質問投稿時のカテゴリ選択の不具合について

1. 問題になることはない。――この立ち場で問います。

2. ▲ (ヰキぺ:なぜ私は私なのか) ~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C …

2-1. 世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生ま
れてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。

2-2. しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物な
のか?」(Why am I me, rather than someone else?)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. 《2-2. しかしそれにも拘わらず》という判断が 証明されてい
ない。根拠がない。

4. すなわち 《なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?》と問う
ているのは 人類史ぜんたいの人びとの中においてほかの誰でもなく《この
〈わたし〉と自称する人物》であるからだ。




5. いや 自称の《わたし》は しかしながら 誰にとっても同じではな
いか?

6. ――と問い返されるなら そのとき《わたし》と言っている人物は 
それぞれほかの誰でもなく そのとき言葉で表現しているその人物でしかな
いからである。


7. では みんなが一斉に同時に《わたし》と自称したら どうか? 

8. ――けれども その合唱が ひとつに融合するわけではなく 一人ひ
とり個別の自由意志による主体的な行為でしかない。


9. ふたりの人間が 《身も心もその存在じたいとして 一体として融合
したひとつの意志・ひとつの心》と成る気遣いは あり得ない。





10. そもそも 《わたし》という言葉は 固有名詞なのだ。ブラジェロ
ーヌという名前は それが ほんとうは代名詞である。

11. つまり 固有の名前が誰にも同じであるなら ひとを呼ぶには困っ
てしまう。ゆえに 代わりの名前と 取り替えただけだ。





12. 《意識のハード・プロブレム》と呼ばれる問題も あり得ないので
はないか? という議論につながるようだ。

13. 不案内ですが――ただし 必要とお考えになる場合には 触れてく
ださいとなりますが―― 趣旨説明としては触れるだけにとどめます。

14.▲ (ヰキぺ:意識のハード・プロブレム)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98 …

質問者からの補足コメント

  • №17のつづき

    ★ 結局どこを同じなら、にと呼べるのか?
    ☆ 物指しは 人間が――その対象物に即して――決めるだけです。

    《赤いリンゴ》という物指しを設定するなら 王林などの薄緑のリ
    ンゴは 同じ種として数えられることはなくなります。

    日本に生(な)るリンゴという物指しもあり得ます。そういう取り
    決め方の問題です。


    ★ 絶対とは、このような小さな問題にも一般的に当てます。
    ☆ まったくのデタラメです。

    ★ 絶対零度
    ☆ これは 相対性の中の《究極〔の値〕》という意味に変じて
    使われています。



    ★ これは一般の人や複数の科学者は、普遍なる基準と信じる訳
    です。
    ☆ 可変的な・つまり相対的な値である〔が 究極として絶対と
    いう言葉を借用している〕と分かっています。


    さらにつづく

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/22 11:10
  • №17のつづき(2)

    ★ 真理は様々な問題を通して見つけるもの、との、最大定義も
    含まれる。
    ☆ それは 経験世界における《事実認識》としての相対的な真
    実です。

    科学的な真実は 誰が見ても妥当だと捉えられ 主観真実の共同
    としての認識を 仮りに《科学的真理》と呼ぶナラハシです。



    ★ 真理は、私も貴方も確かに
    普遍なるものがある
    絶対の真理もあり得ると信じている
    ☆ つまり 絶対性=無限=真理は 有ると信じている場合と無い
    と無条件に受け容れている(つまり 信じている)場合とがあり得
    ます。

    分かるか分からないかが分からないナゾだからです。



    ★ 貴方は、絶対の真理は知ることはできないと、
    壁を立てて居ます。
    ☆ 非知ですから 或る人が《おれは真理を知った》とか《われは
    神を見たり》とか言っても これを 否定することは出来ません。
    ただし その主観内だけのことです。

      補足日時:2018/08/22 11:14

A 回答 (22件中21~22件)

もしかすると、


「こう話す人がいたとき、話を継続して解決できそうか、答えがないのはわかっているのかの判断を問われている。」
つてこと?
だったら納得です。

***********************************************
問題が問題であるか 初めにおかしいと感じてしまったあと それでも 
相手の議論に沿って話し合いをすすめて行かねばならない。
――とは思います。
***********************************************
おぼうさんやおまわりさんやお医者さんが、人の話を聞いてくれる時の姿勢
ですね。ちがう??
    • good
    • 4
この回答へのお礼

いや まぁ 哲学は 対話でもありますから 互いに納得するという
ところまで話し合うのは 民主的・かつ自由だということである。
――とは 思いました。


言いかえると いまこの疑問が哲学の問題になると思っている場合に
は その理由を説明してもらえるとありがたい。
――こうは 思いました。


どうなりますやら。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/08/19 11:40

真面目な、勉強の問題ですかね。

 病院行った方がよさそうですけど。
わけわかんねーこと言うと賢く見えるから、言いたがる人いるけど、
そういう人が好んで出題するんでしょうかね。
問題作った人がもともと、精神病なんだけど勉強がすごくできて、
周りの人は「この人が言ってるんだからおかしなことじゃない」
とだまされちゃったんじゃないですかね。
ようは、「私は誰??」ってやつでしょ?
私みたいに一般人か平民から見ると、どっかおかしい人なのかなーとしか思いません。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

もっとものように思いますが まづは哲学の問い求めとしては ひとつ
のご感想として受け留めることになります。


問題が問題であるか 初めにおかしいと感じてしまったあと それでも 
相手の議論に沿って話し合いをすすめて行かねばならない。
――とは思います。



ご回答をありがとうございます。


話がすすむとよいと思います。

お礼日時:2018/08/19 11:11

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