【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

ノーム・チョムスキー著
「Language and Problems of Knowledge: The Managua Lectures」
本書第一章、A framework for Discussionの中から質問です。
原書、訳書をもっておられましたら、ぜひご回答よろしくお願いします。
カテゴリーが英語、文学、科学…どれに当てはまるかわからず、 その他(学問&教育)で設定しました。


p.5~から「デカルトの問い」について記述されています。
我々が何を言い、なぜそう言うのかということに関係している「The production problem(発音に対する問い)」がデカルトの問いであり、それは我々が、言語使用の創造的一面とでも呼ぶモノを説明している。
(大雑把な解釈で申し訳ありません)
その後に、
Descartes and his followers observed that the normal use of language is constantly innovative, unbounded, apparently free from control by external stimuli or internal states, coherent and appropriate.
(訳:デカルトと彼の弟子たちは、通常の言語使用は制約がなく、斬新で、刺激や抑制から独立したものだが、それでいて、首尾一貫して状況にふさわしいものであることを発見した。)

とあります。
デカルトの思考は
「無生物の物体や生物の世界と人間の身体の作用のあらゆる現象は、機械のふるまいという観点から説明することができ、すべて機械の部分部分の振る舞いと外部環境から決定することができる」
(デカルトの身体論より引用)
ではないのですか?
これでは上記の文と相反する内容になってしまうと思うのですが…

デカルトの問いに関して、チョムスキーが何を述べているのかよくわかりません。
ご回答よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

チョムスキーがデカルトやフンボルトを援用したり、ソシュールやスキナーを批判すると、必ずその道の「専門家」に「それは違う」「そんな一面的な理解では話にならん」と言われるのですが。



ま、それはともかく。

デカルトにとって、人間は心臓を熱機関とする精巧な自動機械であると同時に、動物と違って精神をもっており、その意味で人間は単なる精神でも物体でもない第三の独特な世界を形づくっている、ということになります。

単純な「人間機械論」とは一線を画しているとは思いますが、私の専門ではないので、あまり深入りしないことにしましょう。

さて、チョムスキーが「言語使用は創造的だ」というとき、それは、「人はこれまでに見たことも聞いたこともない文を発することができるし、理解することができる」と言う意味です。

また、「言語使用に制限がない」とは、「人は無限の数の文を発する(理解する)ことができる」ということです。

とすると、人間の「心/脳」(mind/brain)の中に、全ての言語表現が収められているはずがない。では、「心/脳」には何があるのか? 無限の数の文を発する(理解する)ためのシステム、つまり文法である。言い換えれば、無限の言語表現を生成できる有限の計算機構である。

システム(文法)自体は一種の機械のようなものです。
これでつながりませんか?
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この回答へのお礼

複雑な問いに対して、ご回答ありがとうございます。
デカルトからチョムスキーに曖昧ながら繋がりました。
まだ??は残りますが、わかりやすいご説明ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/03 08:12

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