天使と悪魔選手権

はじめまして・・・ではないのですが・・・

質問のタイトルの通りですが。少し補足を。

人が読書なり、カウンセリングなり、精神科医なり、或いはどこかで聞いた言葉によって、「変わる」=(改善される)ということがあるとしたら、それはどういう仕組みなのでしょうか?

つまりある特定の言葉=考え方・視点を獲得することによって、その人は何故、変わることができたのか?
逆に何故、誰と話しても、何を読んでも変わることができないのはなぜか?

その辺りを知りたいと思います。

尚以下のリンクは11年前(2007年)師走のわたしの質問です。

・・・今はharuさんではありませんが、長文を読み、またそれに対する意見を記述する体力も気力もありませんので、とてもこの当時のようなやり取りはできません・・・
このなかでも、回答No.3 shift-2007さんは、流石に当時盛んにやりあっていただけあって、質問の裏にあるわたしの真意を見抜かれていたようです。

今のわたしならこれをベストアンサーにするでしょう。

体調不十分で、充分なお礼すら覚束ない状態でノコノコ出てくること自体が間違いかも知れませんが、
それを承知で、何か書き遺してくれる方がいればと思い、投稿しました。

以上ご理解の上、気が向いたら書き込んでください。

可能な限り、補足には応じたいと思っています。

質問者からの補足コメント

  • これまで3人の方のご意見を伺い、それに対して、お礼(?)をした「つもり」ですが、このようにお礼を書いていて、「なんだ10年前とまるで変ってないじゃないか!」という思いを強くしました。

    お礼を書いていて、自分に対して強い違和感を感じました。

    何か本質からズレている。おまえは回答者の時間を割いて、いったい何がしたいのだ?何を求めているのだ?と。

    (わたしと言う存在の)なにかが間違っている。でも何がどう間違っているのかがわからないのです。

      補足日時:2018/12/17 01:47
  • 補足ではなくひとりごとです。

    下に「嫌われ者や友達がいない人たちを集めて町を作ったら人間関係はどうなる?」という質問がありましたね。正に「キラワレモノ」で「友達のいない」わたしは興味を持って拝見しました。

    わたしが仮に答えるとすれば、上記のような人間たちは、そもそも自分以外の人間を怖れる、或いは信じないという傾向を多分に備えているので、これはいわば「一匹狼株式会社」のようなパラドクスになると思います。つまり、そのような者たちが「集う」ということがそもそも不可能なのでは?と。

    一方で、現実には、自分と同じような痛みや苦しみを抱えた者たち「だけ」の街ということであれば、逆に安心して出ていける、つまりそこでは彼らは最早「キラワレモノ」や「孤独者」という属性を失うことになって、案外うまくいくような気もします。

    ひとりの「友達のいない」「嫌われ者」としては後者に賭けたいですね。

      補足日時:2018/12/17 02:21
  • 続きます

    世紀末ロシア文学に「余計者」という人たちが多く登場します。自分の生きている意味が解らない。
    彼らの多くは没落貴族です。そして彼らの関心は「人生どう生きるか」ではなく「何故生きる?」ということにあります。

    >彼らに多く共通するのは結局”やらない”ということ。

    キサラギさんの目には「やらない」のではなく「やれない」人たちの姿は映りませんか?

    多くの文学作品の中の「余計者」たちが、そして現実の「引きこもり」たちが、「やれないこと」にどれほど苦しんでいるか。

    いづれにしても、わたしが「主体性のない人間であること」「今現在とコミットしていないこと」は認めます。

    お話を伺っていて、これは所謂「健常者」と「障害者」間の決して埋まることのない溝、というよりも、あまりにも「真っ当」な者と、あまりにも特異な者との断絶なのだろうと感じました。

    ご回答、とても参考になりました。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/12/19 18:16
  • みなさん、いろいろなご意見を聞かせていただきありがとうございました。

    どれも傾聴に価するものばかりで、且回答者にも恵まれ、ベストアンサーを選ぶのはとても困難です。

    とくにキサラギさん、猪突さん、チャオポルポさん、そして、ブラジュローヌさん。だれがBAでもいいと思います。

    無理矢理選んだBAということでご理解ください。

      補足日時:2018/12/21 02:53

A 回答 (12件中1~10件)

言葉の力で、と言うのは曖昧な表現と思いますが、言語の運用能力をつける事で確かに人生は変わります。


日本語の運用能力が拙い人が、中級、上級の日本語運用能力を身につければ、日本国内での人生が豊かになりますし、ロシア語やアラビア語の運用能力をつければ、それだけで人生の視野が大きく広がることは間違えありません。

ご質問の趣旨とあってなければ無視してください。
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この回答へのお礼

こんばんは、木造100年さん。
短く簡潔なご回答ありがとうございます。

わたしは多分木造さんとやり取りしたことはないと思いますので、わたしのここでのやり取りのスタイル(?)をご存知ないと思いますが、お気に召さなければ、それこそ、以後、無視してくださいね。

>日本語の運用能力が拙い人が、中級、上級の日本語運用能力を身につければ、日本国内での人生が豊かになりますし、ロシア語やアラビア語の運用能力をつければ、それだけで人生の視野が大きく広がることは間違えありません。

日本人が、英語やロシア語、アラビア語等、他言語を習得することで、人生がゆたかになるという点ではまったく同感ですが、言葉を用いる仕事をしないのであれば、(日本人による)日本語の上達は
>日本国内での人生が豊かに
なるとは思えないのです(あくまでも個人的な感想です)

日本人は言葉をそれほど重視する民族とは思えないのです。それに日本人は概して突き詰めた議論を嫌います。
「哲学」を嫌うと言ってもいいでしょう。

木造100年さんの言われている「日本語の運用能力」というのがどのような内容を指すのかよくわからないのですが、俗に「智に働けば角が立つ」といいます。
日本人は言葉よりも行動、「不言実行」を尊ぶ文化を有していると思います。
少なくとも「口ばかり達者な人間」で「行動」の伴わない者は、嫌われこそすれ、決して好かれることはないと思います。繰り返しますが、言葉を使うことを仕事にしている人は、言葉を使うことイコール行動であり実行ですので、この場合は除きます。

もし気が向かれましたら、ご意見お聞かせください。
おそらく木造100年さんのやり取りを拝見する限り、「饒舌」はお嫌いと思いますが。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2018/12/17 01:14

言霊と言いますが。


私は、自己暗示だと思っています。
意識的に発する言葉が、潜在意識に入り込み変わって行くと思っています。
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この回答へのお礼

はじめまして。ろしなんて55さん。

本を読んだり、誰かから聞いた言葉に、なるほどと感じるときに、それが、潜在意識に入り込みそれによって、自己の変化が生じる、というご見解ですね。

とてもわかりやすいご意見ですが、何しろそのような体験がないもので。

このような体験が出来る人と出来ない人とでは、何が違うと思われますか?

(↑これは無視してくださっても結構です。)

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2018/12/17 01:20

今、私が読んでいる二冊の本は、”フェイクニュースを見分ける方法”と、”人間の本質を見抜く方法”です。

どちらも、役に立つかどうかわかりませんが、面白いことは、面白い。現代社会の直面している問題を、如実に浮き彫りにしているからです。

社会は混とんとしています。それを何とか解きほぐして、自分の周りだけでも、住み心地よくしてゆくには、それ相応のコミュニケーション・スキルが必要になっています。自分のテリトリーに、たとえ友人や家族でも(友人や家族だからなおさら、)土足で入ってこられないように。そして、人をうまく動かせるように。そのための言葉の向こうにあるものを見通す技術を教える、二冊の本です。

十年ほど前、私の人生がにっちもさっちもゆかなくなっていた時に、カウンセラーの言葉で、随分、気が楽になったことがあります。”今まであなたのしてきた自己犠牲は、素晴らしい。でも、これからは、自分の好きなことだけをしてゆきなさい。それでいいんだよ。”

今でも、頼まれるとホイホイ何でもやりますが、この言葉が胸にあるので、随分気が楽になっています。

なぜ、変わることができないか。。。厳しい言葉ですが、本当の意味で学習をしていない可能性があります。
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この回答へのお礼

こんばんは、チャオポルポさん。

わたしの体調を気遣って、わざわざ短い回答を寄せて下さったのでしょうね。ありがとうございます。^^

わたしの過去の体験から言えば、(あくまで特異な例になりますが)コミュニケーション=言語ではありませんよね。けれども、非・言語的コミュニケーションといっても、結局は「その人の内面にあるもの」しか表現しようがないわけです。言語に因るにせよ非・言語的方法にせよ、その人持っているもの以上のモノは伝えることはできないと思います。じゃあ何が大切かと言えば、つまるところ、人柄、良きパーソナリティではないかと思います。

ところでわたしはその「良質のパーソナリティ」を持ち合わせていない。本質はすぐに見抜かれます。
だとすれば、コミュニケーションスキルをアップするとは、とりもなおさず、人格の陶冶ということになるのでしょう。
しかし人格を磨くには、なかなかひとりでは出来ない(少なくともわたしは)で、手助けしてくれるためのモノが必要になる。それが人であったり、本であったりします。ここで質問文にある

>人が読書なり、カウンセリングなり、精神科医なり、或いはどこかで聞いた言葉によって、「変わる」=(改善される)ということがあるとしたら、それはどういう仕組みなのでしょうか?

に戻ります・・・

>なぜ、変わることができないか。。。厳しい言葉ですが、本当の意味で学習をしていない可能性があります。

いえいえ、厳しい言葉であっても、「物は言いよで角が立つ」、大丈夫ですよ^^

チャオポルポさんの言われるほんとうの学習とはどのようなものでしょうか?個人的な意見で構いませんので、教えていただければ助かります。

ご回答をどうもありがとうございます。

お礼日時:2018/12/17 01:39

直喩に加えて、隠喩や換喩も使えるようになると会話が楽しくなり、知遇が増えて、結果人生が充実する。


このような好循環のことを申したつもりでござる。
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この回答へのお礼

はい。語彙は豊富であればあるほどいいし、表現の技巧に長けていれば、会話も楽しくなる。その通りだと思います。

『「悪態」も含めて、自分の持つ辞書が厚いほど人生は豊かになる』と誰かも言っていましたね。


以下聞き流してください。

わたしは薄い辞書でも誠実な人柄というものを好みます。そして自分がその正反対にいるということ、加えて、
「言葉」ではなく、他者との「意思」の疎通が不能・不通であるということに悩んでいます。
言い換えれば、言葉を重ねれば重ねるほどに、まるで、目の前にいる相手との間にレンガを積み上げていくような感じになるのです。

再度のご回答をありがとうございました。

お礼日時:2018/12/17 02:03

現在、私の読んでいる本の話です。

ロバート・グリーンの”The Laws of Human Nature"。心理学っぽい本ですが、著者は、四十歳前後で、五十以上の職種を転々としてきた男性らしいです。相当の一匹オオカミであるといえます。親や親せきも匙を投げたかもしれません。自分自身を見つめるために、心理学の著作を片っ端から読み、それをまとめて、この本を上梓したのかもしれません。

残念ながら、まだ、全体の十分の一しか読んでいないので、不十分ですが、理性と感情、自愛から共感へ、社会に適応するための仮面、他人のキャラクター判別、魅力的になる、見方を変える、世間に認めさせる、状況によってカメレオンになる、嫌な自分をどうするか、傷つきやすい自分、限界を知る、内面の男性・女性、目的を持った人間関係、低レベルな人間関係に見切りをつける、リーダーになるには、他人の敵意を察知する、モラルを考える。。。。以上が、目次の筋立てです。著者自身のような人に向かって、励ましの手紙を書いているように見えます。

彼は、自分の本質は変える必要がない。本音を言うと、自分が傷つくだけ。他人に本当の自分をわかってもらおうと思わない。仮面をかぶって、社会の求める人間、リーダーとして魅力的な自分を演じ切ろう、というふうに主張してゆきそうな展開です。それが、苦労して、彼が学習した結実であり、その手練手管が必要な人が、何百万人も、この本を買っています。

私個人でいうと、日本の社会になじめなくて、逃げ出した人間なので、参考にはならないと思いますが:

人には親切だが信用しない。頼らない。孤独を愛する。人間は共感を求める動物だと認識する。意見は、ほんのちょっぴり、どうしても、と言われたときだけ、本当に考えていることの1%。学習の結果です。

グリーン氏は、人間の感情とその人の発する言葉は食い違っていることが多いので、リーダー格になるなら、ボディ・ランゲージで人間を”読み”、対応することを勧めています。しかし、私には、どうしても興味が持てません。リーダーになる資格なしです。
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この回答へのお礼

ふたたびこんばんは、チャオポルポさん。

これはジャンルでいうとどの分野の本なんでしょうね。
心理学の本でもなさそうだし。
(この本がそうであるということではなく)わたしは「自己啓発本」とか「経営学」とかの本を読んだことが無いのですが、内容を聞く限りでは、そんなジャンルの本のようにも聞こえますね。

わたしは世俗的な成功にはまるで関心がなくて、昔の日本的美意識、わびしさ・さびしさ、そして落魄の美に惹かれます。

芭蕉のいう「寂び」というのは「錆び」であり「荒び」でもあるということです。なんという高貴な美意識でしょう!
それに比べて、けっして錆び、朽ちることのないプラスティックの野暮ったさ、田舎臭さ・・・
また世阿弥は「風姿花伝」の中で「花の萎れたるこそ大事なれ」と、「萎れた花」の美しさを語っています。

「詫び」「寂び」「萎れ」・・・考えただけでもうっとりします。


>自分の本質は変える必要がない。本音を言うと、自分が傷つくだけ。他人に本当の自分をわかってもらおうと思わない。仮面をかぶって、社会の求める人間、リーダーとして魅力的な自分を演じ切ろう、

こういう考え方に共感する人も多いのでしょうが、それなら、聖ジェロームのように、山奥の洞窟でライオンと暮らす方がいいですね(笑)

どのような「学習」でも、学んだことを使いこなす、その理論に基づいて自己をコントロールできなければ意味がありませんよね。その点で、自己を制御する能力を持たないわたしには、そもそも「学習」とは何の意味があるのか。

なんだかお礼じゃなく勝手な独り言のようになってしまいました。

ご意見をありがとうございました^^

お礼日時:2018/12/18 01:48

自分の事として捉えられてないから変わらないのではないでしょうか。



喫茶店で、隣の座席にたむろしている大学生が、
「俺ってなんでも後回しにして結局やらないんだよねー」
「やるなら”今”でしょ。明日から本気出すってやつは一生やらない。」
などと会話していたとしましょう。
それを傍で聴いて、俺(アラフォー)もそうだなと思い、今日からやる人は変わります。

一方で、身近な人からSNSだけの付き合いの人、目上の人から後輩まで、どのような人が口を酸っぱくして、こうしたら?ああしたら?このように考えたら?とアドバイスし、自信もって!大丈夫!と直接あなたに対して励ましをくれたとしても、自分の事として捉えてなければ変われない。億万の言葉を費やしてもそれは吸収されていないのであなたのものにはならない。一方で変わる人は一言で変わる。たとえそれが自分に向けられたものでないとしても、聴いて自分のものにするからです。言葉を聴くとはそういう事なのです。

自分を他人事のように扱う人は結構いて、それを主体性を欠いた人と私は呼んでいます。
彼らに多く共通するのは結局”やらない”ということ。そして、”今”という現体験を喪失しているという事があります。

総括しますと、変わるためには、

・それを自分の事としてとらえる事
・”今”を取り戻す事
・Do it (1mmでもいいからやる。そしてできれば続ける。)

です。言葉はきっかけに過ぎません。変わるのは、その人自身がどうするかに拠るのです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは、キサラギさん。

ご回答を読んで今更ながらこの質問は、「一般論」としての問いかけなのか?または、「他ならぬこのわたし」が変わるためにはどうしたらいいのか?という切実な疑問なのか、回答者の方々には甚だ失礼なことですが、そのあたりが分らなくなりました。

いづれにしても、

>自分の事として捉えられてないから変わらないのではないでしょうか。

というのは正にその通りだと思います。

わたしはキサラギさんよりも一回り以上(?)歳上です。大学時代からいわゆる「生き辛さ」を感じています。
そのためこれまで様々な精神科医や、カウンセラー、その他、障害者支援と名の付く公的・私的機関の人たちとも言葉を交わしてきました。しかし変わりません。なにも・・・

もちろん、信頼する医師やカウンセラーに恵まれながらも、何10年単位で治癒しない鬱病の人、社会不安障害や引きこもりの人など多くいます。

彼らとわたしと、ではなにかが違うのか?
鬱や引きこもりが治らないのは彼らに「真剣さが足りない」からなのか?

(話は飛びますが、キサラギさんは、「引きこもり」の人たちを「努力」やら「やる気」やら「真剣み」「切実さ」が足りないとは思ってはおられませんよね。また彼らの多くが、「単に」言葉で変わるということが無いということもご存知ですよね・・・そのような「誤解」或いは「障害に対する無智・無理解」が「戸塚ヨットスクール」のような発想の土壌になるのですが)

まぁ、人のことは措いて、我が身を振り返ってみると、「自分の事として捉えられてない」という指摘はまんざら的外れでもないと思います。

つまりわたしはそれこそ『生まれてきたことが即ち敗北なのだ』という言葉に深く共鳴する者として、
なんというか、地球人としての自分、自分が人間として存在することを、どこか遠くから眺めているところがあります。

映画『トラック野郎』のテーマ曲の歌詞にもありますよね。

「もののはずみで生まれつき もののはずみで生きてきた」
 そんな言葉の裏にある こころのからくり 落とし穴・・・」(一番星ブルース)

自分が何者であるかということも分からず、また、なんで自分は生まれてきたのかも分からない者に、
キサラギさんのおっしゃる「主体性」がどうしてそなわるでしょう?

※補足に続きます

お礼日時:2018/12/19 18:00

二者の違いについて。



やらない人はやれる事もやらない。
やる人は出来なくてもやってみる。
やらない人はやる気満々でもやらない。
やる人はやりたくなくてもやる。

違いは何かというと、荷物が多いか少ないかなのです。

おそらくフラグメントさんは、自分が何者なのか、沢山考えて、沢山知っているのでしょう。そしてそれが荷物になっている。
自分が何者か分からないと言う事は、過去にかなりの量のこうではないか、ああではないかという試しを行なって、無数の擬似的な答えを獲得して来たと考えられます。しかしそのどれもしっくり来なかったので、自分が何者か分からないと言うのです。

一方で、自分が何者か分かる人というのは、分からない事が負担になりません。生まれに縛られていないからです。それで、分からなくても歩き出せるのです。歩き出すので現実に何者かになる。歩き続けるので何者であるかも変遷して行く。そうして色のついた人生を築きあげるのです。

先ずは何者かである事から解放されなければ、何者かにはなれないでしょう。

特異な者と言う自己認識は、自分が何者であるか、分かっているし、分かっていないという二律背反が同時に存在している事からくる認識だと想像しました。
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この回答へのお礼

再びこんばんは。

今、新たに3人の方から、回答を頂きましたが、No.9のチャオポルポさんの回答にあった、

>質問者さんは、実は、変わることを望んでいらっしゃらないんじゃないか、だから、言葉が届かないないか、というふうに、感じました。

というご指摘にも、う~んと頭を抱えてしまいました。正にその通りで・・・いや、そもそも(わたしが何かに)「変わる」ということはどういうことなのか、50年以上生きてきて、「変わったこと」(少なくともその実感・自覚)がないので、それがよくわからないというのが本当のところです。

>分からなくても歩き出せるのです。歩き出すので現実に何者かになる。歩き続けるので何者であるかも変遷して行く。そうして色のついた人生を築きあげるのです。

この説明は明快でよくわかります。その通りだろうと思います。どこにも反論の余地はない。また反論するつもりもない。自分でもそう思うから。

ではこちらから質問します。

ここまでこの回答に同意しながら、尚変わらないとしたら、それはとりもなおさずわたしが「間違った存在」だからでしょうか?

真摯なご回答にお礼申し上げます。

お礼日時:2018/12/20 00:55

変わりますよ。

ただし条件がある。どんなに人を変えてしまうほどの深みのある言葉でも、その言葉で表されているものの萌芽が、まだ明確な言葉で表現できなくても自分の経験や思索で自分の心の中に用意されていない人には、その言葉はその人に何も影響を与えることができません。経験があり自省がある人にのみ、その言葉は影響力があり、その言葉に出会った時に、ハッとした感激があり、その人が変わるのです。経験も自省もない人の心を言葉で変えることはできません。

また、人間て、ものを理解する時には決してだんだんと理解の度が増す訳ではありません。それは爆発現象のように、突然ハッと、驚き、理解し、感激するのです。そして、人間は成長して行くのです。その驚きが多い人ほど人間のスケールが大きくなって行くのです。
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この回答へのお礼

こんばんは、猪突さん。

一昨日でしたか、10年ほど前のやり取りを見ていて、わたしが「あなたのキライな言葉は?」という質問をしたときに、猪突さんの回答が真っ先にあって、「自分を大切に」という言葉が嫌いだと仰っていました。

その時にわたしは例によって反論していましたが、今読み返すと、猪突さんの意見の方が正しい・・・というか、自分でもその通りだなと思うようになっていて、ちょっと驚きでした(苦笑)

なぜ「驚き」かというと、わたしが猪突さんの意見に同意することがひとつ(笑)と、
自分の考え方が、(このような些細な問答ではありますが)「変わっていた」ことに対してです。

このご回答にある、自己の内部に、外側の言葉に照応するもの、まだ言語化されてはいないが、確かにその人の内側にあるものに水をやり温めてやることで、はじめて「それ」が芽吹くという意見もその通りだと思います。

逆に考えれば、変われないわたしの内面はそれこそ廃墟なのかとも思うのです。

いずれにしても、あの時の反論は、今は違うと思っています。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2018/12/20 01:09

お礼の中で、芭蕉や世阿弥の言葉をひいておられたので、しばし、立ち止まりました。

それで、ぼんやりと、質問者さんのおっしゃることをもう一度咀嚼してみたら、どこかで、一度、読んだことがあるような気がしてきました。憤慨なさるかもしれませんが、”方丈記”の厭世観じゃないかと。どうでしょう???

質問者さんは、実は、変わることを望んでいらっしゃらないんじゃないか、だから、言葉が届かないないか、というふうに、感じました。

No.6,7,8番の回答者さんは、お優しいです。男女のうち、本当の包容力があるのは、男性であるというのも、頷けます。自分が変わった、あるいは、自分を変えた経験がおありになるからでしょうね。私は、振り返ってみると、頑固な偏屈物で、全然進歩しません。だから、キリスト教徒なのかもしれません。宗教を隠れ蓑にしているのかもしれません。

ヒューマン・ネイチャーの本については、ジャンルは関係なくて、たまに気になるベストセラーを読んでみる、うちの一冊です。トルストイが自殺をした顛末やら、南極探検隊で難破したグループリーダーの、部下操縦術などが、面白いです。私の場合、ここ十年、スパイものや犯罪心理学者が活躍するミステリーを読んできましたが、新しいジャンルを開発中です。

最期に、世阿弥の”花”について。彼は、芸の神髄を花にたとえます。私は、今でもバレエを踊りますが、美しく見えるには、基礎を何百回も繰り返し、その成果として、そこに立っているだけで美しい。それは、時分の花が散ってしまっても、残るものです。そんな、実践的なアドバイス、として、私は受け取りました。観念的なものなのかなぁ。。。どうですか?
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この回答へのお礼

「方丈記」というよりも、厭世観がわたしのこころに深く深く根を張っているということは事実です。

>質問者さんは、実は、変わることを望んでいらっしゃらないんじゃないか、だから、言葉が届かないないか、というふうに、感じました。

これはほんとうに難しい問いかけです。そもそも「変わる」ということは「過程」ですよね。オタマジャクシがカエルに「変わる」この場合、オタマジャクシにとってのゴールは「変わること」ではなく「カエルになること」では人が、またわたしが変われば「何になるのか?」変わるってどういうことか?それがよくわかりません。

>私は、振り返ってみると、頑固な偏屈物で、全然進歩しません。だから、キリスト教徒なのかもしれません。宗教を隠れ蓑にしているのかもしれません。

チャオポルポさんは、変わりたいのでしょうか?それとも変わりたくないのでしょうか。

>私の場合、ここ十年、スパイものや犯罪心理学者が活躍するミステリーを読んできましたが、新しいジャンルを開発中です。

わたしも読む本や聴く音楽ががらりと変わることがありますが、意識して変えようとしたことは一度もありませんね。なんとなく流れに乗っているだけですね。するとどこにそういう変化の契機が潜んでいるかわからない。
わたしにこのような些細なことでも「変わった」部分があるとすればそれは全て、「期せずして」変わったものばかりのような気がします。

「花伝書」は、単に実践的なアドバイスでもなく、また単なる机上の空論でもなく、詩的な表現で、芸の奥義を伝えているのではないかと思います。それは茶道でも俳諧でも同じだと思います。
その観念的なものを如何に実践に活かしていくか、あくまで半可通の意見ですが^^

ご意見をありがとうございました。

お礼日時:2018/12/20 01:31

no.8です。

補足します。

たとえその言葉が他の人によって発せられていたとしても、その言葉に感銘できた時には、その言葉は自分自身の言葉になったのです。言葉は心が白紙の人に影響を与えることはできません。自分の経験と自省によって、自分自身にある世界の見方、すなわち世界観が出来上がってきます。多くの場合、その人は、その世界観を表現する言葉をまだ見つけていないかもしれません。でも、もやもやした物の見方が萌芽として出来上がっているのです。そんな心の準備ができている時に、他の人の述べた言葉を聞いたり読んだりした。そんな時に、あっ、私がもやもやしていたその気持ちや見方を的確に表してるのはこの言葉なんだ、と感銘を受けるのです。

ですから、一見他人の言葉で表現されてはいますが、本質的には、それは自分の経験と自省が見つけ出してきた言葉なんですね。だから、たとえそれが世間様の言葉のおうむ返しの言葉でも、その言葉があなたを変えることができたのなら、その言葉はあなたの言葉であり、あなたが自分の言葉を自分自身で発見できたことになっているのです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

つまり人生観なり世界観なり、その人の価値観というものは、外側から与えられるものではなく、予め自分の中に、未だ明確な輪郭・姿を持ってはいないけれども、既に備わっているということですね。

また脱線してしまいますが、例えば、トランプを支持するような人たちは、予め彼の発する言葉に感応する下地があったのでしょう。では、何かの折に触れて、痛く感銘を受けた言葉への(例えばそれがフェイクであるかどうかのような)「検証」はいつどこで行われるのでしょう?

わたしは猪突さんの説に反論しているのではありません。この回答自体には異論はありません。

ただ、いわゆるネット右翼と言われるような人たちは、ネットに溢れる真偽定かならぬ言説にたやすく感銘を受け、これこそが真実だと思い込んでいるように見えます。

出会った言葉に照応する情動が予め本人の裡にあって、それを我が物とするのは、いかなる哲学者や文学者であってもそうであったでしょうが、その視点・思想の「真偽」というものは、なおざりにされてもいいものでしょうか。

と、お答えの趣旨から大きく外れてしまいましたが、ふとそんなことを思ったもので。

たびたびのご意見をありがとうございました。

↑はひとりごとです。自分でもあまりよくわからないまま書き付けました。気分が不安定ですのでご容赦ください。

お礼日時:2018/12/21 02:09

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