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下記サイトに野田尚史氏の見解がまとめられています。
https://yousei.arc-academy.net/manbow/index.php/ …
彼は両者の差異を5項目に分類しているようですが、目から鱗の部分を感動的に取り上げつつ、蛇足と思われる部分などを批判する形で述べてみたいと思う。
長くなるので、一項目づつ取り上げるつもりです。
まず、今回は、最初の項目である下記記述(※)について。
因みに個人的には、
a.「は」の意義は「主題提示」。
b.「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす」。
です。
辞書には多くの語釈が列挙されていますが、これら a. b. が根本的な意義であることを理解することが重要と考える次第。


(1)新情報か旧情報かによって使い分ける方法。
  会話の中や文脈で、主格となる名詞が未知(=新情報)の場合は「が」を使って表し、既知(=旧情報)の場合は「は」を使って表すという基準である。
 ・鈴木さんは校長です。(「鈴木さん」のことは「既知」なので、「 は」を付けて表す)
 ・鈴木さんが校長です。( 校長が誰であるのか、「未知」なので、「鈴木さん」に「が」を付けて表す)

よく目にする分類ですが、以下の根拠により明らかな誤りではないかと思います。

「は」の意義は「主題提示」なので「鈴木さん(は)」が既知であるのは当然のことと言えます。
ただ、この分類のネックは、「鈴木さん(が)」が未知であるのは、あくまで総記の「が」、すなわち限定・特定の用法の場合に限られる、ということでしょう。
既知の場合でも、

・鈴木さんが大きなあくびをしました。

という表現は可能だ、ということ。
よって、この分類項目は蛇足であると考えますが、みなさんのご見解をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 因みに

    ・鈴木さんが大きなあくびをしました。

    の場合は、いわゆる「中立叙述」。

      補足日時:2019/08/21 17:56
  • #3お礼欄からの続き。

    3.
    >・昔は、日本は、夏は涼しかった。

    すべて既知と思います。
    「昔は」⇒「日本は、夏は涼しかった。」
    「日本は」⇒「夏は涼しかった。」
    「夏は」⇒「涼しかった。」
    のように主題が分担されているかと。
    しかし、言わずもがなですが、主題が増えると焦点がぼやけますから好ましくありません。

    ・昔は、日本の夏は涼しかった。

    とするのが妥当なのでしょう。

    4.
    >いいえ、そうではありません。

    失礼しました。
    総記について書いてしまいましたね。


    ・どうしたの? 何がおかしいの?
    ・鈴木さんが大きなあくびをしたの。
    文全体が新情報で、焦点です。

    質問文でも述べましたが、中立叙述の場合(ガの前の)新情報は適用されないでしょうね。
    中立叙述の場合、後項が新情報になると思います。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/21 21:40

A 回答 (16件中11~16件)

#4 です



早速の応答をありがとうございます。

>>そもそも、そんなこと誰も否定していませんが?

否定以前に、理解されていないということです。
的外れの言いがかりはご勘弁を。

>>別に、それはわかっていますけどね。

「単純な質問にもお答えになれていませんよね?」という疑問にお答えしたのですが。
わかっていたら、

a.「は」の意義は「主題提示」。
b.「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす」。
です。

などと訳のわからないことはいえませんが。

君がいくら探してもそこに【は】ない。
そんなことを言っているので【は】ない!
流れ流れてさすらう旅【は】きょう【は】函館あした【は】釧路

の「は」が「主題提示」ですか。最後の例では、主題が多数ありますが?

>>という内容とどのようにつながるのか、妥当なご説明をいただいていないようです。

説明を聞かなければ分からないというのが、そもそもだめな点で、説明すれが、「別に、それはわかっていますけどね。
」ではどうしようもありませんね。

>>この「本質」とは上記のどの箇所を指していますか?

この対象世界のありかたの認識への反映が「が」と「は」による対象の捉え方の相違です。
これが理解できれば、

a.「は」の意義は「主題提示」。
b.「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす」。

の、「提示」「対象を表わす」が全く誤りであることが明白になると思いますが。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>否定以前に、理解されていないということです。

批判したいなら、具体的な根拠をあげないと、ですよね?
どの箇所を見て、そう思われるのですか?
ひとつでも良いので挙げてみてください。


a.「は」の意義は「主題提示」。
b.「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす」。
です。

などと訳のわからないことはいえませんが。

これが『訳のわからないこと』とはねえ?

2.
>君がいくら探してもそこに【は】ない。
そんなことを言っているので【は】ない!
流れ流れてさすらう旅【は】きょう【は】函館あした【は】釧路

の「は」が「主題提示」ですか。最後の例では、主題が多数ありますが?

すべて主題提示でしょう。
簡単な構図では?
主題が多数あってはいけないと誰が決めたのですか?

3.
>説明を聞かなければ分からないというのが、そもそもだめな点で、説明すれが、「別に、それはわかっていますけどね。
」ではどうしようもありませんね。

なるほど。
これは面白い。(笑)
読解力が乏しいと、結果的にそういう論理に至ってしまいがちなのは、よくわかります。

4.
>この対象世界のありかたの認識への反映が「が」と「は」による対象の捉え方の相違です。

お答えいただきありがとうございます。

a.「は」の意義は「主題提示」。
b.「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす」。

というのは、
『対象世界のありかたの認識への反映』であり、
『が」と「は」による対象の捉え方の相違』ですよね?
「が」が主題提示できるのですか?
ま、しかし、わかりやすくするために、

b”.「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を特定、または指定する」。

としておくほうが良さそうですね。
あなたのいちゃもんも、こういう点では役に立ちます。(笑)

お礼日時:2019/08/22 14:55

なお、大野晋にる新情報/旧情報、既知/未知論の誤りに対する指摘の一例を下記します。



大野の示した民話の例とは逆に、まず「は」が使われその叙述を受けて「が」が使われる例がいくらもある。

新聞のスポーツ欄を見ればすぐわかることだが、野球ばかりでなくラグビーでもゴルフでもこの種の形式で書かれている。「十年目を迎えた日本アイスホッケーリーグ【は】二十六日、東京・品川スケートセンターで開幕。国土計画―古河、西部鉄道―十条製紙の二試合【が】行われた。」(『朝日』一九七五年一〇月二七日)と、二つの文を組合わせてもいる。

 もしこれらの例を十分説得的に説明できないなら、チェイフ=大野の既知未知論は破産の宣告を受けよう。独身の男性に向かって
  きみの嫁さん【は】私【が】見つけてあげるよ。

と友人がいうときに、聞き手にとって自分の「嫁さん」は既知で、「私」は未知だとは、どんな鉄面皮な学者でも主張できまい。/■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>なお、大野晋にる新情報/旧情報、既知/未知論の誤りに対する指摘の一例を下記します。

『既知/未知論』自体には賛同しませんが、お示しになった『指摘』は論理破綻しています。
つまり、まともな批判として成立していない。

>大野の示した民話の例とは逆に、まず「は」が使われその叙述を受けて「が」が使われる例がいくらもある。

旧情報⇒「十年目を迎えた日本アイスホッケーリーグ」
新情報⇒「国土計画―古河、西部鉄道―十条製紙の二試合」
簡単な構図です。
少なくともこんな論理が理由で『破産の宣告』を受けるなどあり得ません。
これほどのとんでも論理で指摘したつもりになっているとは、よほどの鉄面皮ですね。(笑)

>独身の男性に向かって
  きみの嫁さん【は】私【が】見つけてあげるよ。

と友人がいうときに、聞き手にとって自分の「嫁さん」は既知で、「私」は未知だとは、どんな鉄面皮な学者でも主張できまい。/

これも同じ人の指摘ですかね?
まず、繰り返しですが、中立叙述は未知の適用を受けない、ということ。
次に、既知なのは「きみの嫁さん」本人ではない、ということ。
あくまで「嫁さんという立場の人間」ということであり、これは聞き手としての独身男性なら誰でも共有できる既知の事柄です。
「君の嫁さんは美人だね」という既知とはまた違う使いかたですからご理解ください。

お礼日時:2019/08/21 22:00

#2 のお礼について


>>という単純な質問にもお答えになれていませんよね?

言語、文法を云々しようとする人が、この程度の理解もなしに何をっているのかという阿保らしさが先に立つということです。
他の質問でも文法に詳しいと自称する人から同様の質問がありましたので、下記します。

語とは、一概念を表わすものです。この語の(音声/文字としての)形と意義の社会的な約束(規範)が辞書で説明されています。
辞書で説明してあるとか、多くの人が切り離して扱うとかは、必ずしも単語の基準にはなりません。
先に、「付属語、自立語という誤り」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11225788.html
で提起した通りです。

単語であるか否かは話者の認識を無視しては決め得ないもので、白墨、黒板が白い墨や、黒い板ではなく、赤の白墨やグリーンの黒板があるように、これらは、話者により一概念の単語と見做されています。朱墨が赤い墨とされていることは、これが複合語であることを示しています。

このように、単に形式から単語か否かを決めることはできず、「ので」を一語としての接続詞とする誤りを生みます。「が、しかし~」というように、付属語「が」は一語と認識されています。

認識を扱うことのできない現在のソシュールパラダイム下の言語論、文法論が形態素などという形式のみを問題にし、単語とは何かを規定できず、<「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう>などという世迷言を唱えることになります。

なお、概念とは対象の普遍性、一般性を抽象した超感性的な認識です。これは、対象の在り方にも影響され、日本語では温泉が身近で「湯」という概念が、英語では「hot water」と2概念とされるように、環境にも影響されます。

そして、言語(パロール)は話者の個別認識の表現であり、対象→認識→表現という過程的構造をもち、この過程において一切の語を形式や機能ではなく分類すると主体的表現の語と客体的表現の語に二分されるといことです。

「付属語、自立語という誤り」で指摘したように「が」「の」は一語であり、「は」も又一語であり、これらの語の概念である意義を明らかにしなければならないということです。

このように見てくれば、「が」は個別性の認識を表し、「は」には特殊性の認識を表わす副助詞と普遍性の認識を表わす係助詞があることになります。

対象世界の個が普遍と特殊の統一であることは、中世の普遍論争から独逸観念論の最高峰であるヘーゲルの概念論に至って明らかにされた個物の在り方で、それを唯物論的に対象世界そのものの性質として捉え直したのが、マルクス/エンゲルスによる唯物弁証法です。

この対象世界のありかたの認識への反映が「が」と「は」による対象の捉え方の相違です。

特殊と普遍は階層的な構造をなしており、ペン、筆記用具、文房具という概念は階層を異にした特殊性でもあり、普遍性でもあります。

したがって、話者がどの側面を捉えたかにより「は」が使い分けられ、表現されます。

と、ここまで説明してもすぐには理解は不可能とはおもいますが、この本質を避け、形式と機能に依る分類を繰り返しても「当たるも八卦、当たららぬも八卦」というこれまでの理解を延々と繰り返すしかないということです。

安易な機能への逃避ではなく、本質を理解するよう勉学に励んで下さい。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>そして、言語(パロール)は話者の個別認識の表現であり、対象→認識→表現という過程的構造をもち、この過程において一切の語を形式や機能ではなく分類すると主体的表現の語と客体的表現の語に二分されるといことです。

そもそも、そんなこと誰も否定していませんが?
的外れの言いがかりはご勘弁を。

>このように見てくれば、「が」は個別性の認識を表し、「は」には特殊性の認識を表わす副助詞と普遍性の認識を表わす係助詞があることになります。
~~~。
この対象世界のありかたの認識への反映が「が」と「は」による対象の捉え方の相違です。

別に、それはわかっていますけどね。
しかし、こうした内容が、この2文の間にある、

対象世界の個が普遍と特殊の統一であることは、中世の普遍論争から独逸観念論の最高峰であるヘーゲルの概念論に至って明らかにされた個物の在り方で、それを唯物論的に対象世界そのものの性質として捉え直したのが、マルクス/エンゲルスによる唯物弁証法です。

という内容とどのようにつながるのか、妥当なご説明をいただいていないようです。

>と、ここまで説明してもすぐには理解は不可能とはおもいますが、この本質を避け、形式と機能に依る分類を繰り返しても

とのことですが、この「本質」とは上記のどの箇所を指していますか?

お礼日時:2019/08/21 22:25

> 「たくさんある使い分けの方法の一つ」なのでよろしくないと思うのですが。


> そうじゃない場合があるなら、「ハ・ガ」の使い分け基準としては問題があるのではないかな、と思う次第。

すべての主題が「既知」であり、旧情報であるならばそうでしょう。
ただ、すべての主題が「既知」「旧情報」とは限らず、「既知」「旧情報」ならすべて主題化と言えばそうでもない。
両方必要だ、ということにはなりませんか?



> たとえば「学生」という身分は、話者・聞き手にとって共通の認識であり、その意味で「既知」かと思います。

それをいいだすと、ほとんどすべての概念は「既知」で「旧情報」になってしまいますよ。
・あの件はどうなった?
の「あの件」と、
・若者には未来があります。
の「若者」を同列に扱うのは無理がありませんか?
つまり、談話で既出だということと、常識として(百科知識として)知っていることを同じに扱っていいんですか?



>>・今日は、東京では、大雪が降るでしょう。
> これは、どちらも既知と思います。

失礼、言葉を間違ってしまいました。
どちらも「既知」でどちらも主題ですか?
二重主題ですか?
何なら三重主題にしましょうか?
・昔は、日本は、夏は涼しかった。



>>鈴木さんが大きなあくびをしました。
>この場合、焦点は「大きなあくびをしました。」ではないかと思うのですが。
>その動作の主体(主格)が新情報である「鈴木さん」という構図かと。

いいえ、そうではありません。
こういう会話を考えてください。
・どうしたの? 何がおかしいの?
・鈴木さんが大きなあくびをしたの。

文全体が新情報で、焦点です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>ただ、すべての主題が「既知」「旧情報」とは限らず、「既知」「旧情報」ならすべて主題化と言えばそうでもない。

既知・未知の解釈について、たとえば三浦あたりもそうなのですが、勘違いがあると思うのです。彼は、

・君の嫁さんは私がさがしてあげるよ。

という文を挙げ、それぞれ既知(君の嫁さん)じゃないし未知(私)じゃないだろう、という批判を展開している。(「日本語はどういう言語か」188ページ)
しかし、この場合、『「嫁さん」という身分』なので、むしろ既知じゃないとおかしいでしょう。
また、ここの「私」は中立叙述ですから未知である必要はないわけです。
仮に総記の意味で使っているなら、
嫁さんを探してくれるのは叔父さんだろうか叔母さんだろうか?誰だろう?わからないなあ・・・などと懸念しているかもしれないが、何を隠そう、この私がさがしてあげる、という意味で「未知」と解釈することもできる。
しかし、「が」が「主体の特定」で使われているのは確かですから、未知かどうかと(学習者を)悩ませる必要はないと思うわけです。

また、
・吾輩は猫である
で、「吾輩」は(冒頭に出てくるのだから)既知であるはずがないだろう、といった批判もしている。
しかし、作者はもちろんですが、小説を読む立場の読者としても、当然主人公というものをあらかじめ想定しているわけです。
つまり、「吾輩」は主人公であるという共通の認識が成立している点で「既知」と言えるのではないですかね。
こうした批判を真に受けてしまうと、
・私の父は今年定年を迎える。
といった表現に対しても、
あなたのお父さんを私は知らないから、「父は」と既知表現するのはおかしいよ、てないちゃもんが有効になってしまいません?

2.

・あの件はどうなった?
の「あの件」と、
・若者には未来があります。
の「若者」を同列に扱うのは無理がありませんか?
つまり、談話で既出だということと、常識として(百科知識として)知っていることを同じに扱っていいんですか?

前者は特殊性として、後者は普遍性として、既知という認識が共有されていると思うのですけどね。
「ホテマニラン人」は既知にはなりませんし、事情を共有していない相手に
・あの件はどうなった?
とは言えないかと。

出前が届いたので、のこりはまた後程。(笑)

お礼日時:2019/08/21 19:52

野田尚史『「は」と「が」 (新日本語文法選書 (1))』の誤りについては、下記amazon カスタマーレビュー


https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R7L …
を参照下さい。

ここで論じたように、 5項目の分類自体が現象/機能による分類でしかなく、本質的に誤っています。

詳しくは、mxi言語学コミュの<「は」と「が」の本質>
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=8814 …

以下、<「は」と「が」:新情報/旧情報説批判><「は」と「が」:現象文と判断文の原理批判><「は」と「が」:対比と排他の原理批判><「は」と「が」:措定と指定の原理批判>

を論じていますので参照下さい。

また、<「東京は浅草にやってまいりました」の〈ハ〉 2: 主題とは何か>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11257473.html

で、「主題」という無定義用語について提起しており、これらの根本的な点を明確にしない限り現象論/機能論を繰り返し、感覚的な議論となる他はありません。

質問者は、<「が」と「は」の違いについてーその1>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11250574.html

で、当方の助詞「が」「は」「に」「へ」の説明に対し、

>>『「が」「は」「に」「へ」という形に結びついている概念』とおっしゃいますが、
『「が」「は」「に」「へ」』は何なんですか?
「語」じゃないんですか?
この辺の、基本的な定義を明確にして回答、投稿して下さい。/

と、語とは何か、概念とは何か、助詞/助動詞とは何かの基本的な理解がないまま、感覚的な理解による質問を繰り返すばかりで、議論の進展がありません。

まず、助詞/助動詞とは主体的表現の語であることを正しく理解し、語は意義を表わすものであり、

a.「は」の意義は「主題提示」。
b.「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす」。

などと提示したり、対象を表わすものではないことを理解しなければ、論議になりません。

「主体的表現」の語

話者による客体の認識により生まれた【判断、意志、感情等を客体化することなく直接表現した主体的表現の語】で、話者に対する客体を概念化したり、話者の主観に生まれた判断、意志、感情等を客体化して概念化した客体的表現の語と区別される。

この本質的な理解がないため、山田孝雄、時枝誠記による提起以降、70年近く何の進展もなく、現象論/機能論を繰り返している事実に目覚めるべきです。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>参照下さい。

は極力少な目にお願いできれば。(笑)
簡潔に説明していただけると有難い。

2.
>語とは何か、概念とは何か、助詞/助動詞とは何かの基本的な理解がないまま、感覚的な理解による質問を繰り返すばかりで、議論の進展がありません。

議論が進まないのは、極めて単純な質問に対してもアスナロウさんが逃げるからですよ。
経緯をご存知の方なら、どなたでも知っていることです。
お答えになれない理由があるのでしょうが、言うに事欠いて他人のせいにするとは天をも恐れぬ不届きなふるまい、言語同断と言わざるを得ません。(笑)

現に、

>『「が」「は」「に」「へ」という形に結びついている概念』とおっしゃいますが、
『「が」「は」「に」「へ」』は何なんですか?
「語」じゃないんですか?

という単純な質問にもお答えになれていませんよね?

3.
>まず、助詞/助動詞とは主体的表現の語であることを正しく理解し、語は意義を表わすものであり、

a.「は」の意義は「主題提示」。
b.「が」の意義は「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす」。

などと提示したり、対象を表わすものではないことを理解しなければ、論議になりません。

『語は意義を表わすものであり、』とおっしゃっておきながら、『「は」の意義は「主題提示」』という文言を否定する。
どんな論理ですか?
再三の無茶苦茶な論理に、みなさん呆れておられることでしょう。
『「は」の意義は「主題提示」』という文における「提示」とは「表わす」という意味であることが理解できない?

>【判断、意志、感情等を客体化することなく直接表現した主体的表現の語】

「は」は、「主題提示」するという意志を客体化することなく直接表現した主体的表現の語。
じゃないんですか?

4.
>この本質的な理解がないため、山田孝雄、時枝誠記による提起以降、70年近く何の進展もなく、現象論/機能論を繰り返している事実に目覚めるべきです

『本質的な理解がない』とおっしゃる根拠が、論理的に示されていないばかりか、無茶苦茶な論理を振り回していますね。
その事実に目覚めるべきです。

お礼日時:2019/08/21 19:15

よく分からないのですが、


(1)新情報か旧情報かによって使い分ける方法。
というのは蛇足であり、不要である、ということでしょうか?

たくさんある使い分けの方法の一つ、としては不要である、ということでしょうか?

まあ、それでもどこが蛇足で、なぜ不要なのか、よく分からないのですが。



>「は」の意義は「主題提示」なので「鈴木さん(は)」が既知であるのは当然

そうとも言えません。
何をもって「既知」とするか、旧情報とするか、というのは談話文法の肝ですがね。
たとえば、
・ホテマニラン人は勤勉である。
・学生は勉強が本分である。
・来年はいい年になるといいですね。
・東京は神田にやって参りました。
・ん、この臭いはガスが漏れてるね。
・今日は、東京では、大雪が降るでしょう。

すべて「既知」ですか?
すでに話題になっているわけではありません。
談話の冒頭で可能な文ばかりです。
すでに知っているということですか?
でも、ホテマニラン人なんてご存じですか? 私は知りません。
それに、最後の文では「は」が二回も出てきますが、これはどうしましょう?



>鈴木さんが大きなあくびをしました。

述語が individual-level なら総記です。
述語が stage-level なら「ガ」は中立叙述です。
「ガ」が中立叙述の場合、焦点は文全体です。
いうなれば、「鈴木さんが大きなあくびをしました。」全体が新情報であり、焦点となります。



要は、
(1)新情報か旧情報かによって使い分ける方法。
というのは、たくさんある使い分けの方法の一つで、これだけではない、ということでよろしいのではありませんか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>(1)新情報か旧情報かによって使い分ける方法。
というのは蛇足であり、不要である、ということでしょうか?

そのとおりです。

2.
>要は、
(1)新情報か旧情報かによって使い分ける方法。
というのは、たくさんある使い分けの方法の一つで、これだけではない、ということでよろしいのではありませんか?

「たくさんある使い分けの方法の一つ」なのでよろしくないと思うのですが。
そうじゃない場合があるなら、「ハ・ガ」の使い分け基準としては問題があるのではないかな、と思う次第。

3.
>たとえば、
・ホテマニラン人は勤勉である。
・学生は勉強が本分である。
・来年はいい年になるといいですね。
・東京は神田にやって参りました。
・ん、この臭いはガスが漏れてるね。
・今日は、東京では、大雪が降るでしょう。

すべて「既知」ですか?

最初を除いてすべて既知と捉えています。
たとえば「学生」という身分は、話者・聞き手にとって共通の認識であり、その意味で「既知」かと思います。

・ホテマニラン人は勤勉である。

と言う場合は、
「ホテマニラン人って何?」という応答で会話が中断するはず。
主題提示として不適切であった、ということになるかと。

・今日は、東京では、大雪が降るでしょう。

これは、どちらも既知と思います。

4.
>鈴木さんが大きなあくびをしました。
⇒「ガ」が中立叙述の場合、焦点は文全体です。
いうなれば、「鈴木さんが大きなあくびをしました。」全体が新情報であり、焦点となります。

この場合、焦点は「大きなあくびをしました。」ではないかと思うのですが。
その動作の主体(主格)が新情報である「鈴木さん」という構図かと。

お礼日時:2019/08/21 18:58

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