性格いい人が優勝

下記の続きです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11254188.html

当方は、No.7,9で論理的、科学的な回答を示しています。

他の回答に、

「主題のハ」
「主題提示」

という回答があります。この回答が意味を持つためには【主題】とは何かが明確になっている必要があります。
回答者は一体、どのような定義に基づき使用しているのでしょうか。

そもそも、ある、語、句が主語や主題であると判るのはその文が表現された結果に過ぎす、話者がそれを意識して発言しているとは考えられません。

その証拠に、小学生や中学生、いや大学生や大人に聞いても、主語や主題とは何かと明確に答えられる人はいません。

それは、現在の文法学者にも答えられない問題です。

是非、「主題」とは何かを教えていただきたい。

そうでないと、「主題提示」という回答は無意味か、同語反復に過ぎません。■

質問者からの補足コメント

  • しかし、これを安易に捉えるとNo.5に見られるような、頓珍漢な解釈になるので注意が必要です。

    従って、ご指摘の通り、

    月【は】地球の衛星である。

    は「普遍的法則の表現」ですが、これを他と比較対照させて、
      
     13 月は地球の衛星であり、地球は太陽の惑星である。

    とすれば、特殊性の認識の表現です。

    これは、話者の認識が異なります。■

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/21 12:17
  • >>「南極は寒い。」も、場合によって、「普遍性の認識」だったり、「特殊性の認識」だったりするのでしょうか。

    当然、「北極に比べ南極は寒い」という認識の表現であれば「特殊性の認識」の表現になります。

    「南極は寒い。」という形式の問題ではなく、その形式に結びついた話者の認識を捉えなければならないということです、

    【言語は話者の認識の表現であり、形式と内容の統一として存在している】という、この事実をまず理解しないと、当方の言っていること、言語表現の真実は理解できません。■

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/23 10:36
  • 客観的対象の持つ「普遍:特殊:個別」という構造を明らかにしたのがヘーゲルであり、話者がこのどの側面を捉え表現しているかということです。

    名詞「雨」は雨一般を抽象した概念であり、この概念を媒介として話者の個別の概念認識を表現したのが文です。

    この媒介の構造が理解できていないため、「まだ降っている」雨が、先に「雨が降ってきた」と認識した特殊な雨の認識であることが理解できなくなります。

    >>15と16で、「雨」に違いがありますか?

    上記のように、雨という抽象概念の相違ではなく、話者が個別に認識した対象の雨の捉え方の相違が「は」と「が」の相違として表現されています。

    この語の意義は規範としての意義で、本来は辞書に正しく記されるべきものですが、現在の欠陥文法論のレベルでは望むべくもないということです。

    これを、「なんかご都合主義ですねえ。」というのには、笑わせられます。■

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/27 12:57
  • こちらの方が判り易いかもしれません。

    「言語の過程的構造と自然言語処理」
    http://www.kcn-kyoto.jp/~sat/data/publications/1 …

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/27 23:05
  • へこむわー

    なお、個別/特殊/普遍について分かり易い解説を引用しておきましたので、

    <「が」と「は」の違いについてーその8 番外編>
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11275874.html?pg=1& …

    のNo.13を参照下さい。

    この程度のことも全く、理解されていないようですね。■

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/04 21:01
  • 訂正

    格助詞「は」、係助詞/副助詞「は」は主体的表現の語で、 ⇒ 
    格助詞【「が」】、係助詞/副助詞「は」は主体的表現の語で、

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/13 16:03

A 回答 (27件中11~20件)

お答え有難うございます。



しかし、一層、というか、まったくわからなくなりました。

    >>2 このセミは5日間しか生きなかった。
 は、さきにも回答の通り特殊性の認識の表現で、あれや、他のセミではなく、
   「この」セミで、文意は明確です。

ということは、

【形式だけでは二種類の「は」を区別することできません】

は、この場合、成り立たないということでしょうか。この文(形式)だけで区別できる。つまり例外?

    >>6 (雨が降ってきた)雨はまだやまない。
    これも、先にも回答の通り特殊性の認識の表現で、「降って来た」という
    雨の特殊性の認識の表現で、文意は明確です。

これも、例外、というか、形式だけで特殊性の認識の表現だと、明確に言える。

つまり、上の【形式だけでは二種類の「は」を区別することできません】は、「一般的には」というような限定付きの言明なのでしょうか。

それにしても、上の「2」の「このセミ」が「特殊性の認識」なのはわかりやすいとして、「6」の「雨」について、

     「降って来た」という雨の特殊性の認識

というところは、私の日本語力では意味不明です。「振ってくる」のは特殊な雨ですか?
それこそ、「個別性」なんじゃありませんか? 今、ここで振ってきた、この雨。
別に、他の雨と比較しているわけでもないし。

はじめ、「雨が降ってきた」というときは、「個別性の認識」でいいですが、そのあと、
「雨はまだ降っている」というとき、なぜ「特殊性の認識」に認識が移るのか。
まったくわかりません。

     「降って来た」という雨の特殊性の認識

などというと、最初の「雨が降ってきた」こそがそれに当てはまりませんか??

     14も部屋に入ってきたという特殊な男の認識の表現です。

これもわけがわかりません。「部屋に入ってくる」のは「特殊な男」ですか??
「壁を上って2階の窓から部屋に入ってくる」のなら、特殊な男でしょうけれど。

これらの例は、どう見ても「普遍性」とは言えないので、「特殊性」に無理に結びつけているように思えてなりません。(「主題」用法のごくふつうの例なんですけどね。)

なんだか、質問者の日本語は特別(特殊?)で、一般の日本語の使い方とは相当違いますね。

専門の術語が一般の使い方と違うのは不思議ではありませんが、その場合は、先にその違いを明確に示しておかなければなりません。
質問者の「特殊」というのは、これまでに特に定義が与えられていません。唯一、「他との比較対照」がある場合に、「特殊性の認識」であるということが述べられているだけです。(先の「部屋に入ってきた男」は、なんら比較対照されていません。)

一方、「普遍性の認識」については、「普遍法則の表現」である場合がそうなのかと理解していたら、それも違う。二つ比較対照の場合は、「特殊性の認識」と見なされる。

前回のお答えでは、「「万葉集」を歌集の典型、つまり普遍性として捉えた場合」という表現が使われ、「典型」というのが重要な概念なのか、と思い始めました。しかし、この「典型」も、どこまで有効なカギと言えるのかわかりません。

すべては、「普遍性」にせよ、「特殊性」にせよ、明確な定義がなされていないことによります。
「科学的な議論」とはこういうものなのでしょうか。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>形式だけでは二種類の「は」を区別することできません
…この文(形式)だけで区別できる。つまり例外?

「区別できない」場合があるということで、この場合が例外ということです。あれかこれかの形式主義的な発想にとらわれ過ぎです。というか、先の文意を正しく理解できていません。

>>形式だけで特殊性の認識の表現だと、明確に言える。

文は話者に認識の表現で、話者の認識が明確である場合は文意は明確です。同じ形式でも異なる文意と捉えられる場合もあるということです。形式を絶対とする発想の誤りを自覚して下さい。これを形式主義的発想という誤りだと指摘していますが。

>>質問者の日本語は特別(特殊?)で、一般の日本語の使い方とは相当違いますね。

一般の曖昧な用法ではなく、弁証法の論理に基づく厳密な用法で、それを明確にするため、参照すべき文献を挙げましたが理解できていませんね。ヘーゲルが『大論理学』の第3篇、「主観的論理学または概念論」で明らかにした内容です。

その直接の始りは中性の普遍論争ですが、このへんからしっかり勉強し理解して下さい。

すぐに理解できれば大したもので、野田尚史やチョムスキーやラネカー、その他の言語学者や文法研究者の立つ瀬がなくなります。常識では、スマホ一つつくれないことは分かりますよね。

>>形式だけで特殊性の認識の表現だと、明確に言える。

話者の認識が明確なので明確です。

>>「雨が降ってきた」というときは、「個別性の認識」でいいですが、そのあと、「雨はまだ降っている」というとき、なぜ「特殊性の認識」に認識が移るのか。まったくわかりません。

そのあと、「雨はまだ降っている」というときの雨は、「雨が降ってきた」と認識した対象の特殊な雨で、雨一般でないのは明らかで、これが何故理解できないのか、まったくわかりません。

対象→認識→表現という過程的な表現構造を理解できずに対象と表現を直結するのではなく、話者の認識との関係を正しく捉えなければなりません。

「普遍性」にせよ、「特殊性」にせよ、明確な定義がなされていないのではなく、先に提示した厳密な内容が理解できていないということです。

これが科学的ということで、常識の話しをしているのではありません。

世界思想の最先端の科学的な言語論を説いているのですが。■

お礼日時:2019/08/26 09:13

No. 3-8-12の続きです。



お答え有難うございます。

   【形式だけでは二種類の「は」を区別することできません】

なるほど、そうなんですね。つまり、下の例文1から10までについて、

  例文
    1 セミは7日間生きる。
   2 このセミは5日間しか生きなかった。
   3 この自転車は乗りやすい。
   4 明日は日曜日だ。
   5 君はうそつきだ。
   6 (雨が降ってきた)雨はまだやまない。
   7 男が店に入ってきた。男は私のテーブルに近付いてきた。
   8 雪が降る地方は寒い。
   9 この店を選んだのは、安くて美味しいからだ。
   10 晴れている時は、40度近くになる。

   普遍性 1 
   特殊性 1以外
  と考えます。■

とお答えになったのは、特に文脈、場面がない以上、こう考える、というだけのことなのですね。
「話者の認識」が、これらの、発話状況から切り離された「例文」という形ではわかりようがないので、「普遍性」「特殊性」どちらでもありうるわけですね。
あとの質問で加えた、「11 雪国は寒い。」「12 南極は寒い。」に関しても同様ですね。

   【形式だけでは二種類の「は」を区別することできません】

これはかなりはっきりした言明です。
ただし、

    13 月は地球の衛星であり、地球は太陽の惑星である。

は「特殊性の認識」と言える。はっきり比較対照していますからね。

さて、それにしても、やはり「普遍性」の認識、というものがわかりません。
特に比較対照されるものがない場合、何が話者の「普遍性の認識」を引き起こすのか。
「引き起こす」という言い方が適当でないならば、いかにして話者は「普遍性の認識」を持つに至るのか。

今回のお答えの中でくり返されているのは、「典型」という表現です。

    先に、「万葉集【は】歌集である。」について説明したように、「万葉集」を
    歌集の典型、つまり普遍性として捉えた場合が、
   万葉集【は】歌集である。
   で、この場合、比較・対照という特殊性の認識ではありません。
       我は海の子白浪の
       さわぐいそべの松原に
       煙たなびくとまやこそ
       我がなつかしき住家なれ。
    というように、我と彼、あなたという比較・対照という特殊性の認識ではなく、
    「海の子」の典型として「我」を捉え表現しています。
       吾輩は猫である。名前はまだ無い。
       どこで生れたかとんと見当がつかぬ。
    も同様で、猫族の典型としての「吾輩」を「は」と表現しています。

「典型」としてとらえることが、「つまり普遍性として」とらえることのようです。
その他には、どのような文脈、話者の認識が「普遍性の認識」になるのでしょうか。例えば、

     2 このセミは5日間しか生きなかった。

の場合、「普遍性の認識」はどのようにして生まれるのでしょうか。(質問1)

   この認識の相違は文脈から判断することになります。

ということですが、この2の場合、どのような文脈が考えられるのでしょうか。
また、

   6 (雨が降ってきた)雨はまだやまない。

の場合、話者にとって、特に雪や風やその他のものとの比較対照がないとすると、どういう形で「普遍性の認識」を持つことになるのでしょうか。

もう一つ、先の例7を少し変えた文を考えます。

ある映画の初めのシーンを見ている話者による描写です。

   14 男が誰もいない部屋に入ってきた。男は、部屋の中央で立ち止まった。

この文は、どちらの認識になるのでしょうか。それはなぜでしょうか。(質問2)
「男」は比較対照する相手もいないし、何らかの「普遍性の認識」の対象になるとも考えられません。
どちらの認識にもなりうるとするならば、それぞれどのような文脈が考えられるのでしょうか。

いまだに、「普遍性の認識」のはっきりした定義、説明がないので、どう考えていいかわかりません。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>特に文脈、場面がない以上、こう考える、というだけのことなのですね。

いいえ。
話者の認識は不可視で、一文で意味が完結するものと、そうでないものがあり、文脈により判断を変えなければならないものがあるということです。ここに、誤解が発生する根源があります。

例文では、1.が捕獲した特殊のセミの話しという文脈では、特殊性の認識の場合もあるということです。
通常は種としてのセミについての言です。

>>特に比較対照されるものがない場合、何が話者の「普遍性の認識」を引き起こすのか。

客観的存在である個は特殊と普遍の統一として存在しています。この、個別、普遍、特殊のどの側面を話者が捉え表現するのかということです。

たとえば、隣のポチは犬という普遍性を具えていますが、毛並みも足の長さも顔も特殊です。犬という普遍性は動物という普遍性からは特殊性であり、更に、動物という普遍性は生物という普遍再からは、特殊性ということになります。

認識は、こうした抽象の階層を容易に昇り降りし、その側面を表現します。
このように、個物は立体的な階層構造をもっており、このどの側面を捉え表現するかを「は」「が」で表しています。

詳細は、「第二章 科学・芸術・宗教 (3) 概念と判断の立体的な構造」、
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=%E8%AA%8D% …
を参照下さい。

>>どういう形で「普遍性の認識」を持つことになるの

上記のように、対象の持つ普遍性の側面を捉え表現するということです。

>>2 このセミは5日間しか生きなかった。

は、さきにも回答の通り特殊性の認識の表現で、あれや、他のセミではなく、「この」セミで、文意は明確です。

>>6 (雨が降ってきた)雨はまだやまない。

これも、先にも回答の通り特殊性の認識の表現で、「降って来た」という雨の特殊性の認識の表現で、文意は明確です。

14も部屋に入ってきたという特殊な男の認識の表現です。

普遍性の表現の「は」は係助詞で、係結の判断辞に結びつきます。

吾輩は猫である。
我は海の子(だ)。
セミは7日間生きる。■

お礼日時:2019/08/25 08:37

#14です。



>そもそも、誰が、
・結果が「原因に影響を与える」
と言ったのですか?(笑)
⇒惜しいですね。
『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている、と申し上げている次第。
とコメントした方です。(笑)

なるほどなるほど。

・『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている

という文言を、そのように解釈したのですね。
いかにも、ひねくれ者の本領発揮といったところでしょうか。(笑)
これは簡単なことですよ。
アスナロウさんのいちゃもんは、この文を、

・『発言者の認識』自体が『(文ですでに表記されているところの)前後の文脈』に左右されている

と解釈することで成立しています。
ただ、

・『前後の文脈』つまりシチュエーション

と(わざわざ)記しているわけですから、

・『前後の文脈』=シチュエーション

という意味で使っているのだな、と解釈するのが普通です。
つまり、

・『発言者の認識』自体が、『前後の文脈』として現れることになるシチュエーションに左右されている

と解釈するのが一般的なネイティブなのです。
ひとつ勉強になりましたね。(笑)
教えてもらうばかりでは申し訳ないのでたまには良いでしょう。(笑)
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#13です。



・それは表現された結果としての『前後の文脈』に現れている
>つまり、表現が先であり、
・表現されたからこそ結果として現れている。
⇒であれば、結果が「原因に影響を与える」【訳】がないでしょう。

当たり前です。
そもそも、誰が、

・結果が「原因に影響を与える」

と言ったのですか?(笑)
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この回答へのお礼

>>そもそも、誰が、
・結果が「原因に影響を与える」
と言ったのですか?(笑)

惜しいですね。
『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている、と申し上げている次第。

とコメントした方です。(笑)■

お礼日時:2019/08/23 16:21

#11です。



>・それは表現された結果としての『前後の文脈』に現れている
⇒その結果が何故、表現以前の「『発言者の認識』自体に影響を与えるのでしょうか。

やはり、文意を読み取れないのですね。

・『その結果が』⇒『影響を与える』という構文ではありません。

・それは表現された結果としての『前後の文脈』に現れている。

です。
つまり、表現が先であり、

・表現されたからこそ結果として現れている。

という構文です。
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>・表現されたからこそ結果として現れている。

ですよね。

それが、原因である「『発言者の認識』自体」に影響を与えるのでしょうか。

やはり、文意を読み取れないのですね。

>>つまり、表現が先であり、
・表現されたからこそ結果として現れている。

であれば、結果が「原因に影響を与える」【訳】がないでしょう。■

お礼日時:2019/08/23 10:42

お答え有難うございます。



しかし、「普遍性の認識」というものがいっそうわからなくなりました。

      月【は】地球の衛星である。
   は「普遍的法則の表現」ですが、これを他と比較対照させて、
     13 月は地球の衛星であり、地球は太陽の惑星である。
   とすれば、特殊性の認識の表現です。
   
ということなので、「普遍的法則の表現」であることは、必ずしも「普遍性の認識」であることを保証しない。

では、「普遍性の認識」とは、いったいどういう場合に成り立つのか。

No. 9で、「我は海の子。」がなぜ「普遍性の認識」とされるのかを質問したのですが、答えていただけませんでした。(また、ヘーゲルやらマルクスやら軍人勅諭については多く述べられていますが、かんじんの、こちらの聞きたいことには答えがありません。)

 「我は海の子/君はうそつきだ」どちらも、話者がそう(普遍のこととして)
    認識しているということではないのか。

「明日は日曜日だ」の例は、「明日」というのがいかにも「今日」と比較対照されているような感じもありますので、「今日は日曜日だ。」に換えたいと思います。
「今日は日曜日だ。」は特に他の日と比較対照せずに言えると思います。それなら、「普遍性の認識」にならないのか。

結局、この「普遍性」とは何なのか。私の知る限り、どこにも定義らしきことが書かれたことはありません。

   8 雪が降る地方は寒い。
   11 雪国は寒い。
   12 南極は寒い。

のほうもよろしく。
「南極は寒い。」も、場合によって、「普遍性の認識」だったり、「特殊性の認識」だったりするのでしょうか。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>「普遍的法則の表現」であることは、必ずしも「普遍性の認識」であることを保証しない。

ここが先にも回答した通り、形式主義的な発想に囚われているところです。

つまり、【形式だけでは二種類の「は」を区別することできません】。
話者の認識を捉えることができない形式主義的な言語実体観の発想では、これを区別できなくなります。
この認識の相違は文脈から判断することになります。

ということで、「普遍的法則の表現」というのは文の意味です。

 「 月【は】地球の衛星である。」

は、話者が「月」の普遍性の側面を捉え表現した結果の文で、この文の意味は話者の認識と結びついているということです。

>>月は地球の衛星であり、地球は太陽の惑星である。
   【とすれば】、特殊性の認識の表現です。

この「とすれば」というのは形式的な並べ替えを意識し言っており、話者による対象の捉え方が異なっていることに気付いていません。この文の意味は話者が「月」と「地球」という比較・対照による特殊性の認識を「は」で表した、別の認識に結び付いた文だということです。

この、文の形自体を捉える形式主義/機能主義的な発想を克服しないと事実が見えません。
生成文法がこうした発想の典型ですが。

>>「我は海の子。」がなぜ「普遍性の認識」とされるのか

先に、「万葉集【は】歌集である。」について説明したように、「万葉集」を歌集の典型、つまり普遍性として捉えた場合が、

万葉集【は】歌集である。

で、この場合、比較・対照という特殊性の認識ではありません。

我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。

というように、我と彼、あなたという比較・対照という特殊性の認識ではなく、「海の子」の典型として「我」を捉え表現しています。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。

も同様で、猫族の典型としての「吾輩」を「は」と表現しています。

このように、対象の持つ個別・特殊・普遍という三つの側面の、どの側面を捉え表しているかというのが「は」「が」という【語】の概念、すなわち意義ということです。

以下補足へ■

お礼日時:2019/08/23 10:33

#10です。



>これは誰の発言でしょう?

やれやれ、困ったもんですな。(笑)

・hakobulu⇒『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている、と申し上げている次第。

と申し上げたのは私です。
あなたは、それを前提に、

・アスナロウ⇒『発言者の認識』自体がシチュエーションに左右されるというのは場面と考えれば、当然ですが、それは表現された結果としての『前後の文脈』ではありません。
これを混同するところに、言語実体観の落とし穴があります。

と指摘なさった。
しかし、《表現された結果としての『前後の文脈』》などとは誰も言ってませんよ、文脈をよく把握なさってください。
と申し上げたわけです。
ご理解いただけたでしょうか?
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>《表現された結果としての『前後の文脈』》などとは誰も言ってませんよ

では何と言っているのですか。

>>・それは表現された結果としての『前後の文脈』に現れている

その結果が何故、表現以前の「『発言者の認識』自体に影響を与えるのでしょうか。

『発言者』は未来を透視するタイムマシンに乗った幽霊かということです。

日本語の基本的な使いかたをご存知ないようです。
文脈をよく把握なさってください。
ご理解いただけたでしょうか?

お礼日時:2019/08/22 09:56

#8です。



>『発言者の認識』自体がシチュエーションに左右されるというのは場面と考えれば、当然ですが、それは表現された結果としての『前後の文脈』ではありません。

これを混同するところに、言語実体観の落とし穴があります。

日本語の基本的な使いかたをご存知ないようです。

《表現された結果としての『前後の文脈』》とは、どの箇所を指しての解釈でしょうか?
だれもそんなことは申し上げておりませんが。

・それは表現された結果としての『前後の文脈』に現れている

と申し上げているのがまだお分かりにならない?
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この回答へのお礼

>>だれもそんなことは申し上げておりませんが。

『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている、と申し上げている次第。

これは誰の発言でしょう?■

お礼日時:2019/08/21 16:49

No. 3の続きです。



お答え有難うございます。

   普遍性 1 
   特殊性 1以外
  と考えます。■

ですか。
やはり「普遍性の認識」の「普遍性」というのがどういうことかわかりません。どこにも定義がないので。

科学は普遍的な法則の表現なので、普遍性を表す「は」が使われます。

これはわかるのですが、

    我は海の子。
    吾輩は猫である。

が「普遍」であることがわかりません。どちらも、たかが数十年のことです。
時間の問題ではなく、「そのように話者が認識するのだ」ということであれば、

   4 明日は日曜日だ。
  5 君はうそつきだ。

もそうだと言えないのか。「我は海の子/君はうそつきだ」どちらも、話者がそう(普遍のこととして)認識しているということではないのか。

また、

   8 雪が降る地方は寒い。
   11 雪国は寒い。
   12 南極は寒い。
   
は、みな「特殊性の認識」になってしまうのか。
いろいろ、疑問ばかりです。

    月【は】地球の衛星である。

は「普遍的法則の表現」ですが、これを他と比較対照させて、
  
 13 月は地球の衛星であり、地球は太陽の惑星である。

としても、「特殊性の認識」にはならないのでしょうか。

saburoo
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

適切な応答、質問をありがとうございます。

まず、「は」と「が」の相違が話者による判断の相違であることをご理解いただけた点で、説明のしがいがあったと感じております。

対象世界の個が普遍と特殊の統一であることは、中世の普遍論争から独逸観念論の最高峰であるヘーゲルの概念論に至って明らかにされた個物の在り方で、それを唯物論的に対象世界そのものの性質として捉え直したのが、マルクス/エンゲルスによる唯物弁証法です。

この対象世界のありかたの認識への反映が「が」と「は」による対象の捉え方の相違です。

特殊と普遍は階層的な構造をなしており、ペン、筆記用具、文房具という概念は階層を異にした特殊性でもあり、普遍性でもあります。

したがって、話者がどの側面を捉えたかにより「は」が使い分けられ、表現されます。

先の回答にも記したように、

昔の軍人勅諭にしても、現在の政党にしても、あるいは会社の社規にしても、憲法や法律と違って国民全体が従わねばならない規範ではないので、その点では特殊な集団のための特殊的な規範でしかありません。しかしながら、それらの集団として見れば、そこに属する人間全体が従わねばならない規範であって、それなりに普遍的な規範でもあります。

ということで、相対的、立体的な判断で、その文だけではなく、文脈から判断するしかない場合があります。

山田孝雄は「万葉集【は】歌集である。」を排他的な「は」、つまり特殊性の認識を表わすものとしていますが、時枝は排他的、限定的ではないものとして、格助詞としています。これは、正しくは普遍性の認識を表わすものです。

なず、このような混乱が起こるかといえば、

若菜集【は】詩集であり、万葉集【は】歌集である。
土【は】黒く、雪【は】白し。

のように句として表現される場合は、文学書の中での特殊性の認識や目前の景色の中での特殊性を扱う「は」であって、普遍性を扱う「は」ではありません。

しかも、これらの文から前半を省略して、特殊性の意識で「万葉集【は】歌集である。」「雪【は】白し。」とだけ表現する場合も存在します。

つまり、【形式だけでは二種類の「は」を区別することできません】。

話者の認識を捉えることができない形式主義的な言語実体観の発想では、これを区別できなくなります。

この認識の相違は文脈から判断することになります。■

お礼日時:2019/08/21 12:11

#7です。



>>『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている
⇒これが、『(それは)前後の文脈次第でどちらにもなり得る』ですか?

そう捉えるのが普通でしょうね。

『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右される形になっている

という意味であることは容易に、というか自然に理解できることですよ。
文章の一部だけを切り取るのではなく、前後の文脈で一文を理解する習慣をお付けになると分かりやすくなります。
お近くの中学生か小学校高学年子供にでも確かめてみるよろしいでしょう。
このサイトで質問してみるという手もありますよ。
ぜひやってみてください。
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この回答へのお礼

相変わらずの回答をありがとうございます。

>>『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右される形になっている
という意味であることは容易に、というか自然に理解できることですよ。

自然に理解すれば、表現の時間過程を逆行する誤りであることが理解できます。

『発言者の認識』自体がシチュエーションに左右されるというのは場面と考えれば、当然ですが、それは表現された結果としての『前後の文脈』ではありません。

これを混同するところに、言語実体観の落とし穴があります。■

お礼日時:2019/08/21 07:52

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