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「我思う故に我あり」

ここに出てくる我とは経験的なもの?それとも非経験的なもの?

A 回答 (7件)

結論から言って デカルト本人にとっては:


★ 非経験的なもの( esse immaterialem & incorpoream substantiam )
☆ でした。

次のような事情です。

1. まづデカルトのこの命題は アウグスティヌス(354−430)の:

( a ) 《われあやまつならば(あざむかれるならば) われあり。 Si fallor, sum. 》

の二番煎じです。次の回答№5を参照してください。パスカルがその二番煎じ問題につ
いて議論しているところを扱っています。

〇 【Q:"cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7902812.html

2. アウグスティヌスは どう言っているか?

( a-1 ) もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る舞いについ
て間違う行為とそれに気づき正す行為とがあると知られ このふたつの――時間的な隔
たりのある――コトをとおして わたしはそのどちらについても わたし〔が行為主体〕
であることを確認します。自己同一性(アイデンティティ)です。――この自己・この
わたしがあると知られます。

( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますと そうだとしてもその欺かれた
というコトは わたしが存在していなければ成され得ないことです。犬や猫も存在して
いるとすればそう見なされると思うのですが つまりもしそれらを人間がだましたとし
て 考えるに 存在しているとする限りで だからだませたとなるでしょうし もし存
在などしていないと見るなら そのダマシなどは あって無きがごとしとなるでしょう。
そのようにです。

3. このアウグスティヌスの命題( a )を デカルトは――人びとが思うには――わ
るく言えば パクッたということになります。《あやまちに気づく》ならば なぜそう
したのかなどについてわれは考えますし あるいは《騙された》とするならば やはり
どうしてそうなったのかと思いをめぐらし考えます。だから 《思う・考える》という
表現に替えたのでしょう。

アウグスティヌスの原文(翻訳ですが)と併せてその点については たとえば次の趣旨
説明欄を見てみてください。
〇 【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8937694.html


4. ただし デカルトはすでに生前にそのこと(パクリ疑惑)について指摘を受けて
それについては 反論して答えています。――いや そうぢゃない この《思う・考え
るわれ》は 決してあやまちや欺きといった経験的な事態にかかわるわれではない。そ
うではなく むしろ《霊としてのわれ》なのだと。

その《考えるわれ》とは英訳で《非物体的なもの( an immaterial substance / incor-
poreal》なのだそうです。

5. すなわち
▲ Renati Descartes Epistolae (デカルト書簡集)
http://catalog.hathitrust.org/Record/009287973
(ここから cogito で検索して それに触れた書簡が見られたのですが いま当たって
みたら アクセスできなくなっていました)。次の文章を控えています。

( d ) ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitantem esse immaterialem
 & incorpoream substantiam;

( d-E (英訳)) Appendix IV. Augustine's "Cogito Argument:"
http://faculty.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDesc …

I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an immaterial substance,
and has noting in it that is incorporeal.

( d-J (和訳) ) アウグスティヌスの《あやまつならわれあり》をわたしは次のこ
とを明らかにするために応用しました。すなわち 《考えるわれ》は 非物質的で非物
体的な実体なのであると。

☆ (ぶらじゅろんぬの自由な解釈) あやまちに気づかされるときには われなる人
間としての思考を超えて(思考によってだけではなく思考を超えて) ヒラメキが得ら
れると見ることもできる。ヒラメキは インスピレーションとして 神の霊としてのハ
タラキに属するという見方だと思われる。


6. さらにこの話には後日譚のようなことがついています。

(あ) 《考える〔そのみなもとの〕われ》は むしろ《霊》であるとなったところで
これを承けて 18世紀の科学者のゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクがその霊の
ハタラキを例の《エス( Es :それ・あれ)》と言ったそうです。

(い) ( a-d-Lichtenberg :《エス・デンクト( It thinks. それが考える)》)
https://blogs.yahoo.co.jp/hiraokakimihiko/124454 …

 稲妻が走る〔es blitzt〕と言うのと同じように、それが考える〔Es denkt〕と言わね
 ばならない。

(う) この《エス(英: it )》が 《無意識》といった意味合いを帯び ニーチェを
経てフロイトに行き着いたのだそうです。

☆ この(6)は特に孫引きが多く さらに精確を期したいとは思います。おしえてく
ださい。なお この《エスないしムイシキ》をその作用としてあたかも脳の独立した部
位において想定したところでは もう〔その見解には〕ついて行けないと言うべきだと
考えます。

7. (5)に挙げたデカルトの書簡については 『デカルト全書簡集』全六巻として 
ちょうどいま日本語訳が刊行中のようです。

8. デカルトの反論は その場のデマカセくさいように感じられます。そうでなくて
も もし霊のハタラキを言うとすれば 《考える》とは別にそれとして持ち出せばよい
はずですし そういう問題はアウグスティヌスがすでに言っていないわけがないのです
から。(デカルト書簡集をすすめましたが いまこの意味では あまり生産的ではない
かも知れません)。
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言ってみただけでしょう。

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デカルトの発見は経験的。

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現代では――想定じょうとしてでも―― 



〇 ひとは 経験存在でありつつ 非経験の場(ないしチカラ)をも宿す。

と考えられていると言ってよいはずです。

たとえば こうです。:

▼ (ヘーゲル:無限と有限) ~~~~~~~~~~~~~

無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 

この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。

(『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ 《現代では》と言いましたが 昔からの:

〇 梵我一如 あるいは 仏仏一如。 プシュケー・コスムー

のことです。無限は非経験 有限は 経験です。
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”在る”という経験をしていると考えることはできないだろうか。

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経験的であり同時に非経験的です。

まっ、全ての物質の存在形態が局在(粒子)であり同時に非局在(波動)であることを明らかにした物理学の数学的な言語を使いこなせない哲学では、この二つは両立できないものとして、その両立の無矛盾性が理解できないでしょう。数学という言語を使わず、日常言語などの自然言語だけに頼る哲学では把握できない巨大な世界がこの世界に存在することを明らかにしたのが近代科学の圧倒的な成果でした。
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経験が因で我を疑ったが、深く思うと、


非経験な疑っている何者かがいる
しれは今だ分からなかった我あり
気が付かなかった我あり
もともとあった我あり
生命の奥深くに、眠っていた我あり
これは決して疑えない確かな真実
・・・これはデカルトだが

汝自身を知れ」と言ったソクラテス
カントの我が内なる道徳法則とである)
ユゴーのそれは魂の内部である)
ルソーの私が語らなければならないのは人間についてである)
等と共通のと言うか、方向性と言うか、似ている

ちょっと逸脱した、かってな推理かも

更に勝手な事言わせてもらえれば、西洋哲学は
我に人間に魂の内部の法則に行き当たる気がする
「魂の法則」です
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