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意識と認識という言葉の意味には、違いがあると思うのですが、そしてその意味にあった使い分けもされていると思うのですが、これに付いて皆様はどのように考えていますか?

私の場合を云っておきます。
認識とは、すべての生命体に備わる精神の働きの一つ? であると思っています。
微生物が“モノ”に出くわした時に起きる反応、或いは起こす行動がそれです。

意識とは、自身の行動や精神活動が分かるという働きです。もう一人の自分が自分を見る、知る、と云ったような心理のことです。

思索するなんて言葉を使うような頭ではないので、こんな大まかな受け止め方しかしていませんが、いつも気になっているので確認してみたいのです。

知者の皆様のご意見を聞かせて下さい。
宜しくお願い致します。

質問者からの補足コメント

  • 頂いた回答を見ながら考えています。

    どうやら認識と云う言葉には、単純な触覚的なものから複雑で知的なものまで、範囲?が広いようですね。
    人間は、微生物や昆虫、そして動植物などの感覚的で単純な認識に加えて、知的と云えるような事柄を認識するようで、その事は回答から感じます。
    また、「認識とは?」と云った最近の質問に寄せられた、キサラギさんの回答にもその事を強く感じます。

    こうした意見を見ていると認識と云う言葉は、理解すると云うことと同義のようにも思えてきました。

      補足日時:2018/10/05 11:29
  • 再考です。

    “ナイフ”の方は自分のやっている事が分かっている、理解している、と云う事ですね。
    このような言い換えが可能のようです。
    主観的とも云えますね。

    “殺そう”の方は意志のある事を「知る」と云う事ですね。
    そう思えば、表現としては意識がある、と云うのではなくて意志のある事を意識している、としたほうが正確ではないかと思いました。
    こちらは客観的ですね。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/10/05 11:51
  • かわごえさんの回答を通して思いついた「ボケ老人に意識はあるか?」という事に付いて考える事は結構重要なのでは、と今思っています。

    もしかするとボケてしまうと、認識さえ怪しくなっているのかもしれません。

    今は、意識という心の働きに付いて考えると、生命が危うい時に“意識”のある事を確認するような、肉体的ともいいたくなる意識から、哲学的ともいえるような精神的な意識までと、幅があるようにも思えてきました。

      補足日時:2018/10/05 16:57
  • ブラジュロンヌさんの回答も、いつもの事ですが分かりにくいですね。
    時間のある時にジックリと“吟味”しようと思います。

    そんな訳で、今は埒が明かない気分故に、分厚い哲学辞典を引っ張り出して、これらの項目を引いてみましたが、これがまた、これぞ哲学と云った解説で“辟易”するしかありませんでした。私の頭のせいでしょうが。

    もっと、もっと、単純に意識と認識の違いを端的に云う回答が欲しかったのですが、知者の方々でも答えを持っている人はいないようですね。

    なぜ、アメーバーレベルでの“物”への反応の事を「認識」と云えないのでしょうか。
    なぜ、自身の心を見つめることを「意識」と云えないのでしょうか。

    「識」て、なに?

    やっぱり、仏教ですか?

      補足日時:2018/10/06 00:22
  • さて、最後の感想です。
    認識と意識。
    認識は直接的であり、意識は間接的であると。

    物を直接的に捉える認識に、感覚的認識と理性的認識がある。
    間接的な意識と云うのは、認識したものを捉えるから、である。

    そのようにして心は、物事を意識することによって、理性と感性を働きだすのだ。

    その内訳は、理性は判断を司どり、感性は好悪を受け持つ。

    まあ、こんな感じです。
    今回はキサラギさんとブラジュロンヌさんが私にとってはベストアンサーでした。
    有り難うございました。

      補足日時:2018/10/07 22:33

A 回答 (16件中1~10件)

★(№13お礼欄) ~~~~~~~~~


「意識とは主体の事であり、認識とは行為の一種である。」

これが今回のキーワードです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ わたしの表現では:

(あ) 意識とは主体の《姿勢や態度》を示すことになる。

(い) その意識の・つまり姿勢や態度の 中身は 知解や意志であ
る。

(う) 知解の内の認識をあらためたり思考をたしかめたりすること
を内容としたその姿勢を 外枠(うつわ)としての意識が しめして
いる。

(え) 認識とは行為の一種である。理性の・もしくは知解のはたら
きのひとつである。

(お) その認識をあらためるとき あらたな認識が確認されている。
この中身を 意識が 外枠としてつつみ 主体の姿勢をしめしている。




(か) 知解の・あるいは意志の確認作業というのは われなる主体
の心の向きを――つまり志向性を――明らかにして示すおまけを生み
出す。・・・このおまけが むしろ主体の姿勢をしめすかたちになる。
これが 意識とよばれる。
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ヰキぺを参照してみました。

はっきりしませんね。

具体的な事例を取り上げて捉えるのがよいのかも知れません。

まづ 定義は こうです。

1. 基本として 《心のハタラキをそれとしてあらためて確かめる
とき そこに現われる心の動き》を意識と言う。

2. 自己〔が自己であることを確認するとき〕の意識 または〔そ
こに自己がいる世界としての〕現実の意識 として包括できる。



さて:
3. ◆ 例えば睡眠中に夢を見ている時、意識はあると言えるだろ
うか。
☆ 睡眠中のわれが自己を確認しようとしたら それなりの自己の意
識が現われる。

4.◆ 何かを認識する時には意識がある。
☆ これは 感性による知覚のことです。視覚や聴覚による視聴覚の
像を得ているので これを〔認識において〕確認するなら 意識がか
もしだされる。

5.◆ 一方で意識があっても認識が成立していない事は多分にある。
☆ 視聴覚という感性(そのイメージ)そのものを確認しようとする
なら 認識(つまり言葉≒概念による理解)無しに 何らかの意識が
現われるかも知れない。

6.◆ 意識は認識に先立っている。
☆ それは 知覚(およびその像そしてそれの確認としての意識〕で
あって 表現にあいまいさを残す命題(判断)です。





7.▲(ヰキぺ:意識) 意識(いしき、Consciousness)は、一般
に、
「起きている状態にあること(覚醒)」
または
「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」
を指す。
☆ 夢ではなく現(うつつ)だという確認は・そしてそのウツツなる
自分の確認は (2)項の自己意識ないし現実意識です。


8.▲ 日本語では、
「ある物事について要求される注意を払ってい
る」
とか
「考え方や取り組み方について努力が行われている」
といったことを表す場合に、意識が高い(または低い)といった言い
方が許される。
☆ 心のハタラキとしての知解(認識および思考)や意志についてそ
れ自身をあらためて確かめるなら 知解プラス α だとか 意志プラス
α だとかとして――その α として―― 意識とよぶ心のうごきがとも
なわれている。


9.▲ たとえば公害や廃棄物などの問題についてよく勉強し、改善
のために様々な行動や対策を行っている個人や集団を、環境問題につ
いての意識が高い、などと表現する。
☆ 前項に同じです。


10.▲ このような用法は(あ)遵法意識 (い)コスト意識 (う)
プロ意識、(え)意識調査、(お)意識改革、など様々な表現に見ら
れる。
☆ 意識は たしかにそう呼ぶ心の動きが感じられるので 精神の現
実の現象であることに間違いないですが ただし 器だけのようなも
のであって 中身は意識じたいには特にないはずです。中立の動きで
す。

11. つまり 前項の用法は 器の中の実際の内容については や
はり知解や意志のハタラキが担っています。

12. 知解(認識および思考)や意志を内容とするその《意識が高
い》という中身は 次のようであるはずです。

(あ) 法律をよく知り(認識)よく守る(意志)その確認を怠らな
い。

(い) 実際上はすでに経営感覚を持って 生産にのぞみその個々の
現場についての知識(理論知および経験知)を体得するのを怠らず 
つねにその知解および意志を確認している。

(う) 一般に 具体的な事態や情況についても・そこでの特定の仕
事についても・そして広く世界の実情についても その認識(事情把
握)および施策への思考がゆきとどいている。その自覚があり なか
んづく実行力に冨み実績がともなわれている。

高いかどうか明らかでないとき:
(え) それを調査するのが 《知解および意志をめぐって自己の現
実はいかにあるか》についての意識調査でしょう。

(お) その結果 意識がとぼしいとなれば 意識改革がおこなわれ
ます。実際には 知解(認識および思考)や意志について確認し 正
したり高めたり強めたりすることです。

・・・
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この回答へのお礼

意識という言葉はふた通りの使われ方をしているようですね。
ここで取り上げてくれている意識が高い、と云った用法と、いま我々(主としてブラジュロンヌさんとキサラギさん)が意識して使っている“意識”が。

私の頭はキサラギさんとブラジュロンヌさんの意見でいっぱいです。
手に負えなくなってきているので、もう引っ掻き回してしまいました。

だから何が何だか?と云った感じですが、それを何とかして見て浮かび上がった言葉があれば、補足欄で述べてみようと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2018/10/07 12:01

★(補足欄の四つ目) なぜ、アメーバーレベルでの“物”への反応の事


を「認識」と云えないのでしょうか。
☆ 言えます。広い意味での《認識》です。

狭く固有には《感性による知覚》とよびます。《触覚》など。触れたも
のが何かと思い――悟性が――理解することは 《認識》です。



★ なぜ、自身の心を見つめることを「意識」と云えないのでしょうか。
☆ それは 基本としては そう欲するところの意志のハタラキだと思
います。

ただしそのとき 《意志が意志することで 〈わが心をしっかり見つめ
るのだぞ〉と言ってみづからに向けて確認するとき そのハタラキを強
めたり念入りにしたりすれば そこに心の動きとして微妙な感覚的気持
ち(?)も起きる》 これが 意識だと思います。

クオリアと重なるところがあるでしょうか。




★ ~~~~
「識」て、なに?

やっぱり、仏教ですか?
~~~~~~
☆ これには わたしは無知でいたいと思います。
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例えば睡眠中に夢を見ている時、意識はあると言えるだろうか。

見ているものが夢であると認識する事は稀であるが、少なくとも次の様には言えます。
何かを認識する時には意識がある。一方で意識があっても認識が成立していない事は多分にある。
意識は認識に先立っている。

次の様にも仮想できるでしょうか。
五感を閉じたとき、五感で知覚するものは認識できなくなる。しかしその時でも、意識はあると。

他の観点では例えば、PCにUSBメモリを差し込んだ時、メモリを認識しましたと表示が出る。この時PCに意識はあるだろうか。
それは無いだろう。しかし、この意識があると言う事を、スイッチが入っているとか、電源が入っているとか言い換えたなら、話は通じる様になる。PCの場合には、意識=電源 とも言えるだろう。

他にも、認識が正しかったり間違ったりする事はあっても、意識が正しかったり間違ったりする事はない。意識と言うのはあるかないかしか無い。

だが、語の使い方によっては、意識高い系とか、正しく意識するとか言う事もある。
この場合には、又違ったニュアンスを意識と言う語が持っているでしょう。
意識高い系の場合にはメンタリティの話であるし、正しく意識すると言うのは照準が合っているかいないかの話となる。

そろそろ結論を言おう。
意識とは主体の事であり、認識とは行為の一種である。

これでどうでしょうか。
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この回答へのお礼

ようやくここまで来て、うすうすとですが考えが浮かび上がってきたように思います。

「意識とは主体の事であり、認識とは行為の一種である。」

これが今回のキーワードです。

補足欄を使って述べられるかも知れません。
ありがとうございました。

お礼日時:2018/10/07 11:42

★(補足欄の三つ目) 生命が危うい時に“意識”のある事を確認する


ような、肉体的ともいいたくなる意識
☆ これは 自己〔が自己であるというその〕意識であり または
まとめて現実の意識のことだと思います。

その中身として:
・ 自分が誰であるかを言えるか? (記憶&認識機能の確認)
・ 家族の顔を覚えているか? (同上)
・ いまどこにいるか? (同上)
・ これからのことは どうか? (生きる意志の確認)




★ 哲学的ともいえるような精神的な意識
☆ 記憶をよみがえらせるために記憶行為を意識するというとき 意
識そのもの(その行為)は 中立であるのではないか?

その確認としての意識は たとえば勉学のために・思索のためにとい
った目的があるとするとき そのような知解というハタラキにかかわ
って《精神的・哲学的》といった色合いを帯びるのだと思います。






心ないし精神のハタラキは 三つに限ると思われます。

・ 記憶 ∽ 司法
・ 知解 ∽ 立法  :(知解:認識および思考)
・ 意志 ∽ 行政


そこへ精神の別のハタラキであるかのような意識が 現われますがそ
れは 記憶が記憶するといった《あらためて確かめること》において
であると見られます。

認識が認識するのは やはり間違いのないことを確認するのでしょう。

意志が意志するのは その心つもりを強めるということでしょう。

そういった《ハタラキじたいの確認》に際して それぞれの《意識》
が現われるのではないかと。




国家の機関としては 三権それぞれの権力がその広報活動をするよう
なハタラキであるかも分かりません。

その意味では 別の主体になっていますが――そして 第四権力とも
呼ばれるような――マスコミ・報道機関が あたかも《意識行為》に
当たるのかも分かりません。
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ここに来て意識と心を関連づけるのは何故でしょう?ボケ老人を引き合いに出すことも理解しがたく質問からかけ離れてます。


ただ単にややこしくしたいだけですか

ご自身の質問から遠ざかっては何の解決にもなりませんけども
あなた自身がボケ老人であるなら理解できそうです。
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変則的ですが 大きく哲学の問い求めとして正規のものと受け取って


もらえたなら ありがたいです。

1.
◆ (キ) 認識した対象達によって、一つの世界が構築されていま
す。
☆ 認識する以前に 世界は モノ・コトで成り立っています。
人間が認識に当たって モノ・コトを《対象》とします。

2.
◆ そして、その対象達を造成しているのが認識形式であり、
☆ 対象とされたモノ・コトは そのままでも 成り立っています。

したがって人間の認識形式によってではありません。

認識は 知覚の形式(空間・時間)や認識の(あるいは思考のそして判
断の)形式(因果性など)によって 人間の理解するところとして か
たちや内容を持つと 人間が言っているだけです。

3.
◆ 人は認識形式を変える事によって、言わば住む世界を変えることが
出来る、と言う事でしょう。
☆ カントによれば 認識形式は 知覚の二種と認識の四種12項目と
に限定されています。それら〔のみ〕が 人間に生得的にそなわってい
ると言います。

ほかの《形式》は すでに思考や判断の内容を成すものです。そして
じつは 因果性やそれに対応する選言判断といった《形式》は これも
すでに思考や判断の内容そのものを成します。

4.
◆ これは例えば簡単に言うと、人が子どもから大人になると、世界が
変わります。子供の時には見えなかったことが見えるようになり、聞こ
えなかった事が聞こえるようになります。もちろん、素の視力や聴力は
子ども時代の方が優れていたかも知れませんが。子どもから大人になる
過程で認識形式とそれを起動している主体が変わったので、子ども時代
と同じ地球、同じ国、同じ地域にに住んでいても、住む世界は変わった
のです。
☆ 浅かった認識が深められて行ったというほどのことだと思います。
次の一文に呼応しているはずです。

5.
◆ また、何か勉学に打ち込んで、知学に研鑽を積むと、見えなかった
ものが見えて来ます。同じ言葉でも、現象でも、鋭敏な意味や深い価値
を持って見えたり聞こえたりするようになる。

ただし:
◆ これは認識形式が高度に構造化したり洗練されたりしたからだと考
えられます。
☆ ではなくて そうではなく 思考と判断とが深められたということ
のはずです。そのとき 世界認識のための物指しとなるような基礎理論
が 究められて来たという事情は ふくまれます。

それは 形式ではなくすでに 内容です。

6.
◆ 古い時代には、情報は物自体から与えられるものでありました。
☆ いつの時代にも 世界なるモノ・コトに相い対して その中身を知
ろうとしました。

そのとき ひとつには 超越的な神がいだかれていましたから その神
のもとに・神によって世界が成っているという見方も持たれていました。
つまり 認識は 神〔の信仰〕によってあたえられると思われていた。

カントは モノ・コトなる経験事物について究極の何かとして《物自体》
を想定しただけです。哲学において神を持ち出すのを嫌ったからです。
〔あとで 実践理性(≒意志)の問題として・つまりは 倫理・道徳の
問題として 神を持ち出しています。物自体を 神に昇格させているか
に見られます〕。

7.
◆ 時代が下るにつれ、実は認識対象にこちらから情報を与えている事
が知られるようになったのでは無いか?
☆ 認識する以前の世界の状態と 認識をほどこしたあとの状態とは違
うというだけのことです。

世界に対して 人間の知解なる能力によって《存在の有無 あるいは 
時間過程における因果関係》といった物指しを備えて 測定するように
なっただけです。

何ごとにも この理性なる物指しを当てて捉えあたかも対象を自分たち
のものにしようとしましたから 自然環界はいいように開発されて来ま
した。

自然をそのまま――認識以前のまま――捉え共生するという思想もあり
得るはずです。

8.
◆ 例えば地学の知識を僅かに身につけた人が、ある石ころを見てそれ
を石炭だと認識する。次にまた別の石ころを見て、"これは知らない石
だ"と認識する。そして、これはもしかしたら何かの鉱石かも知れない
と思う。
☆ これは 自然環界に向けた哲学の認識が深まっていく過程です。次
の命題も まったく同じです。:

9・
◆ もし、石ころを石ころとしか見れない人ならばそれ以上のことは何
も無い。しかし、鉱石の存在を一つでも知っている人ならば、そのただ
の石ころに、何かの石である可能性を与えることができる。何かである
可能性を見出すことが出来る。この、知識や経験の差異が生み出した認
識経路?認識形式?の違いによって、ただの石ころはただの石ころで終
わらず鉄鉱石で在ったりすることができる。

10.
◆ さらに進むと、この世に只の〇〇などは無いのではないか?と問え
るようになり、この世はあるがままにあるのではないのだと言う認識に
至る。
☆ あるがままの世界とその状態も 認識する以前として つねにあり
得ます。

世の中は すべて人間ののぞむように成るとは 限りません。


11.
◆ ここに世界は新たに開拓されたのであり、
☆ 思考と判断が深まりこそすれ そんなタイソウナ新世界だというも
のでもないでしょう。文明の利器は 決定的なあたらしさでしょうか?
そうかも知れませんが なおまだむかしの世界の上に・その中に住んで
います。

12.
◆ 世界のレイヤーが一つ増えたのであり、
☆ と見えるかも知れません。

13.
◆ 太陽系が発見されたが如く、人間の視野は1レベル向上したのだと
言える。
☆ 思考と理解は 深まっています。

14.
◆ コペルニクス的転回のすごいところは、地球が中心ではなく太陽が
中心である事によって世界が広がった事にあります。
☆ 認識を得たあとの世界が あたかもそのように見えるということで
しょう。限界がなおあることを知っていれば いいわけですが。

15.
◆ 認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う事によって、
☆ いいえ。両方のかたちがあります。

16.
◆ 人間の自由は一段飛躍したのです。
☆ 確かに自然環界に対して やりたい放題です。

17.
◆ 世界を新たに一つ発見したのと同じです。しかもこの発見は、色で
例えるなら新しい色味の発見ではなく新しい原色の発見だと言えるでし
ょう。なぜなら、認識形式の多様性は即ち世界の多様性であり、それは
一つの原色が他の原色と混ざり合う事で無数の色彩を生む事に似ていま
す。
☆ LGBTは 趣味の問題として 昔からありました。性的指向の多様
性として捉えると 世界が一変したかのように見えるのでしょうか?

しかも LGは ついぞ生殖とはいっさいかかわりがありません。したが
って 生殖にかかわるH(ヘテロつまり異性愛)とは 同じ次元で性的指
向を構成することは ありません。つまり 《多様性》ではなく 次元
が別のあり方です。


18.
◆ 住む世界が変わると生き方が変わる、しかも人間の側から変えるこ
とが出来る。
☆ 着物を洋服に変えた程度のことなのでは?

19.
◆ そしてその証拠に、現代、人間は明らかに住む世界を変えている。
☆ 良し悪しの両面があります。

20.
◆ カントのメタ的な観察眼によって導かれた説が、実際に起こってい
ることを説明するのに適合している事実から、それを哲学史に残る一大
業績であると言うのに無理はないだろうと思いました。
☆ 《汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうる
ように行為せよ》と言うんですよ。神〔の掟〕に取って代わっただけで
は?

21.
◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
自分的にも、穴を埋めるためにも一つ例を挙げます。
・・・(中略)・・・
では、この"在るとする感覚"とは一体なんであるのか。もしこれを人間
の側でどうにかすることができたなら、コペルニクス的転回がもう一度
起こる。映画マトリックスのような世界になる。

物を在らしめる力は存在するのか?それは手に入るのか?という話にも
なる。

この世は"作られた世界"なのか、それとも"在った世界"なのか。
作られた世界であるとするのが、妥当な気はする。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《むかし あった世界》は 《コペルニクス的転回》のあと なく
なったとでも? 
変わり果てているかも知れないですが。
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>電子機器に“意識”は使いますか?


現在現代においては使わないでしょ。
このさき使う事になるかも知れませんけど
お互い、またはそれ以上で情報の伝達が通じている状態ですね。
もちろん間違いもあり得ます。
なので「理解」とも異なるでしょう。

また、寝たきりの人間に「意識がある」と表現したりします。
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この回答へのお礼

「お互い」という事の想定がどういう事か分かりませんでした。
「またはそれ以上での情報」というのも分かりませんでした。
だから「間違い」に付いても分かりません。

また、寝たきりの人間に「意識がある」というのは、声かけに反応すると云う事ですね?
多分、自分の事が分かっている、もっと云えば今どの様な状況にあるか分かっていると云う事ですね?

言い換えをすれば、心は正常であるという事ですね?

ボケ老人の場合は「意識がある」と云いますか?

お礼日時:2018/10/05 13:27

★(№6お礼欄) 回答を見ながらふと思ったのですが、自分を客観


視する心、出来る心、これを意識体と云ってみたいのですが如何でし
ょうか。
☆ 《意識》論について修得したというわけではないながら 言うの
ですが 意識は 《ともかくそのモノ・コトを確認するために心や気
持ちや注意を差し向けること》だと思います。

その確認の上で さらに何か別の目的へと展開して行くのではないか
と思います。

《客観視できるようにする》ために まづその事態を意識するのでは
ないかと。 

客観視することやそれが出来ているかを判定するのは 知解(精査)
や意志(判断)のハタラキではないかと。

意識は 中立のハタラキであると思われます。





まづ第一段階として たとえば回答内容を意識し確認します。
その次の段階として――または 同時にであるが 成すこととしては
別のことであるようにして―― 間違いがないかをしらべるという目
的を果たす。

わざわざ区分すれば そのようになるのではないでしょうか。

そうだとすれば まづ初めに意識を差し向けることは 中立的な行為
なのだと思います。


中立的な行為があるからこそ 客観視する方向へみちびくことが出来
る――と言うのならば そういったあたかも《エポケー》のようなハ
タラキがあるのかも知れません。






さらに事例を取り上げてみますと。:


事前に勝利を意識する。というときには それゆえなお注意深くその
勝利へみちびこうと努力する。か または その意識ゆえに先に勝利
のよろこびに想像の中で浸ったりして 努力を怠る。とか。
――この・あとの段階は 知解や意志の役割りなのだと。



このハートの揺らめきと高鳴りは 何か? とまづ意識する。それは
恋心なのかどうかを確かめるためであり さらにそのあと 恋心を深
めたり あるいはぎゃくに いや 止(よ)そうと思ったりするかも
知れない。
――あとの段階は 知解や意志の役割りなのだと。



あぁ あれは何だったか? と なかなか思い出せないでいるとき 
その何かに関連するものごとを思い出し さらにしっかり意識しよう
とする。
――これは 思い出すために意識するといった事例でしょうか。

でも――同時一体のようですが―― 記憶を揺り起こし思い出そうと
いう目的と その何かに関連するものごとを意識することとは 微妙
に分けることが出来るかも知れません。




蛇足ですが:


息を吸ったり吐いたりする行為は 普段は意識していません。そこに
おまけをつけるかのように 気を差し向けるのが 意識ではないかと。
そして その意識することは 何か別の目的のためにであり得ます。


歩くとき左右の足を互い違いに振り出すのは ふつう意識していない
わけであり これを確認するのは まづ意識を差し向けることから始
まります。そのあと 別の目的があれば そのことをおこないます。

といった感じでしょうか どうでしょうか。
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認識とはすべての生命体および人工物が持っている自分と周りの世界に関する情報でしょう。



意識とは植物や人工物には在るのかないのか分かりませんが、動物が持っている神経に寄る性質が主体化した

心・精神の色んな働き、例えばこの餌を食おうかどうしようか とか 恋愛とか生きるためにどうしようとか

そういうのじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ブラジュロンヌさんの回答へのお礼欄で、自身を客観する心を意識体と云ってみたいとご返事しましたが、これに付いてのharuさんのご意見があれば、聞いてみたいです。

またharuさんがここでいう意識は、それは意志と云うものではないか、と思いましたが。

お礼日時:2018/10/04 21:48

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