[PR]ネットとスマホ まとめておトク!

形而上

形而下

の意味を具体例で教えて下さい。

A 回答 (4件)

形而上:心、霊、法則、理論、芸術、宗教、神


形而下:肉体、物質、現象、行動、科学、人間
    • good
    • 4

測定可能なのが形而下、原理的に測定できないのが形而上。

    • good
    • 0

形而下:この世に存在する具体物をもとに考える


形而上:そうでない抽象論

ちなみにIMEでは「けいしじょう」と打つと「啓思上」「軽視上」・・・こんなのしか出てきません。
    • good
    • 2

新井白石が、イタリア人神父のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ


と問答した時の記録が残っています。

そこで新井白石は次のように語っています。


西洋人というのは、天文、地理、科学などの
形而下の学問は大したモノだが、
形而上の学問は子供みたいだ。

アダムとイブだあ?

そんなお解き話を信じているのか。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q形而上・形而下

形而上・形而下の区別がどうもすっきりしません、辞書で形而上を調べると、
(1)形のないもの。(2)感覚の働きによってその存在を知ることのできないもの。(3)超自然的であるもの。(4)精神的なもの。との解説がありますが、辞書の表現は理解し難くて閉口しています。どなたか、判り易く具体例など上げて教えていただけませんか?
●商品は形而下で、価値は形而上である。
●貨幣は形而下から形而上に変化した。
上記の2つの文は、間違っていないでしょうか?
質問者は真面目に質問していますが、緊急ではありませんので、あそび心のある回答も歓迎します。

Aベストアンサー

 
質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。

さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。

「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語されたものです。

「形而上学」とは何かというと、これ自体、よく分からなくなります。しかし、metaphysica という言葉の意味は、元々「自然学の後」という意味です。内容を取って、これを「超越自然学」のような意味で捉えました。

簡単に言いますと、アルストテレースに、この元の言葉の起源はあります。彼は、観察や実験を通じて、実証的、合理的な、「自然」の研究を行いました。それは、現代の自然科学の祖先とも言えるもので、「合理性」「実証性」というものが強調されていました。

「自然」というと意味が広いのですか、一応、「この世界」のことだと考えるのがよいです。この世界とそこに含まれると考えられる色々なものが「自然」であるのです。

飛躍した言い方になりますが、この意味での「自然」が、大体「形而下的世界」と似たような意味です。この世の事物やできごとは目に見えますし、感覚で知ることができますし、形がありますし、「超自然的」ではなく、自然的で、西欧の思想で特に意味を込める「精神」はこの世界に属さないとも言えます……精神は、目に見えたり、感覚で知られたり、形があるでしょうか?

「形而下」というのは、日常的な自然ということだと考えていいのです。

「形而上」というのは、それに対し、「超自然」とも言えます。「形而上学」は「超自然学」でもあったのです。

アリストテレースの構想では、自然についての学問は、感覚などで得られる事実などをまとめ、これを理性で、合理的に整理し、その秩序などを研究するものでした。

しかし、このような自然学では、捉えられないもの、扱えないもの、事象がありました。「形而上学」では、「存在する」ということはどういうことなのか、世界の存在の根拠や理由、目に見える自然現象の背後の「神的な秩序」などの探求が課題とされていました。

アリストテレースはまた、自然学以外に、「倫理学」つまり、善や価値や、人間の行為規範や正義や理想などについての学問を考えていました。神や宇宙を造ったものなどの考察は、形而上学の範囲ですが、善や真などとも関係して、「イデアー」や普遍論理の問題も自然学とは別だと考えられました。

イデアーというのは、高度に抽象化された「形」や「性質」の本質のことになりますが、これは、神のようなものだとも考えられました。

アリストテレースの色々な考えは、西欧中世の神学や哲学に取り入れられます。そこでは、神や神に関係した普遍的永遠的な、イデアー的な世界や事象を、神学として研究し、このような研究の対象を、「形而上学的存在」ともしました。

そこでは、目に見えない世界、つまり、神の世界や天国などが、形而上のものとされ、また、神が授けた人間の霊魂、つまり「精神」も、その本質は形而上的なものとされました。神は善であり真であり美であり存在であるので、「善そのもの」「真そのもの」「美そのもの」「存在そのもの」は形而上的であり、精神の機能である「知性」や、「概念」も、普遍概念として、イデアーと共に考えられ、これらも形而上とされました。

この中世西欧の「形而上学」の形というか、定義が大きく後世に影響します。

「愛」は例えば、形而下的なものです。しかし、神への愛や、精神的な高貴な愛は、例えばプラトニック・ラヴとして、形而上的と考えられました。

物質や肉体や、地上の目に見える事物に関係したことや、それらは、形而下的なこと・ものです。人間の心や意識や思考なども、感覚などと同様、形而下的で、概念や価値も形而下です。

しかし、人間の精神は形而上的であり、イデアーである、真、善、美、存在なども、そのもの自体は形而上的です。善に関係する道徳や倫理、社会規範、正義なども形而上的な位相があるとされ、美を分有すると考えられる芸術作品には、また、形而上的な何かがあるとされます。

神あるいは存在の根源者を囲んで、目に見えない、彼方の世界(霊的世界・普遍的イデアー的世界)に、「形而上的世界」というものがあると考えられると、分かり易くなります。

地上の自然の事物や出来事や、人間の世俗社会などは、形而下的世界だと考えられ、そこに属するものは、形而下的です。しかし、彼方の形而上的世界から、「普遍の光」のようなものが、地上に射して来るのであり、形而下の事物のなかにも、形而上的要素があるということも明らかになることもあります。

この地上、自然世界、人間の社会、人などは、形而下にあるのですが、自然は、存在や美や目的を通じ、人間の社会は、善や倫理や真理や芸術を通じ、形而上世界と交流しているとも言えるのです。また人も、精神としてイデアーとして、知性として、形而上的な要素を持ちます。

形而上とか形而下というのは、思想家で使う人によって、意味範囲が違いますし、場合場合でも、何を指すか、曖昧なものがあります。

>●商品は形而下で、価値は形而上である。

貨幣経済において、商品は無論、形而下ですし、商品価値のようなものは、形而下です。

>●貨幣は形而下から形而上に変化した。

貨幣は、人間の社会や精神と関係する何かですが、普通、貨幣を形而上とは言いません。形而下のことです。

肉的な愛を、形而下的愛とし、プラトニック・ラヴ(精神愛)を形而上とする考え方はありますが、そうではないという考えもあります。完全な形而上的愛は、人の魂が、この世を離れて後に実現するというような考え方もできるのです。

概念については、概念を普通、形而上などとは言いません。言葉や概念は、この地上にある精神機能に付帯するもので、形而上的精神との関係が密接ですが、あくまで地上のものです。

しかし、天使の言語とか、概念の根源にあると考えられる「普遍的概念」のような、非この世的なものは、形而上的と考えられます。

正義や善や倫理や美も、その普遍的・イデアー的側面が、形而上的なのであって、それら自体は、形而下です。

アメリカ人が、聖書に手を置いて、裁判所で宣誓するのは、少なくとも、その身も言葉も証言も、この世のもので、形而下であるが、神への祈りを精神を通じて行い誓うことで、世俗の、地上の、形而下的世界の思惑や利害を離れ、純粋に、「真理」を善の意志に基づいて行うことを誓うので、神という形而上的存在と人間の精神の祈りのあいだで、証言に「普遍性」、ある意味の「形而上性」を与えるためにするのです。

しかし、これによって、証言が、形而上のものとなる訳ではありません。「真理」や「正義」は、真に神のみ知りたまうのです。形而上の真理や正義との「結びつき」を試みようとするのが、この宣誓です。

「形而上」というのは、日常生活で出会う出来事や事物や経験や、思考や構想に、簡単に名付けられるものではありませんし、そういう使い方をすると、何を言っているのか分からなくなります。

日常生活で出てくるものや扱うもの・こと、科学・自然科学で扱うもの・ことは、すべて形而下だと考えるのが、無難です。概念も、言語学の対象でしか過ぎません。ただ、「言語の本質」という問題になって来ると、「言語哲学」が成り立つように、形而上的問題が関係して来ます。

「形而上と形而下」について、以上、かなり丁寧に説明しましたが、「抽象性の高い言葉」は、色々な情報や知識や、その言葉が使われる場面、その言葉の由来や背景の事情などが分かって来ないと、普通、分かりません。

早急に答えを求めるのでなく、時間をかけて、学ばねばならないことです。

「形而上」というような言葉は、西欧哲学の伝統的用語ですから、そんな日常で使う言葉ではないのです。

また、19世紀から現代に至るまで、「形而上学批判」を多くの哲学者が行い行っていますが、そもそも、これらの批判する「形而上学」は、批判する者で色々な意味に捉えられており、色々な人が論じているので、分かり易いことだろうということは、まるでないのです。

むしろ、何か分からない問題が多々あるので、形而上学について、色々な見解があるのです。
 

 
質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。

さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。

「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語され...続きを読む

Q形而上学・形而下学の語源

この前、辞書を読んでいた時に形而上学という言葉を見つけました。すごく不思議な言葉なんですが、「形而上学」という言葉はどうやってできたんでしょう?

過去の質問に、明治になって西欧から文化が取り入れられた際に「metaphysica(metaphysika, metaphysique)」の訳語として造成された、という説明がありましたが、西暦何年に何をやっている誰々さんが作った、というような具体的なデータはないのでしょうか?
あと、「形而上」って何でしょう?訳語を新たに作るとなると、その訳に根拠……日本語の場合は漢字を使って意訳するか仮名を使って音訳するか……があると思うのですが、私は形而というものを見た事がありません。

ご存知でしたら教えて下さい!

Aベストアンサー

 
>「形而上学」には2つの意味があったんですね。

違います。ta meta ta physika の意味が分かっていないので、錯覚が起こっているのです。(つまり、ta meta ta physika というのは、アリストテレスの本の名でもあるのですが、これで、「学」としての形而上学の意味にもなるのです)。

以下のページに、「ta meta ta physica」と「形而上学」の意味的関係が説明されています。それによれば、physika(ピュシカ)というのは、自然学というより、むしろ、「形而下学」と、アリストテレスの哲学システムのなかでは、呼ぶに相応しいようです。

「タ・メタ・タ・ピュシカ」とは、「ピュシカの後の本・学」という意味で、「ピュシカの後」という意味ではなく、この場合、「形而下学」の後・次に来るのが、「形而上学」であるというのは、自然であるとなっています。

つまり、形而上のことを扱うので、「形而上学」ですが、他方、ロードスのアンドロニコスの配列によって、「ピュシカ=自然学諸本」の後に置かれたので、「形而下学の後の学」とは、認識や智慧の階梯順序からして、それは「形而上学」のことで、ta meta ta physica を訳すと、「形而上学」となるのだとされます。

>http://www.max.hi-ho.ne.jp/aisis/memo-random-1/r-metaphysica-1.html

--------------------------

なお、「易経」というのは、儒教において尊重される四書五経の一つで、簡単に言えば、「占いの本」ですが、これは「世界の構造についての概論書」だとも言えます。「易経的世界把握」とでも呼べばよいのか、陰陽の二元構造の反復で、世界は成立しており、世界の運動や現象も、この陰陽二元構造に基づくパターンで成立しているという考えです。

「陰」でも「陽」でもない根元を、「太極」と言います。これが陰陽の二元に分離し、「陰」と「陽」の両儀となります。陰と陽の組み合わせが更にあり、「陽陽」「陽陰」「陰陽」「陰陰」の四つのパターンができ、これを四象と言います。これが更に分化して、「陽陽陽」「陽陽陰」「陽陰陽」「陽陰陰」「陰陽陽」「陰陽陰」「陰陰陽」「陰陰陰」と八個のパターンになると、これを、「八卦」と言います。

八卦を上と下で組み合わせると、六十四のパターンになり、六十四卦で、この六十四が、世界のありようや展開運動の基本パターンとされます。

戦争などで、現在の状況や、未来の展望を知りたい場合、偶然で、陰か陽が出るようにして、このプロセスを六回行うと、六十四卦のどれかが出てきます。出てきた卦が、現在の状況を示していて、これがどういう意味かを読みとるのには、易経の「解釈文」を使います。

世界のありようを、六十四のパターンに分けて、把握するのだと言えますが、これは未来の展開を知ることができるので、「占い」に使えるのです。

「陽」が六回出てきた場合、「乾(けん)」と言い、「陰」が六回出てきた場合は、「坤(こん)」と言います。「乾坤」で、天地とか、宇宙の意味になります。「乾」は天を表し、「坤」は地を表すからです。

>http://www.layer.ne.jp/~ushio-ekidan/gogyo/ss1.html
 

 
>「形而上学」には2つの意味があったんですね。

違います。ta meta ta physika の意味が分かっていないので、錯覚が起こっているのです。(つまり、ta meta ta physika というのは、アリストテレスの本の名でもあるのですが、これで、「学」としての形而上学の意味にもなるのです)。

以下のページに、「ta meta ta physica」と「形而上学」の意味的関係が説明されています。それによれば、physika(ピュシカ)というのは、自然学というより、むしろ、「形而下学」と、アリストテレスの哲学システムの...続きを読む

Q「形而上」とか「形而下」って何ですか??

「形而上」とか「形而下」って何ですか??

良く使われる言葉だと思うのですが、この言葉の表すところを調べても、さらにチンプンカンプンです。

分かりやすく説明していただける方いませんでしょうか・・・。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

古い時代に使われた学問の分類で、
形而上学(形のないものを扱う学問)は、哲学・神学・倫理学など
形而下学(形のあるものを扱う学問)は、物理学・化学・天文学・地理学など
です。
今は、このような分類は一般的ではありません。

Q形而上学、という言葉の意味について

形而上学という言葉は、どのような意味を指すのでしょうか。
人間の思考というのは、おそらく意識によって行われると思うので、学問のみならず、あらゆる思考は観念的行為だと思います。その意味からすれば、思考というのは、いつも必ず「形而上」つまり物質や形あるもののメタに立つわけだから、あらゆる思考は形而上学であるとは言えないのでしょうか。

たんに、物質や社会など形而下のことを考える学と対峙して、形而上、つまり精神や魂や神を考える学を、形而上学と呼んでみただけのことなのでしょうか。

どなたかお答え頂ければ幸いです。

Aベストアンサー

こんにちは。

>人間の思考というのは、おそらく意識によって行われると思うので、
>学問のみならず、あらゆる思考は観念的行為だと思います。

>あらゆる思考は形而上学であるとは言えないのでしょうか。

teppyonさんの指摘は「思考する主体」から見ればおっしゃる通りだと思います。
が、形而上学が問題にしているのは「思考する対象」だと思います。
つまり、形而上学とは、経験的には規定されず(たとえば化学実験などの
客観的再現性)思惟によって「のみ」捉えることの可能な、生成変化しない
ものについての学、ということだと思います。

形而上学についてはアリストテレスがかなりしっかりとした枠組みを
提示しています。

詳しくは以下のサイトがわかりやすいです。

「科学と形而上学」

参考にどうぞ。



参考URL:http://iii.cc.kochi-u.ac.jp/~kisoron/kisoron_011.htm

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
...続きを読む

Q形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能ですか?

形而上学というものがありますが、形而上学者も形而下の世界に住んでいます。
わたしたちが形而下の世界に住んでいる以上、形而下の世界の経験を通じてしか形而上の世界のことを知ることはできません。

しかし、形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能なのでしょうか?
結局、形而下の世界のものごとは形而下の世界のものごとに過ぎない訳で
形而上の世界のものごととは、まったく性質の異なるものかもしれない、ということもあるんじゃないでしょうか?

形而上学に興味を抱いてみたものの、実証主義者が言うように、
形而上学はまったくのたわごとにすぎないんじゃないか?という疑問でかなり悩んでいます。

観測できる世界とは形而上学とは理論によって結ばれており、
理論の先にはもう何も存在していないと宣言できるような理論をつくることはできない、という指摘もありますが、
そもそも形而上の世界は形而下の世界の理論では理解できないのではないか?と悩んでいます。
そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?

わかりにくい駄文ですみません。どなたか、詳細かつわかりやすい回答をお願いします。

形而上学というものがありますが、形而上学者も形而下の世界に住んでいます。
わたしたちが形而下の世界に住んでいる以上、形而下の世界の経験を通じてしか形而上の世界のことを知ることはできません。

しかし、形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能なのでしょうか?
結局、形而下の世界のものごとは形而下の世界のものごとに過ぎない訳で
形而上の世界のものごととは、まったく性質の異なるものかもしれない、ということもあるんじゃないでしょうか?

形而上学に興味を抱いて...続きを読む

Aベストアンサー

経験を通して、、

例えば麻薬をすれば、脳内物質が変化して、快楽を感じたりしますよね。

古代の宗教関係を見ると、麻薬を使っていたと思えます。
快楽物質を人工的に起こすわけで、トリップして、通常感じないことを感じれて、ハイになったりする。

その人工的に脳の構造を変化させたときに見た幻影を、天国とかすばらしい精神世界とか捉えて、そこに行き着こうとしたのだと思えます。

麻薬をやればトリップでき、脳の思考回路を通常とは違うようにできる。

麻薬を摂取しなくても、側頭葉てんかんを起こす人の中には、別ワールドを知覚したと認識する人もいる。
一箇所に過剰な電流が放出され、別ワールドにトリップして快楽の頂点に達し、天国に行った気分になるのだそうです。

そういう体験をした人は、その幻を、現実体験した認識する。

「所詮 君らのような凡人にはわからんだろう」となる。

ええ、麻薬もやったことないし、てんかん発作も起こらないので、幻を見れませんから・・・。


我々は地上にいるとき、象3頭分くらいの重力を脳は受けているらしい。
その状態で認識したり思考している。

宇宙は無重力。
宇宙から帰った人は「私は神と出会った」とか言う。
民間宇宙飛行士として搭乗人も、「君らにはわからんだろう」みたいなことを言ってた。
彼は高尚な経験をしたと言っていた。

てんかん発作を起こした人も、似たようなことを言っている。
説明を求めるとごまかす。
説明できない。が体験したと主張する。
何をと聞いても説明しない。
「言っても所詮君らにはわからんだろう」とごまかす。

民間宇宙飛行士が体験したこと。高尚な世界? 神と出会った? 
無重力の中に長期にさらされたため、脳の思考が通常と違う回路になり、それで幻覚を現実体験したとしか思えなくなったのんじゃないかと。

ま ともかく、その人はそれ以降 庶民的な人だったが、なんか高みに上ったかのうな態度になってしまった。


脳が壊れた?
というより、気圧により、人間の脳の思考の範囲が決まり、通常ほとんどの人は1気圧の中で生活しているので、そんなにとっぴなワールドを認識しないのではないかと。


ところが、麻薬や気圧の影響を受けていないのに、特殊な認識をする人もいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

この人は、その特殊な認識をする人を研究している人。

この人に影響を受けた人は「脳の中の幽霊」という本を書いた。
人間には神を認識するモジュラーがある とか推論を書いています。
あるというより、そう認識することになった理由を推定している。


その本の中で名前は忘れましたが、ある人は自分の両親を、自分の親とそっくりだが、偽者だとしか思えない症状があった。

声だけ聞かせると、親だと思うが、対面すると、親とそっくりだが別人だと言い張る。

その人は親だけに対してそういう反応をする。
他の友人には「そっくりだがお前は偽者だ」と言わない。


どうして声だと親だと認識できるのに、視覚でも親と同じだと認識できるのに、偽者だと思うのだろうか この作者は考えた。

で、仮説として、人間は特別な親しみ」を感じるかどうかで、親だと認識するのではないか という。

その特別な親しみを感じる部分が障害によりうまく機能しないと、親に会っても、特別な親しみを感じないので、親だと認識できなくなるのではないかと考えた。

じゃあ、人間はどの部分により親しみを感じ、どの器官が壊れると、親しみを感じなくなってしまうのか ってことになるんですね。


親しみを感じるってのは、精神的なものですよね。
親しみを感じる機能が壊れるって現象は、物質界ですよね。

脳科学は物質界ですが、それを研究することで、精神世界のなりたちがわかるようになるのではないか と研究されだしている。

それが盛んになったのは、皮肉なことに湾岸戦争とかが起こってから。
化学兵器は、外的損傷を与えず、脳にダメージを与えることができる。
湾岸戦争から帰ってきた人は、外傷が無いのに、精神病患者にそっくりな症状を起こしていた。

それで、脳科学が注目されるようになったらしいです。



>そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?

親しみを感じたり、憎しみを感じるって意味があるか?
あるとしか思えません。
物事に対して、何にも感じないのなら、植物と一緒じゃないですか。
オリンピックで日本人は日本を応援するが、日本が負けたら、他のアジア諸国を応援したくなるでしょ?
人によってはサッカーで日本が早くから負けていたら、サッカー王国に挑む国を応援したくなる。
植物はそんなことしないです。

経験を通して、、

例えば麻薬をすれば、脳内物質が変化して、快楽を感じたりしますよね。

古代の宗教関係を見ると、麻薬を使っていたと思えます。
快楽物質を人工的に起こすわけで、トリップして、通常感じないことを感じれて、ハイになったりする。

その人工的に脳の構造を変化させたときに見た幻影を、天国とかすばらしい精神世界とか捉えて、そこに行き着こうとしたのだと思えます。

麻薬をやればトリップでき、脳の思考回路を通常とは違うようにできる。

麻薬を摂取しなくても、側頭葉てんか...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報