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カントは分かってない!

感性は下級認識能力だって。

という事は、これまでの偉大なる芸術家たちの作品は、感性と云う下級認識能力に依るのだと云っているに、等しいですよね?

現今の芸術家達よ、反論したくないですか。

質問者からの補足コメント

  • カントは悟性は優れていて、感性は劣っていると云っているように思ってしまいます。

      補足日時:2019/08/15 21:54
  • 質問した疑問以外にも、学ぶことがありました。

    有り難うございました。

      補足日時:2019/08/17 08:58

A 回答 (12件中1~10件)

感性は犬でもあるけど、悟性は人間だけだという意味。



カントはプードルを飼っていて、感性しかない動物も愛していたんだよ。
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この回答へのお礼

カントが上級、下級と評したのは優れている、劣っているという認識に依ってのことではないでしょうか。

宜しくお願いいたします。

お礼日時:2019/08/15 22:32

>カントが上級、下級と評したのは優れている、劣っているという認識に依ってのことではないでしょうか。



カントは犬が人間より劣っていると考えていたかどうかはわかりません。
キリスト教では犬は人間より劣った動物であると教えていたようですが、カントは教会の教えには組みしていなかったようです。
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この回答へのお礼

感性も、個々に於いて優劣が生じてしまうと云うのは、感性の世界であるはずの芸術に級が与えられることからも、そうであると知れますが、これに付いてのMokuzoさんはどう受け止めていますか。

感性に優劣はない?

カントを離れてのご意見に、興味があります。

お礼日時:2019/08/15 23:06

⑴上級、下級はすなわち優劣ですか?



⑵感性から想像されたもの(芸術作品)についてカントが何か
断定的なことをああましたか?

⑶論理の飛躍に感じますが、いかがですか?
公平な視点、中立な視点での質問でない
感情的だったり衝動的なもの質問、コメントが
多くありませんか?
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この回答へのお礼

さあ、どうでしょう?

自身の事は意外と分からないものだから。

回答、有り難うございました。

お礼日時:2019/08/15 23:09

誤字直します、すみません。



断定的なことをああましたか?

断定的なことを言いましたか?

⑷「カントはわかってない!」<かなり感情的に感じました
なぜそんなに断定的なのですか?
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この回答へのお礼

注目を浴びたいから。

せっかく質問したのだから、たくさんの回答が欲しいです。

また、誤字はちゃんと判読してます。

有り難うございます。

お礼日時:2019/08/16 00:04

▲ (カント:感性について――『純粋理性批判』篠田英雄訳 事項


索引より) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1. 感性の概念: 我々が対象から触発される仕方によって 表象
(≒観念)を受け取る能力を 感性という。 33

2. 感性と悟性: 感性と悟性との機能は それぞれ独自なもので
あって互いに交換せられ得ない。 悟性は 直観し得ないし 感性は思
惟し得ない。75-76

3. 感性によって我々に対象が与えられ 悟性によってこの対象が
思惟される。 29

4. 感性が加わらないと 思惟はまったく対象をもたないことにな
る。 343

5. 感性と悟性とが結合してのみ認識が生じる。 75

6. カテゴリー(☆ たとえば 因果関係の基礎となっている方程
式のような経験事象)は 感性にかかわりなく 悟性のみから生じる。
144

  ☆ ここらへんが 議論の余地をのこすところであり――つまり
   この命題(判断)は あくまで仮説なのであるにもかかわらず
   明証性のある理論だと言い続けているらしく―― そこから
   悟性が 感性に対して優位に立つと言ったと受け取られても仕
   方がないかに見られます。

   感性の直観よりも 悟性の思惟のほうが 《偉い》のだと言っ
   ていると受け取られても仕方がない。なぜなら 《直観》は
   悟性も純粋悟性として 純粋認識たる純粋直観を成すという仮
   説的前提があるから。

   もっとも 次のようにも言って 感性を擁護している。という
   のは いかに《先験的なハタラキ》だと言っても 大きくはつ
   ねに経験事象(つまり 認識という経験行為)を大前提として
   いるとは言っている。

7. 感性の形式的条件を欠く純粋カテゴリーは 先験的に使用せら
れ得ない。 305

   ☆ ⇒ 註=8以降
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


8. 次のような図式でしょうか。

○ アプリオリ性とは? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

理性:悟性による認識を統一 ←―― 悟性:知覚したものを概念認識
                 ↓        ↑    
             アプリオリにはたらく    ↑
             純粋悟性としての直観    ↑
                  ↓         ↑
感性:対象との出会い・・・・・・・・・・知覚(視覚・聴覚 etc.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

9. アプリオリ性とは 一方で《感性が対象と出会うという経験》
を前提としつつ 他方で《知覚そしてまたその感覚内容を概念として
認識するというふつうの悟性の経験》に先立っているという意味であ
る。その意味で 《先験性》と言う。

10. ただし 考えてみれば 《感性が 対象と出会うこと(時点)
とそして視覚等として捉える感覚の起こること(その時点)とは 時
間のへだたりはない》とも見られる。

11. とすれば 純粋直観のハタラキというのは 《感性を超えて
作用する》と言える。そう言ったほうがよい。

12. つまり アプリオリ性とは 先験性というよりは 超越〔論〕
性だと見られる。




13. 感性が悟性による思惟〔のための条件となるけれども 思惟
そのこと〕とは無縁だという(2&3)とき ヤマシサ反応では 恥
ぢを意識させ ものごとの良し悪しにかんする判断をすでに思惟に対
して提供している。と言える。やましい(または やばい)ことは
避けなさいと。

14. 悟性がこの恥ぢをめぐって思惟を行ないうるというのは た
だただ《恥ぢをしのんでコトを成すには どうしたらよいだろう?》
といったやましい方面の内容でしかない。

15. 悟性のはたらくのは ただただ 恥ぢまたは自分の心にさか
らって何か別のことを成すための思惟だけであり 悪知恵の問題であ
る。

16. 感性は 悟性〔や理性〕と 対等であろうと見られる。
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この回答へのお礼

5. 感性と悟性とが結合してのみ認識が生じる。

この文章から連想が始まりました。

意識とは、自分が自分であるという事が分かる、今、何を考えているかが分かる、と云う働きとします。
となれば、認識は意識とは違う事と云えます。

認識は、生き物全てにある働きではないでしょうか。
生物が“物”に出くわして、そのものの存在を感覚することを“認識する”と云うはずです。
そしてそのあとに、判断があります。自身にとっての良し悪しの判断です。
この判断力を人間以外の生命に付いては本能という事にしています。

でも、本能と云っても立派に判断しているのだから、人間の理性に当たる働きだと思うのです。
要は進化論的な連想ですが、人間が理性と云う高度な精神の働きを獲得したのは、その前に生き物が認識後の行動に必要な判断と云う働きを持っていたから、と思えます。

動物の本能は理性の卵。
その卵が人間に依って孵化したのではないでしょうか。

そう思えば、生き物には感覚に理体とも云うべきものがすでに備わっているとみるべきでしょう。
生物の進化とともにその理体も種のような存在からだんだんに成長し、人間と云う生き物になって花が咲いた、と思いたい。

お礼日時:2019/08/16 12:42

多分、カントの言う「感性」と日本語の感性の語彙の違いを誤解されていると思います。


カントの言う感性とは、人間の純粋な感覚入力そのものなんで、目や耳、触覚その他の感覚そのものが、極端に違わない限りは、ほぼ同等の識別能力を持っていると考えて、ほぼ間違い無いです。
所謂、感覚識(クオリア)とは意味合いが違います。(クオリアが違っていても、見たものを描写する場合は、クオリアのバイアスに関わらず、通常は、人間が見えるように書ける場合が多いです)
例えが悪いかもしれませんが、デジタルカメラであれば、感性に相当する出力データはRAWデータ、悟性または、認識により補正・画像化されたデータが、JPEG又はTIFFなどの画像データ形式となります。
一般的に芸術などで、論じられる「感性」は、カントの言う、「認識」以後の内容です。
簡単な例としては、図形としての〇が提示されて、それを書いてみた場合、人間であれば、ほとんどの人が〇として認識出来る図形を描写可能であれば、〇に対する感性は、人間でほとんど変わらない事になります。(人間の場合は、抽象化で正確な〇でなくても、〇として認識出来てしまうので、悟性の影響は受けてしまうので、完全に感性の実験にはならないですけどね)
ピカソは、芸術的感性により、カントの言う「感性」のとおりに、作品を作成していませんが、写実的に描写できる能力が無いわけでは無いです。(デッサンなどは、写実的に書いているので、カントの言う「感性」は、一般的な人とは変わらないでしょう)
例外的に、いわゆる「画伯」(これは、本当の画伯では無く、独特な感覚で絵を書いてしまう人に対する称号です)と言われる人の場合は、本当にカントの言う「感性」がずれているのではないかと思われるような人もいます。
このような人に着目して研究している学者もいて、簡単な図形のトレース(模写)をさせて見て、図研識別能力に欠陥がある場合もあるのでは無いかと考える意見を述べています。
実際には、神経機能や目の生理学的機能の欠陥などの検証や、脳の認識作用の研究が進まないと、この現象の原因究明は難しいでしょう。
カントの場合は、このような特殊例の事は、対象にしていないので、論旨としては、多少の個別差はあっても、ほとんどの人の「感性」の視覚はほぼ同一であると考えているようです。(犬とか、ほかの生物の視覚と、人間の視覚が同一であるかは、わからないです)
芸術的感性に関しては、カントは特に言及していませんが、「判断力批判」にげ、美的判断能力について論じています。
注意すべきは、カントの「感性」は、RAW(生)入力を悟性に渡すインターフェースだと言うだけで、それ自体が何かを判断するものではないという事です。
したがって、それ自体が上級・下級と言う「ランク」なわけでなく、プライマリー(1次的)、セカンダリー(2次的)という、認識機能の情報伝達段階を意味しているだけだと言う事です。
むしろ、情報量としては、RAW(生)データの方が多くて、その後のプロセスで情報は整理・統合されて、生データの多くは失われる事になります。(RAW(生)データは、画像や空間として認識展開されていないので、情報量で優劣は決まらないですけどね)
「純粋理性批判」で論じている内容は、その内容が理解出来れば、誰でも同じ結果を理性が出力します。(そういう意味では、「純粋理性」は、機械的な論理処理装置であって、個性と言うものは生じないものなんです)
ただし、例外があって、「純粋理性」が一つの結果を出力できない、命題が存在します。(これは、矛盾した答えが、両方共成り立つ命題です)
これらを処理する、判断基準は、「実践理性」が扱う事になります。(答えが出なくても、判断しなければいけない時は、「純粋理性」では無く、「実践理性」を使う事になるという事です)
「実践理性」でも、扱えない判断基準は、「判断力批判」で論じる事になります。
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この回答へのお礼

“悟性は上級認識能力で感性は下級認識能力”

この表現をどこかで見たのですが、探しきれませんでした。

頂いた回答に依れば、感性は1次的認識能力という事かと思いました。

さらに考えてみます。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/16 14:15

感性は本能ですから、生物の始まりからあるものですよ。


それを下級とするか、高級とするかの問題です。
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この回答へのお礼

今は、そうではないように思えてきました。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/16 14:17

№5です。

コメントをありがとうございます。

★(№5お礼欄) ・・・でも、本能と云っても立派に判断しているのだ
から、人間の理性に当たる働きだと思うのです。
☆ はい。わたしの用語では 《判断する能力》は 《意志》です。

広義の《理性》として 〔意志という〕判断力をもふくめたと採ります。



★ 要は進化論的な連想ですが、人間が理性と云う高度な精神の働きを獲
得したのは、その前に生き物が認識後の行動に必要な判断と云う働きを持
っていたから、と思えます。
☆ 動物の判断のチカラまたは判断の仕方については――本能による良し
悪しの判断を どう説明するかということですが―― 《身分け》による
と言ったひとがいました。(言語学者の丸山圭三郎です)。


つまり たとえば草やキノコに毒がないかをどう見分けるか? 身体の感
覚によってだというわけです。本能としての感性ですね。

本能とは じつはそれ以外に手段として選択する余地はないという場合の
手段でありハタラキであるものを言うのだと思います。



★ 動物の本能は理性の卵。
その卵が人間に依って孵化したのではないでしょうか。
☆ そのようになるのでしょうね。

つまり しかしながらヒトは 本能による《身分け》の能力をほぼ失い
その代わりに 《ことば》を獲得したと言います。

キノコに毒があるかは 経験を積んで学習するわけですが 一般に人びと
は ことばを介しての認識によって判断するというわけです。

これを 身分けに対して 《言分け(ことわけ)》と呼んでいました。

言分けとは 一般に文化のことでしょう。文が 言葉なわけだと思います。


見分けと言分け これは――したがって―― 自然と文化という対比にな
るかと思われます。





★ そう思えば、生き物には感覚に理体とも云うべきものがすでに備わっ
ているとみるべきでしょう。
☆ 身分けによる判断のチカラといった《理体》なのでしょう。



★ 生物の進化とともにその理体も種のような存在からだんだんに成長し、
人間と云う生き物になって花が咲いた、と思いたい。
☆ と同時に 《自然》が どれだけのこっているか? といったところ
でしょうか。




今回は ガミガミいう物言いがまったくなくて 申し訳ない。
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この回答へのお礼

「本能とは じつはそれ以外に手段として選択する余地はないという場合の手段であり・・・」

これには成る程と思ってしまいましたね。
全くその通りだと思います。

でも、迷っている姿を見ることもあるので、この“迷い”までも本能と云ってしまうのは、なんとなく《つまらない》かな。

何とか“生物の理性”につなげてみたいです。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/16 17:34

お礼ありがとうございます。


確かに、悟性に対して、感性は下級認識過程とされますが、この上級・下級とは、等級(上級・特級などのランク)では無く、段階を意味していると考えるのが妥当でしょう。
感性は、悟性の前段階にあるものですから、段階としては、悟性に対しては、下級となります。
学校などでは、段階としての上級生・下級生は、生徒のヒエラルキーの中では、ランクとして成り立ちますが、認識過程の中の情報は、感性→悟性→理性→判断となるわけですから、情報自体はその過程で変化するだけです。(情報自体は、その段階的過程において、展開・抽象化され、圧縮されます)
感性が与える情報は、元データというだけで、その後の展開・抽象化された情報に対しては、原初的とは言えますが、ランクをつけてもあまり意味はありません。(抽象・展開されていないので、何かの判断を行うには、不十分とは言えます)
一般用語としての、「感性」(特に芸術分野)は、芸術作品の創作における、美的・感覚的刺激表現の目的付与と言えますから、カントが「純粋理性批判」で論じている、認識過程における「感性」(データ入力特性)とは、違いますし、「感性」そのものが与える情報は、悟性以後の認識過程で、空間・時間展開されなければ、認識すらされないものです。
カントは、芸術全般を論じてはいませんが、「判断力批判」では、美的感覚について論じており、美的感覚は、構想力・悟性が、対象を無関心に感情に結び付ける事により、成立するとしています。
したがって、「理性」のように、ある命題に対して、論理的に一定の判断がなされるものでは無いという事です。(いわゆる、「客観」はそこには、介入できないという事になり、主観の感情によるという事です)
しかし、カントは同時に美は、普遍的な共通感覚を要請するとしています。
カントの結論としては、美はその共通感覚に合致する為に、合目的性を有し、悟性による判断が可能な形態になろうとすると考えました。(考えとしては、この事により、美は道徳と結合すると言う事のようです)
このような「美」は、現代芸術においては、必ずしも求められるものでは無いし、現代芸術においては、美を目的としているわけではありません。(なんらかの、合目的は芸術家がその表現において、追及していますが、カントが言う「美」だけでは無いという事です)
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この回答へのお礼

私の頭では一読ではわからず、だから何度も読み返しました。
そうしたら、なんとなくですが、なるほどと思えるようになるまで読めるようになりました。

特には「美」に関するところです。
美は共通感覚に合致する。合目的を有す。悟性による判断が可能。そして、道徳と結合する。

この、道徳と結合する、と云うところが印象的です。

私は宗教的な「真・善・美」に関心があるので、道徳と美の“結合”に引かれました。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/16 17:21

◆ (A№9) ・・・「感性」そのものが与える情報は、悟性以後の認識


過程で、空間・時間展開されなければ、認識すらされないものです。
☆ ここが カントのアプリオリ説のあやしいところだと見られます。

《時間・空間展開》は 展開ではなくその空間および時間の――言わば初動
における――純粋直観としては 《悟性以後の認識過程》ではなく・つまり 
ふつうに経験行為として成すところの悟性一般による認識過程においてでは
なく そうではなく 感性が対象と向き合ったやはりその初動の時点で は
たらいている。

――と言っていると思われます。なにしろこの純粋直観は アプリオリなハ
タラキなのですから。



そのときのハタラキは――繰り返しになりますが―― 純粋悟性によるもの
であって 感性はかかわっていない。



もしそうだとすると・したがって まさにこのことによって 悟性のほうが 
感性よりも優位にある――言いかえると 感性は 悟性に対して劣等である
――と とどのつまりでは言っていることになりますまいか?


感性は 大きく全体としての認識過程における初動の――第一次の――段階
に置き しかもそのとき 時空間の純粋直観というハタラキ〔や因果関係な
どのカテゴリーなる基礎認識〕にかんしては おまえは お呼びではないよ
と言い渡され そのように規定された。

こういうことではありますまいか?





なお この主題では 美的感覚や芸術の問題にまでは入らないでよいと考え
ますが どうでしょう? 上に疑問を述べたごとく 美学以前で話は 成り
立っていると思われます。
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この回答へのお礼

私には、ブラジュロンヌさんが取り上げたところ、「空間・時間展開されなければ認識すらされない」が分かりませんでした。

ただ、カントの使う感性は入力を悟性に渡すインターフェースであるようなので、ここは「感性」をどう扱うかで議論が分かれるのだろうと、思います。

「感性」に付いても共通の取り扱いが必要だと思いました。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/16 18:02

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