最強の防寒、あったか術を教えてください!

1. 問題になることはない。――この立ち場で問います。

2. ▲ (ヰキぺ:なぜ私は私なのか) ~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C …

2-1. 世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生ま
れてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。

2-2. しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物な
のか?」(Why am I me, rather than someone else?)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. 《2-2. しかしそれにも拘わらず》という判断が 証明されてい
ない。根拠がない。

4. すなわち 《なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?》と問う
ているのは 人類史ぜんたいの人びとの中においてほかの誰でもなく《この
〈わたし〉と自称する人物》であるからだ。




5. いや 自称の《わたし》は しかしながら 誰にとっても同じではな
いか?

6. ――と問い返されるなら そのとき《わたし》と言っている人物は 
それぞれほかの誰でもなく そのとき言葉で表現しているその人物でしかな
いからである。


7. では みんなが一斉に同時に《わたし》と自称したら どうか? 

8. ――けれども その合唱が ひとつに融合するわけではなく 一人ひ
とり個別の自由意志による主体的な行為でしかない。


9. ふたりの人間が 《身も心もその存在じたいとして 一体として融合
したひとつの意志・ひとつの心》と成る気遣いは あり得ない。





10. そもそも 《わたし》という言葉は 固有名詞なのだ。ブラジェロ
ーヌという名前は それが ほんとうは代名詞である。

11. つまり 固有の名前が誰にも同じであるなら ひとを呼ぶには困っ
てしまう。ゆえに 代わりの名前と 取り替えただけだ。





12. 《意識のハード・プロブレム》と呼ばれる問題も あり得ないので
はないか? という議論につながるようだ。

13. 不案内ですが――ただし 必要とお考えになる場合には 触れてく
ださいとなりますが―― 趣旨説明としては触れるだけにとどめます。

14.▲ (ヰキぺ:意識のハード・プロブレム)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98 …

質問者からの補足コメント

  • №17のつづき

    ★ 結局どこを同じなら、にと呼べるのか?
    ☆ 物指しは 人間が――その対象物に即して――決めるだけです。

    《赤いリンゴ》という物指しを設定するなら 王林などの薄緑のリ
    ンゴは 同じ種として数えられることはなくなります。

    日本に生(な)るリンゴという物指しもあり得ます。そういう取り
    決め方の問題です。


    ★ 絶対とは、このような小さな問題にも一般的に当てます。
    ☆ まったくのデタラメです。

    ★ 絶対零度
    ☆ これは 相対性の中の《究極〔の値〕》という意味に変じて
    使われています。



    ★ これは一般の人や複数の科学者は、普遍なる基準と信じる訳
    です。
    ☆ 可変的な・つまり相対的な値である〔が 究極として絶対と
    いう言葉を借用している〕と分かっています。


    さらにつづく

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/08/22 11:10
  • №17のつづき(2)

    ★ 真理は様々な問題を通して見つけるもの、との、最大定義も
    含まれる。
    ☆ それは 経験世界における《事実認識》としての相対的な真
    実です。

    科学的な真実は 誰が見ても妥当だと捉えられ 主観真実の共同
    としての認識を 仮りに《科学的真理》と呼ぶナラハシです。



    ★ 真理は、私も貴方も確かに
    普遍なるものがある
    絶対の真理もあり得ると信じている
    ☆ つまり 絶対性=無限=真理は 有ると信じている場合と無い
    と無条件に受け容れている(つまり 信じている)場合とがあり得
    ます。

    分かるか分からないかが分からないナゾだからです。



    ★ 貴方は、絶対の真理は知ることはできないと、
    壁を立てて居ます。
    ☆ 非知ですから 或る人が《おれは真理を知った》とか《われは
    神を見たり》とか言っても これを 否定することは出来ません。
    ただし その主観内だけのことです。

      補足日時:2018/08/22 11:14

A 回答 (22件中1~10件)

ふぅ、何とも。



貴方は、ここが違う。
と言うべき点を言って起きましょう。

基盤で説明しましたが、

貴方が考える相対とは、本来決めつけで言う 意思表示は間違いです。

それなら、絶対と言ってます。
私の回答へ、絶対がわからない、その筈なのに、絶対を決めつけてます。よね


だから全ては信憑性、
これが高いものを基盤。

貴方は、絶対なるものが、
あるのかありえないのかわからない、そう言った筈ですね?

その考え方なら、
さっきから、否定する
決めつけの文法は、何を根拠とする?
と呼ばれるわけです。

さてと、
回答は、
出しても効かないかもしれませんが、
先に提示!

概念 (テーゼ、命題、論題)
として、
本題は、

何を基盤と構築するべきなのか?

その一点につきます。


あらゆる真理の中から、
貴方は、基盤を築き忘れている部分が一方向において、とても多く、
進歩してるようには見えませんね。昨今の貴方の質問履歴を見る限りでも。


基盤の位置とは?

概念 命題を一つ問うなら、
その答えを聞いた時、
それが答えの可能性のあるものだと、
自分の辞書に記載する。
(外的要因知識、吸収 )
そして、また、
自己考察する。

そして、一単語、1命題
たる
概念を深めて履修する。

その概念をまた問いなどに組み込む。

訳ですが、
人の話も参考になるかもと思えば、そのように足していくべき、
でなければ貴方は、
質問する程を取りながらも、
単に自画自賛したいだけの、
学者いえ、学士とも呼べない
かまってちゃんとしか認められない。

もう少し、
自分できちんと考えましょう

さっきの、適切に指摘してもらえれば良いだけです。
などと言う文法は、
甘えん坊 の戯言ですよ。
さらに敬意を無くしては、
教えてくれる方も、答えたくなくなるもの。
全く、だから
ここの質問は荒れてるんですよ。


さて、さて

基盤とは、


大きなものの概念をまず、問い

それの座標位置を決めます。

例えば、
生命と死
真理

自身
相手 (対象)

更には、現実 と 幻想 (虚実)

こんな風な大きな者を書き出し、
その座標を新たに知り得た知識から、
少しずつ修正する

このようになってます。
(めんどくさいから理由は省きます)


そして、修正して位置関係を訂正して、
ただしい認識という置き場を探す。
これが一体の真理と呼べます。

貴方の、絶対と相対という
ものがあるという
「物の見方は」は
所詮、一般常識にはないもの。普及もしてません。

貴方の中でそれに信憑性を集めた状態。
一種の信仰とも呼べます。

これは、様々な人が自分の信じる論理があるのだから別に珍しくはありませんが、
しかし、
別に、だからと言って、
貴方の考え方が正しくない場合もあり得る。

相対の考え方は、確かに過ちを起きやすい、人間には必要とも見えるでしょう。

しかし、
実際には、
絶対 と信じるものが、それに疑いを持てる
(信憑性を90パーセント以上だと信じていたとしても、もしかしたら」を持てる時点で)
相対の考え方を間に挟む必要はないのです。よ

単なる
相対とは、貴方の作った原語に近い。

比べない相対なら、自分で自己否定して生み出す場合、相対というよりも、思考で済む。

まあ、さて置き。

相対であっても、絶対でないとは、誰にもわからない。

貴方は決めつけれないのが、貴方の論理、なぜ決めつけ言葉^_^を使いますか?

その時点で、自画自賛とみられて当然。

相対がある信憑性など私には、80パーセント程度ですね。何ちゃって


なぜ人は決めつける?決めつけれるのか?

それが主張だから!
この一言に限ります。

この主張とは、
善、或いは、是!
ひいては是非
を示すと呼べる。▲


良いと思うものが人手に広まる (一般化→普遍化)
する事が、世のため人のためになる、と信じられる。
発展主義 や、科学心棒主義

これが当たり前にあるから。

だから人は、常識にある知恵からなど、
つまりは知っている知識から、組み合わせて、(概念も)
論題を解き、人にその解き方、式を伝え合わせる。

これらも全て信憑性です。ね

一つの概念を基盤かし、
わかりやすい近接する概念、
第概念より小さな概念と組み合わせたりして、
わかりやすさや、信憑性をあげる、それをしている訳です。

ここまでも、私の信じるもの、単には思い込み、しかし、理解して読めるなら、
その人には、常識的知識を紐解き、分かり合える 心があるという事、ところ。

貴方は真理を絶対に届かないものとしてます。
が、
私は、それは貴方の宇宙の真理に過ぎないという。

「真理」よりも、「宇宙の真理」の方が狭いんです。
言葉的なものですがね。

私は真理の外側をも、目指してますから。

宇宙の真理と書いた時点で、
例えば、異世界、または、宇宙以外の世界、など、距離が外側に伸びる延長上ではないかもしれない世界を除外してます。

宇宙の真理よりも、何にも修飾が付かない、真理という言葉の方が概念的には広くなる。

貴方は、絶対があり、相対では必ず、それに及ばず、また、わかるかわからないかわからないのだから!
と決めつけますが、
それが貴方の宇宙の限界です。
その一歩前に戻り、そうではない かも、またはそうではない場合どうだろうか?
これを考えられなくなっています。
貴方としては、もっとも、宇宙で外側の真理を見つけ、そこに溺れることこそが、最大の真理と目を閉ざし決めつけたのかもしれない。しかし、
それが貴方のさらに外側の想像力を働かせること、禁止している。
と呼べる。

問題には、概念には、対象とするべき広さがある。
そして、さらに外側の問題も、解いてみないと、
真実に、法則づけるべき座標の、完全な位置 (1)は見つかりません。
あるいは永遠に見つからない場合もあるかもしれません が、それこそ
わかるかわからないかもわからない非知。

一個ずつ概念の基盤を組み立てていくしかない訳です。

ちなみに、概念に関する理論も、私が生み出したもの、
一般的ではない。
しかし、のちのちには、一般性と呼ばれるようになる、なってほしいと思う訳ですね。

科学者にとって普遍の真理は、公式!
貴方にとっては、
哲学者 もどきの貴方の宇宙の見方では、
それは相対!
とも言う。
しかし言いたいだけ?
と問いますよ。

普遍だと思う。間に、相対を置く、これは、自信がないだけ、かもしれませんね?

正しくは、信憑性の順に並べ、
そして、その周りとの理論親和性を置く事が重要、そして社会との調和です。

貴方の理論で貴方は進歩できましたか?

そう問いましょう。

一つ一つの基盤をプレート、
レンガのように、また、精密に積み上げ人は、光の階段を上っていく。

私は、天啓を受けた際に、これを
光理構成原語アウラファウネスト
そう名付けました。
いいえ確かに聞こえたからです。この名前が。

相対で真理を認められなくとも、
通じ合う人類全体の理解を
存在すると信じましょう

リンゴは、
数を数える際、
その生まれとしては、
どこからどこまでと言う厳しく、細かな査定基準があるわけではないでしょう。

恐らく、仮定を互いに理解できたからに過ぎませんよ。

つまり、「こうこう このくらいのものをリンゴと呼ぼう!」「そうだねこれはリンゴだ!」
こんな風に、決まり切ってない部分を人は許し合えた事、
それがツウカー。
分かり合える喜びになったと、貴方の理論を否定します

日知やはり道かと思いますがね。
未知と不可知を結ぶ境界線にできるもの。それを見つけたのも貴方にとっては、天啓なのかもしれない。
しかし、その理論を押す限りは、決めつけ一つも貴方は発してはならない、そう真理を自分で決めたのなら、貴方はそれに従うべき、となるでしょう、まぁ、もう少しよく、考えてみてください。



一歩一歩、人類発展、真理の道を哲学してまいりましょう。皆さま。

エル ミル システィーア☆ミ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 相対と絶対
☆ は 絶対性を定義すれば済むことです。

★ 信憑性
☆ は 定義がみなに共有されるかどうかの問題です。


★ 貴方は、絶対なるものが、
あるのかありえないのかわからない、そう言った筈ですね?
☆ げんみつな定義は そのあとさらに《分かるか分からないかが分からないナゾ》
だと言っています。

あなたのなすべきことは ご自分の定義を示すこと そしてわたしの定義について
間違いを指摘することです。

★ 根拠
☆ は 無根拠です。つまり 絶対性〔なる《有る神》もしくは《無い神》〕を無
条件かつ無根拠においてわが心に受け容れること これが 《信じる》ということ
です。



★ 概念 (テーゼ、命題、論題)
☆ 概念は 世界にかんして認識したその内容を何とか人間のことばで表わそうと
して得た個々の手段(シルシ)です。用語・術語とも言います。

概念≒用語についても定義をしますが 認識内容が 概念を使って組み立てるよう
なまとまった判断であるとき それが 命題です。

命題は 広く妥当だと見なされ共有されると 定理と呼ばれます。
《テーゼ》は 命題のことであり また或る主観による主張を示すとき 綱領とも
成ります。

論題・論点は 行動方針や政策課題について主観判断が互いに相違するとき その
場合の命題のことを言います。


★ 基盤
☆ とは何か? なおはっきりしません。

★☆ その一点につきます。


★ あらゆる真理の中から、
貴方は、基盤を築き忘れている部分が一方向において、とても多く、
進歩してるようには見えませんね。昨今の貴方の質問履歴を見る限りでも。
☆ 具体的にどうぞ!

つまり 能書きばかりです。

☆☆ 適切に指摘してもらえれば良いだけです。




★ ~~~~
基盤とは、


大きなものの概念をまず、問い

それの座標位置を決めます。

例えば、

真理




~~~
☆ 何はさておき 《絶対性》の定義をまづしましょう。



★ 貴方の、絶対と相対という
ものがあるという
「物の見方は」は
所詮、一般常識にはないもの。普及もしてません。
☆ ぢゃあ すでにわたしを見捨てて去ってください。




あなたは 《定義》ということすら 知らない。ですよ。

お礼日時:2018/08/30 09:23

『おれの意見以外の奴はなっとラン。



ちょっとちがう
おれの意見に従え!一行たがわず おれの意見を参考にして生きろ!

まず おれの意見を聞け!』

 ほんっと 簡単な人生ですね うらやましいわ(笑) アほ さかげんが 度を過ぎてます・・・

 なかまがいたら ここに 書き出してみなさい。(いるわけねえかぁー)
 (あんた自身も実行してないからね わはは)
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この回答へのお礼

ありがとう

批判も反論もまったくなし得ない。

――こうのたまわったわけだ。

さもなければ 批判のヒの字くらいは かきこむであろうもの。

アハハ。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/08/24 04:50

ウィキで取り上げている《なぜ私は私なのか》という問いは、言葉で表現するのが難しいと思います。

以前、ニャンポコさんが、なぜこの身が、自分・私なのかと云ったような表現で質問をしていましたね。
それにいくつかの回答が寄せられてましたが、どれも見当違いの回答でイラついて?いました。
私も回答して、その事の不思議さを強調したところ、質問の意味を分かってもらえたと、云ってました。

回答№6へのお礼欄に????としていますが、回答者の代弁をすれば時がたっても私は私であり続けている、と云う事を云ったのです。ブラジュロンヌさんが生まれてから72年間(年男!)ずっとブラジュロンヌでありつづけていますが、その身を「私」として生きていることの“不思議”が《なぜ私は私なのか》という表現になっているのだと思います。

あまたある命のその中のたった一つのこの命を“私(ブラジュロンヌ)”は獲得し、生きているのだ。

“私”は今こうして、この時代に生まれて生きている事の不思議さ。
過去に“私”はいないし、未来に現れるような気もしない。
死んだら二度と“私”は無くなるのです。

こんな事を意識したことはありませんか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ウィキで取り上げている《なぜ私は私なのか》という問いは、言葉で
表現するのが難しいと思います。
☆ たとえば:
▲ また、問いの内容が「なぜ今、ここなのか?」というものである
☆ と言うんですが われわれの存在は 時空間としてある(時空間に位
置している)ので それを《いま》と《ここ》で表わしている。そして
時間的存在であるかぎり そのように成っている。

その上で 形而上学的な問題をも表現していくしかない。単純だと思うん
ですが。この《いま・ここ》におりつつ それをも超えるかに感じられる
《有限-無限》の関係具合いが 問い求められ得るのではないかと。


★ 以前、ニャンポコさんが、なぜこの身が、・・・
☆ たぶんわたしは参加していなかったので。・・・


★ 回答№6へのお礼欄に????としていますが、回答者の代弁をすれ
ば時がたっても私は私であり続けている、と云う事を云ったのです。
◆ わたしは少し前に行ったことを思い返して確認することができる。
★ ・・・ずっとブラジュロンヌでありつづけていますが、その身を「私」
として生きていることの“不思議”が《なぜ私は私なのか》という表現にな
っているのだと思います。
☆ ということは 《不思議に思う》ことが 前提になっていませんか?
なぜ 不思議か?

わたしの感覚では 人間であること・人間として生まれて来たことなどが
不思議ですが 《わたし》に関しては さほど思わないんです。



★ あまたある命のその中のたった一つのこの命を“私(ブラジュロンヌ)”
は獲得し、生きているのだ。
☆ それは 《天与》のものだと捉えるでしょうね。《わたし》問題とは
違うような気がします。



★ “私”は今こうして、この時代に生まれて生きている事の不思議さ。
☆ それは あります。でも 過去や未来ではなくこの現代に生まれ出た
ことの不思議さであり やっぱし《わたし》問題とは微妙にずれているよ
うに思われます。


★ ~~~~
過去に“私”はいないし、未来に現れるような気もしない。
死んだら二度と“私”は無くなるのです。

こんな事を意識したことはありませんか。
~~~~
☆ それがわたしであるし ほかの人たちも けっきょく同じようである
と捉えておしまいなんです。

お礼日時:2018/08/23 20:53

疑似問題であるとする理由を確認してください。

ーこさんは、
 私って言葉がそれを言ってる人のことを指すから
と、言っています。AはAであるという自同律だから、わたしはわたしなのだ、問題なし。ということだと思います。そして質問者はさらに進んで
 《わたし》という言葉は 固有名詞なのだ。ブラジェローヌと
 いう名前は それが ほんとうは代名詞である。つまり 固有
 の名前が誰にも同じであるなら ひとを呼ぶには困ってしまう
 。ゆえに 代わりの名前と 取り替えただけだ。
としています。それに対して、大庭健さんは、
 フレーゲの言語哲学を援用し、「語の指示対象」と「語の意義
 (センス)」を区別する。たとえば「『坊ちゃん』の著者」と
 「夏目漱石」は指示対象は同じでも意味が違う。これが語の意
 義の違いである。その上で「私」という語と、その語を発した
 「大庭健」という語の、それぞれの意義は異なるという事実を
 、「私」と「大庭健」とでは、それぞれの指示対象が違う、と
 いうスリかえによる『心の哲学まとめWiki 意識の超難問』https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/133.html
としています。

なぜ「ブラジェローヌ」という名前が関係してくるのでしょうか?どうして「わたし」が固有名詞になるのでしょうか?どうして「ブラジェローヌ」が代名詞になるのでしょうか?「わたし」だけ固有名詞になって「ブラジェローヌ」はそのまま固有名詞だったりしないのでしょうか? 固有名詞と代名詞の取り違えだとしていますが、どうして取り違えるのでしょうか?取り違えない時に問題だと考えられるのはどうしてでしょうか?


ーこさんこんばんは。私も質問者の言ってることが読み取れなかったです。質問者の説明がショボくて、かつ、ーこさんも私も読み取り力がショボい場合があります。ともあれ、コスパでシャッキリポンと嫌いって言ってて、うわーちょースッキリー。と気分良くなりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

★ どうして「わたし」が固有名詞になるの?
☆ ひとが 自分のことを確認するのは 自称の《わたし》か そ
れとも呼び名の《ブラジェローヌ》か?

呼び名は 仮りにつけた名です。戸籍で確定するのは 両親や生年
月日や住所を頼りにしています。(同姓同名がいることがあるから)。

よって《わたし》と自称するとき もっとも固有に自分を確認する
ものだと思われます。


★ どうして「ブラジェローヌ」が代名詞になるの?
☆ 自分を確認した存在を ほかの人が呼ぶために仮りに名前をつ
けた。つまり 自己確認の《わたし》に代わってそれを用いる。

そうして 文法じょうの用語も みんなによる呼び名として一定し
ているほうを その人に固有の名だと見なすようになった。


★ 固有名詞と代名詞の取り違えだとしていますが、・・・
☆ 取り違えではなく 取り替えです。





▲ 大庭健さんは、
 ・・・たとえば「『坊ちゃん』の著者」と「夏目漱石」は指示対
象は同じでも意味が違う。これが語の意義の違いである。
☆ ここは 説明があいまいです。
「『坊ちゃん』の著者」も「夏目漱石」も それらを誰が言ったか
が 問題なのです。いま《なぜわたしはわたしなのか?》の問題に
ついてはです。


▲ 「私」という語と、その語を発した「大庭健」という語の、そ
れぞれの意義は異なるという事実を、「私」と「大庭健」とでは、
それぞれの指示対象が違う、というスリかえによって・・・
☆ 大庭健が《わたし》と自称したなら その《わたし》は 大
庭のことだと一義的に決まります。基本としての固有名であるか
らです。

大庭健が《大庭健》と言ったら すでに言語習慣じょうは その
呼び名が固有名詞だと見なされているのですから それは みづ
からのことを指して言っているとなります。

《意義》の問題ではなく 自称する主体が誰であるかだけの問題
です。

ちーこさんの言うように ことは まったく単純なんです。



▲☆ しかし「私」という語は常にその語を発した者を指す。こ
れは・・・指標語である「私」は指し間違うことがなく、指示対
象を同定する必要もないのである。
☆ 《指標語》だの《指示対象》だのは 知りません。が 《わ
たし》なる言葉が指すものは 話し手だと決まっています。

お礼日時:2018/08/22 23:05

第8 (読む人は遡られたし)回答


数学という言語は、曖昧という言葉は定理がないを

それは、過程において、定理できるものだけで、世界を表そうとする試みこそが数学、そして科学へも通ずるからです。

哲学は、基礎
として、現代、
何一つすら普遍と呼ばれる哲学がない じょうたい

これを知るべきと言えます。

私は無限論にての回答を去年貴方に打ちのめされし過去を持ちます。

しかし、第三論法(if 自身反発の無限法則)を最近作り上げ、再度、無限性に 光明をさしました。

真理の光、それは人間の
結局、美しい美学 なのかもしれない。

基盤とは、信憑性において、また確率です。

相手に信じられる基盤。

それは相手の信じているものを話術に構成し、交信、交渉、対話して得られる。
理解。

相手がいること相手が話をわかってくれることを意図して、前提として、

第2者を満たして、
それが第三者以降、
普遍や、一般 (常識にまで)通ずると
願い、話し続けるのです

熱量です。

私の理論も、基盤くらいの、50パーセント数 程度
しか、人に共感を与えない、かもしれない。

しかし、遠いものだけを追っていては、一つ一つの言葉の丁寧さ、概念の大切さを見失うかもしれない。

基礎、基盤的単位 (私は1プレとと呼ぶことにしてます)
組み上げていきましょう

しかし、
良きライバルでいたいと思います。共に哲学を追う
探求の使徒
コギトとして
どうぞこれからも宜しく!
(^。^)ノ

ゆかりにしていし の賢者 y

エル ミル システィーア☆
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この回答へのお礼

★ 第8 (読む人は遡られたし)回答
☆ をありがとうございます。


★ ~~~
数学という言語は、曖昧という言葉は定理がないを

それは、過程において、定理できるものだけで、世界を表そうとする試み
こそが数学、そして科学へも通ずるからです。
~~~
☆ 意味不明です。



★ 哲学は、基礎
として、現代、
何一つすら普遍と呼ばれる哲学がない じょうたい
☆ それは 絶対性としての普遍は 言葉では表わし得ないということで
す。


★ 基盤とは、信憑性において、また確率です。
☆ なおあいまいです。

★ ~~~
相手に信じられる基盤。

それは相手の信じているものを話術に構成し、交信、交渉、対話して得られる。
理解。
~~~~
☆ 能書きはよいです。実践してください。



こちらこそ:
★☆ どうぞこれからも宜しく!
(^。^)ノ

お礼日時:2018/08/22 10:27

はぁ、そろそろ自分の言ってることに矛盾があることに気付きましょうや。



わかるかわからないか謎なのは、貴方の作り上げた理論基盤であり、概念の一つ

真理や無限に、相対と絶対があるという事も
また、貴方が今まで経験した経験知にして、相対 にすぎません。
つまり絶対という保証はつけようが無きもの。
ない場合もあり得るという事です。
これを押すには、基礎説明、
そして 信憑性たる基盤がいる。という事


また非知のわかるかわからないか謎というのも、
捉え方としては、未知 の一部と呼べますね
それは名前があるのですから、
いずれはわかると考えられるものですよ。

我々はあらゆる物を概念付けして問題を創造し、
そしてそれを問いまた追うもの。

行動から、順位をつけて探すしかない。


真理と普遍とはイコールと呼べる。(概念レベルでは)
絶対性は無限とイコールでもなければ、真理ともイコールではないとも言えますよ。

そう信じている経験事象です


もっとも、私が7.8をそういう見方で見ている。

貴方は混同した見方を作っている。
これも問題を問う概念です。


貴方は非知を自分の中で高尚なものとして居ます。
そう強調し、価値を上げている

しかし、それは概念として作れますが当たり前の考えの一つに過ぎません。

一たるものは人が権利にて幻想性の中から、仮定を見出し!
1という強い言葉で、数字というものを作り出した。

しかしね。

次の考え方なら、
そうとも言えなくなる方法も存在しますよ。

三つの誕生の見方。
1つ、全てはゼロと位置で表せれる。(今回中略しますが、1とは、完全数字100%を指す) などの見方。

2.二元論的原初発生法則。
全てのものは、ゼロ(無)など無く。
あらゆるものは、1ある状態で別の位置を問う事で発見は起こる。
例えばリンゴが一つあるとして、
それを見つける自分というものもう一つの1)がなければそもそも、何も見て居ないと同じ。存在認めるものがいない。2原発生論。今回ここも端折ります。

さて3. 【if 自身 反発法則】
「無限」と「それ以外の何か」しか世の中にはないという理論。
これは最近発見しましたが、
このものの見方なら、貴方の無限と有限の定義を崩せます。
この見方、この構成理論は、こう。
一なるものの証明は、幻想の中で存在に意識、意思ある霊長的な知的存在が仮想、仮定するもの。
しかし、本来は、1という数字は同じものが二つとない世界には、一つとしてつけれなき物語。

リンゴの話はさっき、2回答目くらいで説明しましたが、
一個たるものは、
同じリンゴがなき以上、
定義を追い続けることこそ無限に生じるのです。労力が

一個のリンゴを見て次に同じようにリンゴの遺伝子を持つものを見て、2と名付けようとする場合、

結局どこを同じなら、にと呼べるのか?

体積や、内包水分は違うもの。
味や匂いも個体で違う。
形も若干違うし、タネも異なる。
さて極め付けは、遺伝子が全く同じだとして、
その遺伝子を全ての細胞が持っており、また一つすらも変わらない遺伝子であると検証を終えているのか?
という問いが残ります。

一つの過程において、1という数字を出すという行いは、

仮定、仮想、そして下層の概念なのです。

つまりは、そうすることで問題を狭め、話をわかりやすくする。
端的には、約〜 という状態でどこかで無限を切り捨てている。

なので、この見方の場合、
夢幻の世界とも言える か
無限にしてあらゆるものを1と捉える前の何かとも呼べる世界。
となりますね。
あらゆる世界の視点 先!
無限性にあるものを人は切り取り、1という幻想的火葬を当てていると呼べる


公に証明する事も、
狭くした小さな世界を仮定している。これ自体が概念であり、概念に付属する問い。
これを認めさせる必要があり、どこから認められるのかすら、個人ごと、そして、明確な規定なきものですよ


例えばバイクのスピードを計算する際、エンジンの力 トルクや、燃料の燃焼効率を計算に入れます。が

バイク自体の形や、重心バランスを見なければ実際にその速度ができることはない。
おそらく大体転倒したりもする

一つの式、一側面の問題しか見て居ないからこそ、そこにはまりますが、
それは多数組み合わせても、まだ見るべき問題式を見られなければ事故の確率はあるという事。

絶対とは、このような小さな問題にも一般的に当てます。

例えば、
温度の最低は?
と言えば、絶対零度!となる訳ですね。
これは一般の人や複数の科学者は、普遍なる基準と信じる訳です。
絶対性一つで神、真理は表せれません。
故に、真理 〉 絶対 性
とも呼べます。

真理は様々な問題を通して見つけるもの、との、最大定義も含まれる。

なので同じく、無限に、無限性すらも、神や真理には届かない。ここに無限のリンゴがあっても、それは知恵の見方。全知でも全能とは
計り知れない。

相対する問題の大きさで、
その存在を規定する位置を変える。べきなのです。

その為の 国語にして、その為の単語、
一つの単語ごとに、問いを変える。
全く同じものはない。

しかし、概念レベルで同じ類義語、そして、音以外に違いがないニュアンス 同義語。

さてと、
自分、自身、身内、私 (僕、俺、アタシ)
について、これも、使うべき場所が異なるだけ、
なるだけ大きな問題には、
自身や自分を用いるべきとも言えそうですね。


そう言えば飛行機はもっと不思議ですね。

何度も飛ぶことを確認し、
飛びやすい設計、複数の理論の複合、安全性の工場も手を着ているのに、

飛ぶ理由はまだ不明ときている。飛べる真理

様々な浮力や風圧の観点から、
理論として、形作られては居ますが、それもどれも、
完全にはわからないという。

実験結果の方が、収束しているのに、
原理式が未解明
このような場合もあり得ます。







なお三つの法則は、見方の違いです。
実は同じものを別の見方で見てるとも呼べる、かも知れない。それほど世界は幻想性が高いから。残念ですがね。


真理は、私も貴方も確かに
普遍なるものがある
絶対の真理もあり得ると信じている

しかし、それでも、
2人の見方は異なる。


貴方は、絶対の真理は知ることはできないと、
壁を立てて居ます。

今壊しましょう。

絶対の真理は
相対と同じ場合もある。

この場合も貴方は、
それを知ることはできない、あるいは知ることができるかできないかわからないという。

しかし、
現実は?

こういう場合もあるが成立します。


例えば、
カミサーマ星人
と言う人たちがいて、
人間に神の行いを見せ、
発展させ、倫理を築き、
神を少なからず信じるように
昔から干渉してきた。
これが事実だとします。

宇宙の広さは、もう、
発見できている銀河全ての広さしかなく、100年程度で到達できたとします。

この場合、さらに、神サーマ星人さんが、そうだよここまでしかないんだよ。と言ったとします。

すると世の中の人は、やはりそうなのかと納得して、
彼らを神とし、宇宙の終わりをそこに決める。
普遍となる

そう言う場合もあり得る。

貴方は絶対に届かないものはあると主張しますが、
それも、事実の前では無意味です。

ただし、例えば、私なら、
それでも外側は作れる!と申し上げます。

たとえ宇宙の広さに限りがあり、神の如きと呼べ悪究極の存在がいたとしても、
人がそれを信じるか信じないか、それは人の意思で決めれるし、また、概念という問題に外側を夢幻築き上げれるものです。


貴方と私の、真理に対する
向き合う姿勢の違いは、

私はおそらく、
多くのものが、すでに真理の一部の法則に触れており、
その為、人類は発展していると考える自信を持っていると言うこと。

貴方は、相対経験 とは 異なる絶対無限は、存在、それは永遠に証明はできないとしていること。

何度も言いますが、
そこも、貴方の経験の末の、
相対 の値です。

真理でなき場合もある。
あり得る。と言いましょう。

私はかつて より、2000年〜2014年ほどまで、無限論と言う、理論を構築し、世界を見る導(しるべとしていました。

簡単に言うと、無限性のあるこの世界では、想像しうる全ての 存在、事象、法則は、必ず存在する。と言う理論。全肯定論理を常識延長知で作りました。現在レベル5あたり(つまり五回は、否定方法を見つけ、また、最後に肯定してる)

この理論 今回長すぎるので
割愛しますが

よろしく。

世界とはあらゆる無限なるものの中から、過程にして仮想
、仮定して、数学を作るを
数学とは、言語の一種。

現代なら、神の公式、これが最も真理に近いものではないかと考察されてますね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ はぁ、そろそろ自分の言ってることに矛盾があることに気付き
ましょうや。
☆ 間違いを的確に指摘してくれれば済むことです。


★ 絶対という保証はつけようが無きもの。
☆ だから 《想定》――仮説法(アブダクション)――なのです。



★ また非知のわかるかわからないか謎というのも、
捉え方としては、未知 の一部と呼べますね
☆ 呼べません。片や絶対性(超経験の場) 片や相対性(経験世
界)。






★ 貴方は非知を自分の中で高尚なものとして居ます。
☆ ただの《想定による概念》です。

ただし 経験世界では 言葉として《かみ》と表わしているものに
ひとしい。

★ しかし、それは概念として作れますが当たり前の考えの一つに
過ぎません。
☆ そう言っています。

★ 一たるものは人が権利にて幻想性の中から、仮定を見出し!
1という強い言葉で、数字というものを作り出した。
☆ そうではなく おそらく ひとという存在を数えたのでしょう。
特には その自由意志・つまりその主体としての存在です。それは
社会的にですが(関係性のもとにですが) 独立しているからです。



★ 2.二元論的原初発生法則。
☆ 《元》が 絶対性のことなら 《ニ》元や《三》元はあり得ません。

つねに《絶対性=無限=真理》は 全体であり 全体としてひとつです。

二で割っても三で割っても 商はつねにもとの《全体として一つなる無
限》です。


★ 全てのものは、ゼロ(無)など無く。
☆ ゼロは 空位記号です。経験事象をあつかっています。

《ひとつ》と数えられるものは 《有る》です。それが 見えなくなれ
ば 《無い》です。ゼロなるシルシで表わします。




★ 一個たるものは、
同じリンゴがなき以上、
☆ そうではなく 《数》というのは 個別の個性を捨象して 共通
の要素としてのみ=つまり抽象的に捉えた単位体を言います。

《リンゴ》という概念で規定し得るものは つねにその個体が一とし
て数えられるのです。




★ 一個のリンゴを見て次に同じようにリンゴの遺伝子を持つものを
見て、2と名付けようとする場合、
☆ それは 《共通の要素》という点で別の基準に換える場合です。

つづく

お礼日時:2018/08/22 11:08

うーん見えませんね。


リンク(貴方と私の(接点は))
面白きかな。(第五答です)

時空間の無限すら、普遍ではありませんよ。
証明は不可能。
よって、一般にあったとしても、
それは常識延長知です。

確かに非知や時空間の無限を知るあなたは、とても見識が深いと呼べる。
しかし、方向的に、慢心して止まり、浅いままの知識もありますね。

認められなければ、進歩をやめると同じ、それは同門と呼べる 哲学者 としてはあまりに可哀想なので。
無知の知を持つべき、貴方の見えない部分を教えてあげるとしま そうですね。

ちなみに、
普遍が 絶対のものがないとさっき言ったのは、
この階層の会話なら必要ないからなんです。

普遍と真理はそもそも概念上同じレベルの 単語ですね

だから真理だけ絶対は 見つけられないとしておけば、普遍の方は、特にそう指定する必要がないのです。
どうせ、証明する際知識者が信じなければ独り言であり普遍という歴史的事実は生まれません。
片方 もし わかればどちらもわかった状態と呼べる。
普遍なる真理です。

9以降に回答していると同じなのは、それが繋がりある真理であり法則の延長です。

貴方はまだ基盤の大切さが見えないようですね。

この貴方の質問は、2〜6で私は私ではないかもしれないと言う問いを出し、
7.8は私とは誰かかもしれないと言う問いになって居ます。
私と誰か、本来違うのは単語そして概念の違い。
ここは、質問というより前提をつけるべき。
自分の前提を踏まえて
問いを考えないと、
段階を経て居ない。
それはただ式認識を阻害します。
概念のカテゴライズそして、認識をそのどれにこそ一番近いものであるのか?
整理整頓することこそがそもそも知恵であり、そして、知識を学んでいく、心ざし。

曖昧にふやかしては、問うべきものが何なのかも曖昧となって居ますよ。

反復証明による実験結果は、
基本は経験とは異なり絶対の域と定められます。それは一般 (大衆 (5者))に置いてです。

しかし、普遍とは限らない、と呼べるレベル。

絶対の法則は、つまり化学式などですが、
もっと深めていうと、
貴方はお腹が減る!

それは絶対に起こる(と信じてる)

しかし、そのためには、人間が腹が減るという証明が必要

そのさらに上に、他人がいることを証明された段階(段階基盤)がなければ、兎にも角、
それは絶対ではなく経験としか言えない。となるでしょう? か


普遍たる真理に近いと感じたい、実験結果を見ても、
しかし人は、
それを普遍や真理という確証、覚悟、つまりは自信がないものなんです。
基盤は人の自信というなの、信じる力を増するために必要な 固形法則=定理とも呼べます。

信頼が一般に伝えられる
事で人は、信じられるなら、常識と思い始める。

まずは、自分、次に 他人の存在を確証して
その段階で相手に伝えることができると証明され、
そして、人に普遍を感じさせれる。つまり信じてもらえれるという事。

貴方は、質問者として、
問題にも気を配る義務が、学び徒である限り、存在するんです。

不要だと再確認したら貴方が、得た知識を噛み締めここを閉じればいいだけ ではないでしょうか?。
私は興味のある範囲であればまだ回答します。

ほんとはそろそろ、リソースを割く暇もなくなりそうなのでいつ、キルトも限りませんけどね。申し訳ありませんが、
よろしくお願いします。



続いて、権利にて1という数字を、


ごめんなさいここまでで今回の回答終わります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 時空間の無限すら、普遍ではありませんよ。
☆ 次から次へ1を足してゆく《可能無限》 これは 有限の数です。
絶対性なる無限は 《真無限》です。数えられない。

相対性・・・・・・・・・・・・・絶対性
_____________________________
有限(可能無限をふくむ)・・・・無限(真無限)
経験事象・・・・・・・・・・・・超経験
真実(主観真実)・・・・・・・・真理
可知(既知・未知)・不可知・・・非知
ゆるい普遍性(一般性)・・・・・普遍性
法則(因果律)・・・・・・・・・法(ダルマ)(因果関係から自由)




★ 貴方はまだ基盤の大切さが見えないようですね。
☆ 何のことですか?

★ この貴方の質問は、2〜6で私は私ではないかもしれないと言う問いを出し、
7.8は私とは誰かかもしれないと言う問いになって居ます。
・・・
☆ 読み取れませんでした。


★ 絶対の法則は、つまり化学式などですが、
☆ あり得ません。化学式は 認識が及んでいます。
絶対性は 人間の認識が及ぶか及ばないかが分からないナゾです。


★ 貴方はお腹が減る! / それは絶対に起こる(と信じてる)
☆ それは 言葉の派生用法です。相対世界のものごとにもそれを強調
するために《絶対》をゆるい基準で用いています。



★ 普遍たる真理に近いと感じたい、
☆ これも 表現の間違いです。《絶対性=普遍性=真理》には 近い
遠いというあり方が げんみつに言えばありません。だって 分かるか
分からないかが分からないナゾなのですから それに近い・遠いという
ことは 決められません。


★ 信頼が一般に伝えられる
事で人は、信じられるなら、常識と思い始める。
☆ この場合の《信じる》も 派生用法です。経験事象については《無
条件で受け容れる=信じる》という語は ほんとうには 用いません。
強調用法です。


哲学の基礎から始めましょう。

お礼日時:2018/08/21 20:21

第三回答目。

今回で終わりにしますね。
なるべく、としか申せませんか"

今回は
えーと、7がなぜ他の質問と異なるのか。2〜6までよりレベルが低い質問と言う、か、それを説明しましょう。

その前に
普遍は、相対はありますが、
絶対はないと言い得ます。
それは絶対の普遍と信じているに過ぎず、いつの時代でもその状態でしたね。
過去などに神を信じていた集団にとって、普遍的に神とはいかなるものとは定義されますが、結局はそれを信じている状態の集団としか言い得ません。

しかし、真理や法則には絶対的なものはあると、私も信じます。

だからこそ、何ですが、そもそも普遍にまで、絶対性を持たす必要がない、とも呼べる。
まぁ、わかりませんでしょうか。
これも仮定階層な話。

たとえ絶対の普遍の〜が見つかったとしても、
それは、学識層が支持しないと社会において普遍とは呼ばれず、本人の主観にのみと呼ばれる。

まぁ、ここは層までこだわる必要はない。

真理は、あらゆる法則の中心、中枢に座す。
それ故に、真理なんです。

法則が正しい場合、
繰り返される 法則の証明により、同じ結果の実験結果が出るし、何度も同じ化学式で、同じ物質が生成されたりもする。

法則が正しいとは、そもそもその法則においての真理面を 正にて得ている。と言える。

あらゆる法則は、最終的に、繋がり、この世の真理と呼べる、しかし真理という1つの言葉を追求しても、それを感覚で感じては、意味をなくす、と言うか、伝えようがない。伝わらない,時に 理解してないとすら言える。
他者(2者以降) に伝えるには、真理を繋ぐ法則を理解して、相手にわかるように説明する必要がある。

主観も
個人主観と、
集団的な主観があると呼べますが、
概念上の問題がそもそも間違っていると、
真理につながらない仮定概念となり、間違った答えと呼べます。

円の中央に 真理 を置いて説明する。このやり方をしましたが、円では説明できない場合球とする必要があります。

より真理に近い、あるいはより、その周りの概念にほど近い。この位置関係を相関図に書くことはできる。
しかし、上下を表す場合、
円形(2次元)では、誤った位置ができる、場合もある。
なので球にし、また円を回転させるような位置柄で、各図面を2次元的に 上下左右の位置関係を表す。

球でも表せない場合もあり得ルと予測されますが、その場合は、更に表し方を考える必要がありますが、そもそも、
そうなるには多数の 概念、戦後以上を並ばせなければそもそも、座標の表示を誤ったとしても、程度は位置関係を表せれる。

わかりやすさを問うなら
このようなグラフ、等の表示形態でも表せれるようにする必要があります。
人に伝える場合、または、知恵としてより長く残す場合。
整理整頓が重要です。



問題は7

みんなで一斉に私と唱えるの話です。今回は。

それは、概念である問題を揺らがせる


概念のレベルが異なる。
概念に関しては統一の基盤がいるんです。


どんな部分か、
2〜6は、私と言うものが錯覚である場合、
私は私たるのか?
私は私なのか?
それとも胡蝶の夢、
幻、
覚えている記憶に齟齬ありと、確証を得られない事態も考えられうる。

これは問いとして、
ありだと思います。


しかし、私は他人なのかもしれない。と言う問い。
7の一斉に私だと!話す場合

これは、そもそも、私の定義を、根底から ぼやかしています。
自分と自身の違いをあなたは分けれますか?
身の内

私とは、自分自身。
身の内をそううさできる意識。

ここを基盤とした上で、2〜6を問い、
そして、やはり 1に帰る。
私は私であると言う基盤
これを手にするなら意義ある行為ですなが

しかし、私が私ではないかも知れないは、
問題の重要な単語
私の定義を揺らがせる。

定義(概念基盤)が決まっているから
1〜6は成立する質問
何ですな。

意味もなく同列に並べて、
下位の定義までな揺らがせては、質問する前の問題が生じます。


そして、本来1.
この使い古された問いは、
一般にはこう呼ばれ解決している。

私は私である。

それは、もはや問題とは呼べない当たり前の事実、常識であると。

それを時に疑うべき、程度が2〜6と考えます。

7なら別に、質問を出す前に、終わらせるべき問題。
その前にこれ1つで質問を作った方が良いでしょう。
8も同じ。

9以降は、私のライフワーク外なのでいつか有給にほど近い時の果てで時間が空いた時にでも考えさせていただきますね (美辞麗句)

申し訳なき。



さて、

それと、アウグスティヌスさんの、自分の証明ですが、
あれはまだ、完全な証明ではないと、前にお伝えしていたはずですが。

なお、当方のスマホでは、URLにリンクが出ないので、見れませんご了承ください。


デカルトさんの我思う故に我ありで、ようやく、自分は存在すると言えます。

何故なら、我思っている状態は、物質ではなくとも、
エネルギーは何らか、必ずあると呼べる、存在するを表すからです。
また、エネルギーは、存在するものと、簡単に言える理由は、また、その概念があるこの国の言葉を利用するからとも言える。

言葉を利用した末で、その言葉の同じ問いを出すのですよ。
概念を勝手に変えて辞書にないものにしては、そもそも同じ土俵で話し合ってはいないと言うことです。

それでは、夜分回答で申し訳ない。

御機嫌よう。


お休みなさい。

エルミルシスティーア
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。



★ 普遍は、相対はありますが、
絶対はないと言い得ます。
☆ 正解は 《普遍について 絶対なる普遍は 想定です。その絶対は 有る
とも無いとも いづれとも人間には知り得ません。知り得るか知り得ないかが 
知り得ないナゾ》です。

《無い絶対》についても ひとは――想定のもとで――《そのまま無条件で受
け容れている。つまり信じている》のです。

《絶対性》とは そういうものです。条件づけることが出来たならそれは 相
対性であり絶対性ではありません。



★ しかし、真理や法則には絶対的なものはあると、私も信じます。
☆ 法則は 表現としてふさわしくないでしょう。《規則性》をそこに人間が
見出しているのですから すでに相対的な認識が混じっています。

内容が分からない(分かるか分からないかが分からない)ナゾとして《ダルマ
(法)》と言うのなら まだましです。

時空間の無限(真無限)が 絶対なる普遍性です。

要するに 相対性なる経験世界を超えた場のことです。そう想定するのです。




★ 法則が正しい場合、
繰り返される 法則の証明により、同じ結果の実験結果が出るし、何度も同じ化
学式で、同じ物質が生成されたりもする。
☆ それが 相対的・経験的な規則性としての法則です。因果律です。




★ 問題は7  / みんなで一斉に私と唱えるの話です。
☆ いえ 問題にならないと思います。 (2)~(6)までの話を 《みんな
が一斉に》という仮設条件にさらに当てはめた。それだけのことです。

不要だというのなら 取り下げておいてください。というだけの問題でしょう。





★ 9以降は、私のライフワーク外なので
☆ でも つながってますよ。







★ アウグスティヌスさんの、自分の証明ですが、
☆ 教えて!goo の質問なら 見られるのでは?
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9157259.html?pg=1&i

☆ それに対して批判するかたちを採ってもらうとありがたいです。

お礼日時:2018/08/21 08:33

説明がへたくそなので分かりませんと言っています。

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説明する力が…  自分を利口だと思うならわかるように説明してみてください。

できるはずです。できないのは、アレだからです。または、自分の言いたいことをちゃんと消化できてないから説明できないんですよ。どっちかわかんないけど。。利口な人は説明も上手。
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この回答へのお礼

分かりましたとは言えないんだね。




ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2018/08/20 21:53

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