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どーやら、これが仏教思想の根幹みたいですね。
であるならそんなことを思う人間は犬猫以下の生い立ちってことなのでしょーか。

A 回答 (12件中1~10件)

質問者は仏教思想はマッチポンプだと言いたいのではなかろうか。

そんな仏教思想を思う人は知性が劣っていると言いたいのではなかろうか。
仏教思想は生きることは苦しみである。仏教を信じれば苦は無くなる。だから仏教を信じなさい。これをキリスト教思想に置き換えると原罪説です。キリスト教思想は人はみな原罪を犯した状態で生まれてくる。キリスト教を信じれば原罪は清められる。だからキリスト教を信じなさい。苦をでっちあげてつまりマッチで火をつけて、仏教で苦を無くすつまりポンプで消火する。ような仏教思想を思う人は知性が劣っていると言いたいのではなかろうか。

しかしながら、原罪が有るのか、無いのか、原罪をキリスト教思想は正しく説明しているのか、していないのか、キリスト教によって原罪が清められるのかどうかはわかりません。苦が有るのか無いのか、苦を仏教思想は正しく説明しているのかしてないのか、仏教によって苦が無くなるのかどうかは分かりません。

でも、質問者はキリスト教思想は、原罪を作り、作るときにキリスト教だけに原罪が清められるように設計し、キリスト教思想を思うように仕向けた。同様に、仏教思想は、苦を作り、作るときに仏教だけに苦がなくせるように設計し、仏教思想を思うように仕向けた。仕向けたこと仕向けられたことに気づかないような仏教思想を思う人は犬や猫よりも知性が劣っている。と言いたいのではなかろうか。
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仏教思想が どーやら  で分かるんでっか  笑い


   無学 無知 偏見 でお決めにならんように  笑々
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この回答へのお礼

わざわざ病院から回答してくれたんだね。
ありがと。
治ったら褒めてやるから。

お礼日時:2017/10/09 11:46

それは人間から見た畜生であって


彼らがどれだけ生き苦しいのかなんてだれも知りえません。
外側からみる限り 動物は本能に操られているくせに 人間よりずっと安らかに見えます。
煩悩の原因を識らないことこそが苦しみの根源だといわれますが
寧ろ 苦しみという概念を知っているなら その源流も見えているはずです。
あっても救われないならそんな無駄な感受性を生物は身につけません。
打開できる可能性があるから 苦しみを感じるのだと思います。
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まあ、仏教的な意味で「苦」(=自由にならないこと)を使うなら、そう言えるでしょう。



でも、西洋哲学は苦を仏教の様に理解するわけではないので、色々ですね。
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法華経如来寿量品第十六に「衆生所遊楽」と説かれています。



「衆生の遊楽するところなり」と読みます。

>生きることは本質的に苦しみである

とは仏教のどこに説かれているのでしょうか?
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むかし、為政者は誰よりも先んじて、最悪のことを考える、と聞いたことがあります。



最悪のことを考えて、最悪を作り出すか、あるいは、最悪をいかに回避するかを考えていたのでしょうか。


どんなに階級を絶対的なものにしても、生老病死はある。これは人間としての共通点だと思ったのではないですか。
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人の道様 いつもご苦労様です。



その通りだと思います。
人間は、「あるがまま」に生きることができないのです。
「足るを知る」人の道様のように、生きられたらいいのだと思います。
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当時のインドは、生産性が低く、生きる、というそのことが


非常に大変な時代だったのです。
差別もヒドかったのです。
(今でもヒドイらしいが)

これはインドに限りません。
西洋でも日本でも同じです。
生きるだけで、人生を使い果たしてしまう、という
のが庶民でした。
フィガロの結婚にも、そうした事情が出てきます。
「私は、生きる、ただそれだけのためにフランス全土を
 征服出来るぐらい力の限りを尽くしてきた。
 それなのに、あんたは何だ。
 貴族に産まれた、というだけで、何もしなくても
 このような贅沢が出来る」



皆、病気や飢えのため、天寿を全うするまえに
亡くなりました。
だから、病気や飢えが無ければ、人間は死なない
のだ、と考えている人が多かったぐらいです。

お釈迦様は、病気や飢えがなくても
人間は死ぬものだ、と教えました。

そういう時代ですから、生きることは苦しみ
だったのです。

その点、犬猫と同じレベルの存在だったのです。
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その《苦:ドゥッカ》とは 《思うようにならないこと》です。



ゴータマの到らないところは この苦からの解放(解脱:モー
クシャ)を勝手に言い出してしまったことです。

その心は 《苦から自由な状態》と《苦が消滅した状態:解脱》
とは別だからです。

なにごとも相対的な関係にあり一応は程度問題であると考えら
れる世の中において 《思うようにならない苦》は 人びとに
とって互いに共通しています。

その中で 相対的に苦から自由な状態を問い求めて行くという
こと。――これが 基本の答えであることは 分かっています。

そこんところを なお先走って解脱にまで持って行った。阿呆
たる所以です。

もちろん 人びとからは それでも ヨイショされるようにな
りました。

反対派は 地獄に行ったというヨイショ話も出来ました。

人びとは あまりにも《〈純粋な〉あたまの持ち主》のようだ
と思って 面と向かってズバリほんとうのことを言えなかった
のかも知れません。

あるいは ひょっとしたら ゴータマ氏が 確信犯だったかも
知れません。そんなことは 夢物語だと分かっていて なお一
段レベルを下げてポピュリズムに走ったのかも。


★ 犬猫以下の生い立ちってことなのでしょーか。
☆ 生い立ちは知りませんが そういう根性だったのでしょー
か。

現代でも このペテンに遭う《苦》を よろこびたのしんでい
るさまが多く見られるようです。
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覚りの道は楽しみと栄えと共に歩むものであると言われる。

しかし、涅槃に至ったならばそれ以前の生活とは比べられない境地を楽しむことになるらしい。
つまりどういうことか、喩え話をすれば、子供の頃はオモチャや駄菓子、子供じみた遊びなどで楽しみ、またそれに執着することによって時に苦しむだろう。おもちゃが壊れた時、遊びの仲間外れにされた時、駄菓子をとられた時、子供は悲しむ。しかし大人になれば、そのような子供じみたものからはすっかり抜け出して、執着を跡形も残してはいないだろう。そして、大人には大人の楽しみというものがあり、それは子供のそれとは比ぶべくもない。
大人にとっては、それら子供じみたものの全てはつまらないもの(=苦)なのである。
退屈しのぎにさえもならない。大人が鬼ごっこをして心から楽しんだり悔しがったりできるだろうか?それは無理な話だ。
大人はまた、子供の楽しみを否定したりしないどころか、むしろ積極的に玩具を作ったりさえするだろう。大人は子供達が遊びを通して成長することを知っているからである。
痛み、傷、目に見える苦しみを覚えている間は苦しみの真実は見難いと言われる。世間の楽しみに執着を起こしそれに耽溺することは、すでに解脱した人々にとっては苦しみなのである。解脱した人々には別の楽しみ、静けさや大団円といったものがあるからです。
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