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下記の続きです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11254188.html

当方は、No.7,9で論理的、科学的な回答を示しています。

他の回答に、

「主題のハ」
「主題提示」

という回答があります。この回答が意味を持つためには【主題】とは何かが明確になっている必要があります。
回答者は一体、どのような定義に基づき使用しているのでしょうか。

そもそも、ある、語、句が主語や主題であると判るのはその文が表現された結果に過ぎす、話者がそれを意識して発言しているとは考えられません。

その証拠に、小学生や中学生、いや大学生や大人に聞いても、主語や主題とは何かと明確に答えられる人はいません。

それは、現在の文法学者にも答えられない問題です。

是非、「主題」とは何かを教えていただきたい。

そうでないと、「主題提示」という回答は無意味か、同語反復に過ぎません。■

質問者からの補足コメント

  • しかし、これを安易に捉えるとNo.5に見られるような、頓珍漢な解釈になるので注意が必要です。

    従って、ご指摘の通り、

    月【は】地球の衛星である。

    は「普遍的法則の表現」ですが、これを他と比較対照させて、
      
     13 月は地球の衛星であり、地球は太陽の惑星である。

    とすれば、特殊性の認識の表現です。

    これは、話者の認識が異なります。■

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/21 12:17
  • >>「南極は寒い。」も、場合によって、「普遍性の認識」だったり、「特殊性の認識」だったりするのでしょうか。

    当然、「北極に比べ南極は寒い」という認識の表現であれば「特殊性の認識」の表現になります。

    「南極は寒い。」という形式の問題ではなく、その形式に結びついた話者の認識を捉えなければならないということです、

    【言語は話者の認識の表現であり、形式と内容の統一として存在している】という、この事実をまず理解しないと、当方の言っていること、言語表現の真実は理解できません。■

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/23 10:36
  • 客観的対象の持つ「普遍:特殊:個別」という構造を明らかにしたのがヘーゲルであり、話者がこのどの側面を捉え表現しているかということです。

    名詞「雨」は雨一般を抽象した概念であり、この概念を媒介として話者の個別の概念認識を表現したのが文です。

    この媒介の構造が理解できていないため、「まだ降っている」雨が、先に「雨が降ってきた」と認識した特殊な雨の認識であることが理解できなくなります。

    >>15と16で、「雨」に違いがありますか?

    上記のように、雨という抽象概念の相違ではなく、話者が個別に認識した対象の雨の捉え方の相違が「は」と「が」の相違として表現されています。

    この語の意義は規範としての意義で、本来は辞書に正しく記されるべきものですが、現在の欠陥文法論のレベルでは望むべくもないということです。

    これを、「なんかご都合主義ですねえ。」というのには、笑わせられます。■

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/27 12:57
  • こちらの方が判り易いかもしれません。

    「言語の過程的構造と自然言語処理」
    http://www.kcn-kyoto.jp/~sat/data/publications/1 …

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/27 23:05
  • へこむわー

    なお、個別/特殊/普遍について分かり易い解説を引用しておきましたので、

    <「が」と「は」の違いについてーその8 番外編>
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11275874.html?pg=1& …

    のNo.13を参照下さい。

    この程度のことも全く、理解されていないようですね。■

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/04 21:01
  • 訂正

    格助詞「は」、係助詞/副助詞「は」は主体的表現の語で、 ⇒ 
    格助詞【「が」】、係助詞/副助詞「は」は主体的表現の語で、

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/13 16:03

A 回答 (27件中21~27件)

#6です。



>文脈とは、表現された結果であり、それに『発言者の認識』が左右されるなどという馬鹿話しは、時空を逆転する真夏のオバケの話しですね。

まったくの論理破綻を得々と展開なさっていますね。
やはり、と言うべきか、読解力の問題に帰すようです。

『(それは)前後の文脈次第でどちらにもなり得る』
という文脈を、
《文脈とは、表現された結果であり、それに『発言者の認識』が左右される》
と解釈されたわけですね。
しかし、これは、

 1 セミは7日間生きる。
という文において、この「は」は普遍性を表わすのか特殊性を表わすのか、ということは『前後の文脈次第でどちらにもなり得る』。

という文脈で解釈するものです。
日本語の構文として、それが当たり前。
もう少しかみ砕きますと以下のように。

 1 セミは7日間生きる。
という文において、この「は」を発言者が普遍性の認識で使用したのか、特殊性の認識で使用したのか、ということは『前後の文脈を見ればどちらかがわかる』。

という意味。
ご理解いただけたでしょうか。

それにしても、相変わらず、都合の悪いことに関しては、平然と完無視を決め込みますなア。(笑)
呆れを通り越して微笑ましささえ感じるようになってしまいましたよ。(笑)
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この回答へのお礼

早速の応答を有難うございます。

>>『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている

これが、『(それは)前後の文脈次第でどちらにもなり得る』ですか?

読解力の問題に帰すようです。■

お礼日時:2019/08/20 20:16

#4、#5です。



1.
>>>色々模索しているところ
>>「物語文」
>>「品定め文」
>>ニュアンスも考えたりします。
⇒早い話が、何も判ってはいないということですよね。

そういうことではないのですよ。
わたしの中では分かっています。
ただ、他者に分かりやすく、納得を得られやすくするにはどのような表現ができるのか、という点について模索している、ということです。
自分だけにしかわからないような言葉や論理を振り回すだけで満足し、それが理解してもらえないと逆切れする、といった言動は私的には趣味じゃないんですよね。

2.
>この場合は、質問された、 nwsaburooの言なのか、他の文章からの引用かは不明ですが、その発言者の認識に対応しているということです。「前後の文脈次第でどちらにもなり得る」というものではありません。

惜しいですね。
『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている、と申し上げている次第。
アスナロウさんのおっしゃっている『発言者の認識に対応している』も別に間違いではありませんが、現在の論点において適切な表現とは言えない、ということです。
現時点では、たとえば、

 1 セミは7日間生きる。
という文において、この「は」は普遍性を表わすのか特殊性を表わすのか、ということが論点なわけです。

(アスナロウ)『(それは)その発言者の認識に対応している』
(hakobulu)『(それは)前後の文脈次第でどちらにもなり得る』
どちらの説明のほうが的を射ているか?わかりやすいか?という点についてお考えになってみるとよろしいでしょう。

『発言者の認識に対応している』というのは言語過程説の金科玉条でしょうが(また、それは極めて当たり前の事実ですが)、どのように『対応している』のか?まで示さないと幼稚園児の買い物になってしまう。
ま、五十歩百歩ですから、大した問題ではないのですが、一応、指摘しておきましょう。

3.
>しかし、根拠のない恣意的な判断は誤りです。
示された回答は、その意味で回答者の思い付きによるもので、若干のブレが出るのは表現の本質から避けられないところですが、ブレすぎじゃありませんか?(笑)

(ア)
自ら矛盾を露呈しておられますね。(笑)
・対象⇒認識⇒表現
という言語過程において『恣意的な判断』が介入してくるのは当たり前のことでは?
『恣意的な判断』『思い付き』という点については、アスナロウさんの想像力枯渇を証明していることに(必然的に)ならざるを得ません。

 1 セミは7日間生きる。
a.昆虫採集のため林にやってきた兄弟が、目の前の木にとまっているセミを見つけて、兄が弟に対して言う場合。⇒普遍性
b.「カゲロウは一日しか生きない。」に続けて言う場合。⇒特殊性
というシチュエーションが想定できる。
しかし、一般的によくあるシチュエーションは前者だろう、ということで「普遍性」を回答としたところ。
そもそも、b のようなシチュエーションに一切触れずに 「普遍性」と断定してしまうアスナロウさんの回答はいかがなものか?
こうした想定(想像)ができないため、『恣意的な判断』『思い付き』といった言いがかり的批判しかできないのでしょう。

(イ)
一方で、
「紫式部は源氏物語の作者だ。」という文に関して、

「清少納言や小野小町ではなく、紫式部は源氏物語の作者だ。」
というシチュエーションを強引に作り上げてしまったりする。
そもそも、これは非文でしょう。
「清少納言や小野小町ではなく、紫式部が源氏物語の作者だ。」という総記の「が」としてのシチュエーション表現なら、まだわかりますけどね。
この箇所は、アスナロウさん自身が、「は」の特殊性と「が」の特定(限定)性の区別がついていないことを如実に示している箇所だと思いつつ niwa 氏とのやり取りを拝見していました。

それにしても、個別性には特殊性と普遍性がある、と言っておきながら、
「が」⇒個別性
「は」⇒特殊性または普遍性
といった対比をさせていた(差異の説明としていた)点が、よく理解できなかったですね。
「が」は特殊性または普遍性の両方を(ある一つの文で)同時に持つ語だということなのですか?
私には、「が」にも特殊性(=限定としての総記)または普遍性(=中立叙述)があるということにすぎない、としか思えないのですが。
つまり、「は」に特殊性(副助詞)と普遍性(係助詞)があるのは良いですが、それをして「が」との差異説明に用いるのは妥当ではない、と思うのですがね。
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この回答へのお礼

早速の応答ありがとうございます。

>>わたしの中では分かっています。

何が判っているのでしょうか。
>>「物語文」
>>「品定め文」
などと、語の意義を問題にしているのに、文型を取り上げるのはいつもの本末転倒ですが。

>>『発言者の認識』自体が『前後の文脈』つまりシチュエーションに左右されている、と申し上げている次第。

これも、本末転倒ですね。
対象→認識→表現の過程的構造が理解できていません。
文脈とは、表現された結果であり、それに『発言者の認識』が左右されるなどという馬鹿話しは、時空を逆転する真夏のオバケの話しですね。■

お礼日時:2019/08/20 16:46

#4ですが、ご参考までに#3さんのクイズ?に答えてよろしいですか。



正解は、「前後の文脈次第でどちらにもなり得る」でしょう。(というか、「です」)
つまり、これだけの短文ではクイズにはならないかと。
あくまで示されている文のみで完結していると考えるにしても、前後の文脈をどのように(無意識的に)想定するかは、個人差が出てくるので、これまた(特定が)難しい。
つまり、普遍性か特殊性かということではなく、普遍性となる文脈を想定するか、それとも特殊性となる文脈を想定するか?
という設問になるのが本来だと思います。
その前提で私見を述べるなら下記のとおりです。

[ 普遍性 ]⇒1・4・5・6・7
[ 特殊性 ]⇒2・3・8・9・10
と私は思います。

いずれにせよ、アスナロウさんの回答はブレすぎじゃありませんか?(笑)
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この回答へのお礼

正直な回答をありがとうございます。

>>色々模索しているところ
>>「物語文」
>>「品定め文」
>>ニュアンスも考えたりします。

早い話が、何も判ってはいないということですよね。

当方が最初から指摘している通り同語反復に陥るしかないことを明らかにされただけということです。■

お礼日時:2019/08/20 06:22

#1です。



>空が青い。

の「空が」も「空について言うならば~」という【無意識的な】意図が話者にはあるのは当然のことで、何ら回答にはなっていないと感じますが?

その感覚はよくわかりますし、だからこそ「ハ・ガ」の区別が難しいんですよね。
その上で本質を端的に申し上げると、

・空が青い。

は、「空について言うならば~」という意図の文ではありません。
では何かというと、これは、「青いこと」を言いたい【無意識的な】意図が話者にはあるのです。
nwsaburoo氏に教えていただいた佐々木鼎氏の「物語文」です。
「空は青い」の場合はあくまで「品定め文」であり、まったく性質を異にしている。
このあたりをもう少し詰めたくて、色々模索しているところではあるのですが。

・空は青い。⇒のんびりしている、淡々とした表現。
・空が青い。⇒何らかの内容を即座に知らせたい、せっぱつまった表現。

といったニュアンスも考えたりします。

・お金は落ちている。
・お金が落ちている。
といった比較もわかりやすいかもしれない。
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この回答へのお礼

すいません、応答を#5に誤って記してしまいました。

ここに、#5に対するコメントを記します。

>>正解は、「前後の文脈次第でどちらにもなり得る」でしょう。(というか、「です」)

珍しく鋭い指摘をありがとうございます。

但し、文とは何かが理解されていないため本質的な誤りがあります。

>>普遍性となる文脈を想定するか、それとも特殊性となる文脈を想定するか?

文は話者の認識の表現であり、どちらの意義で使用されたかは話者の認識に対応しています。
この場合は、質問された、 nwsaburooの言なのか、他の文章からの引用かは不明ですが、その発言者の認識に対応しているということです。「前後の文脈次第でどちらにもなり得る」というものではありません。

したがって、ここに示された文から判断できるものと、できないものがあり、文脈を想定する必要があります。
しかし、根拠のない恣意的な判断は誤りです。

示された回答は、その意味で回答者の思い付きによるもので、若干のブレが出るのは表現の本質から避けられないところですが、ブレすぎじゃありませんか?(笑)■

お礼日時:2019/08/20 06:40

主題の話でなくてすみませんが、「普遍性の認識」と「特殊性の認識」について質問があります。

よろしければお答えください。

この二つの違いは、なんとなくわかるような気もするのですが、境界線がはっきりしませんでした。
リンク先のNo. 7に、それぞれの例文がいくつか上がっていて、いくらかわかってきたように思うのですが、もう少し、私の中ではっきりさせられればと思います。

それで、下の例文は「普遍性」「特殊性」のどちらになるのか、教えていただければと思います。例えば、
   普遍性  13579
   特殊性  246810
のような、簡単な形でのお答えでけっこうですので、誠に勝手ながら、お願いいたします。

例文
 1 セミは7日間生きる。
 2 このセミは5日間しか生きなかった。
 3 この自転車は乗りやすい。
 4 明日は日曜日だ。
 5 君はうそつきだ。
 6 (雨が降ってきた)雨はまだやまない。
 7 男が店に入ってきた。男は私のテーブルに近付いてきた。
 8 雪が降る地方は寒い。
 9 この店を選んだのは、安くて美味しいからだ。
10 晴れている時は、40度近くになる。

saburoo
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この回答へのお礼

適切な質問をありがとうございます。

普遍性 1 
特殊性 1以外

と考えます。■

お礼日時:2019/08/19 22:10

ちょっと酔っ払っているので、参照先の回答までしっかり読み込む気力がなく、もしかしたらご質問の意図と食い違った回答になっているかもしれません。


「そういうこと言ってんじゃねーよ」ということであれば、お礼等必要ありませんのでスルーしてください。

参照先の質問者さん(1311tobiさん)の意図しているところとしては、「東京は浅草の浅草寺」とか「ここ、フロリダ州はタンパ!」などの使い方に違和感がある、という一点なのではないかと思います。
1311tobiさんはおそらく、「は」というのは「イコール」を意味する係助詞だという認識を持っていて、そのために「東京は浅草の浅草寺」などという使い方に違和感があるのではないかと思います(浅草は東京の一部ですが、東京とは浅草のことだけではなく、「イコール」で繋ぐことはおかしなことですよね)。

アスナロウさんが参照先の回答No.7で挙げられている「我は海の子」「吾輩は猫である」「箱根の山は天下の嶮」「アメリカはニューヨークのマンハッタンに来ております」のうち、最後のひとつ以外は「イコール」で繋げることができる(「○○という存在は××である」が成立する)ものですが、「アメリカはニューヨークのマンハッタンに来ております」は「アメリカという存在はニューヨークのマンハッタンである」が成立しないために、1311tobiさんにはご納得いただけなかったのではないかと思います(厳密に言えば全て同じ用法であり成立しているものなのですが)。

あなたは論理的に、おそらく国語学上正しい回答を示しているのですけれど、1311tobiさんは「感覚としておかしい」と述べているので、お互いの主張が噛み合わなくなってしまっているのではないかと思います。
ごくごく単純な考えで「イコールで繋げるかどうか」という観点で1311tobiさんはご質問をされているので、アスナロウさんのご回答との食い違いが生じてしまっているのではないかと感じました。
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「は」の意義は「主題提示」と言って良いでしょう。


「主題=中心となる題目・問題。」(大辞泉)。

>そもそも、ある、語、句が主語や主題であると判るのはその文が表現された結果に過ぎす、話者がそれを意識して発言しているとは考えられません。
その証拠に、小学生や中学生、いや大学生や大人に聞いても、主語や主題とは何かと明確に答えられる人はいません。

ここに根本的な認識の誤りが露呈しています。

・「は」の意義は「主題提示」である。

というのは、

・「〇〇は~」と人が言う場合、「〇〇について言うならば~」という【無意識的な】意図が話者にはある。

ということです。
表現を替えるなら、

・「〇〇について言うならば~」と言いたい場合、主題提示の意義を持つ「は」を人は無意識的に使う。

ということ。
『よし、これから主題提示をするから「は」を使おう』などと意識的に「は」を使うわけでないのは当たり前のことです。
初歩的なことですので押さえておきましょう。
文法が先にあるわけではないと良く言われますが、それは、こういうことを言っているわけです。
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この回答へのお礼

早速の回答を有難うございます。

空が青い。

の「空が」も「空について言うならば~」という【無意識的な】意図が話者にはあるのは当然のことで、何ら回答にはなっていないと感じますが?■

お礼日時:2019/08/19 22:05

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