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京都の応仁の乱ってどんな内戦だったんですか?

分かりやすくストーリーを教えてください。

A 回答 (2件)

要するに、将軍家の跡継ぎ争いです。



次期将軍として定められていた義視と、
それに反対する富子のケンカが発端です。

このケンカに、細川勝元が義視を、
山名持豊が富子を応援すべく参加します。

こうして応仁の乱が始まりました。

戦争は11年も続き、その間に山名持豊と細川勝元が
相次いで死亡し、応仁の乱は決着をみないまま
終了しました。

この乱をきっかけに、将軍の権威が弱くなり
群雄割拠の時代に入ります。



○詳細は以下参照。コピペ

応仁の乱のきっかけは、将軍家の跡継ぎをめぐる争いでした。
室町幕府8代将軍の足利義政は、子どもに恵まれず、将軍の跡継ぎを弟の足利義視(よしみ)と決めていました。
しかし弟を跡継ぎと定めた翌年、義政と妻の日野富子との間に、足利義尚(よしひさ)が生まれます。
義政から次期将軍として定められた義視と、息子を跡継ぎにしたい義政の妻 富子。両者は将軍家の跡継ぎの座をめぐり、激しく対立していきます。

一方 この頃、幕府の実権を握ろうと、有力守護大名の細川勝元と山名持豊が争っていました。細川方は義視を、山名方は富子・義尚を支援します。

さらに畠山氏などの跡継ぎをめぐる対立も結びつき、細川方と山名方の2つの勢力が東西に分かれて、京都の街中に陣取りました。

そして1467年、応仁の乱が始まりました。

近畿周辺の守護大名たちが、それぞれの側に加勢していき、京の都は20万以上の武士がひしめいたと言われています。
大名たちは、陣地から敵を追い出そうと、さかんに火を放ちます。
さらに、軽装で機動力に富んだ傭兵 “足軽” が それぞれの陣営に加わり略奪や放火を繰り返し、寺や神社などにも被害が広がっていきます。


さらに大名たちは、地方における敵の領国に対しても、攻撃を行っていきます。
長く続く戦乱の中、それぞれの陣営の大将、山名持豊と細川勝元が相次いで死亡します。そして1477年、ついに勝敗がつかないまま応仁の乱は終わりました。

11年も続いた戦いで京の都は焼けて荒れ果て、この乱を平定できなかった将軍や幕府の権威は失墜してしまいます。応仁の乱を境に、時代は、乱世・戦国時代へと入っていきます


応仁の乱は、争いが延々と続いたにもかかわらず決着もつかなかった、むなしい戦いと言えるかもしれません。
このことから、「人よむなしい(1467)、応仁の乱」という語呂合わせで1467年という年号を覚えることができます。

以前学んだように、京都の室町幕府は有力な守護大名の連立政権のような形で成り立っていました。しかし応仁の乱によって、将軍の権威が失墜してしまいます。
すると守護大名たちは それぞれ、自分の身は自分の力で守らなければならないという状況になりました。

こうして世の中は、多くの実力者が各地で勢力をふるって対立している状態、つまり群雄割拠となっていきます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/01/04 22:36

最近、無知を恥もせず調べる努力もせずに他人様に丸投げした上に、「わかりやすく」とか詳「しく」とかまで要求した上に、そこまでしてくれて当然という態度をとる思いあがったユーザーが増えている事にうんざりしてる私は、傲慢なのでしょうか。


(バカほど わかりやすく すると誤解しますし)



>分かりやすくストーリーを教えてください。

質問者様は↑の自力で調べて理解する努力もしないようなバカではないと思っていますが、
それに、あなたの知識や理解力のレベルが不明なのでどこまで「分りやすく」すればよいのかわかりません。


以上から、当然↓程度の事は調べていると思うので、わからない部分を文章で明確に表現していただけると助かります。
(私も、あなたが知っている事まで語るような無駄な事はしたくありませんし、聞いていないことを答えなかったと文句を言われたくもありません)

【応仁の乱】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81 …


【応仁の乱とは】
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%8 …


わかりやすくする という事の難しさをわかっていない者ほど、安易に求めます。
そして、バカ程、わかりやすく すると誤解します。
「京都の応仁の乱ってどんな内戦だったんです」の回答画像1
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