形式主義/機能主義的な文法論の誤りについて見解を伺うべく、「形容動詞という誤り」「接続助詞《ので》という誤まり」「形容動詞という誤り No.2」<「名詞」理解の誤り><「名詞」理解の誤り 2」: 名詞が指示をするのか?><『日本語文法事典』〔日本語文法学会 ;2014/6/25)〕の欠陥>を提起してきましたが、
そこでは、「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」という至極当然の事実が閑却されています。
<「名詞」理解の誤り 2」: 名詞が指示をするのか?>では、名詞の指示という機能を本質と取り違える誤りを指摘しましたが、もう一つの根本的な誤りは、上に指摘した生成文法の文を話者から離れた実体、煉瓦的構成と見る、いわゆる言語実体観の誤りです。
この事実を、
西山佑司『日本語名詞句の意味論と語用論―指示的名詞句と非指示的名詞句 (日本語研究叢書)』(ひつじ書房:2003/10/1)
http://www.hituzi.co.jp/books/180.html
から指摘しておきます。
西山は第 3 章でメンタル・スペース理論を紹介し、次のようなコピュラ文の、坂原茂の解釈を取り上げる。
(101) 源氏物語の作者は紫式部である。
これは、役割「作者」が、特定の変域設定「源氏物語」において、値「紫式部」をとることを現わしている、とされる。と紹介している。
そして、この種のコピュラ文をメンタル・スペース論者は「同定文」と呼び、著者は「M‐同定文」と名付け、次のように主張する。
さて、M‐同定文「AはBだ」は、主語と述語名詞句を交換して、「BがAだ」に【(意味を変えないで)】変換できる。したがって、(101)を(104)のように変換しても【意味は変わらない】。
(104) 紫式部が源氏物語の作者だ。
(104)は、「倒置されたM‐同定文」だ。/(同書P148:【】強調は引用者)
さて、(101)と(104)の【意味は変わらない】のか。
いや、著者の指示名詞句/非指示名詞句という寝言に惑わさなければ、これは明らかに意味の異なる文で、中学生にでも判る事実であろう。
生成文法の、話者とは独立に文という実体が存在するという錯誤が生んだ妄想に過ぎず、これを無批判に受け入れた著者の錯誤である。
そもそも、<役割「作者」が、特定の変域設定「源氏物語」において、値「紫式部」をとる>というメンタル・スペース理論が、文を話者から切り離し、対象世界と直結する誤った事実誤認に基づくことが理解できるであろう。
これは、現在の意味論がどの程度のものかをも示している。
このような、根本的な事実誤認に基づく非論理的な誤った論理展開がなされているのが、「日本語研究叢書」と銘打たれた本書であり、「日本語研究叢書」なるものの、根本性格である。
この事実をどのように、理解されるのであろうか?■
A 回答 (36件中11~20件)
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No.26
- 回答日時:
すみません。
自分のピンぼけに気がつきました。No. 24で、
No. 3-8-12の続きです。
と書いたのはまったくの間違いでした。別の質問に対して書き込んだものの番号でした。
失礼しました。
saburoo
No.25
- 回答日時:
お答え有難うございます。
しかし、わからない質問は飛ばしながら、うまくごまかしていますね。
「質問1~4」のうち、以下の質問の答えもいただけるでしょうか。こういう具体的な内容の質問は苦手ですか? 抽象的な、大きな論はお好きなようですが。
例えば、最後のいわゆる「わ行」ですが、ここに「ん」を入れてしまったら、
音韻の表としては致命的ミスではありませんか。(なぜかわかります?-質問1)
(ついでに言うと、「を」の位置も変です。)
「を」がありますが、(ひらがなを書くための練習としては「を」は必要ですが、)
「音韻」として、「を」を「お」とは別に立てる正当な理由があるのですか? (質問2)
このひらがな表では、「三浦つとむ」の音韻を示すことはできても、「時枝誠記」の
音韻を示すことができないのですよ。わかりますか?(質問4) ←これ決定的
以上です。
(本格的な論文を引きながら、なぜ質問4に気づかないんでしょうね。内容を読んでいない?)
saburoo
No.24
- 回答日時:
No. 3-8-12の続きです。
さて、やっと「日本語の音韻体系」または「音韻表」の具体的なお答えがいただけましたね。
しかし、議論の中心となる重要な表を「幼児の知育教材」のサイトからダウンロードとは!
しかも、「ひらがな表」ですか。
「五十音表」とは、ことばの元の意味では「五十音」すなわち「音」の表ですが、これは、それを書き表す文字の表ですね。そこを混同、というか、区別しないのは一般の人、つまりことばの問題のシロウトにはありがちなことですが、言語学(言語論?)に詳しいはずの質問者も同じでしたか。
これは、「音韻表」には使えないのですよ。
例えば、最後のいわゆる「わ行」ですが、ここに「ん」を入れてしまったら、音韻の表としては致命的ミスではありませんか。(なぜかわかります?-質問1)
ここだけ、他の行と並べ方、つまり「体系の示し方」が違ってしまいます。
もう一つ。「を」がありますが、(ひらがなを書くための練習としては「を」は必要ですが、)「音韻」として、「を」を「お」とは別に立てる正当な理由があるのですか?
現代語で「を」が残っているのは、「かなづかい」の便宜上の問題ではありませんか。
(言っていること、わかりますか?-質問2)
それから、この「ひらがな表」が日本語の音韻の表であるという主張の「論拠」を求めたのですが、
自分の喋っている発音と照合して下さい。
それを実証といいます。
ここがいちばん呆れました。
もしかすると、「実証」ということばの使い方が、私と質問者では決定的に違うのか、と思います。
「音韻」はそのまま発音するものではありません。
例えば、ひらがなの「ん」で示される音韻、言語学では/N/で表しますが、その音韻が具現化された「音声」は、これは三浦つとむも書いているように、[m]や[n]などのいくつかの異音になります。/N/そのものは、発音なんてできないのですよ。わかりますか?(質問3)
やっぱり、「音声」と「音韻」の違いがわかっていない。
音韻は音声(異音)の単なる集まりではありません。
さらに、この「ひらがな表」を日本語の「音韻表」とすることには、もっと決定的な誤りがあります。
このひらがな表では、「三浦つとむ」の音韻を示すことはできても、「時枝誠記」の音韻を示すことができないのですよ。わかりますか?(質問4)
もう少し込み入った問題、サ行やタ行の問題をどう考えるかということを議論したかったのですが、はるか手前の小学校レベル、いや、「幼児教育」レベルのところでつまずき、こけているのでは、どうにもなりませんね。
質問者と「音韻」の話をするのは無理なようです。
以上の質問1~4にお答えをいただければ幸いです。
saburoo
いつもの、ピンボケの回答をありがとうございます。
まず、当方が指摘してきたのは、現在のソシュールパラダイム下における規範概念をもたない音韻論は誤りで、「カ」を「ka」と「k」と「a」に分解すれば、それは音韻ではありませんよと指摘しています。
そして、「五十音表」を書いていただけませんか?
というご要望に答え、具体的な表を提示致しました。
そして、「自分の喋っている発音と照合して下さい。それを実証といいます。」と回答した通りです。
本来の正しい応答は、当方の指摘した音韻表が自分の実際の音とは異なる、自分の信仰する音韻の定義からすると、これは音韻の表ではない。これが正しい表だ。
とならねばなりません。ところが、<「音韻」はそのまま発音するものではありません。>などと誤った、信仰に過ぎない音韻観に基づき、誤った内容の質問をされています。
三浦の本を読まれれば判るように、科学的、論理的な音韻の定義は、
音韻は表現上の社会的な約束(規範)に結びついている音声の普遍的な面であり一属である。
ということです。つまり、<「音韻」はそのまま発音される規範に規定された音声の種類>で、「カ」「ン」という、感性的な幅を持った音声の属でです。
音韻を抽象的な音声や、有坂のように理念としたり、時枝のように音声と音韻とを段階の区別とするのは不十分で誤りであるということです。
やっぱり、「音声」と「音韻」の違いがわかっていない。
音韻は規範に規定された幅を持った音声の属です。
この規範が「五十音図」です。
下記、「現代日本語の音韻体系」
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/ …
でも、サ行やタ行の問題が扱われていますが、「さ」を「sa」や「ta」と分解すること自体が誤りであることは、最初に指摘した通りです。込み行った問題でも何でもないということです。
「/N/そのものは、発音なんてできないのですよ。」などと、音韻を抽象的な音声と捉える音韻論は誤りだということです。■
No.23
- 回答日時:
またまた楽しいお答えを有難うございます。
いつも思うのですが、こちらの質問への答えはできるだけ省略して、大事なところははっきり書かず、こちらが問うていないことを長々と書くのは、ぼろを出さないための意図的な戦略なのか、あるいは単に自分が書きたいことをただ書いてしまっただけ(つまりそういう性格の問題)、なのでしょうか。
私がお願いしたのは、
省略しないで、「日本語の音韻体系」または「音韻表」を提示していただけませんか。
そして、なぜそれが「正しい」のかという論拠と共に。(こちらが大事)
です。その答えが、もし、
>>いわゆる「五十音表」ですか?
その通りです。細かな点が問題ではなく、これが日本語の音韻規範を示す表であり
であるならば、「五十音表」を書いていただけませんか?
字数が限られているので、要点に絞った省略した回答にならざるを得ない
などという見えすいた言い訳はやめて。(その後の要らない部分を書かなければ、「五十音表」はもちろんのこと、「回答」がもっと書けるのですが。)
上の「細かい点が問題ではなく」というところが本音ですか? 具体的なことを書いてしまって、細かい所をつつかれるのが嫌?
ということで、今度こそよろしく。
(あとの部分についてもいろいろ「え?」と思う所はあるのですが、それを書くと、またその反応だけになってしまいますから、やめておきます。)
また答えを逃げ回るようであれば、さすがにみっともないと思うのですが。
saburoo
何か良く分からないコメントをありがとうございます。
>>「五十音表」を書いていただけませんか?
え!
下記から好きにダウンロードして下さい。
https://happylilac.net/hiraganahyo.html
>>なぜそれが「正しい」のかという論拠と共に。(こちらが大事)
自分の喋っている発音と照合して下さい。
それを実証といいます。
ところで、語、概念についてお答しましたが理解いただけましたでしょうか。
その他、指摘事項については?
こちらの質問への答えはできるだけ省略して、大事なところははっきり書かず、こちらが問うていないことを長々と書くのは、ぼろを出さないための意図的な戦略なのか、あるいは単に自分が書きたいことをただ書いてしまっただけ(つまりそういう性格の問題)、なのでしょうか。■
No.22
- 回答日時:
お答え有難うございます。
しかし、かなり省略したお答えですね。
音韻論は既に回答の通り、日本語の音韻とは「あいうえお~」の五十音でしかなく、
「K」などという日本語の音韻は存在しないという単純な事実です。
えーと、「五十音」とは何を指しますか? いわゆる「五十音表」ですか?
「五十音表」に書かれているのは、実際には「五十音」に足りないのですが。
省略しないで、「日本語の音韻体系」または「音韻表」を提示していただけませんか。
そして、なぜそれが「正しい」のかという論拠と共に。(こちらが大事)
「光は波である」。それは「単純な事実」である。
などというのが何ら立論にならないことは、釈迦に説法だとは思うのですが。
「単純な事実」に見えることを、きちんと論理立てて説明するのが科学ではありませんか?
saburoo
相も変わらぬ印象批評をありがとうございます。
何せ、字数が限られているので、要点に絞った省略した回答にならざるを得ない点はご理解いただきたく。
応答も、単なる印象批評ではなく、本質に絞った要点を纏めていただけると幸いです。
>>いわゆる「五十音表」ですか?
その通りです。細かな点が問題ではなく、これが日本語の音韻規範を示す表であり、ここに「k」などという音韻は存在しないという事実です。
>>なぜそれが「正しい」のか
日本語の言語事実に対応しているからです。反例を示していただければ議論は進展しますが。
>>「光は波である」。それは「単純な事実」である。
単純な事実ではなく、科学的な観測、実験の結果であることをご存じないのでしょうか。
>>「単純な事実」に見えることを、きちんと論理立てて説明するのが科学で
おっしゃる通りです。これまで、
「科学はすべて、現在の段階での作業仮説である」という言説の誤り、「構造主義がポストモダンへと解体し」た事実、<「か」をkとaに分解すれば、それはもはや音韻ではなくて、単なる音声に過ぎない>事実、「精神病に限らず、医学の世界はそんないいかげんなもの」が多く存在する事実を提示し、論証しましたが、何ら論理的な応答はなく権威や印象、学界の評判という傍観者的な発言に終始されています。
語について<「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう>などという世迷言の非を明らかにしましたがどのように考えられているのでしょうか。
語、文に対する基本的な理解もなしに日本語を論ずる、そのナンセンスを感じられないのでしょうか?
生成文法に対する無理解という非難にも何ら具体的な提示はありません。
ラネカーやトマセロに対する評価についても、あなた自身の見解は全く示されていませ。当方は、規範や概念という認識のない馬鹿話だと指摘していますが、それに対し学会がどうのこうのという第三者的発言しかありません。
この程度の認識と理解で、言語、文法を論じようとするその態度に呆れるしかありません。
街の文法好事家というレベルということです。
まず、自分が依って立つ論理は何であるのか、対象の事実はどうであるのかをしっかり自覚、反省するところから出直す他ありません。
今時、カント的な不可知論に依拠して言語の科学が築けるという根本発想が誤りです。■
No.21
- 回答日時:
えー、あいかわらず楽しいお答えをありがとうございます。
(N)〔「作業仮説」の話〕は、これまた話すと長くなるので、今回は触れていただかなくていいと思います。
とわざわざ書いたところに、長いお返事をいただきました。
「語の定義」と、音韻論(具体的な日本語の音韻についての、全体的な体系の話と、それがどのような根拠によるのか、をお願いします)を期待しております。
saburoo
早速の応答をありがとうございます。
〔「作業仮説」の話〕に触れたのは、回答者が如何なる論理に依拠し、それが適切であるか否かに無自覚で有ることを明確にし、それゆえ当方の問題提起を正しく理解できず、何ら実証を伴っていないことを自覚しながらそれに答えられない根源を明らかにするため記したものです。哲学の歴史をご存じない以上そうなる他ありませんが。
当方は唯物弁証法の論理に依拠し、科学としての言語論を説いていますが、ソシュールパラダイムとはカントの不可知論哲学に依拠する、ヘーゲル弁証法以前の観念論に依拠するものであることを明確に理解していただきたいと考えたためです。
音韻論は既に回答の通り、日本語の音韻とは「あいうえお~」の五十音でしかなく、「K」などという日本語の音韻は存在しないという単純な事実です。幼児の喃語やオームの音声にはあるかもしれませんが。
語とは、一概念を表わすものです。この語の(音声/文字としての)形と意義の社会的な約束(規範)は辞書で説明されています。
辞書で説明してあるとか、多くの人が切り離して扱うとかは、必ずしも単語の基準にはなりません。
先に、「付属語、自立語という誤り」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11225788.html
で提起した通りです。
単語であるか否かは話者の認識を無視しては決め得ないもので、白墨、黒板が白い墨や、黒い板ではなく、赤の白墨やグリーンの黒板があるように、これらは、話者により一概念の単語と見做されています。朱墨が赤い墨とされていることは、これが複合語であることを示しています。
このように、単に形式から単語か否かを決めることはできず、「ので」を一語としての接続詞とする誤りを生みます。「が、しかし~」というように、付属語「が」は一語と認識されています。
認識を扱うことのできない現在のソシュールパラダイム下の言語論、文法論が形態素などという形式のみを問題にし、単語とは何かを規定できず、<「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう>などという世迷言を唱えることになります。
なお、概念とは対象の普遍性、一般性を抽象した超感性的な認識です。これは、対象の在り方にも影響され、日本語では温泉が身近で「湯」という概念が、英語では「hot water」と2概念とされるように、環境にも影響されます。■
No.20
- 回答日時:
暑い中、お答え有難うございます。
すぐお返事が来るのは誠に結構なことなのですが、相変わらず、というか、常に、関係ないことばかり沢山書いてくるのですね。少々呆れています。
まず、チョムスキーの話。
三浦の「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」は読んでみたのですが、あまりの内容のなさに驚きました。これを読んで、(チョムスキー理論信奉者でない)私にすら言えることは、三浦はチョムスキーの本を1ページも読んでいないであろう、あるいは、読んでもまったく理解できなかったのであろう、ということです。この雑文に対して、議論するのは時間の無駄なので、いつか暇になったらとりあげることにして、もう少しまともな、内容のある話をしたいと思います。
(G)のところについて。
「ソーカル事件」で「ポストモダンが崩壊した」などと誰かが言っているのですか?
この一文を書いたのは私の失敗でした。質問であるかのようになってしまいました。次のように書くべきでした。
「ソーカル事件」で「ポストモダンが崩壊した」などと誰かが言っているのですか?
そんなことは、どうでもいいことで、話の本筋にまったく関係ないことです。
「修辞疑問」というのとはちょっと違いまして、「そんなことは問題じゃないだろう?」というつもりの「疑問文」でした。誤解を招く書き方で失礼しました。
「哲学の動向」? そんなものはもちろん存じませんが、それが今の議論とどういう関係があるのか。「事実だ」ということは、
wiki:「新実在論」を参照下さい。(こういう現状の提示にはwikiは有効ですが。)
を見ても何もわかりませんが。これを見てわかるのは、ある哲学者たちがある説を立てた、ということだけですね。(この項を読んで、何をわかればいいのか。(いや、これは質問ではありませんから、お答えは不要です。))
wikiも、自分に都合のいいところは「有効です」というわけですか。
では、wikiの「ソーカル事件」の内容は読んだのでしょうか。
(いやいや、こんな「質問」の形を使ってはいけませんね。また、関係ないことをあれこれ読まされる羽目になります。)
もう、関係のない、ポストモダンやソーカルや哲学の話はやめてください。
私が知りたかったのは、三浦自身が、『認識と言語の理論 第一部』で自説を展開した意外に、当時の日本の精神医学界と本気で向き合い、論争をしかけたのかということです。
今回のお答えを見る限りでは、何もしなかったようですね。
三浦は医学自体を展開しているわけではなく
この「医学を展開する」という表現の意味は私には不明ですが、「認識論」と「言語論」しか述べていないのですね。それでは、日本の精神医学界はどうにも反応しようがないでしょう。まったく実証性がありませんから。医学は実証科学です。実証されないものは、相手にしません。
とまあ、この議論もこれでやめにしましょう。実質的内容がないから。
私にわかったことは、結局、三浦は何の実証もないまま、「日本を含めた世界の「精神病の医者の理論水準は」低いと考え 」ていた、ということです。そして、自分はそれより「精神病のことをよくわかっている」と考えていた「夜郎自大」だった、ということです。それで十分です。
ついでにもう一つ、関係のないことをwikiから。
日本の脚気史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC …原因解明と治療薬開発
都築は、翌1911年(明治44年)4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮[83]によって調査会でも発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのようにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり理解を示していたとの見解もある[84]。一方で森は、脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、敢えてそれを否定、細菌原因説に固執していたとの見解もある[85])。
この「森」というのはもちろん森鴎外のことです。「俗説」をそのまま信じるのは危険です。
「盲信」という言葉は適切かどうか。(あ、この議論は書かなくて結構です。ほんの参考までに。)
閑話休題。もう少し大事なことを。
現在、主要著作は『三浦つとむ選集 1~5,補巻』他として【公】刊されています。
やっぱり、質問者は「学問的論争」というものがどういうものかわかっていないのだと感じます。自分勝手な独自説を「公刊」しただけではだめなんですよ。(日本語文法でも、そういう人は結構います。)
どう言えば、この辺のことがわかるのか。
例えとしていいかどうかわかりませんが、戦国時代の戦争でいえば、それは自分の城を造っただけなんですよ。相手の城に攻め込むか、互いに城を出て平地で戦うか、とにかくどこかで矛(剣?)を交えないと「戦い」、つまり「論争」にはならないのです。
もちろん、自分の造った城が十分に敵にとって脅威となれば、(つまり「論」として相手の論を圧倒しそうな内容があれば)相手が攻めかかってくるかもしれません。そして戦いが始まるかも。
三浦の論は、言語学者にとっても、文法学者にとっても、何ら脅威となるようなものではないのです。私が見たって、穴だらけなんだから。(具体的な文法の話です。「認識」とか「言語過程論」の話ではありません。)
(今のところ、私の「三浦の文法はダメだ」論は、何ら実証を伴っていません。そのことは私も自覚しています。その議論をしようとしても、、質問者が答えをはぐらかして、何ら答えないからです。)
で、具体的な議論に戻りましょう。(三浦の本を話題にしたために、ずいぶん時間が無駄になってしまいました。)
No. 18の(F)のことはもういいでしょう。おそらく、単なる書き間違いでしょう。
(G)(H)(I)はもうよしましょう。上に述べたとおりです。(J)も。
(K)ですね。「語の定義」。ご自身の考えを述べてください。「概念」という用語を使うなら、その定義(説明)も必要です。
(L)日本語の音韻とはどういうものか。kaはkとaに分けてしまうと「音韻」ではない、という論を別の「質問」の欄を作ってでも、詳しく述べて、広く一般に問うてください。
私は、音韻論はまったく専門外ですが、wikiレベルの知識はあるつもりです。質問者の知識がそれ以上であることを期待します。
(M)は大したことではありませんが、答えがあれば多分安心します。
(N)は、これまた話すと長くなるので、今回は触れていただかなくていいと思います。
あと、もともとのハガ論(紫式部は/が~)や、「に/から(先輩に/から聞いた話)、「と(私と母は/私は母と)」なども、また戻って具体的に論じたいと思っています。
先は長いです。
以上、よろしければお答えをいただきたく。
saburoo
早速の詳細な応答をありがとうございます。
相変わらずのピンボケな回答をありがとうございます。
>>「科学はすべて、現在の段階での作業仮説である」
好みの問題は別として、
科学が相対的真理であって、法則とよばれているものにもわずかの誤謬がそれにこびりついているということから、科学者がこの誤謬を訂正するための新しい仮説をつくってそれを証明し、ここに新しい法則が成立したとしても、それは体系の不備を補ったのであり、先の法則が科学ではなく仮説に過ぎなかったということにはなりません。
科学は相対的真理として誤謬を伴っているし、仮説にも誤謬がありますが、この共通点をとらえて誇張するところに、科学と仮説との同一視ないし科学の仮説への解消があらわれます。
科学を仮説に解消させるのはプラグマテイックな発想で、これでは仮説は永遠に仮説であり、仮説を証明するための実験も理論を受けとる場合の追試験もいっしょくたになってしまいます。
(三浦『認識と言語の理論 第一部』「仮説と科学」より)
古典力学がマクロな対象の理論であり、運動の三法則もまた閉じた真理でないことはファインマンも指摘している通りです。ミクロな対象に対しては量子力学が適用されます。だからと言って古典力学を仮説だという人はいないでしょう。
そして、この根底となる体系の転換が即ちパラダイム転換で、コペルニクスによる天道説から地動説への転換が象徴的なパラダイム転換です。
時枝がソシュールの言語実体観を否定し、言語過程説を唱えたのが正に言語学のパラダイム転換であり、三浦は最初から時枝理論を言語学のコペルニクス的転換とよんでいます。
有坂の音韻論が「本物の、超一流の学者」というのは構造言語学というソシュールパラダイム下の権威を信仰するものでしかなく、何らその論理の正しさを保証はしないということです。
>>「か」をkとaに分解すれば、それはもはや音韻ではなくて、単なる音声に過ぎませんから、
こんな無知蒙昧の見本
先に回答の通り、「単なる音声に過ぎません」というのは物理的な音でしかなく、規範の定める音韻ではないという事実をいうものです。規範という概念をもたない有坂音韻論の欠陥を指摘したもので、有坂の「理想としている」という用語が非科学的である根底を明らかにしたものです。
「無知蒙昧の見本」がどちらかは明らかでは。■
No.19
- 回答日時:
No. 18の「お礼」の欄について。
(E)えーと、まず、
相変わらずの権威や通説を並べるだけで、問題の本質を避け、曖昧な言論に
終始されていますね。
そのため、当方の指摘も、理解できず、傍観者的発言をされているだけです。
どこがどう「曖昧」なんだか。質問者のお答えよりはっきりした内容だと思いますが。
それよりも、「問題の本質」より、具体的な問いに関してはぜんぜん答えていただけず、話が先に進みません。
(F)前の投稿の(A)で、
「思っているのではな」いのに、「~の誤りを指摘している」というのは
どういうつながりでしょうか。
と質問したのですが、無視したのはなぜでしょうか。「当方の指摘も、理解できず」だったのでしょうか。
(G)その後の、
「誤りを指摘」した後はどうなったのでしょうか。何か論争が起こり~
という質問にも答えず、なぜか「構造主義がポストモダンへと解体し~」などという関係ない話が始まり、ソーカルの話が来て、「崩壊しました」と文が終わります。「崩壊した」のは「ポストモダン」のことですか?(そもそも、なんでこの話が出てくるんですか?)
「ソーカル事件」で「ポストモダンが崩壊した」などと誰かが言っているのですか?
ソーカルの『「知」の欺瞞』は、私も読んで面白いと思いましたが、一部の(ポストモダンの)思想家がひゆ的に数学用語のアホな使い方をした、という話であって、ポストモダンという思想全体の話ではありません。
ソーカルの本は読みました? 面白いし、スキャンダラスではありますが、思想そのものの批判ではありませんよね。思想の「本質的」な問題には関わっていません。(質問者のお好きな言葉を使ってみました)
以上、質問者が「問題の本質を避け、曖昧な言論に終始されてい」る部分です。
(H)
何にせよ、私の言う「論争」はそんな関係のない話ではなくて、三浦と、精神医学の学界との間で、重要な問題(「分裂病」をどうとらえるか)について、まじめに議論をしたのか、という話です。というか、そうとしかとれないと思うのですが。(「誤解を招く」表現でした?)
三浦が、本気で、日本を含めた世界の「精神病の医者の理論水準は」低いと考えているなら、そしてそれが患者や家族にとって不幸なことであると考えるなら、自分の論をひっさげてまずは日本の学界に、繰り返し自分の主張を叩きつけるべきだったでしょう。
あるいは、日本の学界では相手として不足だというなら、英語やフランス語(ドイツ語でも、ロシア語でも)で論文を書いて、「精神病の医者の理論水準」を世界的に引き上げようとすべきでしょう。それをしたのですか、という問いなのです。
おそらく、そんなことはしていないのでしょう。そして、自分の本に、自分の一方的な「理論」を書き連ね、挙げ句の果てに、「~学生たちは、個人差があるとはいえ、しまいには分裂活動に異常を来すようになります。」などと知りもしないことを書く。
三浦は、精神病の研究をどれほどしたのでしょうか。論文をどれほど書いてきたのでしょうか。それより先に、臨床の経験はどのくらいあるのでしょうか。それもなしに、机に向かって本を読み、「思索」をするだけで精神病の何を理解したつもりなのでしょうか。
精神病に限らず、医学の世界はそんないいかげんなものではありません。
(I)大したことではありませんが、(B)のところの指摘は、そのまま了解されたと見なしていいのでしょうね。
ある学説が「誤り」であるかどうかは、それに対する反論が公に提出され、
その分野の研究者がよってたかって議論をし、(その学説・反論の)問題点を
明らかにすることで、判断されます。
これは、三浦の論にも通じます。その当時の文法学説の誤りだと思う点を、論文に書き、専門誌に投稿し(「公に」とはそういう意味です)、学会/学界で論争すべきでした。
自分の本で自説を述べるだけで、「無視された」などというのは愚かです。反論するに値しない、と思えば、誰も何も言いません。
三浦は、国語学会や言語学界の雑誌に論文を投稿して、論争したのですか?
(J)上の引用部分(「ある学説が~」のところ)に対し、
これが、典型的な傍観者的発言です。他はどうであれ、貴方自身どう考えるのか
を問うているのですが。要は自分には理解力も判断力もないため、他の権威筋に
お預けということです。まず、この事実を自覚することが重要です。
そして、wikiを引用するなど、大学生でも馬鹿にされるところです。
という「反論」(?)があるのですが、「貴方自身どう考えるのかを問うている」って、何か問われてました?
話の流れとしては、私が『日本語はどういう言語か』を少し読み、ひどい本ですね、と書いたのに対し、いやそれは違う、ということでソーカルやポストモダンの関係ない話に流れていったのですよね。何が問われている??
ラネカーやトマセロに対する評価ですか? そんな話をここでしろと? わけがわかりません。
(K)「そして」以下は「語の定義」の話のようですね。
wikiを引用するなど、大学生でも馬鹿にされる
いやいや、どうしてどうして。三浦の本よりよっぽど信頼できますよ。
何人もの人が書いているらしく、ときどき不整合なところもありますが、個人的な思いこみはかなり防がれています。どう見ても、三浦の本よりよく書けています。
質問者は、wikiの関連項目をよく勉強なさるといいようです。特に「日本語」の音韻のところなど。
で、私の「語の定義」の(wiki からの引用)内容は理解されましたか?
そして、それに対してどういう反論があるのですか。
wiki をバカにするなら、それを越えた論を提示してください。(時枝や三浦の論ではなく、「貴方自身どう考えるのか」を。時枝や三浦という「権威」に頼らずに。)
(L)次の有坂秀世が出てくるところ。私が知りたかったのは、次のことです。
しかし、三浦はこの妄説をどこから仕入れたんでしょうねえ。まったくの独自説?
有坂の論の検証など、ここでは関係ないのですよ。(もっとはっきり質問の形にすればよかったですね)
「か」をkとaに分解すれば、それはもはや音韻ではなくて、
単なる音声に過ぎませんから、
この「説」はどこかできちんと論じられているのですか。具体的な論証はあるのですか。
時枝はそんなこと言っていたかしらん。
時枝『国語学原論』第三章 文法論の「言語に於ける単位的なもの」、
三浦『認識と言語の理論 第三部』「単語の認定における形式主義」(91p~)他
この二つは、音韻の話ですか? 後者は違うようですね。
時枝のほうは、岩波文庫にあるので、本屋で見られそうですね。三浦のは大学図書館へ行かないといけませんからちょっと面倒です。
それとも、質問者が要点をまとめていただけませんか?
「ka」の「a」が音韻ではないという「論」を。
規範で規定された音韻ではないということ
「音韻」を、どういう「規範」でどう「規定」するのか、を。
(M)ところで、「補足欄」の初め、
大や抽象が問題ではなく
という始まり方がわかりません。一行抜けているのでしょうか。
(N)次に、
作業仮説としてしか語を捉えられなくて
というところ。え、という感じです。「科学はすべて、現在の段階での作業仮説である」という言い方が好きなのですが。まあ、程度によりますが。
文法は、全体として、常に作業仮説ではありませんか。
まだ書き続けたいのですが、時間の都合で、ここでやめておきます。
また明日、時間があったら続けます。
saburoo
早速の詳細の応答をありがとうございます。
具体的な問いに関してお答えしているつもりですが、理解のずれがあるようです。
「市井の文法好き、言語好きの好事家」ではなく、「意外に編集者がだらしない」のではない点を具体的な事実を示し、「言語好きの好事家」が回答者でしかないことを指摘したのですが。
「ましてやチョムスキーの理論がわかるわけもない。」には、具体的な生成文法批判である、
「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
を挙げていますが。
>>(G)その後の~何か論争が起こり~
は、正に構造主義批判論争が起こり「ポストモダン」へと後退し、その欺瞞が「ソーカル事件」で「ポストモダンが崩壊した」ということです。
>>などと誰かが言っているのですか?
哲学の動向をご存じない以上、やむを得ませんが、事実だということです。誰か権威のある人が具体的に明言しないと理解、信用できない人としては已むをえないところですが。
wiki:「新実在論」を参照下さい。(こういう現状の提示にはwikiは有効ですが。)
事実、現実を無視し、鈍感で、「曖昧な言論に終始されてい」る部分です。
(H)
先に指摘したように、『認識と言語の理論 第一部』で、唯物弁証法に基づく認識論を展開し、フロイト批判を展開した論理的必然であるということです。三浦は医学自体を展開しているわけではなく、その面については、精神科医 黒川新二が「人間の心の研究と三浦つとむの遺産」(『胸中にあり火の柱 三浦つとむの遺したもの』明石書房)や「精神医学と言語学――言語障害の研究に言語学は何故寄与しえないか」(『現代言語学批判』勁草書房)で論じていますので参照下さい。
三浦は、本気で、日本を含めた世界の「精神病の医者の理論水準は」低いと考え、その根底には非科学的な認識論という誤りがあることを明らかにし、まず言語論の誤りを説いています。
現在、主要著作は『三浦つとむ選集 1~5,補巻』他として【公】刊されています。
精神病に限らず、医学の世界にはいい加減なものがあるのは、エイズ論争始め枚挙にいとまありません。単に権威にもたれかかる発想からは、真実は見えません。手近な例では、森鴎外による陸軍の脚気惨害など好例でしょう。独逸医学への盲信。信仰の結果です。
欄もなくなり、以下は省略せざるをえません。次回にでも。■
No.18
- 回答日時:
No. 15の「お礼」の欄に関して。
(A)
>>世界中の精神医学者より、自分のほうが精神病についてよく知っていると思っているようです。
思っているのではなく、『認識と言語の理論 第一部』で認識論を展開し、
「パブロフ理論とフロイト理論の検討」をし、ジャック=マリー=エミール・ラカンや、
構造主義の誤りを指摘しているのをご存じないようですね。
上の文、私には意味不明です。(最後の「ご存じない」はその通りです。存じません。)
「思っているのではな」いのに、「~の誤りを指摘している」というのはどういうつながりでしょうか。
それと、「誤りを指摘」した後はどうなったのでしょうか。何か論争が起こり、決着が付くか、あるいはものわかれに終わったのでしょうか。
単に、誤り(と思ったところ)を指摘して、それで終わりだったのでしょうか。
(B)
当方でさえ、認知言語学者のロナルド・ラネカーや、マイケル・トマセロの
共同注意などという概念認識に無智な馬鹿話の誤りは理解できます。
これは典型的に「(誤りと)思っただけ」で終わっている例ですね。
町の自称「物理研究家」が「相対性理論は根本的に誤っている。世界中の科学者がそれに気づいていない!」という類です。
ある学説が「誤り」であるかどうかは、それに対する反論が公に提出され、その分野の研究者がよってたかって議論をし、(その学説・反論の)問題点を明らかにすることで、判断されます。
ある個人、それも素人が「馬鹿話の誤り」といったところで、多くの人は「へえ、あなた、頭いいんだね」とお愛想をいうだけで相手にしません。
(C)
三浦は、『認識と言語の理論 第二部』で、「音声と音韻」を論じ、
佐藤喜代治、有坂秀世と時枝の音韻論を論じていますので、批判する
のであればそれを熟読してからの方が良いのでは。
ここはちょっとびっくりしました。三浦が有坂の音韻論を「論じている」!?
有坂秀世は、本物の、超一流の学者です。それも音韻論が専門の。それに対して三浦が何か言っている?
今日、ちょうど大学図書館へ行く用があったので、その『第二部』を見てみましたが、なんだ、有坂の「理想としている」とか何とかいう有名な(記憶で書いているのでかなり怪しいですが)ほんの一行について、佐藤喜代治の批判の文を引用しているだけですね。
いや驚いた。どう考えても、有坂の本を読んで、なお、
「か」をkとaに分解すれば、それはもはや音韻ではなくて、
単なる音声に過ぎませんから、
こんな無知蒙昧の見本みたいなことは書けませんから。
その『第二部』のところにも、この、
日本語の「書[か]ない」の音韻は〔カ〕であって、〔k〕でもなければ、
〔a〕でもない
の話は出てきませんよね。それは単純に「拍」単位で音韻を考えた場合の話でしょう。
(時枝の『口語篇』にはその表が出てきますね)
「「か」をkとaに分解す」るのは、言語学的分析としては当たり前すぎる話です。
「単なる音声」って、何が言いたいのか。やっぱり、「音声と音韻の違い」がわかっていないから、こう書くんでしょうね。
しかし、三浦はこの妄説をどこから仕入れたんでしょうねえ。まったくの独自説?
(D)
「語とは何か」という「語の定義」を書けとおっしゃる。
これが本当に大きな問題だということがわかっていないんでしょうね。何か抽象的な定義で済むと思っていませんか?
まじめに考えようとすると、いろいろ研究書を読み、日本語の様々な語とその用法を一つ一つ考えていかなければなりません。かんたんに書ける話じゃありません。
まさかご存じでないとは思いませんが、言語学では「語」よりも小さい単位として、「形態素」という単位をたてます。語構成要素のようなものですね。
たとえば、接辞なんかがわかりやすいんじゃないか。
で、時枝も接辞の類は語としないんじゃないかと思って『日本文法 口語篇』を見てみましたが、ちょっと言い訳しながら、接辞も語として扱う、としていました。
接辞も「語」としてしまうと、「語」の用語としての広がりが大きくなってしまうので、私は「語」以下、としたいと思います。それを「形態素」と呼ぶかどうかは別として。
そして、「助詞」や「助動詞」をどう扱うか。助詞も助動詞もそれぞれの個性を考えないといけないし。
というわけで、私は「語の定義」なんてここには書けません。「語の定義さえできない」と言われても、痛くもかゆくもありません。「言語・文・語」の定義はとても難しいのですよ。(文法を考えるための、作業仮説として、何らかの基準を考えることはします。私も、文法を書いた時は、漠然とした「語」のイメージはありました。しかし、それは「語の定義」というような確固たるものではありません。)
とりあえず、私の考えにいくらか近い、wikiの「語」の解説の一部を引用しておきます。
語(ご、英語: word)とは、言語の構成単位の一つであり、一つ以上の
形態素からなる。語が集まることで句、節、文が作られる。
言語学では語は独立して発声できる最小の単位である。
文法的な役割を持つ語を機能語、一般的な意味を持つ語を内容語という。
日本語文法では自立語・付属語という名前の「語」があるが、
これらは言語学的には語よりも細かい形態素であり、
語に相当するのはむしろ文節のほうが近い。
また、付属語は言語学的には接語あるいは接辞である。
まあ、こんなところでしょうか。私だったら、いろいろ書き換えるところですが、方向性としてはこんな感じです。「文節」をどう位置づけるかは、これまた難しい問題です。
saburoo
早速の応答ありがとう御座います。
相変わらずの権威や通説を並べるだけで、問題の本質を避け、曖昧な言論に終始されていますね。
そのため、当方の指摘も、理解できず、傍観者的発言をされているだけです。
>>「誤りを指摘」した後はどうなったのでしょうか。何か論争が起こり、決着が付くか、あるいはものわかれに終わったのでしょうか。
「ご存じない」以上やむを得ませんが、構造主義がポストモダンへと解体し、アラン・デイヴィッド・ソーカル(Alan David Sokal、1955年1月24日 - :ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの数学教授とニューヨーク大学の物理学教授を兼任する学者)により、その出鱈目な言説が指摘され崩壊しました。アラン・ソーカル事件を検索して下さい。
これは、すでに三浦が1969.6.15刊の『マルクス主義の復元』で指摘している事実の現実化に他なりません。
>>ある学説が「誤り」であるかどうかは、それに対する反論が公に提出され、その分野の研究者がよってたかって議論をし、(その学説・反論の)問題点を明らかにすることで、判断されます。
これが、典型的な傍観者的発言です。他はどうであれ、貴方自身どう考えるのかを問うているのですが。要は自分には理解力も判断力もないため、他の権威筋にお預けということです。まず、この事実を自覚することが重要です。
そして、wikiを引用するなど、大学生でも馬鹿にされるところです。
>>有坂秀世は、本物の、超一流の学者です。それも音韻論が専門の。それに対して三浦が何か言っている?
「超一流の学者です。それも音韻論が専門の」で、だからそれがどうしたというのでしょうか。先ず有坂の音韻論が如何なる主張であるかを理解されていませんね。「理想としている」などというのが、全く非科学的な用語であることを理解できないのでしょうか。
>>「か」をkとaに分解す」るのは、言語学的分析としては当たり前すぎる話です。
「単なる音声」って、何が言いたいのか。
「単なる音声」とは物理的音声で、規範で規定された音韻ではないということです。
やっぱり、「音声と音韻の違い」がわかっていないから、こう書くんでしょうね。
>>これが本当に大きな問題だということがわかっていないんでしょうね。何か抽象的な定義で済むと思っていませんか?
以下、補足欄へ。
No.17
- 回答日時:
えーと。
下記にはいったいどのようなことが書いてあったのでしょうか。どこに行ってしまったのでしょう。
【格助詞「に」と「へ」理解の誤り】 2019/08/11
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11246251.html
ご指摘ありがとうございます。
確かに行方不明ですね。
助詞の意義:「に」と「へ」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11250495.html
として、再提起しましたので、熟読の上、適切な回答をいただければ幸いです。■
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なお、生成文法の性格については、
「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …
を参照下さい。
この著書は 1972年に出版されており、大学図書館はもとより、大きな図書館には置かれていますが、無視されており、その結果が、この体たらくという現状です。
もっともチョムスキーもすでに棺桶に片足を入れており、追って自然崩壊するしかありませんが。
後世、偉大なる錯誤と評されるのでしょうか?■
なお、「「日本の大統領は禿げだ」や「ブッシュのイラクはケネディのベトナムである」を可能世界やメンタル・スペースなしで、すっきり説明してみせねばなるまい。その場限りでない説明を。」
これは、その場限りではなく、普遍的、本質的に話者の認識に結び付いていることを、最初に、
そこでは、「文は話者の認識の【表現】である」、「文は話者が発したものである。」という至極当然の事実が閑却されています。
と記述していますが、チョムスキーに入れ挙げたボンクラの目には留まらなかったようです。
話者のない文などというのは、猫がキーボードの上を歩き表示された文字群のことです。
チョムスキーや西山が問題にしている対象はこういうものです。■
格助詞「が」 、副助詞「は」、係助詞「は」の意義の相違が理解できずにキリキリ舞いしていては、語の品詞と意義の相違、使用法が正しく理解できません。この点は、三浦つとむ『認識と言語の理論 第2部』で解明済みです。
>>古い仮説を踏み台にして、新しいより一般性の高い仮説に行き着いたから。単なる屍ではない。
そしてこのやり方こそが科学なのであり
呆け!。
量子力学が古典力学の上に築かれており、それが一つのパラダイム転換であることぐらい理解できないのか。(奴)
量子力学が完成したら古典力学は不要になったのか。古典力学を不要で廃棄できると考える発想がナンセンスそのものであることに気づかないのか。
武谷三男「ニュートン力学の形成について」(『弁証法の諸問題』)を眼光紙背に徹するまで読み込み、武谷三段階論をちゃんと理解しましょう。↓
↓
>>ソシュールも晩年はアナグラムという、パロール学の実践に夢中であった。
実践など日々人々がパロールを発しているのが理解できないのですか、
そうではなく、ラングとは何であり、パロールの本質と、その関係を明らかにしなければなりません。
カントの物自体を不可知とする哲学に依拠していてはパロ―ルの表現過程も意味論も築くことはできません。
夏休みなので、シナイ半島でも行って、モスクで顔でもを洗ってから出直した方が良いでしょう。
老婆心ながら。■
この質問は、端無くも質問者の「は」「が」理解がいかに浅い、表面的なものであるかを明かしています。
自分自身、良く判りもしないことを人に伝授しようなどとは無理、無体というしかありません。■
他の質問に、
<ハの後ろは否定形になりやすい傾向はあるのでしょうか その2>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11235456.html
がありますが、この例からも、当方が回答の通り、なんら相関はないことがわかります。
なお、普遍性の側面に若干触れておけば、水の普遍性はH₂Oであり、「月【は】地球の衛星である。」のように普遍性を表わす科学の文や、憲法、法律に普遍性を表わす「は」が多用されます。
なお、個別・普遍・特殊については、ヘーゲルの概念論を読んでも珍紛漢紛かと思いますが、
「概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)」
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-60.h …
<ヘーゲルの「普遍―特殊―個別」論理――『法の哲学』の自由論 >
(このタイトルで検索できます。)
等を参照下さい。■
No.7の補足への続き。
「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人の特殊性の認識」という言い方は若干誤解を招き易かったかもしれません。
(101)では、具体的に比較対象を挙げているわけではないので、「「清少納言や小野小町ではなく、紫式部という人(のような)」とすべきでした。
梅は咲いたか、桜はまだかいな。
の場合は明確ですが。
個別・特殊・普遍というのは、簡単にいえば、快挙を遂げた渋野日向子は個人ですが、それは、年齢も顔も身長も他とは異なる特殊性を持っています。そして、人、女性、動物、生物という普遍性に支えられています。
このような、個の持つ立体的、重層的なありかたを捉え表現する場合に、そのどれかの側面を捉え表現することになります。
渋野日向子自身は毎日成長し変化しますが、渋野日向子という固有性は変わらず、この固有性の側面が名前という固有名詞で表現されています。■
なお、先に、
(私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。「語」とは何か、というもっと大きな範囲の問題になります。
と回答されていますが、ここでは付属【語】である語、格助詞、副助詞の意義を論じています。
語ではなく、「語」とは何かが理解できないで、一体何を論じようとされているのか、そもそもこの基本的な理解の誤りを正さないと当方の言っていることが理解できないのではと危惧します。
格助詞、副助詞、つまり助詞とは一体何なのか理解されているのでしょうか?
そして、<格助詞「で」「に」理解の誤り>で提起しているように、助動詞とは何かも。■
もう少し、補足させていただきます。
三浦の『日本語はどういう言語か』の初版は1956年に出されており、推薦の言葉に、批判者、助言者と記しているのにはその前段があります。
三浦は、その前に『言語過程説の展開』を出版しようとしましたが、出版者が時枝批判を心配し、そのプリント版を時枝のもとに持参し意見を仰ぎ、時枝が是非出版して下さいと薦めたにもかかわらず、出版はされませんでした。
これを見ているために、批判者、助言者と記しているものです。
そして、三浦はこれを焼却してしまいますが、その後『弁証法はどういう科学か』がヒットし、知名度も上がり、言語論の本も受け入れられると判断し、ダイジェスト版の前段に認識論を加え『日本語はどういう言語か』を出版したものです。
講談社学術文庫は旧版をそのまま出そう考えたのですが、その後の進展を取り入れ、改訂増補版とすることを要求し、出されたものです。■
大や抽象が問題ではなく、具体的、科学的な解明を目指すべきものです。
時枝『国語学原論』第三章 文法論の「言語に於ける単位的なもの」、三浦『認識と言語の理論 第三部』「単語の認定における形式主義」(91p~)他を参照下さい。
作業仮説としてしか語を捉えられなくて、よく、文、文章を論じ、当方の付属語批判にコメントできますね。恐れ入谷の鬼子母神というところです。
すべて、「大きな問題」「難しい問題」で、問題を回避し、権威に頼ろうとするのでは、全く進歩はなく、単なる傍観者に終始する他ありません。
ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれてこない。(時枝誠記『日本文法・口語編』)
正しい方法を持たないのに、「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」(時枝誠記『国語学への道』)
だという警告も、この際思い出してもらいたいものです。■