ヨーロッパ人の真理論は成っていない。という見解を示して問います。
▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86
§ 1 西洋哲学における真理論
真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。
(1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。
アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー
(2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。
中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル
(3) 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
ルネ・デカルト、エトムント・フッサール
(4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ
(5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス
(6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。
フレーゲ
(7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
フランク・ラムゼイ
(8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。
☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。
(い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。
(う) 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は そのような・人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。善悪の彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。
(え) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。
☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらから真理は自由であるのだから。
(お) 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。
(か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが
▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。
(き) すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。
(く) そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。
(け) この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば民主制なる理念など―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
(こ) 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
(さ) 民族(≒言語)文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
(し) この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
(す) それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理の桃源郷にのがれる。:
▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。
☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり (あ)に戻って 真理を《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に戻っている。
(せ) ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。
No.14ベストアンサー
- 回答日時:
お久しぶりです。
とても勉強させていただきました。さて、真理についてですが、真偽を問題にするとややこしいので、最初の段階では、それを捨象します。それと主観、客観も捨象します。つまり、以下の文には、ところどころで言葉に明示しますが、4つのケースがあるということです。(追記:善悪も捨象してますので8ケース)
(a)真理から真を捨てれば、その概念の内容の型(タイプ)は、物象や事象でははなく、理象(理論)です。
真偽定まらぬ、相対的にして多数の(主観的/客観的)理論の流れがあります。
理論A1→理論B1→理論C1・・・
理論A2→理論B2→理論C2・・・
・・・
(b)この次元の流れがあるのとは別に、
理論A1→理論B1→理論C1・・・
↓ ↓ ↓
実践A1、実践B1、実践C1・・・
理論A2→理論B2→理論C2・・・
↓ ↓ ↓
実践A2、実践B2、実践C2・・・
・・・
という縦の流れがあります。予測どうりの成功も、また不測の失敗も、主観的にも、客観的にも生じます。
(c)それに、
唯一の絶対的理論
↓
唯一の絶対的実践
というのが、人間の能力を超えたところにあるのかもしれません。そのため、もしあったとしても人間には有用ではありません。たとえば「我が意識、生ずも滅するも、我関せず」という気がします。
(d)横の流れにとらわれていると、理論の実用性は偶然的になるかと思います。縦の流れ、実践を意識すれば、少なくとも蓋然性は高まるでしょう。
実践するという現実、そこに関わりがある、役に立つ理論(実用説)は支持され、(理論と実践の対応説)も支持されます。(整合説)のみの主張は批判されるでしょう。しかし、役に立つ理論(実用説)が支持されるということは、これはつまり「真なる理論」が尊重されるということでもあるのですから(整合説)も必要とされます。理論化から実践化の人間行為の流れの中に、実用性、対応性、整合性の各条件がすでに含まれているのです。
加えて、真なる理論を適用すれば同じことが再現するというということは、事実との対応がよくできているということになります。なので「整合性を基礎とする真理の実践説」なるものが、「群盲象を評す」中で、目の開いた人の真理条件の理論となるのではないかと思っています。
(e)理論の実践ということを考えて見ると、自然科学の理論は、その技術的な範囲内でいい線いってます(倫理的にではなく、事実とよく対応する理論と運用といいう意味で)。
これは西洋文明のおかげですから、その真理観は、成ってはないにしても、捨てたものでもないです。これを切って捨てようとするのは、実践面に目が向いていないということではないでしょうか。ですから、ぼくとしては、整合説(Coherence Theory of Truth)が優位を占めているんです。
コヒーレンシーは、(詳しくないのですが)概して言うと、光学機器の性能の示す基本的な特性で、光の波長や位相や振幅が一貫していて変動しないことや、他の波長の光と重ね合わせて利用するときの、相互の波長や位相や振幅の調和性(整合性)。その時間的な一貫性、空間的な調和性の精度の高いものが機器として高品質ということから、真理の有用性をいろいろ類推してみるとよいと思うのです。
理論的命題をひとつの波として思い描けば、その調和・整合性が理論(推論)の妥当性であり、一貫性は理論の一貫性(実用すれば現実の再現性、事実との必然的一致になる)。事実との対応によって理論が真になるのではなく、対応する事実に適用する理論が真であることが、理論が結論する事実との対応を生むのです。
理論の前提(こういう条件の時にというコトワリ(断り))
━前提事実との対応━
断っている条件に従って事実に適用(この対応は運用上の問題)
あるいは、前提が真となる事実にのみ適用、と言い換えてもよい。
前提の真偽を事実対応させるというのは理論面でなく運用面で。
↓
理論の結論(その時にはこうなるというコトワリ(事象分割))
━結論事実との対応━
真なる理論は、正しく運用されれば、事実が理論の結果に必然的に対応する。
(6)(7)については。どちらも不採用。
P→(P→T)は真だけど、P←(P→T)は偽なので、同値じゃない。だから執筆者の誤解じゃないのかと思うんですね。
フレーゲ
「同値テーゼ」:「「文Aの表す思想は真である」の思想は、「文Aの表す思想」と同一である」
http://daigakuin.soka.ac.jp/assets/files/pdf/maj …
ラムジーと真理の余剰説
http://www.u.tsukuba.ac.jp/~hashimoto.kouji.fu/p …
あと、ぼくなりに真理を定義しておきますと、「(人間の)真理とは、論理学的(あるいは数学的)に論理式(数式)が真であることが証明された、実践的理論の形式をもつ命題が表すところの、すなわち、タイプが意義ではなく意味であるところの理論である」(定義不可能説は不採用)
そして、この定義を用いて、「真理を適切に運用すれば事実がそれに対応する」という実践的理論的命題をつくります。真理が実用的に機能するためには論理が、つまり必然性が必要で、整合説が最も重要なのです。
フレーゲの、命題の意義と意味の区別は採用する。
命題・・・形式・・・・・・・(実用)理論形式
事象・・・内容(意義)・・・(実用)理論を認識する思考(概念構造の整合性が重要)
現実・・・内容(意味)・・・理論を実用のものとする真偽判断(整合性の観点が重要)
現実・・・内容(意味)・・・理論の実践(運用基礎、前提条件を遵守)
現実・・・内容(意味)・・・理論に従う事実の再現
(5)については、前後しましたが、人は約束を破ることがあるので、合意は真理にならない。ただし、前提条件は合意に基づいても良い。約束を守るという仮定のもとに結論が事実と一致する。事実と一致しなければ、合意あるいは理論の運用が疑われる。真理は疑われない。理論が真理でない可能性は疑われる。
(3)明証性は、論理的証明性にかえる。前提条件で明証性を採用してもよい。理論の結論が一致しなければ、前提の明証性か、理論の運用を疑われる。真理は疑われない。理論が真理でない可能性は疑われる。
よって、合意性と明証性は理論の前提に関する条件として採用。
(8)規約主義は不勉強で、思うところなし。
「神の真理」には口を閉ざします。
この回答への補足
▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。 / フレーゲ
▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。 / フランク・ラムゼイ
☆ これらについて 次の文献を参照して思ったことを述べてまいります。
◆ 平 石 美 喜 子:フレーゲ論理主義の認識論的意味付け
■ 橋本康二:ラムジーと真理の余剰説
(そ) ◆ ( p.376 ) ~~~~~~~
真なる思想の表現は真なる真理値を意味しているので、フレーゲによれば、真である真理値を‘2^2=4’や‘(1+1)2=4’の「意味 Bedeutung」と呼ぶことができる。また同様に、偽なる思想の表現は偽である真理値を意味し、‘1^2=4’や‘3^2=4’の「意味 Bedeutung」と呼ぶことが可能である。この真理値には、真か偽かという二つしかない(真偽二値の原理)。
それでは、同じく数4を意味しているのにも関わらず、‘2^2’‘4’‘(1+1)^2’とでは表され方が異なることについてどのように説明するのか? フレーゲはこの相違を「意義 Sinn」と名付けた。そしてこのような表現のことを真理値の「名前 Name」とし、真理値の名前の意義を「思想」と呼ぶことにした(GGA §2)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このことに――つまり 意味と意義とに――違いはないとわたしは考えます。
(た) ◆ ( p.378 ) 何らかの記号が意味する対象そのものは意味であり、他方、表示されたものの与えられる仕方を含み、対象と記号の間に位置するものが、意義である。
☆ すなわち シルシとわれ あるいは 対象とわれ これらの間に位置するものも 大きく広くかつふつうに《意味》です。あるいは《意義》と言ってもよい。
(ち) おそらく日本語では区別する必要はないと考えます。《表示方法 あるいは 自己表現の仕方》 これらの内容も 意義であり意味です。
(つ) 言いかえると シルシが〔誰もに認められているかたちで〕持つ意味は そのシルシ(≒ことば)を用いる主体であるわれとのあいだで――ということは結局 文脈にかかわって――いくつかの異なった意味にもなります。これを 意義と言ってもよいでしょうが 日本語では 意味です。区別する意味がないと思います。
(て) ◆ ( p.379 結びに代えて) ~~~~~~~~
算術的真理についてフレーゲが述べたことから、算術的真理の正当化は如何にして証明されうるのか?
その根源はどのようなものなのか?
その方法の妥当性がどのように求められるのか?
そして、
論理学や算術の哲学がどれほど有用であるのか?
という問題に対する解答が垣間見えるのではなかろうか。あくまで客観的に推論されることで獲得されるということによって、心理主義や経験主義に拠ることなく認識するという可能性を示唆しているのではないか、と筆者は考える。
概念記法によって、判断から原初的論理的真理へ推論する。そのことで、人間が一体どのようにして認識を獲得するのか、あるいは拡張するのか? その認識は妥当であるのか? という問題について考察することが可能になるだろうからである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここには 意味はないと考えます。 《原初的論理的真理》とは 公理のことだそうです。論証以前に真だと見なされる命題。そこへ概念記法によって推論すると言っても 何も言ったことにはなりません。
(と) もともと 《その認識は妥当であるのか? という問題について考察する》ことから出発したものです。
(な) 《客観的に推論される》と安易に言い過ぎです。
■ ( 1. 序) ~~~~~~~~~~~~~~
本論文では二つの区別をもうける。
一つは、命題の真理と信念の真理の区別である。
これは、実質的真理論が真理性質を帰属させる存在者(真理の担い手)の種類に関する区別である。
簡単に言うと、命題とは物質と異なる形而上学的な存在者であり、信念とは心理的生理的な人間の状態の一種である。
もう一つは、真理をめぐる存在的議論と言語的議論の区別である。
これは、世界のあり方を検討する中で出てくる真理に関する議論を、我々が現に所有し使用している「真である」という述語の意味に関する議論から区別するものである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (に) わたしはこの区別も要らないと考えます。あるのは 《事実》と《われ》と《シルシ(≒ことば)》であって それらのカラミとしての関係は ワレが存在するかぎり・表現者として介在するかぎり 《存在者にとっての主観的な意味》が問題になる。こう考えます。
(ぬ) すなわち 《命題》と《信念》とは つねに絡まっています。
(ね) すなわち 《存在者》と《言語表現》とも つねに切っても切れない関係にあります。
(の) 《「真である」という述語の意味》は 表現の主体であるワレの意志や意図とつねに絡まっていると見ます。その主語なる対象にしても ワレと絡まっています。
(は) その表現者なるワレの意図は むろん相手やその情況に応じて 意味を変えたかたちで 発せられます。それは 活きています。
(ひ) ワレの意図としての意味が初めに来て あとは 相手とのあいだで・つまりは相手がどう受け取るかで さらに初めの意味が――活きたかたちで――変化する場合があります。誤解があれば それも――事実として起こったかぎりで―― 真実の意味でしょうし さらにこの誤解をただすことも ワレにとっての真実の意味になると考えます。
(ふ) 成功ゆえの真実説(《サクセス真理論》)もそしてあるとすれば失敗ゆえの真実説(フェイリャ真理論)もあり得るはずです。その意味では 《実用(有用)真理論》は 二次的な議論であると考えます。
あともなどすさん こんにちは。そう言えば 先日どこかでお名前をお目にかかったと思っていましたが 考えてみればずいぶんお久しぶりにもなるかと思います。まづは なつかしいですね。(論理学としては この質問の主題をあまり考えていなかったものですから なつかしいと言いますか 論理学の視点からもお聞きする姿勢になっているべきだったというような)。
ご回答をありがとうございます。
なにしろこのたたき台について オボカタ・タイプだと言われてしまいましたので張り切ってさらに精進してまいります。
さてあたまから読み継いで行って 次の見方になるほどと思いました。:
★ 理論化から実践化の人間行為の流れの中に、実用性、対応性、整合性の各条件がすでに含まれているのです。
☆ 整合性のない内容は まづ理論とは言わないでしょうし その内容が事実や事象と対応していないなら 理論の整合性は 絵に描いた餅ですし またその対応のあり方が 実用性に乏しい場合には あまり理論が求められないのかも分かりません。
実用性は ただしどうも 類としての問題ではなく 種ないし〔個別だとは言わないとしても〕特殊の場合に問われるというようには思います。つまり 二次的な問題であるかとも考えます。
あるいは もう一点思ったのは 理論と言っても じつは実践や現実の事象について要素を抽象しつつ形づくるのでしょうから 実践や事実との対応性がないというのも じつはおかしい。たぶん既成の理論を突き抜けるあたらしい内容のことが焦点となっているのでしょうか。つまり 理論の実践化においてはです。
かくして:
★ 加えて、真なる理論を適用すれば同じことが再現するというということは、事実との対応がよくできているということになります。なので「整合性を基礎とする真理の実践説」なるものが、「群盲象を評す」中で、目の開いた人の真理条件の理論となるのではないかと思っています。
☆ この場合の《真理》は 《事実》を認識した理論内容が広く整合性にも対応性にもそして実践性にも富んでいるという意味であり わたしの用語では《真実》ですが そのとおりにわたしも考えます。
なぜ《目の開いた人》の場合でも 真理と言わず真実と言うかと言えば
★ ~~~~~~~~~~~~~~
(c)それに、
唯一の絶対的理論
↓
唯一の絶対的実践
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という《絶対性》を持つ理論も実践も 現実にはないと見るからです。この《絶対性》については 《非知》として《真理》を当てています。どうでしょうか。
★ これ(自然科学の実践性)は西洋文明のおかげですから、その真理観は、成ってはないにしても、捨てたものでもないです。これを切って捨てようとするのは、実践面に目が向いていないということではないでしょうか。ですから、ぼくとしては、整合説(Coherence Theory of Truth)が優位を占めているんです。
☆ ええっとですね。舌足らずの早とちりだったんですが それでも言おうとしたことは 自然科学が けっきょく良きにつけだけではなく悪しきにつけても 要素還元の志向性がきつ過ぎる場合が多い。という一点でした。
カジノを日本にもつくるかどうかが課題になっていますね。自然科学的にその経済社会的な理論を打ち建てて実践面でどうかと考えるわけですが いろいろ考えられているようです。
マカオや韓国にもあるそうですね。そこより魅力的な(?)施設が出来るか? 世界の賭け事好きを呼び寄せられるか?
施設をつくったときその地域の商店街はさびれてしまう事例がある。そのことを考えると カジノを含むリゾート施設が新しい雇用を生むとしても 経済効果はプラスマイナス差引ではそれほど期待できない。
あるいは ギャンブル依存症の人間を一定数において生むという経験事例が観測されている。
日本人がお客となるのでは 全体の GDP を押し上げることは出来ないと予測されている。
つまり 要素による分析は 捨てたものではなく実践的であり実用的です。と同時にそれら要素の側面だけから考えても よい判断は得られないかも知れない。高度に政治的な観点から・いえ と言うよりは生活世界の観点からしっかりとした判断をする必要があるのではないかと思います。いつもそれだと言うわけではありませんが やはり直観も大事だと思います。
もっと実際のこととしては その現地に暮らす人たちの考えをよく練って行くことが大事なのではないか。それには 科学的な理論としての判断資料が必要である。こういうことだと思います。
★ コヒーレンシー
☆ にはそういった光学の現実性があったのですか。(そう言えば ついこのあいだ デ-コヒーレント理論と言うのを聞いたばかりです。記憶にマチガイがなければ 光子がぶつかって量子がさだまった状態になるそのような確定は 人間のおこなう認識による場合だけには限らない。とか)。
★ ~~~~~~~~~~~~~
━前提事実との対応━
断っている条件に従って事実に適用(この対応は運用上の問題)
あるいは、前提が真となる事実にのみ適用、と言い換えてもよい。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは きびしく言うと自然科学の場合ですよね。モノ・コトを扱う場合だと思うのです。
想定外のことが発生することを 社会科学や人文学では 大前提としなければならない。というより一般に科学ないし理論としては 一定の前提事実について法則性を取り出すのでしょうし 例外なる事態の発生についてはその《想定》も限られたものとしてもう良しと見限るのだと思います。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
あと、ぼくなりに真理を定義しておきますと、「(人間の)真理とは、論理学的(あるいは数学的)に論理式(数式)が真であることが証明された、実践的理論の形式をもつ命題が表すところの、すなわち、タイプが意義ではなく意味であるところの理論である」(定義不可能説は不採用)
そして、この定義を用いて、「真理を適切に運用すれば事実がそれに対応する」という実践的理論的命題をつくります。真理が実用的に機能するためには論理が、つまり必然性が必要で、整合説が最も重要なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《真理》は たぶんそのまま学問の世界では使われ続けると思いますが わたしの区分としては《相対的なものごとについての真実》のことだと捉えて 同意します。
そしてもし相対真実だとすれば 理論(つまり人間による事実認識)と事実とは 互いに同等の重要性において位置づけられるとも考えます。どちらが優位であるといった見方はしない。もし言うとすれば 人間は奇妙なる事実の発生につきその事実のほうに重きを置いて捉えなければならないと思われます。
★ (6)(7)については。どちらも不採用。
☆ このフレーゲとラムジーにつきましては 参考論文を読んで補足欄にて――あまり分からないと思うのですが――応答いたします。多少時間がかかると思います。
★ フレーゲの、命題の意義と意味の区別は採用する。
☆ このあとでもさらに考えますが ということは《意義》は出来るだけいわゆる《客観性》に近づいたと見なされるところの〔ふつうは主観的な〕《意味》のことである。でしょうか?
ただし 《再現》をめぐる《意味》は 客観的な意義に重なるとも思えて来ますが。・・・
★ (5)(真理の合意説)については、前後しましたが、人は約束を破ることがあるので、合意は真理にならない。
☆ ううーむ。この場合の《合意》とは 理論内容について妥当であると同意する――主観を共同化する――ことだと思うのですが どうなのでしょう。約束というような意味合いがからまっているのでしょうか?
言いかえると 《同意ないし合意》が・つまりその判断が間違っていたということもある。というだけのことだとは思うのです。もっともここに《整合性》を入れて捉えなければ 話はあまり始まらないとは思われます。
★ (3)明証性は、論理的証明性にかえる。前提条件で明証性を採用してもよい。
☆ けっきょくですが 明証性だけでは 整合性があるとは限らない。という問題に帰着するのではないかと。どうでしょうか。
★ (8)規約主義は不勉強で、思うところなし。
▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
☆ 確かに個々の《言語》にそれほどにまで特殊性を持たせるのなら 言語どうしの相対性が崩れるかも知れませんね。
★ 「神の真理」には口を閉ざします。
☆ あぁ。ここにわたしの言う狭義の真理が出て来ました。
No.15
- 回答日時:
>実用性が二次的
そう受け止めるのがふつうでしょうね。
>整合性のない内容は まづ理論とは言わない
いいえ、整合性のない内容を(誤って、偽って)理論と言うことはよくあることです。それを問題として批判と
してはそれでいいでしょう。
>その内容が事実や事象と対応していないなら 理論の整合性は 絵に描いた餅です
意を汲めば、おっしゃるとおりです。
>その対応のあり方が 実用性に乏しい場合には あまり理論が求められない
そうだと思います。
ここにきて思うこと。
実践を鍵語として何らかの同意があるということですが、全体的な論点の違い、というより意図の違い、に目を向けると、真理というものの主観的了解が、思考の対象とするものか、信仰の対象とするものかでしょう。
回答者の立場として道を譲れば、人は神を信じ、神が真理として万象を支配し、私が生かされているという事実を知る。だから真理説は成ってないとおっしゃる。僕自身群盲の一人だったということですね。
ご回答をありがとうございます。
★ 実践を鍵語として何らかの同意があるということですが、全体的な論点の違い、というより意図の違い、に目を向けると、真理というものの主観的了解が、思考の対象とするものか、信仰の対象とするものかでしょう。
☆ ええっとですね。《信仰の対象》は 神です。神もしくは絶対・非知などとして説明されうる真理です。
つまりは 信仰は――非思考の庭というごとく―― 《非対象》を対象とした《受け容れ行為》です。わが心に庭が成るというかぎりで 受け容れるというのは 経験的な意志行為です。ただし何を受け容れるか? 何が何だか分からないナゾをです。
もっとも 人間はよくしたもので 《神》なら神という言葉を受け容れます。あるいは その名でオホモノ( m )ヌシの神であるとかヒトコト( e )ヌシの神であるとか――つまりはあたかも e = mc^2 ――を受け容れます。ブラフマンでもブッダでもすべては互いに同等です。《無い神》も 神の名のひとつです。やはり同等です。
事実をめぐる認識はすべて 《主観真実》であると考えます。つまり 《思考〔および感覚〕の対象とするもの》です。
★ 回答者の立場として道を譲れば、人は神を信じ、神が真理として万象を支配し、私が生かされているという事実を知る。だから真理説は成ってないとおっしゃる。僕自身群盲の一人だったということですね。
☆ いえ。それは 違います。おそらく 上の説明でご理解いただけたかと思います。
はっきり分かれているという意味です。
○ 非知なるナゾ ~~~~~~~~
経験事象
可知
既知
未知
不可知(知り得ないと知ったもの〔数学の定理か何かであるのだとか〕
非経験の場 (これは 想定です)
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
○ (非知なるナゾなる神をひとは受け容れる=信仰) ~~~~
信じる:非知:非思考の庭:ヒラメキ
-----------------
考える:経験知:思考の緑野:コギト
感じる:知覚:感性の原野:直感
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
経験事象にかんする認識が 真実です。人間の・わたしの主観真実です。
ですから 真理説=神学と そして経験科学としてのこの《真実論= 事実認識の妥当性を競う》とははっきりと分かれている。こういう見方です。
分ければ うんとすっきりすると思いますから。
No.13
- 回答日時:
>この非知を 《真理》として想定します。
bragelonneさんが言う真理の意味をよく理解できないのですが
真理の対応説とか真理の整合説などで用いられてる真理の意味とひょっとして異なるのではないのですか?
真理という同じ言葉で表現してますけど、ヨーロッパで語られてきた真理とは別の概念を
bragelonneさんが真理と呼び、それを根拠にヨーロッパの真理観は間違ってると屁理屈をこねてるように見えます
ヨーロッパで用いられてきた真理の意味とbragelonneさんが言う真理の意味が等しいことを示せますか?
ご回答をありがとうございます。
わたしから見れば ヰキぺ氏の用語としての《真理》が 《絶対普遍の真理》とそして《相対的・経験的世界における事実認識としての真実》とのふたつの概念をふくむというあいまいな用法になっています。
▼ 人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。
☆ これは 《絶対普遍の真理》のことです。
あとはほとんど全部 《相対的な真実》のことを言っています。(1)から(8)までの真理説における真理は 相対的な真実のことです。
No.12
- 回答日時:
>ええ。
そうですよ。そのナゾです。人間に分かるか分からないか分からないことがどうして真理だと言えるんですか?
ご回答をありがとうございます。
《人間に分かるか分からないか分からないナゾ》は 《非知》です。
○ 《非知》とは? ~~~~~~~
経験事象
可知
既知
未知
不可知(知り得ないと知った)
非経験の場
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この非知を 《真理》として想定します。
非知=真理は ふつうに言って《神》のことです。
神を――いろんな名で呼ばれますが 《無い神》をもふくめてその神の名を――心に受け容れるなら そのときわが心には《非思考の庭》が成ります。
受け容れる対象は 非知ですから 人間が思考することを超えています。ゆえに 《非思考》と言います。つまり これが 《信じる》というコトで いわゆる信仰です。
ただしこのとき《神の名を受け容れる》というのは――非思考という傍らで―― 人間の意志行為です。心にいだくという経験的なおこないです。
ちなみに《無い神》という名を受け容れるという場合をも含むと言いましたが これは もっと簡単に言えば 《いかなる神の名をも受け容れない》という意志による振る舞いを言っています。要するに 《神なんかわたしは信じない》という場合です。
つまり 神は非知ですから 《信じない・受け容れない》と言っても この《非知》が非知として人間の前に措定されていることは 消え去りません。つまりは 《信じないと信じた》ことを意味します。つまりは 《無い神を信じた》ことになります。
言いかえると 非知たる真理としての神は その存在が有るか無いかは人間に分からないのですから ひとが信じようが信じまいが その措定はありつづけます。よって いわゆる有神論があれば無神論もあるのですが これらはいづれも互いに同じことになります。大きく広く《信仰――わが心なる非思考の庭――》を内容としています。
無神論の場合には 一たんこのことを確認したあとでは 非思考の庭などといったことにこだわりません。放っておくことでしょう。
すなわち 真理なら どんな場合にも真理でありどの人にとっても真理であるのでなければなりませんが このように真理は・つまり神は あらゆる場合に普遍的に真理として 想定されたかたちであり続けます。
ナゾですね。
No.11
- 回答日時:
研究会のつもりで、雑談だよ。
>
★ ここで現実に偽物が混ざると言う錯誤は、心の方に錯誤の原因があり、その錯誤の実践が現実を調和からとうざける間違いを起こすからだ。
☆ 認識の落ち入り得るマチガイですね。人間の能力には限界があるから。
自らがとことん正直である事には、限界という境界は無いよ。
これは自らをありのままに表すことである。
そんなやつは他人らバカにされるがな。
自らがバカなのを理解するのが賢者だとか何とかはな、実のところ世の中では俺様はバカ呼ばわりされるだろう。
嘘をついたら、認識の間違いで、世の中に合わせたら錯誤でだよ。
ホラ話と言っているがね、私の言う、
私は死を超克した。
俺様は悪魔を愛する。
観念世界で恐怖ポケモンとお友達になった。
アマテラスさんは俺の女だ。
全て本気だよ。
ご回答をありがとうございます。
前半のご議論は 昔から似たような問題が論じられて来ています。
ちょっと筋が違うかも知れないけれど 《誠実》とは何か? どこまで誠実であるべきか? といった主題です。
すなわち
★ 自らがとことん正直である事には、限界という境界は無いよ。 / これは自らをありのままに表すことである。
☆ という命題にかかわっています。
一般に日本人は 自分のことについては よいことに触れるとき八掛けくらいに控えめで言います。
ぎゃくに相手のことについては よいことに触れるとき二割り増しくらいに ふくらませて言います。
これは 《正直》ではないのか? 誠実でないと言うべきか? という問題です。
《主観真実》を どこまでストレートに言うのがよいか? です。
・ そこにお金がある。 / あそこに山がある。
というような文を取ってみても どこまでが 事実についての主観真実であって どこからが主観真実ではあっても 別の話をこの山やお金の話にかこつけて言おうとしているのか。という問題もあります。
自分は 誠実をとおす。としてもです。相手や世間のほうでは いろんな《主観真実》の表わし方がある。という事情を踏まえて 議論をすすめることもありだと考えられます。
というようには考えたりします。
No.8
- 回答日時:
いろいろな真理説を批判してますけど、全然意味のない批判になってますよ
というのも批判の根拠となるbragelonneさん自身の真理説が書かれてないからです
だからイデアや真理の整合説がダメだダメだと言っても、なぜダメなのか、どういった説に立って
批判をしてるのか不明なのでbragelonneさんの批判は批判の体を成していません
中身がないことには批判しようがないので冗談だと思ったのですが
他の回答者はどうもマジに受け取ってるようなので一応つっこみを入れておきます
ご回答をありがとうございます。
★ いろいろな真理説を批判してますけど、全然意味のない批判になってますよ / というのも批判の根拠となるbragelonneさん自身の真理説が書かれてないからです
☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
(あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。
☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ だからイデアや真理の整合説がダメだダメだと言っても、なぜダメなのか、どういった説に立って / 批判をしてるのか不明なのでbragelonneさんの批判は批判の体を成していません
☆☆ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~
(い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
どうですか。
No.6
- 回答日時:
あんたは静かに思索すべき時で、余計な事を言いたくない気もするが、お邪魔するよーん。
>
あやまち得ないものではなく そうではなく あやまち得る実際とあやまち得ないという理念とを綜合したかたちにして しかもこのアヤマチということ自体からまったく自由な場を想定する。これが 真理です。
真理の言いだしっぺの西洋に真理不在ならどこに真理概念の言いだしっぺがいるのか不明になるが、あんたに何かしかの見解があると言うのなら、ちゃんと商売にしろ。
いや 《永遠不変にして 普遍だ》と言えば それは《真理》です。そういうふうには 言われて来ています。
ただしそのことを この目に見え手に触れ得る経験世界におけるものごとと一緒くたにして議論しようとするものだから 話がこんがらがる。
これを交通整理しました。
本命の人が来たから とくとご覧あれ。
ご回答をありがとうございます。
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