プロが教えるわが家の防犯対策術!

下記の続きです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11254188.html

当方は、No.7,9で論理的、科学的な回答を示しています。

他の回答に、

「主題のハ」
「主題提示」

という回答があります。この回答が意味を持つためには【主題】とは何かが明確になっている必要があります。
回答者は一体、どのような定義に基づき使用しているのでしょうか。

そもそも、ある、語、句が主語や主題であると判るのはその文が表現された結果に過ぎす、話者がそれを意識して発言しているとは考えられません。

その証拠に、小学生や中学生、いや大学生や大人に聞いても、主語や主題とは何かと明確に答えられる人はいません。

それは、現在の文法学者にも答えられない問題です。

是非、「主題」とは何かを教えていただきたい。

そうでないと、「主題提示」という回答は無意味か、同語反復に過ぎません。■

質問者からの補足コメント

  • しかし、これを安易に捉えるとNo.5に見られるような、頓珍漢な解釈になるので注意が必要です。

    従って、ご指摘の通り、

    月【は】地球の衛星である。

    は「普遍的法則の表現」ですが、これを他と比較対照させて、
      
     13 月は地球の衛星であり、地球は太陽の惑星である。

    とすれば、特殊性の認識の表現です。

    これは、話者の認識が異なります。■

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/21 12:17
  • >>「南極は寒い。」も、場合によって、「普遍性の認識」だったり、「特殊性の認識」だったりするのでしょうか。

    当然、「北極に比べ南極は寒い」という認識の表現であれば「特殊性の認識」の表現になります。

    「南極は寒い。」という形式の問題ではなく、その形式に結びついた話者の認識を捉えなければならないということです、

    【言語は話者の認識の表現であり、形式と内容の統一として存在している】という、この事実をまず理解しないと、当方の言っていること、言語表現の真実は理解できません。■

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/23 10:36
  • 客観的対象の持つ「普遍:特殊:個別」という構造を明らかにしたのがヘーゲルであり、話者がこのどの側面を捉え表現しているかということです。

    名詞「雨」は雨一般を抽象した概念であり、この概念を媒介として話者の個別の概念認識を表現したのが文です。

    この媒介の構造が理解できていないため、「まだ降っている」雨が、先に「雨が降ってきた」と認識した特殊な雨の認識であることが理解できなくなります。

    >>15と16で、「雨」に違いがありますか?

    上記のように、雨という抽象概念の相違ではなく、話者が個別に認識した対象の雨の捉え方の相違が「は」と「が」の相違として表現されています。

    この語の意義は規範としての意義で、本来は辞書に正しく記されるべきものですが、現在の欠陥文法論のレベルでは望むべくもないということです。

    これを、「なんかご都合主義ですねえ。」というのには、笑わせられます。■

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/27 12:57
  • こちらの方が判り易いかもしれません。

    「言語の過程的構造と自然言語処理」
    http://www.kcn-kyoto.jp/~sat/data/publications/1 …

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/27 23:05
  • へこむわー

    なお、個別/特殊/普遍について分かり易い解説を引用しておきましたので、

    <「が」と「は」の違いについてーその8 番外編>
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11275874.html?pg=1& …

    のNo.13を参照下さい。

    この程度のことも全く、理解されていないようですね。■

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/04 21:01
  • 訂正

    格助詞「は」、係助詞/副助詞「は」は主体的表現の語で、 ⇒ 
    格助詞【「が」】、係助詞/副助詞「は」は主体的表現の語で、

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/13 16:03

A 回答 (27件中1~10件)

お答えありがとうございます。



常に、具体的な議論は避けて、大きな、内容のない話ばかりするのですね。
私が「ヘーゲル」の部分を引用したのは、下の「判断」が三浦の「認識」とどうつながるのか、つながらないのかを聞きたかったのですがねえ。

       バラは赤い。(個別性の判断)
       人間なるものは死すべきものである。(特殊性の判断)
       バラは植物である。(特殊性の判断)
       もし太陽がのぼれば、昼である。(特殊性の判断)
       この家は悪い。(普遍性の判断)
       家がこれらの性状を有するなら、良い。(普遍性の判断)

「判断」が「認識」になると、いろいろ違うようですね。その辺のところを解説していただきたく。
参照先には、何も書いてありませんでしたよね?

例えば、「バラは赤い」は「個別性の判断」ですが、「個別性の認識」ではない。「特殊性の認識」?
「バラは植物である」は「特殊性の判断」ですが、「普遍性の認識」?
「この家は悪い」は「普遍性の判断」ですが、これも「特殊性の認識」?

という辺りが、哲学に弱い人間にはわからないもので。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

適切な質問をありがとうございます。

>「判断」が「認識」になると、いろいろ違うようですね。

すいません、引用を見ていただければ判ると思っていたのですが、次の通りです。

判断

 概念はこのように事物のさまざまな普遍性を反映するものとして、多くの場合バラバラに切りはなされたかたちでつくり出される。それゆえわれわれはそれぞれの場合に、対象とする事物の平面的な立体的な構造に対応させて、認識の側からバラバラの概念を相互にむすびつけ構造づけていかなければならない。これは概念を使うことであり、概念をつくり出すこととは相対的に区別される異った精神活動であって、この能動的な構造づけを判断とよんでいる。与えられる事物のさまざまな構造に対応して、判断もさまざまなかたちをとることとなり、事物についての認識が深化するのに伴って、判断もまた高度なものに発展していくのである。

認識

 人間の認識は社会的なものである。これは何も、認識が個々の人間の頭の中に成立することを否定しはしない。たしかに認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえるところにはじまるのである。認識は現実の世界の映像であり模写であって、たとえどのような加工が行われたとしてもその本質を失うことはないし、脳のはたらきとして個々の人間の頭の中にしか存在しない。それにもかかわらず認識を社会的なものと理解しなければならぬのは、個々の人間の認識が交通関係に入り込むからである。人間はその物質的生活において、交通関係をむすんでいる。他の人間の労働の対象化されたものが、場所を移動して自分のところへやってくるし、自己の労働の対象化されたものも同じように他の人間のところへ届けられている。そしてこれらを使用したり消費したりして生活を生産している。そしてこの生活を生産するためには、精神的にもやはり交通関係をむすんで、他の人間の認識を自己の認識に受けとめたり自己の認識を他の人間に伝えたりしなければならない。/

格助詞「は」、係助詞/副助詞「は」は主体的表現の語で、「が」は対象の個別性の認識の表現であり、「は」は対象の特殊性/普遍性の認識の表現であるということです。

概念については、先の引用でご理解いただけたのではと考えますが。

言語は話者の個別の概念認識の表現です。■

お礼日時:2019/09/13 16:00

あいかわらず、何の情報もないお返事をありがとうございます。



   ヘーゲルの話は、三浦の3分類とはつながらないし

      A 定有の判断(個別性の判断)
       a 肯定判断――バラは赤い。

      B 反省の判断(特殊性の判断)
       a 単称判断――この人間は死すべきものである。
       b 特称判断――若干の人間は死すべきものである。
       c 全称判断――人間なるものは死すべきものである。

      C 必然性の判断(特殊性の判断)
       a 定言判断――バラは植物である。
       b 仮言判断――もし太陽がのぼれば、昼である。
       c 選言判断――肺魚は魚であるか、又は両棲動物である。

      D 概念の判断(普遍性の判断)
       a 実然判断――この家は悪い。
       b 蓋然判断――家がこれらの性状を有するなら、良い。
       c 必然判断――これこれの性状の家は、良い。

これらの「は」と「が」の使われ方と、三浦の3つの「認識」での説明とはどうつながるんでしょうねえ。

哲学を持ち出せば文法の議論をごまかせるというのは、浅はかな考えです。

saburoo
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この回答へのお礼

そうですか。
その後に、熱学の発展の具体例が記されていますが、理解できましたか?

人類の認識、判断の発展の過程、構造が説かれ、唯物論の立場から概念と判断の構造が説かれていますが理解できましたか?

こうした理解なしに、文法の議論をごまかせるというのは、浅はかな考えです。

語とは、何か、文とは何か、意味とは何かに答えることができず、

(私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。「語」とは何か、というもっと大きな範囲の問題になります。

などとピン呆けの回答では、とても文法とは何かは理解不能ですね。
それに、反省もなく、無視ではね~。

ましてや、意味とは何かは言うまでもありませんね。■

お礼日時:2019/09/06 22:18

お答えありがとうございます。



新しい情報があるのかと思って、期待して参照先を読んだのですが、何も新しいことはありませんでしたね。

ヘーゲルの話は、三浦の3分類とはつながらないし、エンゲルスの話も関係ない。
その後の「個別概念:類概念」の話(万年筆)は、意味論の本の最初に「概念」の説明で出てくる話で、何も新しいところはない。昔から言われていることです。

これを読んでも、どうして「ハとガ」にあの3つの「認識」を当てはめたかは、まったく不明ですね。まあ、適当な引き当てに過ぎないのでしょう。

ヘーゲルやエンゲルスを出すと、みんな騙されちゃうんですかね。
関係ないんですよね、日本語の「ハとガ」をどう説明するかには。

もうちょっと、議論の深まりを期待したのだけれど。

   なぜ「が」か → 「個別性の認識」だから
   なぜ「個別性の認識」とわかるか → 話者が「が」を使ったから

この循環論法から一歩でも抜け出した説明がどこかにあったら、教えてください。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>関係ないんですよね、日本語の「ハとガ」をどう説明するかには。

としか認識できないのがソシュールパラダイム下の限界です。
カント哲学の不可知論に止まって、その後のヘーゲル、マルクス/エンゲルスによる批判を無視し、科学的な言語論、文法論が築けると夢想するのでは、停滞、さらに後退となるしかないのは論理的必然です。

>この循環論法から一歩でも抜け出した説明がどこかにあったら、教えてください。

他所に求めてもありません。
提示した内容を正しく理解して下さい。
夢想をぬけだし、現実に対面しましょう。■

お礼日時:2019/09/05 23:06

お答え有難うございます。



    しかし、何も「理解」できていませんね。

はい、なにも「説明」されていませんから。「ない」ものを理解することはできません。

     >「が:個別性の認識」「は:特殊性の認識」いつもそれだけですね。
    いいえ。「は」には普遍性の認識を表わす場合もある多義の語です。

あはは。「普遍性の認識」は何度も聞いたので知っています。

「が」と「は」に対する説明が、「「が:個別性の認識」「は:特殊性の認識」」というだけで、それ以上の詳しい説明が何もない、まったくない、ということを言っているのです。文脈を読みましょう。

     >最後の文が、「(降り続いていた)雨」に対する「特殊性の認識」にならないのは
      なぜでしょう
    雨【が】」と、話者は「雨」を個別の対象として認識しているからです。

この応答に、「認識」説の内容のなさが端的に表れていますね。

    定義:「が」は、「個別性の認識」を表す

    質問:最後の文(「雨がやっと止んだ」)が、「特殊性の認識」にならないのはなぜか

    答え:話者が「が」を使っている、つまり「雨」を個別の対象として認識しているから

この答えは上の定義をくり返しているだけですね。何の答えにもなっていない。

聞きたいことは、なぜ、同じ文脈で、話者は「は」を使ったり、「が」を使ったりするのか。その使い分けはどういう理由によるのか、ということなのですが、それに対する答えは、
    「が」が使ってあるから個別性の認識(を話者は持ったのだろう)
というだけですね。
    
     17 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨[が]まだ降り続いている。
       (もう少し後で) 雨[は]まだ降り続いている。

なぜ、この2つの文で「話者の認識」が異なるのか。
「降り続いている」同じ雨に対して、なぜ話者は、ある時は「個別性の認識」を持ち、ある時は「特殊性の認識」を持つのか。
このことを繰り返し問うているのですが、一歩も、半歩も、答えは前に進みません。
「唯物弁証法」ではなくて、質問者自身のことばでは、何も言えない。それ以上の説明を質問者自身が持っていないからですね。

また、なぜ「話者の認識」がわかる(つもりでいる)のか。

     話者による対象の捉え方の相違です。
     話者の認識を捉えることができずに、~

     「雨【が】」と、話者は「雨」を個別の対象として認識しているからです

話者の認識を「捉えることができ」るのではなく、「が」があるから、そう認識した、とする。
「が」が使ってあるから個別性、というのは、初めにそう定義したのだから、何の説明にもならない。
「認識の違い」による「説明」は、結局、単純な、単なる循環論法に過ぎないことが、質問者には永久にわからないのですね。

     これで判らないようであれば

これでわかる人はいないでしょう。だまされる人はいるかもしれませんが。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

しかし、何も「理解」できていませんね。

>聞きたいことは、なぜ、同じ文脈で、話者は「は」を使ったり、「が」を使ったりするのか。その使い分けはどういう理由によるのか、ということなのですが、

>2番目の文で、「が」なのは、「個別性の認識」。3番目で「は」なのは「特殊性の認識。
その違いは何なのでしょうか。

分からん人ですね~。
話者による対象の捉え方の相違ということです。

<「が」と「は」の違いについてーその8 番外編>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11275874.html

のNo.13で、個別/特殊/普遍について分かり易い解説を提示していますので、理解できるまで読み込んで下さい。特に後半を。
三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』 p.90 「概念と判断の立体的な構造」からの引用なので、そちらをじっくり読み込み理解されのが本筋かと思います。

>初めにそう定義したのだから、何の説明にもならない。

語は意義を持っています。
<(私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。>
という寝惚けたことを言っている限り、ここで指摘していることは理解できません。

定義ではなく、規範としての【語】の意義です。
規範論を持たない、三上章の説を持ちだすような呆けぶりではどうしようもありません。

話者の認識を捉えることができずに、表現と対象を直結して理解するしかない、言語実体観の発想では理解できません。

「これで判らないようであれば、特殊ー個別の関係という対象の在り方とその認識という唯物弁証法の反映論の立場をしっかり理解して下さい。」

と先に指摘した通りです。聞いて直ぐ理解できるとは思いませんが。パラダイム転換という世界認識の転換で、容易には抜け出せないということです。コペルニクス的転換からニュートンの力学の誕生、古典力学の成立という科学史の事実の理解が参考になると思います。(山本義隆『重力と力学的世界―古典としての古典力学』他)

その殆どすべてが生成変形文法の思想的流れの上に考えられていることが分る。~従来の研究で金科玉条ともされているこの考えにこそ【大きな誤り】があり、それが【言語研究発展の障害】の1つとなっている

この意味が理解できますか、しっかりして下さい。■

お礼日時:2019/09/05 10:22

「お答え」をありがとうございます。



しかし、何も「答え」ていませんね。

    15 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。
    16 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨はまだ降り続いている。

    15は、単に雨がまだ降り続いているという事実の表現です。

    16は、時間は経ったが、「(降り始めた)雨はまだ降り続いている。」
    という雨の特殊性の認識の表現です。

あれ? 15は「個別性の認識」ではなかったのですか?
「降り続いている雨に対する個別性の認識の表現」ですか?
「が:個別性の認識」「は:特殊性の認識」いつもそれだけですね。
文法的な特徴はなにも明らかになっていないのに。

    17 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。
      (もう少し後で) まだ雨は降り続いている。

2番目の文で、「が」なのは、「個別性の認識」。3番目で「は」なのは「特殊性の認識。
その違いは何なのでしょうか。

    18 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。
      (もう少し後で) まだ雨は降り続いている。
      (さらに後で) やっと雨が止んだ。

最後の文が、「(降り続いていた)雨」に対する「特殊性の認識」にならないのはなぜでしょうか。いやもちろん、「雨は」にしてもいいんですけどね、その違いは何なのでしょうか。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

質問をありがとうございます。

しかし、何も「理解」できていませんね。
ソシュールパラダイムに囚われた、言語実体観の発想の限界です。

>降り続いている雨に対する個別性の認識の表現」ですか?

そうです。眼前の雨を個別性として捉えています。

>「が:個別性の認識」「は:特殊性の認識」いつもそれだけですね。

いいえ。「は」には普遍性の認識を表わす場合もある多義の語です。

>文法的な特徴はなにも明らかになっていないのに。

「は」「が」の意義が文法的な特徴でなくて何なのですか。
文法とは何かが全く理解されていませんね。
「文法に関してはこちらのほうがいろいろ知っていますから。」とは笑わせます。
単なる、素人の床屋政談ですね。

>2番目の文で、「が」なのは、「個別性の認識」。3番目で「は」なのは「特殊性の認識。
その違いは何なのでしょうか。

2番目/3番目というのが良くわかりませんが、違いは話者による対象の捉え方です。

>最後の文が、「(降り続いていた)雨」に対する「特殊性の認識」にならないのはなぜでしょう

「雨【が】」と、話者は「雨」を個別の対象として認識しているからです。

>いやもちろん、「雨は」にしてもいいんですけどね、その違いは何なのでしょうか。

話者による対象の捉え方の相違です。
話者の認識を捉えることができずに、表現と対象を直結して理解するしかない、言語実体観の発想では理解できませんね。

「これで判らないようであれば、特殊ー個別の関係という対象の在り方とその認識という唯物弁証法の反映論の立場をしっかり理解して下さい。」

と先に指摘しましたが、全く理解できないようですね。聞いて直ぐ理解できるとは思えませんが。パラダイム転換という世界認識の転換であり容易には抜け出せないということです。コペルニクス的転換からニュートンの力学の誕生、古典力学の成立という科学史の事実の理解が参考になると思います。(山本義隆『重力と力学的世界―古典としての古典力学』他)

<その殆どすべてが生成変形文法の思想的流れの上に考えられていることが分る。~従来の研究で金科玉条ともされているこの考えにこそ【大きな誤り】があり、それが【言語研究発展の障害】の1つとなっている>

この意味が理解できますか?

パラダイムについてはトマス・クーン『科学革命の構造』を参照下さい。■

お礼日時:2019/09/03 09:05

お答え有難うございます。

相変わらず、具体的な部分にはまったく答えないのですね。

最初の例を説明すれば十分ご理解いただけると考えたのですが、当方の過信のようです。

最初の例の説明、ってどこですか。できれば、もう一度書いていただきたい。

単純なことです。次の2つの例文の違いを説明していただきたい。

    15 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。
    16 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨はまだ降り続いている。

「が」は個別性の認識、「は」は特殊性の認識、という、それだけではなんの説明にもなっていないのはお断りです。
話者の認識をどう追体験したら、個別性の認識とわかるのか、同じように特殊性の認識と言えるのか、そこのところについて、一度でも説得力を持つ説明をしましたか??

「思想的背景」なんて要りません。「主張の正当性」はきちんと内容のある主張をしてからにしてください。いつもいつも、「中身」がないのですよ。

「事実」ということばの意味も、私と質問者では大きく違うようです。まだ、なんの言語的事実も、文法的事実も説明されていません。

今明らかになっている事実は、質問者が具体的な答えをせず、逃げ回っているという客観的な事実だけです。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答を有難うございます。

>質問者が具体的な答えをせず、逃げ回っているという客観的な事実だけです。

自分の理解力のなさを棚に挙げ、一丁前の口をきくのは拾年、弐拾年早いという感じです。

15 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。
16 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨はまだ降り続いている。

15は、単に雨がまだ降り続いているという事実の表現です。

16は、時間は経ったが、「(降り始めた)雨はまだ降り続いている。」という雨の特殊性の認識の表現です。

これで判らないようであれば、特殊ー個別の関係という対象の在り方とその認識という唯物弁証法の反映論の立場をしっかり理解して下さい。

先の、「自然言語処理研究の考え方」が、

言語が人間の精神的産物であっても、人間の精神は外界の反映として成立すること、またそれを研究する人にとっては、広い意味で自然の一部として存在する事を考えれば、科学の立場から言語のあり方を追求することの重要性が分る。従来の計算機言語学の研究が本当に科学的方法論に立脚して進められているか否か、自然科学の方法論に立ち戻って考える事が必要である。/

述べている内容です。■

お礼日時:2019/08/29 21:23

お答え(?)ありがとうございます。



ちょっとびっくりしました。全面丸投げですか。

ついに回答放棄。白旗宣言ですね。

そうですよね。

    15 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。
    16 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨はまだ降り続いている。

この2つの文の違いは、「個別性の認識:特殊性の認識」の論では説明できませんものね。

    当方の説明が分かりにくいようですので

え? どこかに「説明」がありましたか??
「わかりにくい」のではなくて、「ないものはわかりようがない」のですよ。

    話者が個別に認識した対象の雨の捉え方の相違

なるものは、結局説明されませんでしたね。

15、16の文は、そしてそれと似たような文は、ごく普通に使われる文で、それが説明できないような「論」は論としての価値がないでしょう。

お・わ・り、ですね。

なお、池原悟の文章を見てみましたが、「認識」の話のところは、特に新しい情報は得られませんでした。池原は自然言語処理では業績のある人でしょうが、こういう話では(当たり前のことですが)シロウトにすぎませんね。勉強したことをそのまま書いているだけです。

もう一つの3人による文章も、これからこういう方向で研究しよう、という宣言、あるいは設計図であって、つまりは絵に描いた餅ですね。
最後に書いてあるように、これから「本稿で示した考えに基づく、 新しい日本語文法の構築」をしよう、したい、ということで。

これは1992年に発表されたものですね。それから30年近く、どういう日本語文法ができているのでしょうか。発表してほしいと思います。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>結局説明されませんでしたね。

いいえ。
最初の例を説明すれば十分ご理解いただけると考えたのですが、当方の過信のようです。

>つまりは絵に描いた餅

その後、池原 悟『非線形言語モデルによる自然言語処理―基礎と応用』(岩波書店;2009/6/25)、宮崎 正弘 (著), 白井 諭 (著), 衛藤 純司 (著), 佐良木 昌 (編集)『自然言語処理への展開 (言語過程説の探求 第三巻)』(明石書店(2017/9/15)他が刊行されていますので、興味がありましたら是非参照下さい。

詳細な内容が展開されています。

言語過程説としてソシュールパラダイムを転換した文法論が展開されており、それを指摘していますが理解能力がないようですね。

しかしまあ、相変わらずの逃げの一手ですね。ほとんど「芸」の域に達していますね。

自分のまちがいを認めるのは嫌ですか? 

当方の主張の正統性と、思想的背景が纏められており、紹介させていただきましたが、とても理解は無理のようですね。

しかし、事実は頑固です。■

お礼日時:2019/08/28 23:45

早速のお答え有難うございます。



しかしまあ、相変わらずの逃げの一手ですね。ほとんど「芸」の域に達していますね。

こちらの質問の中心でない所にあえてかかずらい、長々と関係のないことを記し、「お礼」の欄を埋めたあとで、こちらの文のごく一部を引用し、「よい質問です」などとおだてておき、その後はまたいつもの抽象的な一般論で字数をかせぎ、「お礼」の欄は終わらせる。
そして、「補足コメント」の欄で、ほんの少し、おおざっぱな「説明」を書く。ほとんど内容のない。

    名詞「雨」は雨一般を抽象した概念であり、この概念を媒介として話者の
    個別の概念認識を表現したのが文です。
    この媒介の構造が理解できていないため、「まだ降っている」雨が、先に
   「雨が降ってきた」と認識した特殊な雨の認識であることが理解できなくなります。
       >>15と16で、「雨」に違いがありますか?
    上記のように、雨という抽象概念の相違ではなく、話者が個別に認識した対象の
    雨の捉え方の相違が「は」と「が」の相違として表現されています。

今回、私が長々と書いて質問したことの「答え」はここだけです。しかも、一切、具体的なことは書かれていない。
答えにくいところには一切触れない。それで相手があきらめるのを待っている。

ほんと、もう一度書きます。ほとんど(ごまかし方の)「芸」の域に達していますね。

しかし、私はあきらめません。愚直に、もう一度同じ質問をします。(自分のところをコピペするだけですが。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「雨が降ってきた」と認識した対象の特殊な雨で、雨一般でないのは明らかで

「雨一般」なんて言ってません。それは「普遍性」の話でしょう? 「まだ降っている」雨は、「個別性」ではないかと言っているのです。つまり、
    15 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。
という場合は、あとの文も「個別性の認識」ですね。「が」なんだから。
それを、
    16  雨が降ってきた。 (少し後で) 雨はまだ降り続いている。
という場合は、あとの文は「特殊性の認識」となる。「は」ですから。
この説明がインチキだとおもうのですよ。「が」だから「個別性」、「は」だから「特殊性」。
結局、「が」か「は」かを見て、それに合うように説明を付けている。
15と16で、「雨」に違いがありますか? 
16は、
     「降り続いている」という雨の「特殊性の認識」
ですか? では15は?
      14 男が誰もいない部屋に入ってきた。男は、部屋の中央で立ち止まった。
     14も部屋に入ってきたという特殊な男の認識の表現です。
これはどうなりますか? 「普遍性の認識」でないのはわかります。でも、「は」だから「特殊性」としなければならないだけでは?
14のあとの文でも、「話者の認識」は「個別性の認識」のままではないか、というのが私の疑問です。どうして質問者には、それが「特殊性の認識」だとわかるのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(以上、No. 19から。)

    この媒介の構造が理解できていないため、「まだ降っている」雨が、先に
   「雨が降ってきた」と認識した特殊な雨の認識であることが理解できなくなります。

では、15の2つ目の文は?

    15 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。

どうしてこちらは「個別性の認識」なのか。「話者の認識を追体験」するとどうなりますか?

    「が」だから「個別性」、「は」だから「特殊性」。
    結局、「が」か「は」かを見て、それに合うように説明を付けている。

「(少し後で)」話者は「まだ降り続いている」雨を見て、「個別性の認識」をもつと「雨が」と表現し、「特殊性の認識」をもつと「雨は」と表現する。どちらも、

先に「雨が降ってきた」と認識した特殊な雨の認識である  ??

そこの違いを説明してほしい、と言うとヘーゲルの何々を読まないとわからない、と言う。
絶妙の逃げですね。

話者が個別に認識した対象の雨の捉え方の相違が「は」と「が」の相違として

だからその「認識した対象の雨の捉え方の相違」を説明してほしいのですが、それについては一言も、まったく一言も、説明しない、できない。いつも抽象的な言辞だけで逃げる。

いやあ、引きのばしますね。

そう言えば、「日本語の音韻表」または「五十音表」でも、答えが出るまでずいぶん引きのばされたのですが、その答えとして「ひらがな表」が提示されたあとの質問は、なかなか答えていただけませんね。

音韻の話は打ち止めですか? どう見ても、ご自分の無知が明らかになってしまったから?

自分のまちがいを認めるのは嫌ですか? 

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答を有難うございます。

当方の説明が分かりにくいようですので、工学への応用を説いた分かりやすい説明を下記しますので、熟読下さい。

「自然言語処理研究の考え方」
http://unicorn.ike.tottori-u.ac.jp/ikehara/paper …

結論を下記に引用しておきます。

従来の自然言語処理の研究の基本的な考え方をみると、その殆どすべてが生成変形文法の思想的流れの上に考えられていることが分る。この資料では、従来の研究で金科玉条ともされているこの考えにこそ大きな誤りがあり、それが言語研究発展の障害の1つとなっているものと考えて、科学的方法論を追求する立場から言語処理の考え方を述べた。科学的方法論から考えるとき、従来の形而上学的言語思想に代るものは、言語を自然と同様、過程の複合体として捉える言語過程説があげられる。従って本資料では、言語過程説の立場から言語をながめ、新らしい言語観の枠組みの中で言語処理の方法論を考えるよう努めた。科学的な自然言語処理の方法論の確立と言う大きな課題からみれば、本検討は小さな一歩である。また、言語処理論から処理の方法論に展開する過程で踏みはずしを行っているところがあるかもしれない。今後の研究の発展のため、読まれた方はぜひとも疑問点などを教えて頂きたい。その中にこそ今後の発展の鍵がひそんでいると期待されます。/

お礼日時:2019/08/27 22:35

お答え有難うございます。



「区別できない」場合があるということで、この場合が例外ということです。

例外がありうるなら、最初からそう言っていただければ。

     【形式だけでは二種類の「は」を区別することできません】

力を込めて(強い括弧付きで)こう宣言されると、例外はないのかと思いました。

「世界思想の最先端の科学的な言語論を説いている」

という強い自信にあふれているようなので。
それを、

     あれかこれかの形式主義的な発想にとらわれ過ぎです。というか、先の文意を
     正しく理解できていません。

こう言われると、ひどい言い掛かりだなあ、と感じます。(「先の文意」がどこを指すのかもわかりません。)

まあ、それはさておき、「例外はある」のだと理解し直して話を続けます。

ヘーゲルの話が出てきますが、文法分析の用語で、ヘーゲル思想がわからないと理解できない、というのは、用語としては使い物になりませんね。
「普遍:特殊:個別」ですか。ヘーゲルまで立ち返らないと、これらの語は理解できない。だから現在の言語学は、、、というなら、まあ、それはそっちでやってください、言語学者は相手にしません、で終わりですね。
今、ここの議論で、定義を明らかにしないと、議論になりません。

さて、次のところ。

     話者の認識が明確なので明確です。

これは初めからの疑問だったのですが、「普遍性」にしろ、「特殊性」にしろ、どうして質問者には「話者の認識」がわかるのだろうか、と思います。

「話者の認識」は、結局は話された文、書かれた文からしかわからない。もちろん、文脈も考慮して。

「普遍:特殊:個別」が、仮にヘーゲルから来ている認識のありかただとして、それぞれがその時の「話者の認識」であると、質問者が断定できるのはなぜか。ヘーゲルがわかっているから、ではありませんね。なぜ「話者の認識」がそうだとわかるのか。これはずっと不思議です。「普遍」と「特殊」の違いもそうですが、特に、「個別」と「特殊」の違い。

    >>「雨が降ってきた」というときは、「個別性の認識」でいいですが、そのあと、
    「雨はまだ降っている」というとき、なぜ「特殊性の認識」に認識が移るのか。
    まったくわかりません。

    そのあと、「雨はまだ降っている」というときの雨は、「雨が降ってきた」と認識
    した対象の特殊な雨で、雨一般でないのは明らかで、これが何故理解できないのか、
    まったくわかりません。

これは「文意」が理解できていませんね。

    「雨が降ってきた」と認識した対象の特殊な雨で、雨一般でないのは明らかで

私は「雨一般」なんて言ってません。どうしてこれが出てくるのか。それは「普遍性」の話でしょう?
なせ「特殊性の認識」なのか、と疑問を呈すると、「普遍性」ではないから、と答えてよしとする。

そうじゃなくて、「まだ降っている」雨は、「個別性」ではないかと言っているのです。つまり、

    15 雨が降ってきた。 (少し後で) 雨がまだ降り続いている。

という場合は、あとの文も「個別性の認識」ですね。「が」なんだから。
それを、

    16  雨が降ってきた。 (少し後で) 雨はまだ降り続いている。

という場合は、あとの文は「特殊性の認識」とする。「は」ですから。

この説明がインチキだとおもうのですよ。「が」だから「個別性」、「は」だから「特殊性」。
結局、「が」か「は」かを見て、それに合うように説明を付けている。

15と16で、「雨」に違いがありますか? 
16は、

     「降り続いている」という雨の「特殊性の認識」

ですか? では15は?

     「降り続いている」という雨の「個別性の認識」?

なんかご都合主義ですねえ。

「部屋に入ってきた男」の例。

      14 男が誰もいない部屋に入ってきた。男は、部屋の中央で立ち止まった。

     14も部屋に入ってきたという特殊な男の認識の表現です。

これはどうなりますか? 「普遍性の認識」でないのはわかります。でも、「は」だから「特殊性」としなければならないだけでは?
14のあとの文でも、「話者の認識」は「個別性の認識」のままではないか、というのが私の疑問です。どうして質問者には、それが「特殊性の認識」だとわかるのか。

それにしても、何度読んでも、「部屋に入ってきたという特殊な男」というところは、笑わせられます。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。
以下、私見を記させていただきます。

>>言語学者は相手にしません、で終わりですね。

「日本語研究の近代化過程と西欧哲学」
https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/1 …

の「2 山田孝雄とカントの哲学」を参照下さい。

ここでは、「山田孝雄とカントの哲学」の影響を指摘していますが、ソシュール言語学自体がカントの不可知論に依拠していることに気付いていません。そして著者自身、カントの純粋理性批判の言を引用し、その立場で論じています。

つまり、ヘーゲルによるカント批判、そしてマルクス/エンゲルスによるヘーゲルの転倒、哲学批判に全く無智です。これでは、ソシュールパラダイムの転換は望むべくもありません。

さらに、アウグスト・ベック(August Boeckh または Böckh, 1785年11月24日 - 1867年8月3日:ドイツの古典文献学者)のフィロロギーの意義も全く理解できておらず、これに否定的な橋本進吉の理解に賛意を表明しています。

釘貫亨 著『「国語学」の形成と水脈』の<第13章 専門知「国語学」の創業>参照
http://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-89 …

ひょっとして、釘貫亨は国語学者ではないと考えられていますか?
街の文法好事家では已むをえませんが。
「ひどい言い掛かり」がどちらかは、明らかでは。

>>「普遍性」にしろ、~か、と思います。
「話者の認識」は、~文、書かれた文からしかわからない。

良い質問です。

言語は話者の認識の表現で、文は話者の認識と結び付いています。
対象→認識→表現という過程的構造を持っています。
意味を理解するとは、この関係を辿り、話者の認識を追体験することです。
ところが、質問者等はこの過程をたどることができず、表現された結果と対象である雨を直結し理解するため、話者が個別の対象である雨のどの側面を捉えたかを理解できません。

以下、補足へ

お礼日時:2019/08/27 12:38

すみません。

また誤植です。

  振ってくる、振ってきた → 降ってくる、降ってきた

です。失礼しました。

saburoo
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この回答へのお礼

ご丁寧に有難うございます。

この程度はノープロヴレムです。
性格が顕れていますね。
入力が終わったら送信前に、心をクリアーにし、2~3回読み直せば防止できます。
あまり、えらそうに人の事はいえませんが。

せっかくなので、もう少し感じた所を記させていただきます。

当方が相手にしているのは文法とは何かが定かではない街の文法好事家や、文法の説明ができない欠陥文法事典しか編むことができない文法学会ではありません。

唯物弁証法に基づく科学的な言語論で、現在の認知言語学や新記述文法などのソシュールパラダイム下の形式主義/機能主義的な誤った言語論、文法論がパラダイム転換を図らねばならないという事実を明らかにすることです。

この点は、最近の日本語学会他でも行き詰まりは認識されていますが、それが何に起因するかが理解できず、混迷しています、

日本語学会の『日本語の研究』第14巻4号では、日本語学会 2018年度春季大会シンポジューム報告「日本語記述研究の未来―今なすべきこと」で、「文法論からの再出発(宮崎和人)」などと論じていますが、単語とは何かの先に当方が提示した理解に程遠い議論をしており、パラダイム転換の必要性が理解されていません。

「今なすべきこと」が全く理解されていないのが実状です。これは、日本だけの問題ではなく、言語哲学を含めた世界の現状です。

こうした現状と、パラダイム転換の必要性が理解いただければと考えています。

部分と全体を正しく捉え、木を見て森を見ざるのでは、科学的な思考は」できません。■

お礼日時:2019/08/26 09:45

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