小さなライブハウスで新人が頑張って歌ってるのを応援するのは別にいいと思うんです。でもテレビに出たりその人を商品として売り出た時に、頑張ってから認めようみたいな風潮はもうそれはアーティストじゃないと思います。

まとめますと、努力しているから認めて上げようは通用しないと思うんです。
何かの映画を見て、面白くなかったのに、この映画のキャストの人達は頑張って作ったから認めようって言われてもはい?って話じゃないですか?こちらはいい作品を見たいだけなのにお前が努力してた話なんぞしったこっちゃないっていいたくなりませんか?

A 回答 (5件)

私は、批判することに対して、ご質問のような反論をされるのは、おかしいと思います。


理由は、芸術家、役者やタレント、歌手、映画人といった方々は、自らの努力がストレートには反映されない職業であると、割り切っておられると思うためです。
例えば、ある映画監督が撮った映画が、つまらなくて酷評されたとします。そうなると、この監督はどう考えるでしょうか。
酷評されたことに対して奮起し、「よし、今度は絶対に、面白い映画を撮るぞ」と、新たな意欲を燃やされるかも知れません。反対に「私の撮る映画は、理解できる方だけに理解していただければよい。酷評されるなら、どうぞなさってください」と、開き直られるかも知れません。
つまり、酷評されたことを、必ずしもマイナスと受け取っていないということです。更に映画の場合、興行成績が伴わなければ意味が無いということもあります。
作品としては大変優秀な映画でも、興業的には失敗することもあり、反対に、駄作でも興業的には大成功するかも知れません。
したがって、酷評した側に対し、「頑張って努力しているんだ、なぜ認めない」などと非難するのは、全くの筋違いと言えます。
むしろ、酷評することを、一切タブーとしてしまうと、芸術家などは全く成長しなくなるということも言えます。
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ご質問の意図は、


「世の中のメディア作品の評価は、すべて結果主義であるべきと思うが意見をくれ」
と察しましたが、間違ってたらすみません。

>日本のアーティストとか文化人に下手くそだ!とか批判すると結構な確率でこのような人が出てきます。それは彼は頑張って努力してるんだ。なぜ認めない?貴方達にはできるのか?という人です。

確かにYouTubeなどの動画サイトではそういう人が見られると思いますが、
日本でも音楽作品とか映像作品の社会的な評価は、そんなに甘くないと思います。

では動画サイトでの評価と社会的な評価の違いがどこから生じるかというと、
動画サイトの閲覧者は、動画を見ながらパフォーマーが至るべき及第点を、
無意識に設定しているのだと思います。
動画の出来(動画編集、音響、衣装、演奏、演技、チャンネル登録数など)のクオリティが高ければ、
無意識の及第点はそれなりに高く設定され、興味をひかれた閲覧者がちょっとググったりして、
そのパフォーマーがプロであることが判明すれば、もっと高い及第点が設定されると思います。
逆に無名のパフォーマーであれば、閲覧者の中で及第点は低く設定され、
パフォーマンスのうち、どれか1個でもハイクオリティであれば、絶大な評価を下すと思います。

たぶん、このような無意識な及第点の設定は、日本人では結構フレキシブルに、
アメリカ人では結構合理的に行なわれているんじゃないかと思います。
そもそも閲覧者によるこのような及第点の変動は、
アマとプロのパフォーマーが混在する動画サイト特有の現象じゃないかと思います。
(路上パフォーマーの評価も同様かもですけど・・・)
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努力しているから認めて上げようは通用しないと思うんです。


  ↑
これは、行為主義と結果主義の問題です。

米国などは結果主義の傾向が強い国です。
いかに努力しても、結果を出せなければ意味はない。
努力してもダメ、ということは無能の証拠である。

日本は行為主義の傾向が強い国です。
結果が出せなくても、努力したんだから、認めて
やろう、という考え方です。

それぞれ長短があります。

結果主義だと、手段を軽視するようになり、その結果
犯罪が多くなります。
どんな手段だろうが、成功した方が勝ち。

行為主義だと、犯罪は少なくなりますが、
同じ間違いを何度もくり返したり、無能な人が
指導者になったりしやすいです。

これは、国民性に基づきます。
日本は母性社会と言われています。
母性社会は、能力による峻別、競争を嫌います。
のび太が主人公になれる社会です。
いわば、弱者に優しい社会です。
判官贔屓の社会です。

欧米など多くの外国は父性社会と言われています。
父性社会は能力によって、峻別されます。
のび太は主人公になれません。
敗者には何もやるな、という厳しい社会になります。
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アーチストは才能が全てだよね、プラス処世術。


努力しなくて凄い奴もいるからね、自然とチャンスがあれば生きていける。
才能のないやつは、いくら努力しても魅力が無ければ誰も相手にしてくれない。
審査員が合ってるかは疑問だ、幾つやってもダメならダメだね。
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そうですかね?


結局は結果論で、陰での努力なんて誰も見てないと思いますが。
もし努力が評価されるのなら、それはそういう戦法で売っているのではないですか?
人の同情を集められるのも資質です。
それは本当に作り手の努力が買われているというより、
イメージ戦略に乗せられた受け手が幻想をみているだけです。
作品以前に作者や役者が評価されるのならそれは
アーティストというよりアイドルに近い扱いです。
作り手や演じ手といった人自体を商品化している場合、
観客の同情から人気を得られることもあるでしょう。
ビジネスだから売れれば何でもいいのです。
商品としてみれば、それは作品の質、モノとしての出来が
消費者の心や要求に叶うように存在しなければなりません。
販売される製品は規格が厳密に定められています。
でも、創造物の背後にまず生身の人間ありと見做される芸能界のような世界では
その芸能人自体の有り様が作品と不可分に関わってきます。
寸分の狂いもなく規格に忠実に動くべき工業製品と、
作品自体がものを言う芸術と、
人を売る芸能の世界とは
少しずつ求められるものが違ってきます。
職人、アーティスト、芸人、アイドルといった区分が曖昧だから仕方ないのです。
売り物の価値の中に作り手の人間性を含めることが
受け手の意識の中になされているか、そうでないかの違いです。
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