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「殺人は悪」という倫理は、本能的に持っているのでしょうか。それとも、この社会で生きていく中で形成されていくのでしょうか。

A 回答 (4件)

両方が関与しています。



こういう時は人間以外の生き物を見るとわかりやすいのですが、同種間の争いはほとんどの場合で致死的な攻撃を行わない形に進化しています。
例えばつがい相手の取り合い、縄張り争い、食物をめぐる争いなどで闘争がおこりますが、派手な見た目やダンスやさえずりを使ったディスプレイや、威嚇などでほとんど決着がつきます。
哺乳類だけでなく、鳥類や昆虫も同様です。
これを儀式化といいます。

しかし、お互いが同レベルで決着がつかない場合はエスカレーションといって、ディスプレイのレベルが上がっていき、最終的には相手を死に至らしめることもあります。

イヌの行動をみていても、
唸る→吠える→かみつく
とだんだん直接攻撃に代わっていく様子がわかります。

このように先天的に同種に対しては致死的な行動をとりにくいという性質があります。
なぜこのような行動が進化したのかというのは、タカ・ハトゲームというものでよく説明されるので調べてみてください。

しかし、学習による面が大きいことも確かです。

カモメは親のくちばしを見て自分に近親なものとの交配を避けますが、親を入れ替えてしまうとその判断を間違えます。
遺伝だけでは複雑な行動決定はできないため、多かれ少なかれ学習の効果が現れるようになっています。
特に群れを作る生き物は同種でも攻撃対象か否かが分かれます。遺伝だけでこれを判断するのは困難です。
人間はかなり複雑な群れをつくる生き物です。
国、会社、家族などと階層化された群れを形成、維持するには学習の比率をかなり高くしなければいけないと考えられます。

ということで、遺伝による下地の上に学習によって対象や、その段階が変化するのだと思います。
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答えにならないかも知れませんが、それは両者が関わり、さらに場合ごとに変わります。

自分が殺されそうなときは禁忌を破ることが許されます、それが正当防衛、殺しちゃうと過剰防衛。
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ヒトとしての人類が増えていく過程で備わった本能だと、思われます。



しかし、人類が増え過ぎた現在、かなり怪しくなってきましたね。
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「悪」という概念自体、社会性(血縁も含む)の中で生じるものだ(個体的には「快ー不快」)。


人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に寄与するか否かだけだ。
「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために、後天的に派生した必要悪に過ぎない。

深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。
その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。
そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。

その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。
それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。
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