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信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?


 ないと考えるのですが ご見解をお寄せください。

 有神論と同じ条件においてひとしく非思考の場で成り立つものだと考えるから 無いという現在の結論です。

 ちょうど この非思考の領域において 唯心論と唯物論とが けっきょくのところ互いに同等の原理論であるというのと同じことだとも理解しています。
 原理論という意味は 先験的に――あるいは 超越論的にというのでしょうか――そうであるという捉え方をする場合のことです。つまり 非思考の場のことです。

 もし経験思考の世界においてでしたら 唯心論は 一般に精神世界すなわち心ないし観念の現象に対応するでしょうし 唯物論は 一般に質料(マタ―・もの)論としての世界認識に対応するのだと思います。

 ・・・・・経験世界・・・・(経験思考)・・・・・・/ 非思考(超経験世界)
 _____________________________________
 モノ:内容(コンテンツ)・質料(マタ―・ヒュレ)・/第一質料=物質(マタ―)
 心 :形式(フォルム)・・形相(フォルム・エイドス)/第一形相=世界精神


 ☆ つまりは 物質というのと無神と言うのとは 同じことだと考えますし その唯物論=無神論は けっきょく対極の唯心論ないし観念哲学としての世界観と 非思考の場において兄弟のようなものだと見ます。どうでしょう?

A 回答 (19件中1~10件)

その方の不可知という言葉には宗教批判の意味があると思いますが、しかしそれは同時に信仰の世界に道を開くということでもあるんです。


だから不可知というのは逆説でもあるんです。
今回の質問の「信仰」という言葉もそういう意味でお使いなのだろうと推察しています。
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 自信たっぷりの問題は もういいのですね。

 ★ その方の不可知という言葉には宗教批判の意味があると思いますが、しかしそれは同時に信仰の世界に道を開くということでもあるんです。
 ☆ あぁ 《宗教批判の意味がある》というのは 《同時に信仰の世界に道を開くということでもある》とつながっている場合 これは たしかにあるでしょうね。組織をともなう宗教と個人の信仰とをきちんと分けて考えている場合には そうでありうると思います。
 ですが どうでしょう。《その方の不可知という言葉には》と結びつくかどうか。
 全体として《その方》は 広く言っていわゆる無神論ですが そのときには 《信仰》つまりわたしの言う非思考という場を捉えていないと思いますよ。まったく我れ関せずという姿勢に見受けます。

 ★ だから不可知というのは逆説でもあるんです。
 ☆ これは 最初に上に反応した意味でありうるでしょうが これはこれとして あらためて議論を起こす必要があるのではないでしょうか? というのも《不可知》という言葉が いまではあいまいになったと考えるからです。

 ★ 今回の質問の「信仰」という言葉もそういう意味でお使いなのだろうと推察しています。
 ☆ そういう意味になるかも知れませんが わたしの発想はきわめて単純です。
 《信じる》とか《信仰》という言葉が――日本語に固有のことばがあるかどうかはいま別として―― 社会における言語習慣として 長く持たれている。それだけ使われているなら 必要かどうかを吟味しなくてはならない。・・・その結果  なるほど《非思考》という意味において 必要であるというよりも 人間にとって現実である。と結論づけたのです。
 その上で このことに《逆説》があるかどうか ですか?
 ううーん。どうですかねぇ。
 信仰として得た観想を 経験的思考としての言葉に翻訳したもの――たとえば 《むさぼるなかれ》――を 教団という組織のもとにその教義ととして その組織活動をいとなむという基本的な路線のもとに 個人一人ひとりの信仰の度合いを 権限を持つ者が裁定するというのであれば その宗教は 信仰の自殺行為である。こうわたしは 言っていますが それが 逆説になりますかねぇ?
 あるとすれば そんなところだと思いますが?

お礼日時:2010/07/14 13:08

まあ、私はただのアホですし、私の回答なんぞ何のお役にも立たないと思います。



それでは。
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この回答へのお礼

 ううむ。

お礼日時:2010/07/15 00:57

いやbragelonne さん全く違うんですよ。



確かにその方は神を否定しているつもりだが、神の不可能を強調することによって、かえってその存在を確認していることになるんですよ。
だから逆説だというんです。

つまり人間の有限性を自覚している、それは信仰への道なんですよ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 いやぁ それは買いかぶりになるのではないですか?
 その方は そんなことを思っていませんよ。一般に同じような考え方をする人びとは その方と同じように文字どおりのことを考えていると思うのです。

 ですから おっしゃっている内容は 逆説として成り立つように思いますが それについての疑いをはさむとすれば それが 《不可知》という言葉を使っているところにあると いまになって考えれば思われるのです。
 ★ 神の不可能
 ☆ つまり人間と神とのあいだの絶対的なへだたり――人間の基本的な存在のあり方として 隔絶している――というのであれば 分かりやすい。しかもその隔たりは互いに同列のものを比べているのではないことより 次元の高いと言うべき神のほうが 相対的な存在である人間を覆い包むといった発想も出てくる。
 ★ つまり人間の有限性を自覚している、それは信仰への道なんですよ。
 ☆ ですよ。たしかに。

 だとすれば 問題は その方が実際にどう考えているのか。そして 一般の人びとがその文章を読んでどう捉えるのか。この二つの点にあると思います。
 ですから 本人たちにおいて 逆説が成り立つのでなければつまらないぢゃないですか。どうでしょう?

お礼日時:2010/07/14 22:20

私には不思議に思えるんですよ。

bragelonneさんは非常に自信たっぷりで、すでに確信のうちにあるようにも思える。それにもかかわらずなぜ他人の意見を必要とするのか。
私にはそれがまったく理解できないんです。
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この回答へのお礼

 せんもんくさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 かんたんにお答えできます。
 この質問にかんしては 自信たっぷりぷりぷりです。
 それは こうです。
 【Q:不可知とは どういうことですか】を問うていますが これは ほんとうに分からなかった。或る人の文章に 神のことを指して《不可知》だと言って堂々としているし 平気でいるのを見て これはおかしいと思ったところから始まります。
 もともと《分かるか分からないかが分からない》と思っていたのですが 不可知だと言われて戸惑ったし おかしいと思うのだけれど 分からなくなってしまった。そもそも不可知ということが分からなくなったのです。
 それで 質疑応答を経て行くと 《 agnostic 》の訳語だとわかり その日本語のヰキぺでは まだ解説が少ししかなくこれも分からなかったのですが 英語版を読んで やっと分かった。それは《非知》ということであろうと分かりました。ちょうど 《無我 an-atman 》が むしろ《非我》と訳したほうがよいとも言われるように――しかもその否定の接頭辞は a- にしろ an- にしろまったく同じ語なので―― 分かりました。
 その後その質問は いまもまだ開いていますが そのように分かってすっきりしたときに ぢゃあ 前々から思っていた《無神論は 有神論と同じく 信仰である》という命題を みなさんとともに明らかにしておきたい。こう思ったわけです。つまり この質問は 自信がありました。
 という事情です。
 (言い訳がましく言えば 自信たっぷりだけれど なお見落としがないか これを問うというかたちにしています)。

 一般にわたしの挙げる質問は たしかに二つの極に分かれています。
 自信のある場合と ええっ これって何なんだという場合とです。
 ただし 後者の場合にも その焦点となっているわたしの知らないものごとについて その背景やら関連するものごとに関してなら わたしも分かっているという場合もあるので ちょっと驚かれることもあります。
 【Q:中国人の英語って そんなにひどいのですか】は 厳密に言って こうです。これは或る人が《身の毛もよだつ中国人の英語》と言って来たものですから 例示なり説明なりして欲しいと言ったのですが 答えが返って来ません。ですから 尋ねました。
 ですから 話す・書くについて中国人は英語が成っていないのかどうか これが聞きたかったわけです。わたしは そういうことが分かる機会を持って来なかったからです。
 ただし 読むことと各言語の音韻組織については詳しいです。それで 回答者によっては そういう分野に広げて対話をするようなかたちになるものですから わたしも応答します。そうすると わたしの知識も捨てたものではないとなりました。なあんだ 知ってるぢゃないですかとなります。だって 知りたいことは そのことではないのですから しかたがありません。そうですよね。

 こういった結末に至ることもままあります。
 てなぐあいです。

お礼日時:2010/07/13 22:12

もう解決されたんでしょうか?



もとより哲学は定義から出発するのではなくて定義が目標なので、こういった議論も(まあ哲学と呼べるかどうかは別問題として)永久に終着点へたどりつくことはないだろうと思います。事実問題を追うなら脳科学にでも任せておけばよいだけの話です。
絶対とか完全とかいったまったく対応する感覚データーを持たない概念について論じでいるんだからこれは権利問題だろうと思います。

つまり「信じる」という言葉の本質についてのはなしをしているのだとおもいます。

それでbragelonne さんが仰る信じるとは不可疑性のことだろうろ想像しています。たとえばニュートンの万有引力を知ろうが知るまいが、握ったリンゴを手放せば落下する。これを疑う人はまずいません、この疑いのなさというのは意識の自由を超えて向こうからやってくるものです。
しかし信仰というのは絶対者の権能をの発現を待ち望む希望でもあろうとおもいます。

非思考とは思いません。

どうも失礼しました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 ★ もとより哲学は定義から出発するのではなくて定義が目標なので、こういった議論も(まあ哲学と呼べるかどうかは別問題として)永久に終着点へたどりつくことはないだろうと思います。事実問題を追うなら脳科学にでも任せておけばよいだけの話です。
 ☆ 《事実問題》などについては もうそれはわたしは研究していませんから わたしの出番ではないということ。またその意味で 《脳科学にでも任せる》ことになります。――この事項のこの段階としての認識は 同じくしたのですが その前の命題については 微妙につけ添えたいことがあります。

 けっきょく言わば《定義が得られるようにとつねに問い求めているのが哲学である》と思います。なのですが――なのですが―― それでも そのように哲学を捉えるということは ちょうど最後のところでせんもんくさんも触れておられるように やはり 哲学理論の上にさらに 人間の志向性がある。これを伴なっていると思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし信仰というのは絶対者の権能の発現を待ち望む希望でもあろうとおもいます。

 非思考とは思いません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《志向性――心の明け もしくは 心の伸び――》という視点に立って この見方を 肯定するわたしがいます。しかも――しかも です―― 
 ▲ (ローマ書 8:24) 見えるものに対する希望は希望ではありません。
 ☆ というごとく その志向性も この希望と同じく やはり非思考なのだと 理論としては 言わねばならないと考えます。(見えるものごとについての希望も むろん あります。つまり 経験思考のもんだいです)。

 ぢゃあ どこで違ってきたのだろう?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それでbragelonne さんが仰る信じるとは不可疑性のことだろうと想像しています。たとえばニュートンの万有引力を知ろうが知るまいが、握ったリンゴを手放せば落下する。これを疑う人はまずいません、この疑いのなさというのは意識の自由を超えて向こうからやってくるものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 最後の一文(その後半)としての命題は 同じ方向でそう認識しています。そうして 《不可疑性》ですが そういうことなんだろうと これもまづ 思います。では どこで違うのか? 違わないのか?
 ★ 信じるとは 不可疑性のことだろう
 ☆ こんどは――今度は―― 理論としてそうだろうと思います。思いますが 実際には 上に確認したように 
 ★ この疑いのなさというのは意識の自由を超えて向こうからやってくるものです。
 ☆ だとしますと いままでさんざん論じてきた《〈信じる〉とは?》なのですが これは 《与えられるもの》だということになると思います。
 すなわち それが得たいと戸ぼそをがちゃがちゃいじったり 戸をたたいたりしていたことは 《わたし》の意志行為なのですが そうして不思議体験のいわば後半の部分で領収証を切るのも わたしの意志行為であるのですが 肝心の《信じる》ようになることというのは わたしのすべての能力と存在を超えている出来事なのだと捉えます。つまり 《与えられる》ものであると。
 まぼろしのリンゴを あれっ 知らなかった というのに わたしは手にしていた。
 そのまぼろしが わたしの感性と理性と人格と存在にぴったりと合った。《目に見えるもの》ではないかたちで 目に見えないものであるゆえに わたしは 背筋を伸ばされた。


 わたくしは たぶん 脳天気だったので 与えられたのだと思っております。
 一般には 与えられるためには こころがきよめられなければならなかったと言われています。《心のきよいひとはかみをみる》。
 これまた 《向こうからやってくる》という形容をつけて エポケーのことであるのかどうか。・・・

 非思考という概念を利用していけば いろんな情況が――内面のさまざまな心的ないし精神の現象をめぐる世界が―― 分かってくるのではないでしょうか?
 (わたしは ここからは ノータッチです。生物化学について分からないし そうする気がおきません)。


 言いたい放題になりましたが 正直なところです。どうでしょう。
 

お礼日時:2010/07/11 16:50

誕生以後、非思考の秩序回復があったいう理解であっても 結局 脳内の物質が 変化していること対応していると思うのです。

それは瞬時であっても 脳内活動の一つでしょう。
私は矛盾ない理解を求めている というわけですが、今矛盾だと思ったとしても 論理的に矛盾でないかぎり よく考えれば分るか 100年後かわかりませんが 未定としておけばよい と思っています。
なお、文法の基本構造の意味は 例えば 日本語の文法を記憶されている ということではなく 言葉はシリーズに繋がっているモノとか 繋がりにルール(文法)がある というものです。このことで深入りするつもりはありませんが、脳内活動の研究は かなりのスピードで進んでいると言いたかったのです。 
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この回答へのお礼

 オーケーさん ご回答をありがとうございます。

 ここらあたりまで来ると わたしの出番ではないように思います。
 最初の一節についてのみ 反応を持ちました。

 ★ 誕生以後、非思考の秩序回復があったいう理解であっても 結局 脳内の物質が 変化していること対応していると思うのです。それは瞬時であっても 脳内活動の一つでしょう。
 ☆ 《脳内の物質が変化している》という脳内活動についてですが この《非思考の秩序回復》という場合には むしろ変化しないというような理解を持ちます。あるいは 変化していた状態をもとの状態に戻すという想像になります。

 もとの状態とは どういうことか?
 固定した状態という意味ではなく たとえば言語能力がどんな言語のその特有な文法にも対応しうるという柔軟な活動準備態勢のことだとすれば そういった能力動態のことです。
 あるいは この点でもっと言えば 何ごとにも対応しうる準備態勢というのは・つまりその状態を回復するというのは むしろ何かを外からにせよ自己の内からにせよ持って来てつけ加えるというのではなく そうではなく 余計なものごと(そういう記憶)をすべて白紙にすることだと考えます。
 これを エポケーと言うのかどうかは これまた 専門の方にお任せしますが ですから 脳内活動のひとつだと見るよりも 脳内活動の初期状態のような・しかも活動しつつある秩序状態のことではないかと これは 推し測るものです。理論以前の憶測です。

 ★ 脳内活動の研究は かなりのスピードで進んでいると言いたかったのです。 
 ☆ 分かりました。成果が得られるといいと思います。

 上のことがらについて 評言を与える値打ちがあるようでしたら ご投稿ください。

お礼日時:2010/07/10 00:45

非思考は 脳内活動を伴わない記憶作業であって その記憶を使った動きは脳内活動である という説明です。


第1の私の興味は その記憶に伴う脳内の動きは その人の仕事状況から 脳が解明に使われてもいいと思われる活動に対し少なくとも時間的には妨害するわけですから 悪影響を与えるかもしれない ということです。これは 非思考起点の記憶であろうが 思考起点の記憶であろうが 同じであります。
第2は非思考という脳内記憶作業はあるが脳内活動ではないという ご指摘をどう理解したらよいかです。脳内の記憶作業は 脳内の物質が動いていることは fMRIなどを使って明らかになってきております。このままでは科学的には矛盾していると思われるのです。
そこで 矛盾しない何かがあるかもしれない と考えるのです。生まれたときにすでに記憶されているわけです。DNAにより埋め込みされているわけです。これは記憶作業を伴わない記憶であります。有名な例は、 文法の基本構造は記憶されて生まれてくる ということも実証されてきております。非思考(信じるの起点)は 持って生まれてきたものだ という仮説をたて 検証する 方向もあると思うのです。すでに どこかで やっているグループがいるかもしれませんが。
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この回答へのお礼

 なるほど。――ご回答をありがとうございます。――たぶん 科学的には おっしゃる方向あるいは 現に研究としておこなわれているいとなみの成果が 現実的であるかとも思いました。

 なおわたしの原点とも言うべき体験とそれをめぐる思索にもとづき あえて さらにたたき台を述べてみます。

 ★ 非思考という脳内記憶作業はあるが脳内活動ではないという ご指摘をどう理解したらよいかです。
 ☆ なるほど。非思考の場(要するに 神)が――わたしの場合には―― 向こうからやって来ると捉えるわけですが それは取りも直さず 《わたし》の脳裡に何らかの呼応するコトがあるというわけですね。
 それでしたら わたしの場合には 記憶という人間の行為能力もしくは能力行為は 基本的に 秩序(その作用――自己組織化か何か うといので 知りませんが――)を指して言います。覚えるというのは すべてと言っていいほど 動態的な秩序の動きであると。
 ということは 何らかの《不思議》が起こったという場合に たぶんこういう言い方をすれば つじつまが合うのかも分かりません。すなわち 向こうからナゾがやって来たという場合・つまりそれを感じたという場合 そのコトは 脳内記憶作業としては 自己の秩序を元に戻したという――自動的ないとなみとしての――動きであったかも知れません。そのあと この不思議体験を 受領するという意志行為が来ます。

 ★ 第1の私の興味は その記憶に伴う脳内の動きは その人の仕事状況から 脳が解明に使われてもいいと思われる活動に対し少なくとも時間的には妨害するわけですから 悪影響を与えるかもしれない ということです。
 ☆ これは 簡単だと思えます。そういうことだと思います。一瞬のあいだ それとして時間的には妨害するでしょうね。上の自己作動的な自己秩序の回復作業 これとしての脳内記憶作業の瞬間においてです。
 悪影響を与えるかどうかは その人次第でしょうね。《考える》と《信じる》との混同をしなければ だいじょうぶなわけです。
 つまり 秩序回復が得られたのなら その後の思考を当然のように活性化するものと思います。

 ★ 有名な例は、 文法の基本構造は記憶されて生まれてくる ということも実証されてきております。
 ☆ わたしは これは 信用していません。せいぜいが 言語による表現の形式として・つまり一般に文法として あらゆるやり方(形式)が試され得るという柔軟な思考能力が 自然本性として そなわっている。こうは 思いますが。この自由で柔軟な文法形態の形成能力が 母語を聞くにつれその既成の文法に合わせて 自己形成していくものと捉えます。もっとも
 ★ 文法の基本構造は記憶されて生まれてくる 
 ☆ という表現は 舌足らずであったのかも分かりません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このままでは科学的には矛盾していると思われるのです。
 そこで 矛盾しない何かがあるかもしれない と考えるのです。生まれたときにすでに記憶されているわけです。DNA により埋め込みされているわけです。これは記憶作業を伴わない記憶であります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すでに触れたところと重なるかと思いますが ですから 上の文法形成能力(そのあらゆる可能性)としてのように DNA にそなわっていると言えるのかも分かりません。

 ★ 非思考(信じるの起点)は 持って生まれてきたものだ という仮説をたて 検証する 方向もあると思うのです。すでに どこかで やっているグループがいるかもしれませんが。
 ☆ ここまで言っていただけるとは ありがたいことだと思います。向こうからやって来た体験を捨てずに来た甲斐があるというものです。もう 三十年ほどです。

 おおむねお応えできたかと思いますが どうでしょう。

お礼日時:2010/07/09 18:40

説明によりますと 非思考は 脳内の活動(無意識も含め)ではない と理解されます。

だから 脳内活動とはパラレルな動きとして 何も問題ない ということでしょう。
ことの成り行きから もう少し知っておきたいのですが、非思考は 科学的に人のどこかの細胞の活動と結びつくのでしょうか。結びつく可能性があるなら 私はおもしろいと思います。そうでなければ 検証のない一つの主張とおもいます。
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この回答へのお礼

 オーケーさん ご回答をありがとうございます。

 定義をあらためてあらわします。おぎないです。
 1. 非思考〔の場の受け容れとしての信仰〕は 脳内活動ではない。この脳内活動ではあり得ない何かを 受け容れるというのは 人間の経験的な意志行為であり そこに脳内活動は行われている。
 2. その受け容れとしての意志行為の前にも あたかも非思考の代理として起こったかのような知覚が これも脳内活動としてあるはずです。あたかもそっと指先で触れられるかのような感覚があったと知覚したあとに もしそれが自分の主観において(ということは まちがい得るということですが)神なら神であると思ったなら 受け容れるという意味です。
 3. あるいはこの知覚は 一般的に言って その人が神なら神という言葉を社会生活における言語慣習の中で覚えているという経験を 軽く条件とすると言うべきかも知れません。
 4. あらためて言って 信じるというのは 《わたしが》なのですから たしかに意志行為であり脳内活動をともないます。そしてそれは きわめてばかばかしくその何ものかのおとづれに対して 自分から受領証を書くという行為を基本とすると言うのが いいでしょう。
 5. あとはこの領収証経験が 記憶とその喚起として・つまりその場合も脳内活動をともなって おのれの信仰の持続にかかわって来ます。
 6. 無神論は このかたちの説明を継いで説明するとすれば 領収証をおれは出さんぞと言ったその原体験のことを言うと採れば分かりやすいと思います。

 ざっくばらんに言えば その何ものかがその何ものか自体から――その意味で 向こうから――やって来るのだと見ています。
 あるいは いわゆる不思議な体験というものを 考えるの余地のあるものごとなのか それとも それを超える部分があたかもあると見るのか この仕分けになるとも言えるのではないでしょうか。
 そして 後者であるとあくまで主観が判断し仕分けしたなら やはりあくまで信教・良心の自由というときのそのような意志行為として領収証を切るというものです。
 すべては ひとりの人の主観におさまります。
 存在や自然本性に共通性があるのなら そのような非科学的な主観でもその代理表現として人間の言葉で明らかにした内容も ある程度は伝え合うことができると思われます。


 あるいは説明をいろんなかたちでおこなうわけですが そもそも《信じる》という言葉が なぜあるのか? この疑問から発しています。信じるという行為は どういうことなのか? これです。
 この答えとして いまのところ これまでわたしが述べて来た回答が もっとも分かりやすいと思っております。どうでしょう?

お礼日時:2010/07/09 14:45

 蛇足です


☆ですから (α)の経験世界については 《信じる》は当てはまりません。ニュートンがわるいのでしょう。と説明がありました。

私は このニュートンがわるいのでしょう を問題にしてます。信じる は経験世界では ない なら 別の言葉を定義すればいいのです。非思考でも思考停止でも無考でも いいわけで 要は 万有引力は絶対真理であって 新たに挑戦しなくなる状態を多少問題であったと言っているわけです。考えても考えても新法則アイデアが浮かばないなら 控えめに万有引力の法則を説明するべきではないか とおもうのです。
 それと 一人の人間が ご指摘の非思考状態になった場合は 同時には思考状態はないわけです。ですから 思考時間でなすべきことが できなくなる のでは ということです。勿論 私の言う非思考でも思考停止でも無考でも 同じです。
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この回答へのお礼

 おーけーさん ご回答をありがとうございます。

 いえ ニュートンがわるいと なお思います。
 ○ 文字は殺し 霊は生かす。(パウロ:コリント後書3:6)
 ☆ これは 新約聖書の言葉ですから ニュートンも知っていたと考えます。
 この一文そのものにおいては 《文字》は モーセの戒律のことです。その概念つまり 《ころすなかれ・むさぼるなかれ》といった文字(つまり概念ですから 理性的な解釈を含みますが)を 神として観念においてあがめる(信じる)なら それは ひとをころすというものです。つまり 非思考(つまり ここでは霊)としての信じるが 生きていません。

 それと同じように――ニュートンかどうかを別として――
 ○ われ考える。ゆえにわれあり。
 ☆ について その《考える》ないし理性を崇拝するなら これも《文字》という偶像の崇拝ですし ひとをころします。考えるは あくまで 経験世界に対応して しかもこの対応においてのみ 考えるなのですから。《わたし》と世界(経験世界)と非思考の場とのあいだで 《間》が違って来ています。
 ですから
 ★ 万有引力は絶対真理であって 
 ☆ というとき この《絶対真理》を 非思考の場(つまり 霊)だとすれば 万有引力という法則の概念的な理解は 考えるの対象ですから 絶対真理と見なすことは これも間違いです。それは 普遍性やら不可変性をも帯びるかのような法則とはいうものの 信じるとは縁もゆかりもありません。
 《文字はころし 霊は生かす》という教訓を ニュートンは 知っていたはずです。知らなかったとは言わせません。もしほかの人びとも ニュートンと同じように受け取っていたとすれば それは時代の人びとみんながわるいでしょう。とりわけ ローマ教会がわるい。

 ★ それと 一人の人間が ご指摘の非思考状態になった場合は 同時には思考状態はないわけです。
 ☆ これは 間が違っています。思考状態は 思考しているか・していないかの有無の次元です。非思考は その状態としても 思考の有無を超えています。
 ですから このとき《無意識》を持ち出す向きもあるようなのですが これも 間が違います。無意識は 経験的な心の状態です。精神ないし心理の経験次元での状態です。
 ★ 思考停止
 ☆ というのも 思考の有無という経験の次元でのことです。人間が意志で 思考を停止したり再開したりします。ところが 非思考は この停止や再開の次元を超えています。そのように想定したのですから。また そのように想定することこそが 人間存在の条件に合っていると考えます。(いえ ほんとうは そう考える前に・また先験的に 人間存在にとって 非思考という場が 条件になっているはずです。想定するというのは あとづけです。すでに 想定されているのです)。

 どうでしょうかねぇ。

お礼日時:2010/07/09 00:22

当初からの疑問なんですが。

bragelonneさんは質問文で第一形相という言葉をお使いなので回答者は形而上学上の神(アリストテレスの)を対象とされておられるのかなと理解していたのですが、つまり理性的な神概念についてです。しかし聖書の神について言及されておられます。これはベルクソンも指摘していたことなのですが形而上学上の神は信仰の対象となりうるかという問題もあるんですよ。そこで確認させていただきたいのですがbragelonneさんは有神論をどのように理解されておられるのでしょうか。
回答者の理解は、有神論の神は道徳的人格であり、叡知的かつ慈悲深い意志である。それゆえにまた有神論は究極の根拠は認識できぬとする不可知論に対して啓示による神の体験を主張する。つまり理神論や反し論のように合理化されていない神という意味合いです。
質問文中に超越論的という用語が見えましたので当初はカントの言う純粋理性概念についてのお尋ねかとも思ったりしたのですが。
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この回答へのお礼

 せんもんくさん ごもっともな物言いだとお受け取りいたします。
 ご回答をありがとうございます。

 まづひとつに 哲学の論文にとっての約束事をわたしは知らないか あまり従おうとしていないことを 今頃ですが おことわりしなければなりません。
 定義にしたがうという筋はとおしているつもりですが その定義をめぐって 誰だれがこれこれの定義で使っており 誰それはあれそれの定義でだというような約束事を きちんと述べていないことだと思います。
 《先験的》と言えば わたしの用いている《超経験》が通用すると思っています。これが まだまだ雑だったでしょうか? これを《超越論的》というふうに 最近は言うのだと知ったことがあったものですから わざわざ言いかえたりしています。これが かえってあだになってしまったかと思われます。

 ★ そこで確認させていただきたいのですがbragelonneさんは有神論をどのように理解されておられるのでしょうか。
 ☆ これについては ある程度お答えしてきているかと思います。
 《理性的な神概念》と《啓示による神の体験〔の神〕》に 細かくは分かれると思ったので 次のような説明に及びました。

 ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 
 ・・・・・・・・/ 非思考(超経験世界)・・・・純粋非思考(絶対)
 _________________________
 モノ:・・・・・/ 第一質料=物質・・・・・・・無(無神)
 心 :・・・・・/ 第一形相=世界精神・・・・神(絶対者)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ただし せんもんくさんは 
 ★ 回答者の理解は、有神論の神は道徳的人格であり、叡知的かつ慈悲深い意志である。
 ☆ とも言っておられます。これは 《啓示の神》と同じようでもあり あるいは 分かりませんが 或る種の仕方では 啓示の神と そして《理性的な神概念》との中間であるかとも思われます。
 そしてこれらについては 次のわたしの考えをたたき台にしていただきたいと思います。

 ☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの場合には 前提は 

  (α) 経験世界について――考える
  (ω) 超経験の場について――非思考・信じる

 ☆ これだけです。そのあとに ひとはさらに色んな仮想をつけ加えます。

  (ω‐1) 超経験を 《絶対・無限・不可変性》と規定する。
      (経験は 《相対・有限・可変性》)。
  (ω‐2) 《絶対》を擬人化して 表現する。
      →絶対者。さらにこれを神とよぶ。
  (ω‐3) 神について その属性をわざわざ想定する。
      →絶対であるなら 全知全能・正義・愛であると。
  (ω‐4) さらに空想はすすむ。
      →絶対であるなら 相対の経験世界を おおい包むであろう。
  (ω‐5)→あるいは続いて 
      この神は 世界の歴史に介入するであろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言いかえますと 《啓示の神》がすべてです。はっきり言えば 《聖書の神》です。
 それで
 ★ これはベルクソンも指摘していたことなのですが形而上学上の神は信仰の対象となりうるかという問題もあるんですよ。
 ☆ の問題につきましては こう考えます。理性的な概念の神であっても ということは (ω‐1~n)において形而上学的な神概念を帯びていても 中核が 非思考の場としての(ω)であれば それは《信仰》であろうというものです。
 無神論は (ω‐1~n)といった飾りはいっさいつけないわけですが ただし《無》を主張することは 《無》という概念をやはり介在させてもいますから いわば(マイナスω‐1)のようなやはり飾りをつけていると考えます。けれども 中核が 非思考の場としての(ω)であれば 問題ないと見るものです。

 ま きわめて荒削りだと思いますが その骨格は お伝え出来て来ているのではないかとも思います。いかがでしょう?

お礼日時:2010/07/08 23:59

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