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明治時代まで日本の服装は何故 ズボンやTシャツの様なタイプが普及しなかったのでしょうか?

A 回答 (9件)

なぜというなら「歴史的に貴族の服装に影響されているから」です。



日本の古代は前合わせを重ねる上着にズボンという直垂(ひたたれ)というをはいていました。ところが大和朝廷が成立し、遣隋使などで「隋の貴族の服装」を取り入れるとズボンをはかないで前合わせを紐で縛る服装に変わっていきます。十二単はその典型ですが、貴族の男性の服装もズボンを履かなくなるのです。
ただ農民などは直垂を着ていました。そしてこの直垂のズボン部分が袴になっていきます。袴は十二単の下に着たりするものに変化します。

平安時代後期から鎌倉時代になると武士が台頭してきて、江戸時代まで武士の時代になります。服装的には武士が貴族階級になっていくわけです。武士は元々が農民ですから直垂を着用しており、武家が政治を行う時代になるとそれがだんだんに上級の服になっていきます。

この時点で日本人はTシャツのような頭からかぶる服装を知りません。前合わせの服装しかなかったし、ボタンも無かったので、紐で縛る和服しかなかったわけです。

戦国時代から江戸時代にかけて武士階級と農民・町民階級を分けるようになり、服装の規定も厳しくなります。農民は裃をつけることはできず、日常的には直垂に近い服装で女性はモンペのようなものも履いていたようです。

袴に関しては、当時は様々な袴があり、今「袴」として認識される馬乗り袴は一種の武士の礼装になっていきます。ですから町人や農民などはあまり着ることはなく、それ以外の袴は「作業着」ですので、農民の中でも庄屋クラス・町人の中でも大店の主などは「袴を履かないことでステータスを表す」着流しが流行していきます。これらは町人たちが力を持つようになった江戸中期から後期にかけて、一般化しました。

このような流れでみると、ズボンに関しては「日本人もかなり多用していたが、馬乗袴以外は作業着だった」といえます。今工事作業服でニッカボッカを履いている人がたくさんいますが、あれも欧米のニッカボッカとは違い、横が妙にダブダブなのも昔の鎧袴の形をしているからです。

Tシャツのようなかぶって着るものとブラウス上のボタンで留めるものは日本では明治時代まで搭乗しませんでした。この部分の理由は「上級階級のドレスコードに採用されなかったから」だと言って差し支えないでしょう。
 元々シャツの形状はヨーロッパで発達したもので、その原型は貫頭衣を古代ギリシャやローマがもう少し改善してシャツの形状にしていったもの(ローマではトゥニカと呼ばれた)です。

日本も魏志倭人伝には貫頭衣を着ていることが書かれていますが、これを覆したのが遣隋使などによる「大陸文明の受容」で明治期にそれまでの文化を捨てて西洋化したのと同様、6世紀ごろに貴族などはそれまでの貫頭衣などを捨てて大陸の貴族が身につけている合わせのある服に変わっていったのです。

その後、この前を合わせる服装は武士階級も制度化していったため、西洋文明を受容しても変化することはなく、明治維新による武士階級の廃止と西洋文明の受容によって、シャツなどが一般化していきました。
でもyoutubeなどで昭和40年代の街の様子などを見るとまだまだ和装の人が多いので、日本が本格的に服装まで西洋化したのはバブル前後だと考えていいと思います。

後、面白いのは赤ちゃんの服で、日本だと前を合わせる乳児服がたくさんあります。また前を合わせるのをボタンに替えた物もけっこうあります。
参考 https://www.akachan.jp/maternity/goods/img/babyw …

ところが欧米にはこういう「前が開く服」がほとんどなく、どれほど小さい赤ちゃんでも「首を通すTシャツ型」しかないのです。
赤ちゃんに着替えさえてみると分かりますが、この首を通すのは首が座ってない赤ちゃんだとすごく大変なのですが、欧米には発想として「和服のように前を合わせて紐で(またはボタンで)閉じる」と言う発想自体がないようなのです。

ネットが発達した時代でも「歴史的な文化の違い」は意外に大きいといえ、日本も江戸時代まで「ボタンやシャツを知っていても、(上流階級の服装規定があるから)取り入れない」状態だったのだと思います。

それが変わったのは明治時代に「今までの武家社会や漢文を主流とした文化を否定して、西洋文明を大々的に取り入れること」を行ったからだといえるでしょう。
 そして日本人が洋服を受け入れた一番の理由は「徴兵された軍人が洋風の軍服を着たから」で、軍服やそれを模した学校の制服を着ない女性たちは戦後まで和服が残ったといえるでしょう。
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この回答へのお礼

なんと素晴らしい‼︎

お礼日時:2019/03/23 16:37

今の様なみんなが完全洋服になったのは、東京オリンピック以降の1965年以降からで、着物がずっと普及していたから。


逆に今は若い女子でも、スキニーなどパンツスタイルばかりでつまらないですが。
「明治時代まで日本の服装は何故 ズボンやT」の回答画像9
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ズボンのような履く物は普及してましたよ


モンペや股引がありましたよ、鎌倉時代から


服としてのTシャツは伸びる生地の製品が無かったからです
そもそもTシャツは下着でしたから、普及したのは戦後からです。
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一つは、モンスーン地帯で湿気が


多いからです。

ぶかぶかで風通しがよい和服の方が
日本の気候に適していたのです。



一つは、畳の生活だったからです。
ズボンでは畳の上に座るのは窮屈
です。

型も崩れます。
あれは椅子用です。
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生地と縫製技術が無かった。


そんだけ。
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Tシャツですが、


これは昭和40年代くらいに反体制的な連中が、
秘匿すべき下着の類をおおっぴらに着る、
と言う事で反動的な意思を表示する
というところが
今風の着方のスタートであるはず。

Tシャツの起源そのそもは
米海軍兵の作業時の下着にあるようで
これは第一次大戦にさかのぼるようです。

明治時代以前には世界中のどこでも
Tシャツなんかないと思いますよ。
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一般生活になじまず、産業が発展しなかった、です。


今の時代、男性にスカートが普及しないのも同じです。
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埴輪がズボンを履いているので分かるように、日本にズボンがなかった訳ではないです。


公家の表袴や、乗馬に使う馬乗袴なども理屈的にはズボンそのものですしね。
使われなかった理由を強いて言うならば、ズボン状である理由が薄い場所では、ズボンを履く必要がなかったから、ではないでしょうか。
加工も一手間必要ですし。

ズボンの起源を調べるとモンゴルの名前がでてきます、馬の存在が関係しているようですね、馬上で着るには一枚布ではひらついて邪魔になったということでしょう。
ヨーロッパなどでは、靴下の延長線上にズボンがあるようです、片足ずつ履いていたタイツ(ホース)が組み合わされて、両足タイツに、それが変化していってズボンに変わったという説があるようです。
それが貴族を中心に流行し、お洒落として民間に広まっていったんでしょう
また、狭い場所を動き回る場合もヒラつくと引っかかって邪魔になりますから、工業化が進むに連れて改良が加速されたのかもしれません。

明治維新を経て、そういった他国の文化の日本への流入が加速され、新しいもの好きの層に、洋風の出で立ちが洒落であるとされて、日本でもズボンの着用率が上がっていったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど‥
お見事です‼︎

お礼日時:2019/03/23 14:59

江戸時代は鎖国で海外の文化はほぼ入って来なかったから

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