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イスラエルの民はエジプトでは奴隷であった、と言われています。
その後のバビロンでは「捕囚」と呼ばれます。

奴隷と捕囚、どういう点が違ったのでしょうか?

「奴隷」といっても、たとえばアメリカの黒人奴隷は、家畜同様で人権を有しない「使役奴隷」で、日本では「奴隷」というとそのイメージが強いです。

でも、古代、中世の中東においては「奴隷」は戦争で負けた被征服民などで、能力があれば教育を受け出世したりしています。
「使役奴隷」とは違う概念のようです。

バビロンの「捕囚」というのも、戦勝国バビロンに連れてこられた敗戦国の民です。
映画などではイスラエルの民はエジプトでは使役奴隷のような描き方ですが、バビロンでは「奴隷」ではなかったのでしょうか?
どんな立場でどんな生活をしていたのでしょうか?

なぜ、奴隷ではなく、捕囚と呼ぶのか。
何がどう違うのでしょうか?

A 回答 (3件)

まず「奴隷」の定義をきちんとしたいと思います。


奴隷の概念は、古代・中世・近代で実はかなり違います。なぜ異なるかというと、それぞれの時代の経済的政治的システムが異なるためです。

近代は資本主義社会になっており、資本主義は「誰でも自由に資本を得て動かせること」が基本条件になります。そうしないと資本で利潤を得るための自由な経済が実現できないからです。ですから同じように大金を持っていても「貴族なら土地を取得して資本投下できるが、平民は土地を買えない」というのは困るわけで、だから近代化=資本主義経済は民主主義を必要としたのです。
 南北戦争前のアメリカは「資本主義的経済発展」を目指している北部(だから奴隷がいるのは不合理で不経済)に対して、まだ機械化が十分ではなかった南部の農園は「奴隷資本を使って大規模農業経済を実現する」方向性だったので、その二つがぶつかって、戦争になったのです。
 当時の奴隷は階級社会制度の奴隷とは異なり「自由民(個人的な権利を有する個人)と異なり、自由と権利を制限されていた」形になっています。

中世は農本主義であり、機械化されていない農業を組織的に行うには階級制度を使って農業労働する大量の人々を土地に縛り付けておく必要がありました。したがって「農民」と呼ばれる比較的自由な階級であっても、その土地から離れることは許されておらず、その点は貴族なども同じ(日本でもどの領主がどこの藩を治めるかは幕府が決めた)でした。この当時の奴隷は土地に縛られた農奴がほとんどで、農奴は貴族の所有とされましたが「比較的自由な農民」と比べても、何が「自由なのか」の基準によってどちらも農奴になりえるような存在であったといえます。

古代はローマのような大国ではない限り、大規模農業はまだ発達しておらず、奴隷は単に「誰かの所有」という概念にすぎませんでした。奴隷そのものの基本的な立場は「その個人の持つ能力によって、所有者からの待遇が変わる」ものであり、たとえば医者や法律家レベルの奴隷ならかなり優遇され、また解放されるために自己の利益を得ることもできましたが、体力しか能力がないなら、きつい肉体労働に従事するしかなかったわけです。
 しかし、この時代はありとあらゆるものが人力であり、教育もすべての人に行き渡ったわけではないので、財産がなくても能力があれば、奴隷から解放されることも可能でした。
 この時代の奴隷は、かなり今のブラック企業のサラリーマンの待遇に近いとも言われています。(つまり、待遇が悪く逃げたいし、逃げることは違法ではないが、自分の能力が足りないなら、待遇を受け入れて働くしかない、というところ)
いや、ブラック企業の社長よりは「奴隷が死んだら大損」な古代の奴隷所有者のほうが待遇改善に力を入れていたかもしれません。

ということで古代の奴隷は、近代アメリカの黒人奴隷とはかなり異なるものであったといえます。

で、古代エジプト時代のユダヤ人が「奴隷」だったというのは、次のような概念であるようです。
 元々カナンの地からユダヤ人の集団がエジプトに招聘され、エジプト王の保護の元に様々な経験や知識を生かして恵まれた生活をしていたものが、エジプト王朝が変わったことで冷遇されるようになり、財産没収や地位のはく奪などを経て、奴隷的な仕事しか残らない待遇に落ちてしまった、ということのようです。それらを踏まえて「奴隷」と呼んでいるのです。

それに対してバビロニア捕囚は「ユダヤ人をバビロニアに移住させた」という点が重要で、バビロニアではそれなりの地位も財産もあり比較的自由な活動ができたのです。なにせユダヤ人は当時としては(今もそうかもしれないが)技術と知識を貯めこんでいる民族だったからです。その知識や技術を使ってバビロニアを豊かにするなら、自由な身分で財産を築いても文句は言われなかったのです。
 しかし、同時にバビロニアはユダヤ人たちを元のカナンの地に戻すことはしなかったのです。

今の感覚では「自由に生活しているなら、勝手に脱出すればいいじゃないか」と思うかもしれませんが、当時の世界では何千人も一気に脱出することはできませんでした。脱出しても護衛もなく、先行して泊まるところや食料の調達をしてくれるお金も人員も持たないなら、何か月にも渡る移動はできなかったからです。

したがって「個人の生活としては元々の暮らしは保証されたが、バビロニアから出て故郷に帰ることはできない囚われの身」ということから、捕囚と呼ばれるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

各時代における「奴隷」の説明をしていただきありがとうございます。
強制移住させ、バビロニアではそれなりに自由のある生活ができたのですね。
だから奴隷ではなく、「捕えられ監禁された」という語を当てたのですね。

お礼日時:2019/10/08 09:33

新バビロニアの労働力が足りないので、ユダヤ人を強制的に移住させたというところでしょう。


ですから一般的に考えられている「捕虜」とか「囚人」とか「奴隷」の立場ではないでしょうね。
もっとも当事者にとっては、すんでいる土地からの移住を強制されるわけですから「囚人」的な屈辱をかんじるでしょうが。ユダ王だって処刑されたわけではないですしね。

「古代オリエント社会においては、反乱の防止や職人の確保、労働力の確保を目的として強制移住が行われることは頻繁に見られるものであり、ユダヤ人のバビロン捕囚も基本的にこれと変わるものではない。紀元前592年に捕囚民に対して与えられた食料の供給リストがバビロンから出土しているが、このリストにはユダ王エホヤキンやユダヤ人ガディエル、セマフヤフ、シェレミヤフなどの名前とともにツロ人、ビュブロスの大工、エラム人、メディア人、ペルシア人、エジプト人、ギリシア人などの名が上げられており」とwikiにあります。

バビロン捕囚(wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%93 …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ユダ王国が滅亡した後も、反乱の可能性はあったわけですね。
たしかに国を奪われ、異国に強制移住させられたという民族的恨みは簡単に消えるものではないですからね。

お礼日時:2019/10/08 09:13

人質的な意味合い

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

人質ならば、それなりの待遇を受けていたということですね。

お礼日時:2019/10/08 09:10

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