
ヨーロッパ人の真理論は成っていない。という見解を示して問います。
▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86
§ 1 西洋哲学における真理論
真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。
(1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。
アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー
(2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。
中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル
(3) 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
ルネ・デカルト、エトムント・フッサール
(4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ
(5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス
(6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。
フレーゲ
(7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
フランク・ラムゼイ
(8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。
☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。
(い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。
(う) 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は そのような・人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。善悪の彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。
(え) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。
☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらから真理は自由であるのだから。
(お) 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。
(か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが
▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。
(き) すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。
(く) そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。
(け) この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば民主制なる理念など―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
(こ) 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
(さ) 民族(≒言語)文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
(し) この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
(す) それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理の桃源郷にのがれる。:
▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。
☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり (あ)に戻って 真理を《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に戻っている。
(せ) ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。
No.5
- 回答日時:
ウィキペディアから、西欧の真理観を引用して、それに独断と偏見でコメントを付け加えただけの、理研の小保方晴子女史のコピペ論文のよう。
だから、どうぞご勝手に、と言いたいところですが、いちいち反論しているヒマはないので、いくつか言えば、
「真理の対応説」は古代アリストテレスから、現在まで神学者・哲学者がさんざん議論してきて、それを論破できないものだから、あなたに簡単に数行で片づけられたくない。
大人が子供に対して、「そこにお金があるから、それを君にあげる」と言っても、子供が「そんなこと言うけれど、お金なんかどこにも無いじゃないか。おじさん、ウソついてらあ」と言われたら、大人のいう「そこにお金がある」という言明は虚偽なのです。
だから「真理の対応理論」なんて、子供でも知っていることです。
それに対してあなたは「主観の共同化」だとか、「地域を越えて、歴史を越えて、共有されるなら」とか、「民主制の理念」とか、そんなことは不必要なのではないですか?
あなたは「このことはその人ひとりの主観的な真実だから、他の人の主観によって検証される必要があるから、そこでは主観の共同化がある」という。
「そこにお金がある」という言明は主観的な真実なのですか?
そして子供が「お金があるというけどどこにも無いじゃないか」と返事をするのも主観的な真実なのですか?
主観なんか関係ないので、大人は「そこにお金がある」と指示しているだけだし、子供も「お金がない」と同じように指示しているだけで、主観は介入していません。
あなただって、こう言っているのではないか?
「あなた、昨日デパートにケリーのバッグがあると言っていたでしょ? 今日デパートに行ったら、あなたの言ったとおり、ありました。あなたの言っていたことは本当だったのね」と。
あなたの言っていた「ケリーのバッグがある」という言明は実際にデパートに行って、ケリーのバッグがあることを確かめられれば、その言明は真なのです。
また、母親が「ちょっと、そこに砂糖があるでしょ? それを取ってちょうだい」と言われて、私が目の前に砂糖があるのを確かめ、それを取って母親に渡せば、母親の「そこに砂糖があるでしょ?」という言明は真なのです。
この「真理の対応理論」をどうやって論破ができるか?
出来ないと思います。
だからアリストテレスから2500年、誰もがそれを正しいとして信じてきたのです。
あなたはプラトンの「イデア」ではダメだという。
「イデア」なる絶対真理の世界から、この仮象としての経験世界の物事を演繹して来てはダメである、と。
たぶんプラトンの「イデア論」を誤解しているのだと思いますが、「イデア」というのは演繹的に見出されたものではなく、個物の、質料(ヒューレー)の対立を弁証法によって止揚し、種から類へと概念の階段を昇り、最高で普遍的な概念に至り、それを「イデア」と言ったのですから、「イデア」は個物を包含し、帰納法的に見出されたものです。
「真理と想定したものをイデアと名づけた」ものではありません。
プラトンにとって「イデア」は真の実在です。
ラムジーの「真理の余剰説」というのは、例えば次のような言明です。
「あそこに山がある、という言明は真である」
「あそこに山があるというのはウソではなく、本当だよ」
私たちは何か言う時にいちいち「・・・・・本当だよ」だなんて言いません。
「チャリティーの原則」によって、私たちはその人の言うことをウソではないと思っているのですから、「・・・本当だよ」は余計です。
「そこに山がある」とだけ言えばいい。
その言明は真であることを含意しているのですから。
私は真理の整合説というのは、間違っているかもしれませんが、後期ウイトゲンシユタインの「哲学探究」でいう使用説(慣用説)と同じだと思っています。
たとえば、将棋があるとして、その中の「歩」が前にだけ進めて、横にも後ろにも進めないのは将棋というゲームの中でのみいえることで、他のゲームではかららずしも言えない。
つまり、「歩」という言葉が真なのは、その「歩」が属する全体としてのゲームに依存するので、対象に依存するのではない、ということ。
個人と個人の間で、相手を殺すことは犯罪ですが、戦争で相手を殺すことは犯罪ではなく、むしろ推奨されること。
つまり殺人が悪になるのは、そのコンテクストによるので、自体的に殺人が悪いわけではない。
そこからウィトゲンシュタインは真理は「言語ゲームである、言語ゲームによって真であったり、真でなかったりする」と言いました。
たとえばサッカーというゲームでは、ボールを手で持つことは違反ですが、ハンドボールではボールを手で持つことは違反ではない、むしろ持つことが必要でさえある。
真理は「真理の対応理論」が言うように外部の事実と対照する必要はない。
これが私の考える「真理の整合説」。
あなたは「意識にとって明証的に現れるのが真理というのが明証説」と言い、デカルトとフッサールを上げていますが、デカルトは神が人間に「生得観念」として理性を付与したのだから、理性的認識は先天的・ア・プリオリに明証的である、とは言いましたが、「意識に明証的に現れるのが真理」とは言っていませんし、またフッサールも、そもそも明証的なんて言葉を使っていないし、意識に現われるのが真理だなんて言っていません。
外的世界の総措定を判断停止に置き、内的世界に還元して、純粋意識の「志向性」によって、世界を構成する、と言っているだけです。
かれが真理だというのは端的な知覚です。
私がそれを見たり、触れたりできたなら、それは真理なのだ、と。
あといろいろ言いたいことがありますが、もうくたびれたので、やめます。
この回答への補足
ご回答をありがとうございます。
★ 「真理の対応説」は古代アリストテレスから、現在まで神学者・哲学者がさんざん議論してきて、それを論破できないものだから、あなたに簡単に数行で片づけられたくない。
☆ 中身で勝負しなさい。《数行で片づけられてしまった。残念》と言ったも同然。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
大人が子供に対して、「そこにお金があるから、それを君にあげる」と言っても、子供が「そんなこと言うけれど、お金なんかどこにも無いじゃないか。おじさん、ウソついてらあ」と言われたら、大人のいう「そこにお金がある」という言明は虚偽なのです。
だから「真理の対応理論」なんて、子供でも知っていることです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この《子どもでも知っている「真理の対応理論」》を持って来て デカルトの仮説を正当化しようとしたのは あなた。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
それに対してあなたは「主観の共同化」だとか、「地域を越えて、歴史を越えて、共有されるなら」とか、「民主制の理念」とか、そんなことは不必要なのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 中身で勝負しなさい。《おまえのかあちゃん でべそ!》と負け惜しみを言うだけではなく。
★ あなたは「このことはその人ひとりの主観的な真実だから、他の人の主観によって検証される必要があるから、そこでは主観の共同化がある」という。
☆ そのとおり。
★ 「そこにお金がある」という言明は主観的な真実なのですか?
☆ 本人が嘘をついていると知っていてそう発言する場合もある。ただし それを――ウソと分かっていても――どうしても言いたい だから言おうとしたということは その人のそれなりの主観真実。《真実》というのは マチガイを言い当てていることにも遣います。
★ そして子供が「お金があるというけどどこにも無いじゃないか」と返事をするのも主観的な真実なのですか?
☆ もちろん そうです。子どもは そういう事実認識をしたということであり その認識に――むろんアヤマチの可能性もありなのですが――自分でマチガイないという明証性を得ているかぎりで 主観真実として現われている。こう見るわけです。
★ 主観なんか関係ないので、大人は「そこにお金がある」と指示しているだけだし、子供も「お金がない」と同じように指示しているだけで、主観は介入していません。
☆ 《指示する》のは 誰ですか? それは 人間の知解や意志の行為とは関係のない何か自然現象なのですか? 指示するために主観における何の事実認識もなく手や指が動いたとでも言うのですか?
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
あなただって、こう言っているのではないか?
「あなた、昨日デパートにケリーのバッグがあると言っていたでしょ? 今日デパートに行ったら、あなたの言ったとおり、ありました。あなたの言っていたことは本当だったのね」と。
あなたの言っていた「ケリーのバッグがある」という言明は実際にデパートに行って、ケリーのバッグがあることを確かめられれば、その言明は真なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ その確認できたというモノが 《ケリーのバッグ》と言っても品種が違っているのに同じ製品だと勘違いした場合などが別様に考えられますが ほんとうに本当だったとした場合には そうなります。
最初の発言は その発言者における主観真実であったのだが これを他の人が 実地に確かめた。ということ。
ところで ここまででは 一向に批判とは言っても――看板をかかげているだけであって――まったく成っていないよーーん。全滅だよーーん。
★ また、母親が「ちょっと、そこに砂糖があるでしょ? それを取ってちょうだい」と言われて、私が目の前に砂糖があるのを確かめ、それを取って母親に渡せば、母親の「そこに砂糖があるでしょ?」という言明は真なのです。
☆ そのとおり。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
この「真理の対応理論」をどうやって論破ができるか?
出来ないと思います。
だからアリストテレスから2500年、誰もがそれを正しいとして信じてきたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 何を言ってんですか。事実と認識が過不足なく対応しているなら 認識内容は――最初の認識者における主観真実を超えて―― 主観が共同化される。そのかぎりで 発言された認識内容は 一般的にも真実であったとなると言っています。
わたしが批判したのは 認識(思考)という行為が 事実(存在)とひとしいとか一致するとか そういう意味でこの《真理の対応説》を援用したことに対してです。明らかなマチガイです。(その援用はマチガイだったとあとで訂正したようですが。それでも結果としては 観念の神なる雲の中であたかもこの《思考=存在》説が通用するのだと 再説されたようです)。
★ あなたはプラトンの「イデア」ではダメだという。 / 「イデア」なる絶対真理の世界から、この仮象としての経験世界の物事を演繹して来てはダメである、と。
☆ そうです。
★ たぶんプラトンの「イデア論」を誤解しているのだと思いますが、「イデア」というのは演繹的に見出されたものではなく、個物の、質料(ヒューレー)の対立を弁証法によって止揚し、種から類へと概念の階段を昇り、最高で普遍的な概念に至り、それを「イデア」と言ったのですから、「イデア」は個物を包含し、帰納法的に見出されたものです。
☆ もしそうならなおさら《絶対》としての真理にはふさわしくありません。《帰納法的に見出されたもの》であるイデアから 同じ仮象世界におけるものごとを演繹して議論をしてみせても 話にはなりません。行ったり来たりしただけです。
★ 「真理と想定したものをイデアと名づけた」ものではありません。
☆ 《想定したものではない》から ダメだと言っているのです。
★ プラトンにとって「イデア」は真の実在です。
☆ ですから 《非知・絶対》かそれとも《知の対象である経験的な相対世界における〈真の実在〉》かを提唱者が決めるべきです。
(つづく)
(つづき)
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
ラムジーの「真理の余剰説」というのは、例えば次のような言明です。
「あそこに山がある、という言明は真である」
「あそこに山があるというのはウソではなく、本当だよ」
私たちは何か言う時にいちいち「・・・・・本当だよ」だなんて言いません。
「チャリティーの原則」によって、私たちはその人の言うことをウソではないと思っているのですから、「・・・本当だよ」は余計です。
「そこに山がある」とだけ言えばいい。
その言明は真であることを含意しているのですから。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《・・・というのはウソではなく、本当だよ》と当人は言いたかった。それが 主観真実である。というだけの話です。
《「そこに山がある」とだけ言えばいい。その言明は真であることを含意している》というふうには・それだけの考えでは 自分の主観真実を表明したことにはならないと――主観的に――思ったというだけのことです。
言いかえると 要素還元主義の弱みが現われた推論でしょう。
★ 私は真理の整合説というのは、間違っているかもしれませんが、後期ウイトゲンシユタインの「哲学探究」でいう使用説(慣用説)と同じだと思っています。
☆ ぢゃあ ヰキぺの解説(解釈)とは別に そういう見解もあるとすればよい。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
たとえば、将棋があるとして、その中の「歩」が前にだけ進めて、横にも後ろにも進めないのは将棋というゲームの中でのみいえることで、他のゲームではかららずしも言えない。
つまり、「歩」という言葉が真なのは、その「歩」が属する全体としてのゲームに依存するので、対象に依存するのではない、ということ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ またまた子どもでも分かる理論ですね。
★ 個人と個人の間で、相手を殺すことは犯罪ですが、戦争で相手を殺すことは犯罪ではなく、むしろ推奨されること。
☆ 違います。人殺しは 人間の意志行為として――単純にヤマシサ反応〔としての感性=良心〕にさからうという理由によるということですが―― アヤマチです。緊急避難やあるいは 戦争が共同自治なる政治行為として――おそらく変な共同主観として――認め合われているかぎりで アヤマチだが咎められない。というだけの話です。例外事例です。
★ つまり殺人が悪になるのは、そのコンテクストによるので、自体的に殺人が悪いわけではない。
☆ これは 論証がむつかしい主題です。課題です。けれども 《殺人が悪かったり悪くなかったりする》という見方は 必ずしも共同主観とは成っていません。
ほかの国の人たちはいざ知らず日本人兵士たちは ほんとうに悔やんだのです。たとえ戦争という《大義》のもとであったとしても・殺さなければ殺されるという情況にあったのだとしても ひとをころしたことに どう考えても拭い切れない悔いをおぼえたのです。これも 共同主観です。コモンセンスです。
★ そこからウィトゲンシュタインは真理は「言語ゲームである、言語ゲームによって真であったり、真でなかったりする」と言いました。
☆ 当たり前です。ゲームには規則が前もって取り決められます。(成文でなくても取り決めがあり得ます)。取り決めに従って セーフかアウトかが決められる それだけのことです。
★ たとえばサッカーというゲームでは、ボールを手で持つことは違反ですが、ハンドボールではボールを手で持つことは違反ではない、むしろ持つことが必要でさえある。
☆ だから?
★ 真理は「真理の対応理論」が言うように外部の事実と対照する必要はない。 / これが私の考える「真理の整合説」。
☆ 規則とは対照するのですよね? 整合するかどうかが判定されますよ。
★ あなたは「意識にとって明証的に現れるのが真理というのが明証説」と言い、デカルトとフッサールを上げていますが、
☆ これは ヰキぺ氏がそうしているのに従ったまでです。真理ではなく 主観真実だとは言っています。
★ デカルトは神が人間に「生得観念」として理性を付与したのだから、
☆ いかにそのことが ルネくんの主観内面において光り輝く明証性を持った命題であるとしても それは ひとつの主観真実です。
もっとも自然本性として 身と心とがあり 感性と理性とが人には備わっているという議論は おそらくふつうに共同主観でありえているでしょうが。《神》を持ち出すところが あらそわれます。
★ 理性的認識は先天的・ア・プリオリに明証的である、とは言いましたが、「意識に明証的に現れるのが真理」とは言っていませんし、またフッサールも、そもそも明証的なんて言葉を使っていないし、意識に現われるのが真理だなんて言っていません。
☆ そうではなく:
☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
(か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが ▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と言ったのです。
▲ 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
☆ であってヰキぺ氏も
★ 「意識に明証的に現れるのが真理」
☆ とは言っていません。恒常的に真理(じつは 主観真実)であるという言い方ではありません。
そうしてもしこの《(3) 真理の明証説》が デカルトやフッサールに当てはまらないのだとすれば そういう見解として承っておきます。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
外的世界の総措定を判断停止に置き、内的世界に還元して、純粋意識の「志向性」によって、世界を構成する、と言っているだけです。
かれが真理だというのは端的な知覚です。
私がそれを見たり、触れたりできたなら、それは真理なのだ、と。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ それを主観真実だとこちらは言っています。
ただし《もののあはれを知った》というときには ひとつにそのままこの見える経験世界に対応するようなものごとについての主観真実のことがあります。
そして同じくそのとき もうひとつに この経験世界を超えたところのナゾについての直観があったという場合もあり得ます。
ブラフマン神と呼ぶ《真理》とわが心における《非思考の庭》なるアートマン(霊我)とが 梵我一如というごとく一体であるとさとったという場合もあり得ます。
むろん 主観真実です。(ところが このアートマンは ブッダター(仏性)と言いかえられて ひろく人びとの心に受け容れられています。うんぬん。)
★ あといろいろ言いたいことがありますが、もうくたびれたので、やめます。
☆ 疲れが取れたら またどうぞ。
No.4
- 回答日時:
君には君なりに、正しいことと、間違いというか、何らかの錯誤を仕分けする能力があるから、全ては間違いだとは言い得ないが。
あれもない。
これもない。
このような指向性で否定すると何もかも失う無の境地にたどりつくだろう。
今更うれしいことじゃないよね。
それで、この論説はこんな一面がある。
他もそうだと。
そんなやり方を検証しているが、いろんな説に自分なりの見解を示すのは大した能力だよ。
旧人類は一部の説のみに、自分なりの見解を持ちうるが全体は判らないとかお粗末な事を言う。
私の説はこうだよ。
自然科学から真理の探究をしようという輪郭は、あながち間違いじゃない。
自然界は裏切らないからだ。
森羅万象全てが、本物だ。
ここで現実に偽物が混ざると言う錯誤は、心の方に錯誤の原因があり、その錯誤の実践が現実を調和からとうざける間違いを起こすからだ。
実際は現実の現象には間違いはない。
ここで、真理と言われた目標として、現実と心の一致、または身心の一致を実感しないと、NHKの娯楽科学番組でやっているように、現実のみで、心は脳の化学反応だとか何とか言う説になる。
西洋で全ては無だという科学万能信仰を研究しているとでもいおうかな。
こう言う事柄は、社会的合意形成の一部分で、世に語るための説だ。
ご回答をありがとうございます。
★ ここで現実に偽物が混ざると言う錯誤は、心の方に錯誤の原因があり、その錯誤の実践が現実を調和からとうざける間違いを起こすからだ。
☆ 認識の落ち入り得るマチガイですね。人間の能力には限界があるから。
つまりは 真実――主観真実でしかない――は あやまちうるものと決まっています。
あやまち得ないものではなく そうではなく あやまち得る実際とあやまち得ないという理念とを綜合したかたちにして しかもこのアヤマチということ自体からまったく自由な場を想定する。これが 真理です。
真理と真実とは分けてあつかうのがよいと考えられます。

No.3
- 回答日時:
真理については、
Oxford Dictionaryの定義
~~~~~~
1.1 (also the truth) That which is true or in accordance with fact or reality:
1.2 A fact or belief that is accepted as true:
http://www.oxforddictionaries.com/definition/eng …
~~~~~~
以上のことは語れない、と思うんですよ。
fact(事実、真実?)、reality(現実)という経験(事象)を判断の根拠におかざるを得ないでしょ。
ご回答をありがとうございます。
・ 真理: 《非知》:絶対・無限:人が信じる
・ 事実: 《知解(認識)》:相対・有限:考える
・ 真実: 事実認識としてのわれの主観真実 および
真理(=神)を受け容れるときの主観真実
OED の定義は 《事実認識としての主観真実が 多くの人びとにあって認められ共有されたもの》でしょうね。
社会科学的な真実より自然科学的な真実のほうが より多くの人びとにあって妥当だと認められ共有されるものと考えられます。
No.2
- 回答日時:
「思惟の整合性」=公理系が完全である
(全て公理系内で証明し得る)と、
「事物との対応」=公理系が無矛盾である
(Aと非Aを同時に導かない)が両立する
事が「真理」の要件であるが、
ゲーデルの不完全性定理において「完全な
公理系は矛盾する」、あるいは「公理系は
不完全である場合のみ無矛盾である」とい
う証明がなされた。
それは不確定性原理における「存在を把握
よりしようと、ある値(たとえば位置)を
確定しようとすると、その値に存在的意味を
与える別の値(位置の可能性である運動量)
は無限不確定に発散する」という、相補的
不確定性=事物をいい加減に捉えた時のみ
有限な存在は生じる、という本質につながる。
換言すれば「無だと分からない事が有」。
即ち、真理とは「事実を正確に知る」事では
なく、それらがいかにいい加減か=全てを
無に還元する過程でしかない。
この回答への補足
《公理系》と《想定》とは 微妙に違いがあります。
なぜなら 公理は 経験事象について論証抜きでみんながそれを前提とすることに同意するものですが 想定は・そしてのここでの想定は あくまで経験事象を超えた場についてのものだからです。
だから 不完全性原理とは 別です。
ご回答をありがとうございます。
★ 即ち、真理とは「事実を正確に知る」事ではなく、それらがいかにいい加減か=全てを無に還元する過程でしかない。
☆ まづ《真理》とは この場合も 経験事象について人の認識した真実のことだと見ます。
事実認識についての検証可能性におけるマチガイの無さや信憑性といった真実のことだと見ます。観察者の主観真実であり だれが観察しても 同じ事実認識になるとすれば 普遍的な認識内容であると認められるということ。
そこでそのような《正確に知った事実(つまり 表現された認識事実)》は 《いい加減に捉えられて 存在として生じた状態》について言っているのだということですよね。
つまり その事実認識は まだ《誰もが共有しうる主観真実》ではあっても 言ってみれば《完全な普遍性としての事実=真実》ではないのだということですよね。
けれども
★ 事物をいい加減に捉えた時のみ有限な存在は生じる、という本質につながる。
☆ という判断は 《本質》という用語をつかっています。
★ 換言すれば「無だと分からない事が有」。
☆ これが 本質ですか?
★ それらがいかにいい加減か=全てを無に還元する過程でしかない。
☆ 《いい加減に事実を捉えた》というのなら それはそれでよいとします。けれども《すべてを無に還元する過程》とは一体どういうことでしょう?
あなたがこれらの事実を無に還元したのですか?
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