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私は、小学校高学年、中学校、社会人10年以上、いじめを受けた経験の持ち主です。社会人では、村八分をされ、会社に行き、やることもなく、倉庫に行き、ぼーっとしていたこともありました。

いじめをする、という行為は悪い行為であり、絶対に許すものではない、との考えを持っています。

しかし、今、振り返ると、自分にも非があった、問題はあった、との認識にあります。自分の問題点を受け止め、その問題点を改め、自分を少しでも変えるように努めています。

ですから、今では、必要以上に恨んだり、憎んだりはしていません。

世間で多く報道されていて、テレビ番組等を見ていますが、いじめられる人間にも問題がある、と、述べると、そんなことはない、と攻撃的に意見を言う方がおられます。

果たして、いじめられる側の人間に問題はない、0%である、微塵もない、と言い切れるのでしょうか?

もし、0%であると断言できるのならば、いじめる人間を除外した形で、理由は何なのでしょうか?(例えば、普段から正しい行為のみしている、等)

また、仮に、いじめられる側の人間に原因があるとするならば、何が原因であると想定できるのか、具体的に教えて下さい。

A 回答 (106件中1~10件)

ケースバイケースなのでここで具体的に答えを列挙する事はほぼ不可能に近いです。



「いじめをする、という行為は悪い行為であり、絶対に許すものではない」「自分にも非があった、問題はあった、との認識」「今では、必要以上に恨んだり、憎んだりはしていません」
とありますが、非常に立派だと思います。私なんか死ぬまで忘れませんけどね。

>>世間で多く報道されていて、テレビ番組等を見ていますが
この下りですが、所詮テレビです。とどのつまりテレビです。そう言うものだと思って流した方がいいと思います。だってテレビですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ケースバイケースということですね。

お礼日時:2007/01/03 16:40

>>いじめられる側の人間に原因があるとするならば、何が原因であると想定できるのか、



通常は、ハーフで髪の毛や目の色が違ってめだつとか、太っているとか、考え方が違う、成績が悪い、親の職業が変わっている、など単に他の多くの人とちょっと違う人が、「のけもの」にされるなどをスタートにイジメがエスカレートしていくようですね。
ですので、他の人との差があることが「問題」とするなら、それがいじめられる人の問題であるといえるでしょうね。

でも、その人の能力不足で他の人が迷惑を被るというようなことが無く、単に「人と違う」ことを理由に「イジメ」をすることは理不尽です。多くのイジメ同調者は「イジメの被害者」になりたくないので、イジメ加害者に加わるようです。

また学校や教育委員会は、イジメをなくすことは大変な労力が必要になりますし、下手をすると自分たちの出世に響くため、「なかったことにする」「被害者がイジメがあったと誤解して騒動を起こした。被害者のほうが悪い。謝れ!」っていう流れになっているようです。

ちょっと昔のSFマンガに「警察などとつるんだ暴力団が思いのままに支配する街を正義の味方(超能力者など)が解放する」というようなストーリがありましたが、「正義の味方が登場する前の悲惨な街」が現在の学校の教室のようです。
ここで、暴力団=イジメグループ、警察=教師、教育委員会です。

いじめられる側の人間を問題にするのは、万引団が「盗みやすいような陳列をしていたから盗った。私らは悪くない」と弁解するようなもんでしょうね。
いじめられる側の原因は「他人と違うこと全て」っていうことで、ヤクザの因縁づけと同じく具体的事例を並べる意味は無いような気がします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

・ハーフで髪の毛や目の色が違ってめだつ
・太っている
・考え方が違う
・成績が悪い
・親の職業が変わっている
上記の理由、問題点がいじめられる側の原因ということですね。

「他人と違うこと全て」ということは、なるほど、と思います。
・協調性がない
・気が弱く意見を言えない
・頑固者である
・利発すぎる
・勉強ができると自慢する
・自分本位である
等々も、他人と違うこと全ての範疇に入るのでしょうか?

お礼日時:2007/01/03 16:47

No.1さんと、同意見です。


まさに、ケースバイケースで不可能です。また、テレビや新聞などのメディアで答えを出すのも不可能です。彼らが情報を発信するために、各々の事例について集めた情報など極々わずかのもので、かなりの部分に思いこみと言うか、場合によっては意図的な物があると思います。さらに言うならばマスメディアは、必要以上にセンセーショナルに扱います。その方が注目を集められるからです。明かに責任があるケースもありますが、すぐに学校に責任を求めるのもおかしな話です。現場を知らない思い込みだけで発言をしているだけです。

また、評論家や教育関係者も良く出てきますが、話を聞いていると共感できることもありますが、現場を知らないで何を言っているんだと思うことも少なくありません(私の価値感でですが)政治家もしかり。やってることはメチャメチャです。悲しいことに、特に教育者に関しては、そういったメディアに顔を出すような極一部の人達が教師と言うもののイメージを低俗な物にしていると常々感じています。

まともだと感じることを言う人も沢山いますが、そうでない人が多すぎます。また、そういった人のほうがある意味番組を面白くできると言うのも、製作者側の意図だと感じます。


ちょっと話がずれてしまいましたが、結局のところ、当事者、その周りにいる人間にしか真実は分からないと言うことだと思います。努力次第で、恐らく真実だろうなと思える物に近づくことはできますが。

>果たして、いじめられる側の人間に問題はない、0%である、微塵もない、と言い切れるのでしょうか?

言いきることなど出来るはずがありません。ケースバイケースです。非常に多く要素があります。
そういった性質場、例を挙げるのは望ましいことではありませんが、そういった要素を排除して、単純に例えれば、苛める側と苛められる側が入れ替わる例では、中心となり楽しんでいる者以外は、自分以外に対象を作り、苛める側にいることで自分の身を守っている人も多く要るでしょう。この場合などは、ゲームのような物で、いじめの対象となるのに全く原因がない場合もあると思います。

苛められる友達を庇った為に、自分が苛められるなどは、友達を助けると言う行為はとても素晴らしいことだと思いますが、苛めを受ける「要素」にはなり得ます。彼・彼女の行動に「問題」は無いですよね。
あいつ生意気。とか、良い子ぶってるとか、気に食わないとか、暇だからとか、いじめが起こるきっかけなど幾らでもあるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

・理由はなく、ゲーム感覚の対象になっているだけ
・苛められる友達を庇ったため
・生意気
・良い子ぶっている
・気にくわない
・暇だからという理由で対象になっている

上記がいじめられる側の理由、ということですね。

お礼日時:2007/01/03 16:55

No.2です。


>>・協調性がない
・気が弱く意見を言えない
・頑固者である
・利発すぎる
・勉強ができると自慢する
・自分本位である
等々も、他人と違うこと全ての範疇に入るのでしょうか?

いずれも、はいると思いますね。そして、上記項目は受け取る側の主観が大きく影響する項目もあると思うので、客観的な判定は難しい気がします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

受け取る側の主観、ということは、受け止め方を変えることができれば、いじめられる側の心の変化も期待できるということですね。

お礼日時:2007/01/04 10:54

> 果たして、いじめられる側の人間に問題はない、0%である、微塵もない、と言い切れるのでしょうか?



逆のことを考えてみてください。あなたは「いじめられる人間に問題がある」場合として、どのような場合を考えているでしょうか。他の補足を見ていると、「協調性が無い」とか「自分本位」とかを想定されているのでしょうか。
もしそれらが「問題」であるとしたら、そういう人たちは「いじめられてもある程度は仕方が無い」と、お考えでしょうか。

多分、質問者様はそうはお考えにはならないでしょう。「いじめをする、という行為は悪い行為であり、絶対に許すものではない」と、仰せのとおりです。

要は、質問者様が疑問に思う論調というのも、「いじめを正当化できる理由は何も無い」という趣旨で、「いじめる側が100%悪い」と言っているだけなのです。質問者様も、その点には同意されるものと思います。

ですが、特に、「いじめられる人間にも問題がある」という場合、「問題」という言い方は、「いじめられるほうも悪い」というニュアンスを含みます。「いじめられる人間にも問題がある」=「いじめても構わない」というような考えがこれまではむしろ一般的で、それがいじめを正当化する論拠になっていたのです。

現実に、これまで教育現場においては「いじめられる側にも問題がある」というのが一般的な認識でした。「いじめは絶対に許されない」というのは表向きでしかなく、「いじめ問題」が発生した場合、教師は真っ先に、いじめた側ではなく、いじめられた側に「お前が人にいじめられないように振舞え」という「指導」することが少なくなかったのです。その理由は簡単で、いじめているがわが「いじめた」ことは証拠がありませんから指導することは難しいのですが、いじめられたがわがいじめられていたことは「本人の供述」から明らかなのですから。
その結果、いじめる側は自分たちを正当化でき、いじめられた側は教師に相談できないのはもちろん、親にも相談したら怒られるのではないか、と考えて、一人で抱え込むことになります。

実のところ、「いじめた側が悪いんだ」というのは、今回の事件からようやく出てきた論調であり、これまでは「いじめた側もまた被害者」という台詞が、お経のように唱えられていました。いじめの原因は「受験戦争のストレス」やら、「教育の画一化」などを「理由」に上げ、いじめる側を、マスコミはこぞって弁護していたのです。
表向きには許さないといっておきながら、実情として弁護されるという二面性ゆえ、結果としていじめは陰湿化の一途をたどり、教師がいじめをやめさせるどころか加担する、という構図が再び繰り返されました。マスコミも、ようやく「いじめは弁護すべきことではない」という、ごく当たり前の認識を持った、ということです。

「いじめられる人間にも問題がある」という言い方は、非常に誤解を生む言い方であり、現実にいじめの正当化に使われてきました。それを良く知っている人は、当然、全面的に否定するでしょう。
どのような理由も、いじめを正当化することはできません。そういう意味で、「いじめられる側の人間に問題はない」ということは正しいし、私もそう思います。

この回答への補足

>もしそれらが「問題」であるとしたら、そういう人たちは「いじめられてもある程度は仕方が無い」と、お考えでしょうか。

いじめという行為は、悪ですから、いじめられて仕方がないという考えは、全く成立しません。自分にされて嫌なことは、他人にはしてはならない、という道理があるわけで、道理に反するものは、悪です。

>ですが、特に、「いじめられる人間にも問題がある」という場合、「問題」という言い方は、「いじめられるほうも悪い」というニュアンスを含みます。「いじめられる人間にも問題がある」=「いじめても構わない」というような考えがこれまではむしろ一般的で、それがいじめを正当化する論拠になっていたのです。

なるほど、と思います。言葉遣いには注意しないといけないですね。

>「いじめ問題」が発生した場合、教師は真っ先に、いじめた側ではなく、いじめられた側に「お前が人にいじめられないように振舞え」という「指導」することが少なくなかったのです

大筋で考えますと、強者の論理があって、教師もこの強者の論理に従って、強い方、つまりいじめた側につきたい、という思いに支配されている事から、弱者である、いじめられた人間に指導するのではないか、と思います。

>当然、全面的に否定するでしょう。

「いじめられる人間にも問題がある」に誤解を生むならば、どういった表現ならばいいのでしょうか?

補足日時:2007/01/04 10:59
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

言葉遣いの注意点や、誤解される理由を解説頂き、感謝致します。

いじめの構図について考えてみました。

人間は多面的な要素を持っています。
【いじめる人間】
「いじめをしてしまう要素」を持っている
        ↓
 問題である(=悪いことである)
        ↓
 直す必要がある(大人が注意・指摘・教えをすることで善悪を学ぶ)

【いじめられる人間】
「いじめを受けてしまう要素」を持っている
        ↓
 弱点である(=問題である、好ましくない)
        ↓
 直した方が好ましい(内容によっては直さなくて良いのもある)
 (=自分の物事の捉え方を変えることで、自分を変える努力をする)

要素として、種類は違うものの、問題(弱点)を抱えているという認識が大事で、その問題(弱点)を踏まえた中で、それぞれが直していかないと、いじめの構図を破壊することは難しいと考えます。

両方の問題(弱点)点を敢えて挙げるのは、昨今の事情である、いじめの対象がクルクル頻繁に変わる、という「いじめの質の変化」という背景があるため、いじめる側だけに問題点を投げかけることだけでは解決にはならない、と分かるからです。

つまり、被害者も加害者であって、加害者も被害者である、という状況が今のいじめの実態です。そうなると、今の人というのは、心の中に、「いじめる要素」と「いじめられる要素」を共存させながら、生活している、と言えます。どっちが悪いとか、勝ち負けとかではなく、全体的に、心の質の低下が起き、心が腐敗している、というのが現実であろう、と見る方が、より真実であると考えます。

お礼日時:2007/01/04 11:31

僕は高校を通信制高校とそのサポート校で過ごしました!


中学時代に鬱病で受験出来なかったので。

それで僕の行ってたサポート校の半分ぐらいはイジメが原因で
普通の高校に進学出来ない人が通っていたのですが
3年間そこで過ごした経験からすると
「いじめられる側に原因があるケースが多い!」
って事です。中には原因もなく、見た目の問題でいじめられて可愛そうなケースの子もいます。しかし僕の感じでは半数以上は本人が悪い!
っと感じましたよ。
そりゃーイジメにもあうよなぁ^^;
って感じる事が多かったと言う経験則です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

貴重なご意見ありがとうございます。

お礼日時:2007/01/04 21:22

> 「いじめられる人間にも問題がある」に誤解を生むならば、どういった表現ならばいいのでしょうか?



そうですね、どう表現したらいいんでしょうね。あなたはどういう表現がいいと思われるでしょうか。

ただ、一応、私の考えを申します。あなたのおっしゃるところは、
○どんな理由があっても、いじめを正当化することはできない。
○だが、いじめられる側にも、いじめを受けるだけの問題がある。
という、2つのことを、同時に言い表すことができる表現、ということだと思います。
ですが、この2つを同時にあらわすことのできる表現というのは、ちょっと思いつきません。それは、私やあなたの表現力の問題、という解釈もできますが、それより、この2つは相互に矛盾しているからだ、と理解したほうが素直だと思います。

私は、いじめの問題と、後者の問題(「協調性が無い」とか「自分本位」)とは、分けて考える必要があると思います。
なぜかといえば、「協調性が無い」とか、「自分本位」といったことが本当に「問題」なのであれば、これはいじめの有無にかかわらず対処すべき問題です。(私は、こういったことを「矯正」しようという考え方には必ずしも与しませんが。)
つまり、いじめとはまったく別の問題なのに、これを「いじめ問題」に組み入れてしまっていることが、「いじめ」問題を複雑にしている元凶だとも思います。

そして、今一度申しますが、「それぞれが直していかないと」という考え方は、むしろこれまでずーっと、何十年も教育現場で行われてきたやり方です。その結果、いじめ問題は解決するどころかいっそう陰湿化し、複雑化し、収拾が付かなくなってきているのです。
あなたが問題にしている、「いじめた側が全面的に悪い」という考えは、このような「両成敗」的な考えに対する「反省」の上に立っているのです。

あと、私の経験から付け加えるのであれば、「いじめられる側」が「変わった」結果、いじめがなくなった、などという事例は、一種類の例外を除いてほとんどありません。その例外とは、いじめられる側がいじめる側に回った、というケースです。

実際のところ、いじめられる側が「直して」みたところで、本当にいじめ問題が解決するのか、そもそもそんなことができることなのか、それが、いじめる側を徹底的に指導する以上に効果的なことなのか、もう一度考えてみてください。

この回答への補足

>実際のところ、いじめられる側が「直して」みたところで、本当にいじめ問題が解決するのか、そもそもそんなことができることなのか、それが、いじめる側を徹底的に指導する以上に効果的なことなのか、もう一度考えてみてください。

ここの部分だけ、補足説明します。いじめの解決にあたっては、どちらか一方を解決すれば、双方共に解決し、いじめが減る、という考えにはありません。双方ともに、問題や弱点があって、両方共に解決を図ることで、いじめが減る、と考えています。いじめの対象がクルクル変わるのに、片方だけ対応するのはナンセンスな話だと思いますから。

補足日時:2007/01/04 21:17
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>あなたが問題にしている、「いじめた側が全面的に悪い」という考えは、このような「両成敗」的な考えに対する「反省」の上に立っているのです。

両成敗的な観点で、見ています。ただ、比重からすれば、確実にいじめる方が程度的に、圧倒的に悪いです。

我々人間は、妄想を描くものです。人というのは、そもそもキレイな存在ではありません。キタナイ心を持っている、不浄極まりない存在です。妄想的な見方で、人というものは、キレイだ、というように、美化したり、理想化しますが、これは、全くもってデタラメです。願望であり、妄想にしか過ぎないのです。

あいつ怒られたらいいのに、あいつ成績悪ければいいのに、あいつバカにされればいいのに、あいついじめられればいいのに、あいつ泣けばいいのに、あいつバナナの皮の上にのって転べばいいのに、というように、人は腹底の心でキタナイ考えを持っており、人として、キレイなどとは到底言えない存在なのです。

日本人は、特に、心の教育を疎かにして、表面上でなんとか解決しようと試みますが、それは、目をつぶって運転するぐらい危険なことです。人間の心とは、どういうもので、その心とどう接していったらよいか、を教育や家庭現場で、しっかり学ぶべき、と考えます。

お礼日時:2007/01/05 15:51

> 双方ともに、問題や弱点があって、両方共に解決を図ることで、いじめが減る、と考えています。



では、言い換えましょう。「両方共に解決を図ることで」いじめが解決した、という事例は、私の知る限りありません。
私の知る数少ないケースですが、いじめる側が100%悪い、ということを明確にしておいて、解決した事例は知っています。ですが、それ以外のほとんどのケースでは、「双方に問題がある」として、両者に指導をしていましたが、卒業まで解決しませんでした。

もう一度申しますが、これまでの教育現場は何十年もそういう考え方でやってきています。「いじめられる人間にも問題がある」というのは、多くの教師のいじめ問題に対する「見解」でした。
戦後の教育は、良くも悪くも「平等」を最優先にしてきました。いじめた側もいじめられた側も双方に問題があり、両方を指導すべし、というのは、その平等主義にかなった考え方で、まぎれもなく「これまでのやり方」です。その結果が「現状」です。

それを承知の上で、その考え方を信じるのは御自由です。私の言うことを信じないというのであれば、それも御自由です。ですが、その考えには、先ほど述べたように本質的な矛盾があると私は思います。

ひとつ申し上げるのでしたら、「いじめられる側の人間に問題はない」「いじめはどんな場合にも正当化されない」というのは、少なくとも矛盾の無い、明快な考え方です。それに対して、あなたの考えを同じようなワンセンテンスにまとめてみてください。まとまらないのでしたら、その理由はやはりその本質的な矛盾にあるのではないですか?まとめる過程で見えてくるものもあると思います。ぜひトライしてみてください。

この回答への補足

>「いじめられる側の人間に問題はない」「いじめはどんな場合にも正当化されない」というのは、少なくとも矛盾の無い、明快な考え方です。

「いじめられる側の人間にも問題があり、その問題は弱点と表現した方が適当である」
「いじめる側の人間に問題があり、それはいじめを心から悪と認識していないところにある」
「いじめられる側が弱点を修正し、いじめる側がいじめを悪と認識すれば、いじめ自体が減っていく」

双方の問題点を克服できれば、双方に問題が限りなくゼロに近づくので、争い事も減っていく、ということです。

例えは悪いのですが。、ひとつ例を挙げます。
闘牛士という方がいますが、彼は、赤いマントを持っています。実際には、赤いマントを持って煽ったりしてわざと牛の闘争心を引き出しています。もし、闘牛士が赤いマントを持たず、手ぶらで登場してきたら、牛は猛然と闘牛士を襲ったりするのでしょうか?

赤いマントがなくても、襲ってこないという確証はありませんが、持っているより、確率は低減されると思います。つまり、赤いマントとは、いじめられる側の弱点であり、牛が襲うとは、いじめる側がいじめをする、という例えです。いじめられる可能性はゼロにはならないものの、その可能性を少しでも低減するものとして、弱点克服が挙げられるのではないか、と、述べているのです。

短期的に、いじめを減らす、とか、現場での具体的ないじめを救うには?、という観点で、述べているのではなく、長期的に見て、我々大人世代は、この世の中をどう捉え、どう変えていかなければならないのか、という視点で、僭越ながら、述べているのです。

現場経験がない者が、短期的な施策を立てることは難しく、対症療法的な方法で、個別に対応していかなければならない、という意味では、今の現段階においては、いじめる子供に厳正的に接するのは、必然であると考えます。

補足日時:2007/01/05 15:05
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>まぎれもなく「これまでのやり方」です。その結果が「現状」です。

いじめは、社会の歪みの結果として、出てきた悪い副産物です。ですから、社会が歪んでいる、社会が腐敗している、大人が腐敗している、という反省するという大前提がなければ、これまでのやり方がいくら良くても、結果は絶対に出てこないでしょう。

当事者である子供が悪い、という一点だけ見つめて、いじめを解決しようと考えても、どだい無理な話です。我々は、日本という土壌の上で生活し、その中で、人間形成をしてきているはずです。そうなれば、今のいじめの原因は、大人の腐敗、ここに全てが集約されることになります。

歴史が正しい、偉人の言った言葉が正しい、慣習が正しい、常識は正しい、日本の民主主義は正しい、道徳は正しい、という視点で、疑いもなく、我々日本人は、戦後生きてきました。しかし、本当に正しいのでしょうか?間違った刷り込みを受け、間違った世の中を作り、その間違った歪んだ社会に適応しようと努力して、精神を病んだり、体を壊したり、自殺者が年間3万人以上になったりしているのではないでしょうか。

物事は、ミクロ的にのみ見るのではなく、大局的に、全体的に、マクロ的に見ないと、見誤る可能性があります。

なんでもありの風潮、おもしろければ許される、多様な考えを容認、欲望を満たすことに不信感を持たない、利益のためだったら法に触れてもいい、等々、疑う余地はいくらでもあるはずです。ぜひ、ここのところを日本国民である人は考えて欲しいです。

お礼日時:2007/01/05 15:38

>>いじめの解決にあたっては、どちらか一方を解決すれば、双方共に解決し、いじめが減る、という考えにはありません。

双方ともに、問題や弱点があって、両方共に解決を図ることで、いじめが減る、と考えています。

つまりは、万引きの多い書店で、「盗むやつも悪いが、書店も盗みやすい陳列方法と警備員が不足しているのが悪い。全品に盗難防止タグをつけるとか、監視カメラを増やし、屈強な警備員を置くように」ってことですね。

こういう考え方では、イジメは絶対無くならないでしょう。この世の中、五体満足な人ばかりではないですし、知能的な発達面でも問題がある人は多いです。障害とまではいえないけど成績不良とか気弱な人はそれこそ沢山いることでしょう。
つまり、「問題」を抱えた人は、人間が数十人あつまれば、その中に数人いると考えられます。「イジメられる側に問題があるのが悪い」と言っていたら、たとえうまく「イジメられる問題を克服した人」がいても、明日は、別の問題をかかえた人がターゲットになり永遠にイジメは無くならないでしょう。

「イジメる側が絶対的に悪い」という価値観で対決しないとダメだと思いますし、「出席停止」というイジメる側の経歴に傷がついて、将来の進学に困ることになるような報復を取るべきではないかと思っています。また、手をこまねいている学校や教師、教育委員会は大いにマスコミで実名報道されるべきだと思いますね。

この回答への補足

ある音楽家が述べてました。

「人間生きていて、罪がない人はいない」

この言葉の通り、我々人間は存在しているだけで、少なからず周囲の人間、あるいは地球環境に対して良い影響や悪い影響を与えながら、生活を営んでいます。存在していなければ、他に影響を与えることはなく、罪を犯すことは有り得ないので、周囲から責めを問われる言われはありません。しかし、地球上に生を受け、人間として生きていくという覚悟を持ったならば、他に何らかの影響を与えているわけで、この罪を真摯に受け止め、自分に降り懸かる災難や問題は、自分にも責任の一端はある、との捉え方は、人間として潔い捉え方であり、人を恨むことなく、感謝できる人生になるとの考えにあることから、いじめられる側にも少なからず、責任がある、と述べているのです。

決して、いじめられる側だけに責任を感じなさい、というデタラメな考えを持っているわけではありません。

なぜ、両方に問題(弱点)があると言いたいかというと、それは、いじめられる側の人間が、大人になった時、「恨み」や「復讐」を心に持ち続け、持ち続けることによる弊害で、人生自体を苦しんで欲しくないからです。恨んだり、復讐心を抱きながらの人生は、端的に言えば、幸せではありません。心の状態から言っても、健全ではありません。はっきり言えば、間違った心の持ち方(捉え方)であり、今後生きていく上で、マイナスにこそなれ、プラスには絶対にならないのです。

人のせいにして、恨みや復讐心を持つ、これは間違いです。恨んでも、復讐心を持っても、己が消耗するだけで、相手はピンピンしているものです。正直、得はしません。自分にも至らない点が、わずかでもあったと捉え、自分にも責任があると認め、受け容れるならば、相手のせいにしていること自体、馬鹿馬鹿しいことになっていきます。相手のせいにしても、相手の行動は、その人本人が心から自分の行動の悪さに気づかない限り、修正されることはありません。自分の思い通りに、他人は行動することはない、ということです。

今、世の中の日本人全体が、自分の責任として心から引き受ける、という勇気や度胸がなくなっていることに、いじめ頻発の原因があると考えています。自分の責任として引き受ける、ということは、恥ずかしいことでも、悪いことを認めたという情けないことでもありません。潔い行為であり、尊敬、尊重されるものであり、胸を張っていい行為なのです。ただ、こういった行為が敬遠されてしまう理由は、今の社会風潮が歪んでいるだけなのです。

日本人全体が心の腐敗を起こしている現状、どちらが良い、とか、悪い、とか、という小さいことにこだわるのではなく、全員で猛省するべき、なのです。みんなで反省し、心を改めれば、いじめが悪い行為である、ということが、徐々に理解できるようになると、考えています。

補足日時:2007/01/05 14:40
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>万引きの多い書店で、「盗むやつも悪いが、書店も盗みやすい陳列方法と警備員が不足しているのが悪い。全品に盗難防止タグをつけるとか、監視カメラを増やし、屈強な警備員を置くように」ってことですね。

店を開くということは、様々な人間が出入りすることを承知している、ということです。ですから、盗みや万引きが起きてしまう事も承知しているわけで、たまたまそういう行為が起きたなら、リスク部分が予想通り出てきた、というだけの話です。リスクは店主の責任であり、そのリスクを押しても店を出したのは、店主の責任としか言いようがありません。リスクを他の人間に責任転嫁するような店主であれば、それは単に無責任極まりない人間である、としか言いようがないのではないでしょうか。店を構えれば、万引きに遭えば、放火にも遭うわけで、存在することの責任を自覚することが、人としての一歩であると考えます。

誰でも、いじめたい、という欲望を持っています。それは、相手をいじめることで、相手を引き下げ、自分が優位に立ちたい、優越感を味わいたい、優越欲を満たしたい、という本能があるからです。企業の競争社会を見れば、優越欲を満たしたい、を目標に競争しているようなもので、これは、他の企業をいじめる、という行為なのです。しかし、大抵の人は、子供社会のいじめには注目するものの、企業間のいじめは容認しています。このこと自体が問題であり、社会全体が腐敗している理由でもあるのです。

悲劇のヒロイン、被害者意識を持ち続けることは、非常に怖いことであり、その蟻地獄から脱却しないと、人生は苦しいものなります。

「私は、正しい、相手が悪い、周囲が悪い、親が悪い、社会が悪い」

という妄想的考えが、今の腐敗した世の中には蔓延してしますが、この呪縛にはまると、人の意見が聞けなくなり、悪い意味での暴走が始まります。

「私は、正しいとは限らない。人のせいにしてはいけない。」

という考えにあれば、人の意見も聞け、物事を客観的に洞察することもできるようになると考えます。

お礼日時:2007/01/05 14:59

とりあえず回答への反論です。



>>リスクを他の人間に責任転嫁するような店主であれば、それは単に無責任極まりない人間である、としか言いようがないのではないでしょうか。店を構えれば、万引きに遭えば、放火にも遭うわけで、存在することの責任を自覚することが、人としての一歩であると考えます。

たぶん、質問者さんは、渋谷のバラバラ殺人についても、殺された短大生の仏前?で「兄を侮辱するような一言を言わないことが人としての一歩である」と言うのでしょうね。

>>誰でも、いじめたい、という欲望を持っています。それは、相手をいじめることで、相手を引き下げ、自分が優位に立ちたい、優越感を味わいたい、優越欲を満たしたい、という本能があるからです。

それは本能と違うんじゃないですか?ちゃんとした競争の結果、勝利して優越感を味わうっていうのはあると思いますが、イジメで優位に立つというのは、すごく気分の悪い目覚めの悪いことだと思いますけど・・。(私は小学生のころ、今のいじめと比べて、とてもいじめといえない、軽いいじめを集団でやったことありますけど、心の傷になってます)

>>しかし、大抵の人は、子供社会のいじめには注目するものの、企業間のいじめは容認しています。このこと自体が問題であり、社会全体が腐敗している理由でもあるのです。

たしかに、ここでの質問を見ていても、企業内のいじめは多いような感があります。たぶん、ニュースバリューとして子供たちのいじめがマスコミ的には上なんでしょう。

>>「私は、正しいとは限らない。人のせいにしてはいけない。」
という考えにあれば、人の意見も聞け、物事を客観的に洞察することもできるようになると考えます。

それはそのとおりです。そして、客観的に見て、いじめの後遺症で苦しむ人に対して、原因を作ったのは明らかにいじめた人であり、被害者である、いじめられた人のせいではないと洞察する必要があると思います。


ところで、こうした意見のすれ違いは、別次元のことをごっちゃにして述べているからではないでしょうか?例えば万引き犯を例にすれば、

法律としての「窃盗は悪い」という原則論と、犯人の「情状酌量的な弁論」と、「書店店主の心得」を混ぜて議論しているように思えてきます。

たぶん、現在問題にすべきは、あまり語られない「防止方法、いじめた側の処罰内容」ではないかと思います。つまり釈尊の説法にある「毒矢のたとえ」ですね。毒矢で射られた負傷者を前にして「毒の種類は?どこから射られた?犯人は誰か?」などを議論しても負傷者を救うことはできません。そんなことよりも苦しんでいる負傷者の治療が先です。

いじめでいえば、「即日、いじめをやめさせ、被害者を苦しみから救う方法」を実施することです。つまり、いじめの首謀者数人をすみやかに出席停止にし、内申書にそのことを記録することのルール化です。つまり罰則規定の強化・明確化ですね。(実際には証拠固めが難しい面があるのですが、ドラマのCSI:マイアミなみは無理にしても、ちゃんと調査すれば証拠は出てくるでしょう)

私も含めて、あと数十年すれば、この世を全員が去り、今の子供たちが日本を背負っていきます。その子供たちが、いじめを正当化する、あるいは見て見ぬふりをする、いじめられるほうも悪いという考え方で学生時代を過ごして、社会の第一線で活躍するようになったとき、どんな社会になってしまうのか?なんだかとても暗い気持ちになってしまいます。

この回答への補足

ANo.8の補足に述べた、闘牛士の例えを読まれて、どう感じますか?


>渋谷のバラバラ殺人

この場合、殺した方が悪いのは言うまでもありません。ただ、人として生きている以上、天災や災難や殺人等で、いつ死ぬか分からない、というリスクは意識しないといけません。絶対安全な孤島であるなら別ですが。(感情論では述べていません)

>それは本能と違うんじゃないですか?

回答者さんは、集団で行い、自分がリーダーになってしたわけではないと思います。だから、自責の念を感じたのでしょう。
本能、と分かりやすく表現しましたが、正確に言えば、煩悩です。そして、その煩悩の中には、名誉欲というのがあり、名誉欲と優越欲とは、ほぼ同等の意味になります。煩悩をそのまま行動に移してしまうことは、大筋悪い行動になってしまいます。名誉欲を満たしたいために、様々な悪事を働く場合もあります。

ちょっと勉強ができてスポーツマンの男の子をいじめたくなってしまうのは、そのままだと彼の方が位置的に高いと感じてしまうわけで、いじめることで、彼の位置を少しでも下げ、優位を感じたい、ことから、いじめたりするのです。あいつ羨ましいなあ、妬んでしまうなあ、という嫉妬心からいじめる場合もありますが、この嫉妬心も煩悩の一つです。

補足日時:2007/01/05 23:11
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>いじめの後遺症

これは非常に難しい問題です。心の傷は容易に癒されないのではないかと思います。この心の傷は、忘れるようにしたら忘れられるのか、時間が解決してくれるのか?と、問われれば、ノーであると思います。人間は、一度起きた事象を一生記憶に残してしまうものであり、消えることはありません。トラウマとか、フラッシュバックとかで、思い出してしまうものです。

では、どうすればいいのか?ケースバイケースなので、個別に対応するかは言い切れませんが、「そのいじめの事象と正面から向き合い、相手のせいである、という捉え方を改める」、これしか方法はない、と考えます。恨めば恨むほど、傷の強化を増すだけであり、弱体化させることにはなりません。自分のせいもある、自分の責任として引き受ける、認める、ことで、相手への恨み、つらみが軽減したところで、心の傷は、少しずつですが、癒されていくと考えます。(私もその考えで、恨み体質から脱却しました)分かりやすく言えば、発想の転換、逆説的なアプローチ、ということです。

心というものは、不思議なもので、道理に反する思いを持つと、混乱をきたし、痛みになるものです。つまり、心とは道理に反する思いを嫌うということです。逆に言えば、心とは道理に沿った思いを好む、ということです。

道理に沿う考え:自分のせいにする
道理に反する考え:人のせいにする

自分のせいにする、責任として引き受ける、というのは、必要以上に自分を責め立てたり、自分を追い込んだり、自分をけなしたり、することではありません。自分の責任として、事実を事実として受け止めるだけです。(ただし、いじめに関しては、いじめる人間が卑怯極まりないので、まずは、いじめる人間がいじめは悪い行為であるとの認識を持てるように、大人達が、世の中を変えないといけません)

道理とは、自業自得、で言うように、自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならない、ということです。これは、言い換えると、自因自果、とも言えます。自分が行った行為は必ず自分に結果として返ってくる、ということです。つまり、原因は必ず自分の中にある、ということです。

他因自果、とは、他人が行った行為が自分に結果として返ってくる、ということですが、これは道理に反していて、絶対に有り得ない、ということです。

お礼日時:2007/01/05 23:17
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