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0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標
や場を超えている。ゆえに 想定していざるを得ない。



1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍(はた)
から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。

1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これ
は・そしてこれが じつは信教・良心の自由に見合っている。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出
かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念
としてのみ扱った場合に限る。

2-1. 人間の言葉をとおして主観の外に出かけたならば 思考や想像の産
物としての《観念の神》でしかない。或る種の信念を形成するかも知れないが 
《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行って
も 人間には決められないのである。

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさ
い(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言(うわごと)である。
主観の外に出かけているから。

3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びである
に過ぎない。

3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個
人の内面にとどめなさい。





4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え 
ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の
場》とよび そう想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

  経験事象(相対世界について経験合理性にて認識する)

    可知(認識しうるものごと)

      既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
      未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

    不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明が間
      違っていたということもあり得る)

  非経験の場(絶対性)

    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。不可変である)


6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において
――無条件でわが心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には
《非思考の庭》が成る。

6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてや
どる何ものかの自覚が起きる。

 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド;(ヒラメキ・良心)
 ---------------------------------

 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観) 
 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(ヤマシサ反応)


7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロ
コスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよ
い。または 《霊霊一如》である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性 +α )

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

8. したがって これら前項の神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし
非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。

8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。具体的な神
としては 名が違う。

8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍
神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は 
経験世界の有る無しを超えている)。

9. これが 《一般絶対性》である。






10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく ひとりの人の信仰すなわち 
《普遍神と個別のわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視
点である。

11. というのは 普遍神をよぶ名前がひとによって異なっているだけでは
なく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつである
と想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 
人間には分からないからである。

11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自
由という内容につながっている。

12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならな
いはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 
一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。

12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とう
とばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとして
は 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出
る。


13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカ
カハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまり
は 一般絶対性理論――からみちびかれる。(論理として。実際には 一般と
個別とは 一体であろうと推し測られる)。



14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》
が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 
神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのお
の主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。

14-1. (12-1)に述べたごとく 信教・良心の自由にもとづき そ
の信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》という
ことになる。

14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否
定も肯定も出来ない。

14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕
――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポにて 宗教批判にいたる。以下にも触れ
たい〕。



15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての
自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観
にまで展開したのが 宗教のオシヘである。

16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての
神観にとどまることをすり抜けたオシヘというのは すでに人間の言葉で考え
表現した《思想》である。

16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。
信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。

16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間
が人間の言語表現をとおして引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し
示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。

16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。

16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないと
かという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 
無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。




17. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 他人に向けてそのまま無
条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら やはり いまの絶
対性理論の外にある。

17-1. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全にお
さまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言っ
て 何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。


18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つ
まり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来て そ
の倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖さ
せたものが シュウキョウである。

18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの
関係に移して 寝かすことである。

18-2. シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶
対性理論)としてアウトである。

18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽か・また
は ただの商売である。 


☆ 見解を述べられたし。添削・批判そして賛同をもどうぞ。

A 回答 (3件)

仏に三徳があって、主徳、師徳、親徳、とするとき、親徳は、身の世話、師徳は、心の世話、主徳は全体の調和に思えます。



これらは、相対的な世界でのよりよいものがどんなものであり、それをどのように作り上げていけるか、だと思います。

それらの創造の過程で、各々はよく三徳を包むようなひとつの実在はどのようなものであるかを考えるべきだ、ということでしょうか。

それとも、形のないものは(形としてとらえにくいものは)考えるだけ時間労力の無駄である、ということでしょうか。

無相なる一実相は、形が分からないので、無い、ということでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 仏に三徳があって、主徳、師徳、親徳、とするとき、親徳は、身の
世話、師徳は、心の世話、主徳は全体の調和に思えます。
☆ 普遍神に《徳》を見るのは 《愛や慈悲や善》と同じく 主として
《属性規定》――№1お礼欄をご覧ください――の問題です。

《主徳》は まさに普遍神であることといった内容ですね。

《師徳や親徳》は 個別絶対性におけるそれぞれ属性なように思われま
す。タテの関係でもあります。



★ これらは、相対的な世界でのよりよいものがどんなものであり、そ
れをどのように作り上げていけるか、だと思います。
☆ つまり それらの《徳》を受けてこんどは人間どうしのヨコの関係
において 一人ひとり《わたし》がどうするか? どう考えどう行動す
るか? になるかと思われます。



★ それらの創造の過程で、各々はよく三徳を包むようなひとつの実在
はどのようなものであるかを考えるべきだ、ということでしょうか。
☆ ううーん。どうでしょうね。《徳》を受け取ったなら あとはむし
ろ人間の思考と行動の領域になるかも知れません。



★ それとも、形のないものは(形としてとらえにくいものは)考えるだ
け時間労力の無駄である、ということでしょうか。
☆ いえ。それは ヒラメキ(⇒直観)と良心(⇒恥ぢ反応)として
作用すると捉えていればよいのではないか。



★ 無相なる一実相は、形が分からないので、無い、ということでしょ
うか。
☆ むつかしいですね。つまり わたしには 何らかの相ないし形のあ
る何かにたどり着いていないと なかなか考えることがむつかしいです。

お礼日時:2018/07/25 17:16

ことばを通貨としてみるとき、ひとつひとつのことばは、それ自体をうまく表すことが完全にはできないけれども、だれかとだれかのあいだでなにかしらの合図にはなるのではないかと思います。



それが文なのか銭なのか両なのか、円なのかドルなのかユーロなのか

この交換可能性は信頼という不思議なものでできあがっているようにも思われます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ この交換可能性は信頼という不思議なものでできあがっている
ようにも思われます。
☆ そうなんですけれど。つまり 社会の制度であるといった事由
もありそうですが。


★ 交換可能性
☆ というときには ものの値打ちといった定量性にもとづいてい
るということも 実際です。

社会的に信用があり実際に所得や資産が多い人間の差し出す貨幣は
そうでない人のそれより――偽札の問題を別とすれば―― 価値が
高いということはありません。同じです。

だから 普遍性があるようですが その普遍性は 数量の問題なの
だと思います。

その意味で 貨幣と言葉とは 流通可能性を同じくしつつ 質的に
違いがあるようにも思います。



他人の言った言葉を信用しないことがあるという事例を持ち出すな
ら 違いがあることが分かるというものです。

つまり 言葉は その交換可能性が 定性的なものです。

偽札と偽言葉とは 似ているところもあると同時に 問題が おも
に貨幣価値の量にかかわる場合とそして 人間の心や人間性にかか
わる場合とで違うように思われますが どうでしょう。

お礼日時:2018/07/25 13:41

もし神が悪を妨げる意思はあっても力が無いなら全能ではない。



力はあるが意思が無いなら邪神である。

力も意思もあるなら悪はどこから来るのだろう。

力も意思もないなら、なぜ神と呼べるのだろうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ もし神が悪を妨げる意思はあっても力が無いなら全能ではない。
☆ 理論(わが理論です)として言えば 次の説明になります。

一点は:
★ 神が 全知全能
☆ だという規定は 人間がただ神の属性について忖度して得たと思ってい
る神観です。(一主観から 共同の主観になっているかと思いますが)。

絶対性:非経験の場 / 非知なるナゾ
→ 概念規定:真理・無限(真無限)
→ 属性規定:〔人間の愛憎を超えた〕神の愛・〔善悪の彼岸たる]至高の善
       全知全能・不可変性・
→ 擬人化:絶対者→創造主
→ 物語化:『創世記』など

☆ というふうに見るなら 《全知全能なる神が 悪を野放しにし人びとの
悲惨を放っておくのは おかしい》という見解は 《属性規定》以降の忖度
の場で起きる人間の考えです。

初めの《非知なるナゾ》にかんしてなら 善悪や貧富や幸不幸なる問題を持
ち出すのは 人間の思考という場とそして神とが いったいどのような関係
にあるのか? これを明らかにした上で議論することになります。

(ふつうは 神がヒトに自由意志をあたえた。ゆえに悪を成すのも 人間の
自由〔のゆるすヘンな自由度〕の問題であり人間の責任だと見られています)。



もう一点は タテとヨコの問題です。

神とわれとのカカハリ:タテの関係
われとわれのマジハリ:ヨコの関係

☆ よって 《悪と悲惨》の問題は やはり――直接には――人間どうしの
ヨコの関係において起きていると捉えるものです。

タテとヨコとをごっちゃにするなら いわゆるインチキ宗教をもみとめなく
てはならなくなります。



★ 力はあるが意思が無いなら邪神である。
☆ どうでしょう? 正邪・善悪・真偽などの相対的な批評・批判は 神に
とって 痛くも痒くもないはずです。


★ 力も意思もあるなら悪はどこから来るのだろう。
☆ 人間とその自由意志の自由度からです。相対性のもとにでありつつ ヒ
トの存在と生命とは よきもの(善)だと考えられます。その善から 悪が
出て来ます。

モノは ふと曲がる(クリナメン)からです。善がへそを曲げます。道草を
喰います。それが悪です。つまり 負の善です。


★ 力も意思もないなら、なぜ神と呼べるのだろうか?
☆ 人間の神観は 神にとって 屁の河童です。

お礼日時:2018/07/24 10:53

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