No.12ベストアンサー
- 回答日時:
補足ありがとうございます。
>>その劇の幕が上がる前に、その観客になる事は出来ません。観るという経験があって、はじめて私と言う主体が生まれる。<<
この記述が間違っていたようです。この場合、劇が主体であり、観ることによって生じた私と言う者は二次的な存在になるでしょう。
今ここには経験と言えるものしかなく、それとは別に主体というものは無いというのであれば、それで構わないでしょう。主体とは、それを証するのに他の何ものの存在も必要とはしないもの、という定義をするならば、質問者様は経験が主体であると仰っているのでしょう。
で、その経験の内訳に、私(自我)とか、人生とか、役回りとか、自他とか、客観とか、世界などと呼称できる経験があると言うことです。
>問題は「世界を開闢する場としての我」を「私」だと所定することは出来ないという点です。<
問題は、世界を開闢する場を”我”と呼称したことにあるのではないかと思います。世界は開闢されている、とだけ言うべきであり、その世界を主体と見るべきではないでしょうか。
>経験が有るからといって、その根底に基体や自我のようなものがあるというのは推測にすぎません。<
始めに訂正いたしましたので反論ではないのですが、今回、キサラギは、経験が私を証すると言っているのであって、逆を主張しません。生まれなければ私は居ないと言っているのと同じです。生まれるという経験があるので私がある。経験が私に先んじていると言いましょう。もし私が経験よりも先んじていたならば、別に私は生まれないという事もあり得たわけです。これは、私が主体である場合に起こり得ることですが、今回のお話では、経験が、基体や自我の根底にあるという順序です。
また、自在については、もとより私とは異なるものとして説明していますので問題ないかと思います。
どうでしょう、話の筋は合っているでしょうか。
No.13
- 回答日時:
重ねて失礼します。
時間をおいて改めて考えたところ、
世界を開闢する場としての私と、経験的な私が同じではないと言う帰結を体感できませんでした。どうしても私は一人であり、二人ではないのです。
世界は確かに私を起点にして生起しているように感じられますが、この事が世界を開闢する場としての我、と言う意味だと理解しています。
私が死ねばこの世界は閉じるだろうと思われますが、私にとってはただ一つであるこの世界も、数多ある世界の一つであると考えられ、全ての世界が閉じると言うわけではないでしょう。
私は世界に存在しないかも知れないが、私は世界を存在させているとは言えるのではないでしょうか。私は世界を経験していると言えるのではないでしょうか。
No.11
- 回答日時:
https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html
を読みました。永井均やウィトゲンシュタインは少しだけ読んだことがあります。
で、本題に入るのですが、何を話していいのやら。質問者さんの興味に応えられるか分からないですね。
別に私の所在をこの世に規定しなければならないということも無い気はします。視座は視野に映らないように、この世(経験世界の外)にあるという事でいいのではないでしょうか。
しかし、たとえ対象が闇であったとしても、見えるという作用が無い時に、視覚と言うものの存在を証できないように、何も経験をしないところで、私の存在を証することはできない気がします。
見えるという作用のある時に視覚と言うものの存在を名称することができるのであり、経験のある所で、私と言う者の存在を名示することが出来るのです。
つまり私の存在は経験によって証され、経験のないところに私は無いと言えます。
その劇の幕が上がる前に、その観客になる事は出来ません。観るという経験があって、はじめて私と言う主体が生まれる。
しかしながら、世界を開く我(私流に言えば、既に開かれた世界)と称する処のものが何か全く分からないというのではありません。それは私では無いかもしれないが、自在かもしれないというのです。
自在とは何かというと、喩えば劇が始まる前に着席しているお客さんです。要するに、生まれる前に在った何かです。経験することは私を証してくれますが、経験しないからと言ってそこに何らかの存在が無いことを証することは出来ません。故に、この自在は自他を超えたものです。経験によって私が証され、自分と他人の区別がつくわけですから、経験を存在の根拠とする必要のない自在にとっては、自他の区別は毛頭ないわけです。自在は当然、始まる前からあり、途中も(隠れて)あり、終わった後もあることができるわけですから、この世の時間の流れを超越しています。劇の観客はそこ(場所)にいないとしても、そこ(場所)に人は居れるでしょう。同じように、経験世界が無くともそこに何者かは在り得るわけで、自在は経験世界を超えていると言えます。経験によって証される私は自在ではありませんが、自在を体験することを後代の禅において悟りと称し、種々の経験と区別します。これは人が本来目指すべき覚りではありませんが、哲学探求の対象として人の興味を引く現象です。
劇が始まる前と後では、お客さんは自由です。観劇することに縛られていません。隣の人としゃべっても、ものをたべても、電話しても、トイレに行ってもいいでしょう。同じく自在と言うのはこの世に縛られていないのです。
稀に、観劇中であっても、どうしてもトイレに行きたくなる場合があるでしょう。或いは緊急の報せが入るかもしれない。そういう時には観劇を離れてトイレに行ったり電話をしなければならないでしょう。経験世界にあって、ふとそこを離れた境を垣間見ることが人には稀にあるのであり、その見たものを様々に称し、その驚き故に吹聴されることもあるが、人生の本質とは関わりはありません。
閑話。
劇は筋や情感を理解しなければ面白みが無いように、人生も道理を理解するので意味がある。早く劇が終わればいいのにとか、この劇はくだらないとか思うようでは公演(人生)は失敗です。外が気になって劇に集中できないのもいただけない。素晴らしい劇だったと思えることが大事であり、そのように人生を送ることが大切なのではないでしょうか。
を読みました。永井均やウィトゲンシュタインは少しだけ読んだことがあります。
で、本題に入るのですが、何を話していいのやら。質問者さんの興味に応えられるか分からないですね。
別に私の所在をこの世に規定しなければならないということも無い気はします。視座は視野に映らないように、この世(経験世界の外)にあるという事でいいのではないでしょうか。
しかし、たとえ対象が闇であったとしても、見えるという作用が無い時に、視覚と言うものの存在を証できないように、何も経験をしないところで、私の存在を証することはできない気がします。
見えるという作用のある時に視覚と言うものの存在を名称することができるのであり、経験のある所で、私と言う者の存在を名示することが出来るのです。
つまり私の存在は経験によって証され、経験のないところに私は無いと言えます。
その劇の幕が上がる前に、その観客になる事は出来ません。観るという経験があって、はじめて私と言う主体が生まれる。
しかしながら、世界を開く我(私流に言えば、既に開かれた世界)と称する処のものが何か全く分からないというのではありません。それは私では無いかもしれないが、自在かもしれないというのです。
自在とは何かというと、喩えば劇が始まる前に着席しているお客さんです。要するに、生まれる前に在った何かです。経験することは私を証してくれますが、経験しないからと言ってそこに何らかの存在が無いことを証することは出来ません。故に、この自在は自他を超えたものです。経験によって私が証され、自分と他人の区別がつくわけですから、経験を存在の根拠とする必要のない自在にとっては、自他の区別は毛頭ないわけです。自在は当然、始まる前からあり、途中も(隠れて)あり、終わった後もあることができるわけですから、この世の時間の流れを超越しています。劇の観客はそこ(場所)にいないとしても、そこ(場所)に人は居れるでしょう。同じように、経験世界が無くともそこに何者かは在り得るわけで、自在は経験世界を超えていると言えます。経験によって証される私は自在ではありませんが、自在を体験することを後代の禅において悟りと称し、種々の経験と区別します。これは人が本来目指すべき覚りではありませんが、哲学探求の対象として人の興味を引く現象です。
劇が始まる前と後では、お客さんは自由です。観劇することに縛られていません。隣の人としゃべっても、ものをたべても、電話しても、トイレに行ってもいいでしょう。同じく自在と言うのはこの世に縛られていないのです。
稀に、観劇中であっても、どうしてもトイレに行きたくなる場合があるでしょう。或いは緊急の報せが入るかもしれない。そういう時には観劇を離れてトイレに行ったり電話をしなければならないでしょう。経験世界にあって、ふとそこを離れた境を垣間見ることが人には稀にあるのであり、その見たものを様々に称し、その驚き故に吹聴されることもあるが、人生の本質とは関わりはありません。
閑話。
劇は筋や情感を理解しなければ面白みが無いように、人生も道理を理解するので意味がある。早く劇が終わればいいのにとか、この劇はくだらないとか思うようでは公演(人生)は失敗です。外が気になって劇に集中できないのもいただけない。素晴らしい劇だったと思えることが大事であり、そのように人生を送ることが大切なのではないでしょうか。
No.10
- 回答日時:
補足コメントを承けて。
いま・ここでひとりの人間として《わたし》であるあなたが:
★(趣旨説明欄) 「私とは、世界の中に存在している登場人物である」と
考えてい
☆ ようがいまいが あるいは:
★(補足欄) 「世界を開闢する場としての我」
☆ という言葉を語ろうが語るまいが そんなことには関係なく
〇 あなたは いま・ここに存在している。
☆ と言えます。
というのも:
★ (補足欄) それは私というものが常に経験的なものとして存在してい
るからに他なりません。
☆ すなわち:
★ (同上) それは「世界を開闢する場としての私」とは明らかに異する
もので
☆ あっても 何の問題も生じていません。
あなたが 《わたし》と自称していま・ここに存在している事実は:
★ (同上) ウィトゲンシュタイン・・・や永井
☆ が いかなることを言おうと まったく関係なく 成り立っています。
素朴に経験的な現実だということですが それでかまいません。ひとは そ
の事実を共有して 社会生活をいとなむ――ことになっています。
世界とは それだけのことです。
No.7
- 回答日時:
私は全然相手にされてない割りに海二十レマ下よ。
イライラが凄くてゲーム実況差にほらこのように差がらるようで
誕生日まで
あたし以外の人は森が亜gg照るようです。
全然私は関係なくて今年も孤独でしたね。
No.5
- 回答日時:
ぢゃあ いまこのように趣旨説明で:
★ 私達
☆ と言っているその《私》は 誰なのですか?
★ 二人存在していると言っているようなものである
☆ のですか?
★ 私が今ここに存在しているというのは矛盾している。
☆ と言っているのは いったい誰ですか?
No.4
- 回答日時:
回答にはならないかもしれませんが。
うちの犬は、顔と、背中の一部が黒いのですが、残りの、自分の目に見える部分はすべて白いです。ですから、白い犬が近づいてくると、仲良くしますが、黒い犬は、見た目が違うと思うのか、敵扱いです。
白と黒が両方みえている飼い主の私から見ると、大変不思議なのですが、当の本人は、至極真面目に、黒い犬を追い払おうとしています。興味深い現象です。
主観・客観、そして、主観と現実、客観と現実のつながりを、もう一度検証して見られたらいかがでしょうか。
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誤解しないでもらいたいのが、
私はヒュームの知覚の束のような還元主義の立場を肯定している訳ではありません。
問題は「世界を開闢する場としての我」を「私」だと所定することは出来ないという点です。
ここでの「世界を開闢する場としての我」とはウィトゲンシュタインの独我論や永井の〈私〉、いわゆる非還元主義のことであり、
ここで言う「私」とは、質問文でも書いた様に、私達が素朴に私だと信じている私、
世界の中に存在する登場人物としての私、経験的な私のことです。
なぜ我々が、私というものを世界の中の登場人物として認識出来ているのかと言うと、それは私というものが常に経験的なものとして存在しているからに他なりません。
それは「世界を開闢する場としての私」とは明らかに異するものです。
回答ありがとうございます。
>つまり私の存在は経験によって証され、経験のないところに私は無いと言えます。
この辺りについてはイギリス経験論の研究で議論し尽くされてるところなのです、
経験が有るからといって、その根底に基体や自我のようなものがあるというのは推測にすぎません。
ましてやそれを、世界の中の私だとする考えは、自我を実体だとしたデカルト二元論の二の舞です。
経験する主体とその客観としての対象とを二分して、私を実体だとする考えもナンセンスです。
>その劇の幕が上がる前に、その観客になる事は出来ません。観るという経験があって、はじめて私と言う主体が生まれる。
経験があるからといって、何故それが「観ている」ということになるのでしょうか?
経験があるからといって、何故「観客がいる」ということになるのでしょうか?
今ここには経験と言えるものしかありません。