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私達は当然のように、「私とは、世界の中に存在している登場人物である」と考えているが、
よく考えてみると、
目が視野に写らない様に、私とは決して経験されることがない。
それにも関わらず、私が今ここに存在しているというのは矛盾している。
言ってみれば、この世に私が二人存在していると言っているようなものである。

質問者からの補足コメント

  • 誤解しないでもらいたいのが、
    私はヒュームの知覚の束のような還元主義の立場を肯定している訳ではありません。

    問題は「世界を開闢する場としての我」を「私」だと所定することは出来ないという点です。

    ここでの「世界を開闢する場としての我」とはウィトゲンシュタインの独我論や永井の〈私〉、いわゆる非還元主義のことであり、

    ここで言う「私」とは、質問文でも書いた様に、私達が素朴に私だと信じている私、
    世界の中に存在する登場人物としての私、経験的な私のことです。


    なぜ我々が、私というものを世界の中の登場人物として認識出来ているのかと言うと、それは私というものが常に経験的なものとして存在しているからに他なりません。

    それは「世界を開闢する場としての私」とは明らかに異するものです。

      補足日時:2018/12/23 17:22
  • 回答ありがとうございます。

    >つまり私の存在は経験によって証され、経験のないところに私は無いと言えます。

    この辺りについてはイギリス経験論の研究で議論し尽くされてるところなのです、

    経験が有るからといって、その根底に基体や自我のようなものがあるというのは推測にすぎません。
    ましてやそれを、世界の中の私だとする考えは、自我を実体だとしたデカルト二元論の二の舞です。
    経験する主体とその客観としての対象とを二分して、私を実体だとする考えもナンセンスです。

    >その劇の幕が上がる前に、その観客になる事は出来ません。観るという経験があって、はじめて私と言う主体が生まれる。

    経験があるからといって、何故それが「観ている」ということになるのでしょうか?
    経験があるからといって、何故「観客がいる」ということになるのでしょうか?

    今ここには経験と言えるものしかありません。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/12/25 10:38

A 回答 (13件中11~13件)

世界が存在していないことに気づいてないだけかも、、、。

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主観視:私は存在しない


客観視:私は存在する
主観視+客観視:私は二人存在する
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いや、貴方はこの世に何人も存在しているんですよ。


貴方の思う貴方が貴方(=私)なだけ。
貴方と出会った全ての人に別の貴方(=意識)が存在しています。
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