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以前に優しい人でありたい、正しい人でありたいという投稿があったが、まず優しいとは一体何であろうか。ある子供に「優しいとは何だと思う?」と聞けば「私のおじいちゃんは優しいと思います。お小遣いも一杯くれるし、何でも買ってくれるし、いたずらしても余り怒らないし、いつも可愛がってくれるから優しいと思います」と答えた。しかしそれが本当の優しさだとは誰も思わないだろう。

では本当の優しさの本当とは何であろうか? 本当とは真実、間違いのない、つまり絶対的に正しいと言ってもいいだろう。「優しさとは何か」を知るにしても、子供のいう様ないい加減な意味の優しさでは困るのです。本当に正しい優しさでなければ困るのです。まず私たちは「~とは何か」と考える前に、正しいとは何かを知らなければ何にも始まらないのではないだろうか。

愛や幸せ、教養、平和などを語るにしても本当のものでなければ何にもならないのです。ですから私たちはまず初めに「正しいとは何か?」しかもいい加減な正しさではなく、本当の正しさ、絶対的な正しさとは何か?を知らなければならないと思うのです。何故、正しいとは何か?を探究する人がいないのだろうか。

勿論、正しいと言っても私たちが知りたいのは科学的な、数学的な正しさではなく、人に関する道徳的正しさです。道徳的正しさを一般的に善といいます。善は今では倫理学の学問になっていますが本来、哲学は真理を追究する物であり、ソクラテスやプラトン達が求めていたのは真善美の本質、その真理を探究することこそ哲学であったはずです。現在哲学といえば存在論とか、私とは何か?などに比重が置かれていますが、善とは何か?も分からずに哲学をやったと言えるのでしょうか。正しい人でありたいというなら、一体正しいとは、善とは何でしょうか。また善と正しいは同じものなのでしょうか? 皆さんのご意見を聞かせてください。

質問者からの補足コメント

  • つらい・・・

    考えてみればソクラテスが嫌われたのも良く分かる。誰かが何か発言すれば正しい、善とは何か知らないで何故正しいと言えるのか?とソクラテスから追及される。表現の自由だろう、と反論すれば自由とは何だ、しかもいい加減な自由ではなく、本当に正しい自由の意味は何だ! とソクラテスに追及される。私もきっとソクラテスを殺したくなるだろう。

      補足日時:2019/04/05 06:38

A 回答 (13件中1~10件)

>本当に正しいとは何ですか?



宇宙の在り様、自然の流れ、です。
貴殿の好きな、絶対善という事場があるとしたら、僕にとっては、
上記の2つに沿う思想の事を思い浮かべます。
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大きな問題をいっぺんに出すと、頭が混乱しま~す



善とは
社会的な規範に是とされる存在、「行為」
正義とは
人間の行動・志操・道徳で、「ただしい」とされる「概念」
と言う事を踏まえてですが
正義の概念は非常に難しいもんだいです
国際的な問題 個人間の問題そしてまた家族間の問題
その他 様々な次元で 争いや対立や利害の衝突もあるが
こちらが正義であちらが悪と 明確に判別できない事が
あまりにも多い

卑近な喩えかも知れないが
夫婦喧嘩だって どちらが正義が悪か
よくわからないでしょう

日本には「勝てば官軍」と言い
勝った方が正義 負けたほうが悪
と言う考えがあるが それは矛盾が大きい
現実には 正義が負けて邪悪が勝ってしまう場合も多い

そもそも正義と悪・・善悪は 人類にとって
永遠にわたる 重大な問題といってよいと思います
古今東西 様々な哲学的議論はありますが
それらを踏まえて 結論すれば

「人を殺す事は絶対悪」と言う事です
「人を救う行動は 正義であり善」と言う事です
「生命を豊かにし輝かせるのが善」
「生命を委縮させ 生命を手段にするのは悪」



信は正義  結合 理性 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は不正義 分断 裏切り 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします




カントの価値、真善美は又ね
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>国際的な問題 個人間の問題そしてまた家族間の問題その他 様々な次元で 争いや対立や利害の衝突もあるがこちらが正義であちらが悪と 明確に判別できない事があまりにも多い<

そうですか?私はだいたい判別できると思いますよ。例えばどんな問題が判別できないのですか?
またあなたは正しいと善と正義はどんな関係だと思いますか?


>「人を殺す事は絶対悪」と言う事です。「人を救う行動は 正義であり善」と言う事です<

正当防衛や死刑、戦争などでは人を殺しても善です。トロッコ問題などでは5人を助ける為、人の判断で一人を殺すのは善といえますか?
また私はカントは信用してないのでカントはパスでお願いします。

お礼日時:2019/04/05 20:41

後悔したときには、(過去に為した)あれは本心ではなかったと悟る。

その時に、本当はこうしたかったと思い至る。何故本心のままに振る舞えなかったかにも思い当たるだろう。
本心に従う事が正しい、合っていることなのであり、後悔しないことは善いことである。
人には我執や愛執があって、そのままでは本心のままに振る舞うことが難しい。
これを為して、良い結果を生じるか、悪い結果を生じるか、分からないが、私はこれを自らの本心に照らして断固として為そうという決心を以て、後悔しない境地へとたどり着く。悪をとどめて善を超えるとはそういう意味である。事は後付けでしか理解されない。それはこの世が無常であるからである。人々は善かれと思って為した事でも悪い結果を生じるがあることを良く知っているだろう。それが後悔をもたらしたならそれは悪かったのである。最初から意地悪では話にならないが、悪をとどめて善をも超えて、本心に生きる事、これが正しい道なのである。そこに自由もあるだろう。
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この回答へのお礼

1コメントありがとうございます。

>良い結果を生じるか、悪い結果を生じるか、分からないが、私はこれを自らの本心に照らして断固として為そうという決心を以て、後悔しない境地へとたどり着く<

後悔しないことが正しい事、なるほど一つの見識ですね。では本心が正しいということですね。その本心はみんなに共通したものですか?個人個人違うものですか。ヤクザも本心は持っているのですか?老人殺しの植松も日本の為といって全く後悔はしていませんが後悔しなければそれで正しいのですか?


>悪をとどめて善をも超えて、本心に生きる事、これが正しい道なのである。そこに自由もあるだろう。<

本心による正しさは善を超えるのですか? 善を超える本心とは一体何ですか? 本心に超えられてしまう善とは何ですか?
また自由の意味とは何ですか、自由といっても勝手気ままに何でもやってもいいわけはないでしょう。自由の本当の意味とは何だと思いますか。

お礼日時:2019/04/05 20:40

善は概念ですから、ころころ変わりますね。


変わりようこそが、「正しい」です。
「正しい」は、それそのものですから相対する概念はない。

つまり、誤りや間違えでも「正しい」ということになります。
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この回答へのお礼

1コメントありがとうございます。

>善は概念ですから、ころころ変わりますね。<
善は概念というあなたが思う善とは何ですか? ころころ変わる善とは何ですか?

>つまり、誤りや間違えでも「正しい」ということになります。<

正しい、善は人それぞれっていうことですか? 善とは普遍的なものを言うのではないのですか。教育も本当に正しい教育でなければなりません。いい加減な教育ではダメだと思いませんか? 本当に正しいとは何ですか?

お礼日時:2019/04/05 20:39

#3です。

お礼ありがとうございます。

>なるほど、あきらめているということですね。西洋人の言うことを信じて。
いや逆でしょう。日本人だからそう考えるのです。それを「諦め」というかは人それぞれです。

西洋人はむしろ「絶対正義がある」と考えています。だから近代でも「正義論」のようなものがあるのです。

日本人は多神教ですから、神の違いによる正と善の違いに敏感です。ですから日本のモチーフに「絶対善または絶対悪」というものはほとんどありません。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>ですから日本のモチーフに「絶対善または絶対悪」というものはほとんどありません。<

絶対善、絶対悪そのものがなんであるか知らないのに何故、日本人にはないと言えるのですか。あなたにとって善とは何を意味するのですか?

お礼日時:2019/04/05 20:39

やさしいとは、(自分を含めて)人を悲しませない事。


また、何かを為して、結果を見、後悔したならその為した事は間違っていたのである。
何かを為して、結果を見、そこに後悔が無いならその為した事は正しかったのである。
これらは後付けで分かる事であるために、人がもし、正しいことを為そうと思うならそこに決心が無ければならない。

正しさは探究によって分かる事では無く省察によって明らかになることである。省察によって、その時自分は何者であったかを知ること。その事で今為すべき事が明らかになるであろう。

善いことを為せば後悔しない。しかしながら、人は完全に善い事を為すことができない。完全に後悔しない結果を得る事はできないのである。故に、超えることが希求され、また勧められる。悪をとどめ、善をも超えたところに、自由という人間の道が生じる。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>善いことを為せば後悔しない。しかしながら、人は完全に善い事を為すことができない<

善い事とは何かが分からずに何故、後悔があるのですか? 善が分からずに何故善いことをなすことが出来ないと言えるのですか?


>悪をとどめ、善をも超えたところに、自由という人間の道が生じる。<

悪とは何か、善とは何か、自由とは何かが分からずに何の道が生じると言うのですか?

お礼日時:2019/04/05 06:35

「正しいこと」即ち「正義」とは、哲学的な「価値」の内容の一つである「善」と直結する


問題であると考えています。

「善」にも小さな限定的な善、即ち、一民族だけの一国家だけの善もあれば、大きな善、人
類全体あるいは地球規模の善もあれば、観念の世界になりますが宇宙全体の善も考えられま
す。

限定的な善は必ず衝突します。これを最高の善とするならば、正義とは対立するものであると
いう結論に達するでしょう。

あなたが主張する「善」は大きな人類的な善、ということですね?

この大きな善を時代は探求しようとしていない、と私も思います。そこには二つの理由があると
考えています。

1.正義という言葉に不信感を持っている。これは、歴史を学べば納得するでしょう。

2.他人の利益、皆の利益(公益)に興味がないこと。これは、公益に私益が吸い取られると思って
いるからでしょう。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>限定的な善は必ず衝突します。これを最高の善とするならば、正義とは対立するものであるという結論に達するでしょう。あなたが主張する「善」は大きな人類的な善、ということですね?<

私の絶対善は小さいものから大きなものまですべてに通用する定義であり、対立することもありません。


>1.正義という言葉に不信感を持っている。これは、歴史を学べば納得するでしょう。
>2.他人の利益、皆の利益(公益)に興味がないこと。これは、公益に私益が吸い取られると思っているからでしょう。

それは本当の善、正しいとは何かを知らないからである。主客同一、私公同一にならねばならない。それが私欲を忘れるということである。

お礼日時:2019/04/04 20:14

1. 西欧には 《決議論( casuistry )》という分野があります。

蔑みを
もって見られる側面があるようですが 大きくは《人生相談》のことです。

2. ただし 日本人のあいだの人生相談には――よく言われることですが
――何か原理原則があるというわけでもありません。

3. そして細かくは 仏教などの《哲理》とやらを応用してその解決法を
見出す場合があるかとは思われます。

4. 決議論のほうは まさにそのような理論や規範を応用して解決法をさ
ぐるものです。キリスト教関係なんでしょう。



5. そこで言いたいことは:
★ 正義とは何か? 正しいとは? 善とは?
☆ といった問い求めは やはり現実の個別の情況や事態に即したかたちで
成さざるを得ないのではないか です。

5. つまり たとえ普遍的な内容をもった理論が 善なら善とはこうだと
答えを明らかにして定義しているとしても なおその一般解を個別の事態に
即して具体的な答えとして考える必要がある。のではないか。

6. たとえば《公(みんな)のためが 善だ》という定義に 間違いがな
かったとしても それは なお抽象的な一般解としてある。

7. その《公》は 民族ないし国家を超えては 当てはめないらしいです
し 国家の内においても 《みんな》が 心をひとつにして共生しているか
も あやふやです。

8. 《みんな》が 対立するグループに分かれているのは めづらしくあ
りません。そのとき 多数決の原理に従うといった《数学的な正しさ(?)》
は 採らないという立ち場なのでしょう?

9. ★ 何故、正しいとは何か? を探究する人がいないのだろうか。
☆ なぜか? あるいは 理論と現実との絡み具合いはどうか? どうなん
でしょう。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>7.その《公》は 民族ないし国家を超えては 当てはめないらしいですし、国家の内においても 《みんな》が 心をひとつにして共生しているかも あやふやです。<

世界的問題なら仮に世界を仲間として考えればいいのです。しかし現実的に仲間ではないのでTPPも捕鯨問題も温暖化問題も各国は自国の利益ばかり主張している。これでは正しい答えなど出せない。やはり私欲を抑えて公の為と考えられるのは仲間だけです。勿論国内の問題でも心が一つということはないかもしれませんがみんなで決めたことには妥協しなければなりません。何とか妥協できるのが仲間です。しかし世界的問題で無理やり妥協させようとすれば戦争になります。世界各国はまだまだ仲間にはなり切れません。自国の利益を考えず世界の立場に立ち世界の為にと考えられる国などめったにないでしょう。ゆえに仲間、公とは基本的に各国国民となるのです。

お礼日時:2019/04/04 20:13

何故、正しいとは何か?を探究する人がいないのだろうか。


 ↑
いますよ。
正義論といいます。
ロールズが有名です。

欧米では盛んですが、日本では少ないですね。



善と正しいは同じものなのでしょうか?
  ↑
違います。
善とは、主観的なモノであるのに対し、
正とは客観的なものです。



何をもって正しいとするか。
アプローチには二つの道があります。

一つは、人間関係において定めようとするもの
です。
これによれば
正しさなど、時代や立ち位置によって変わる
ものだ、ということになります。


一つは、時代や立ち位置に関係なく、永久普遍の
正しさがあるはずだ、とする立場です。
絶対神を抱くキリスト教文化圏では、こうした
考え方が整合性を持ちます。
この立場に立った議論が正義論です。

で、正とは何か。
欧米の哲学者は
数百年議論していますが、未だに定説を見ません。

現代の価値観で評価すれば歴史の英雄は、独裁者、
殺人鬼、侵略者ばかりです。

ワシントンは米国では英雄ですが、英国では
反逆者です。

これらを統合した「正」の概念を定義
するのが、いかに困難か、判ろうというものです。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>欧米では盛んですが、日本では少ないですね。<

あなた達は何故、正しいを探究しないのか、と聞いているのです。正しいが分からないなら正しいことは言えません。常識的に考えてまず正しいとは何かと考えるはずではないですか。正しいって何だろうと考えないのは何故なのですか?


>善とは、主観的なモノであるのに対し、正とは客観的なものです。<

何故、正しいも善も解らないのにそう言えるのですか? おかしくありませんか。


>現代の価値観で評価すれば歴史の英雄は、独裁者、殺人鬼、侵略者ばかりです。<

相対主義の時代はそういうやつらが出ましたから世界は絶対善的絶対主義の時代に変わらなければならないのです。


>ワシントンは米国では英雄ですが、英国では反逆者です。<

なるほど、それがあなたが言う「正しいは人それぞれ」ってやつですか?
ワシントンは公(アメリカ)の為だから、アメリカにとって善。ワシントンは公(英国)の為でないから悪です。私の言う「公の為なら善であり、公の為でないなら悪である」に合致する。仲間か仲間でないか条件が違えば善は変わると言うのは当たり前であり、何故それによって絶対善はないと言えるのか?
水道水が汚いところでは煮沸して飲むのが善、日本のように水道水が綺麗ならば煮沸するのは無駄であり悪。条件が違えば善悪は違うのは当たり前ではないか、何らおかしなことはない。何故それを善は相対的だというのだろうか?

また敵味方という条件をなくし米国、英国を一つの仲間、公として考えてみればワシントンのやったことは善なのか悪なのかと考えればいいのです。この時正しいことは米英両国(仲間)にとって一番良いことは何か?を考える。その時絶対的に正しい方法が「私欲を抑え公の為と考えることである」分かり易く言えば米国、英国は自国の私欲を少し抑えて公(英米、または世界)の為と考えることである。つまり各国が自国の立場から善悪を考えるのではなく自国を忘れ世界の立場に立ってワシントンのやったことは善なのかと考えることである。
また例を挙げれば広島に原爆投下したことはアメリカでは善、日本では悪という。この時本当にどちらが正しいのか米国、日本それぞれの立場を忘れ世界的立場に立って本当はどちらが正しいのかと考えることである。そうすれば答えは一つに収斂していくだろう。

お礼日時:2019/04/04 20:10

絶対的な正しさ、絶対的な善とは何かという疑問に対して回答させて頂きます。


正と誤(邪)、善と悪 などに絶対(完全)というものがないからです。それらは人間の思考より決定され人間の思考により判断されます、その人間が不完全な存在であることは誰もが理解できる事でしょう。不完全な人間がつくりだしたものが絶対(完全)であるはずがありません。
 この世界から人間という存在がなくなったとき善も悪もなくなり、善とはなにかという疑問もなくなることでしょう。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

 >それらは人間の思考より決定され人間の思考により判断されます、その人間が不完全な存在であることは誰もが理解できる事でしょう。不完全な人間がつくりだしたものが絶対(完全)であるはずがありません。<

本当に善は人間の思考(理性)により決定されるものなのですか? 生後数か月の理性のない赤ちゃんも善悪は分かっていると科学的に実証されていますよ。

お礼日時:2019/04/04 20:03

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