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茨城のあおり運転と暴行を録画していたとして違う女性を犯人扱いした問題ですが、何故「誤った情報を発信した人」ではなく「誤った情報を拡散した人」が訴えられているんですか?
それとも、発信した人も既に裁判に入るなりなんなりしているのでしょうか?

拡散自体は他にもたくさんの人がしているのに、この人だけやり玉にあげるのは、見せしめのための職業差別にも思えます。
被害者側から見れば「他の人がどうだろうと、その人が罪を犯したことは事実」と言うのは分かりますが、やはりたくさんいる拡散者の中で1人だけと言うのは平等感に欠けます。
その点、発信者なら元から1人ですし、そもそもその発信がなければ拡散もされなかったという点で、発信者が訴えられるのが筋に思えます。
何故発信者ではなく拡散者が訴えられているのでしょうか?

A 回答 (4件)

誰が一番悪いか、ではなくて、誰が一番被害を与えたか、を問題にしているからでしょうね。


誰が一番の加害者か、については被害者が判断すべきことであって野次馬に口を差し挟む資格はありませんよ。

それと、誰と誰が訴えられたのかのすべての情報があるわけではないですから、元凶が訴えられているのかいないのか、それはわかりませんね。
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この回答へのお礼

なるほど、一番悪い人ではなく、一番被害を与えた人という観点なんですね。
しかし、「誰が一番の加害者かについては被害者が判断すべきこと」というのはちょっと違う気がします。それがまかり通れば司法は意味がなくなりますし、なんというか、強姦被害にあった人が強姦魔よりもその後苦しみを訴えたのに分かってくれなかった人を恨む…みたいな「矛先のウエイト違くない?」感がぬぐえません。

後半についてはやっぱりマスコミの姿勢の問題ですよね…
もし被害者の方が発信者及び主要な拡散者の全てを訴えているのなら、被害者の方は職業差別はしておらず、それをしているのはマスコミだと思うのですが、マスコミはそこを(少なくとも私とあなたが見ているニュースの中では)全く口にしていないので分かりません。

お礼日時:2019/11/04 21:21

拡散も発信と同罪ということで


発信者を除外してるわけではないよ

何も考えずに拡散するという事への戒めをしたいという意味では
発信者よりも拡散者を懲らしめたいという気持ちが強いかも知れないけどね

世の中の誤爆炎上は、無責任な拡散者の罪が大きいと俺は思うが
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この回答へのお礼

私は、無から有を生み出した人と、既に生まれている有を信じて他の人にもパスした人だったら、無から有を生み出した人の方がより悪いと感じますが…そもそも発信者がいなければ拡散されることもなかったのだし。
どうなんでしょう。

発信者を除外していないのなら、あとはマスコミの姿勢の問題だと思います。
「拡散者が訴えられた」と報じられれば「えっ、発信元の人は?」と思うのが普通だと思うのですが、マスコミはこの点を報じていないように見えます。
仮に報じていたとしても、その報道時間は天地の差。
現在は拡散したこと自体よりも訴えられた後の態度が悪いことが話題になっているようですが、職業を理由に、同じことをした人たちの中から不平等に抽出されて訴えられたとあらば、(それを表に出すかは別として)不快になるのも無理はないと同情してしまいます。

お礼日時:2019/11/04 21:15

発信者も拡散者も同罪でしょう。

そしてこのやり玉として上がった人も

TVドラマ等でよく犯人が逮捕されると、逮捕された人は「自分より悪いことしてるヤツはもっといる」などと言って、自分の罪が小さいことを訴えてくる場面なんかがありますよね。自分の罪は決して小さくはならないのに。

あなたが言っていることはこれと同じような気がします。
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この回答へのお礼

「自分より悪いことしてるヤツはもっといる」の意味が、
「自分より悪いことしてるヤツはもっといる。だから俺を逮捕するな」という意味なら私の言っていることとは違います。
「自分より悪いことしてるヤツはもっといる。なのにそいつらはのうのうと暮らしているのはおかしい。そいつらのことも捕まえてくれ。不平等だ」という意味なら、私の言っていることと同じだと思います。

「罪」は「罪」でもその大きさや重さは異なりますから、私は万引き犯と殺人犯が同罪だとは思いませんし、同じように発信者と拡散者が同罪とは思いません。無から有を生み出した人と、既に生まれている有を信じて他の人にもパスした人ですから、後者の罪は「確認しなかったこと」ひとつだと思います。
なのに今回、発信者がどうなっているのかは報じられずこの人だけが…だったので、強い違和感を覚えました。

お礼日時:2019/11/04 21:10

日本には裁判を怖がり、



訴訟におびえる文化が根強くあって、誤解があるのかもしれませんね。


裁判は広く平等に開かれており、これの利用については個人の都合で良いのです。

行政と独立した司法と言う別格の公共サービスであり、私たちの最後の砦です。

「訴えられたらお終いだ」

という話ではなく、十分に話し合い、公に申し開きをする場でもあります。


内閣が解散をし、選挙により国民の真意を問うように、

国民は裁判を求め、自らの正義を立証し、公に認めさせることが出来ます。

訴訟を起こされた人は、正しく自分の立場を評価してもらえるはずです。

判決により罪を問われた場合は、本当に不味い箇所があったという事です。

まだそういうフェーズではないのでしょう?

訴訟に応じて申し開きをすればよいだけです。

これに応じないというのは、人権を捨てたのと同じなんですよ。


裁判と言うのは、法の運用に伴って話し合いを行う場という事ですよ。

訴訟はそういう場を求めるという事です。

法律と言うのは、当人同士が話し合って施行されます。

定められた段階では何の効力もありません。

「と決めたんだが、いかがなものか?」

「従うつもりはない。」

「では、裁判で話し合おう。その結果は受け入れてください。」

「望むところである。」

と言う流れが基本です。

話し合いの結果、法律自体が違憲(憲法違反)であるという結論になる場合があります。

では、その間違った法律に従ってきた国民はどうなるのか?

「いや、国民と国が話し合って行ったことです。大人としての自己責任でしょう?」

と言う判断になります。

「とりあえず、おれは違憲でも従うわ。不満があるやつは裁判で話そう。」

「まあ、俺もそうする。」

と言う感じもありなんです。

つまり「法に従うように」と語り掛けた人もただの国民です。

政府の役人であっても、単に語り掛けただけの一国民なんです。

本当の決着は裁判によって行うとされています。

これを知らずに「法で決まったからと受け入れた」場合は、それも含めて自己責任です。

誰もそこまで面倒を見ません。

成人とはそれらを判断し、自分の利益を守れる人という定義になっています。


刑事事件の場合は、国から依頼を受けて検察が訴訟を起こすわけです。

国は国民に代わりに刑法に違反をした人を訴えるというサービスをしております。

そのために私たちは税を納めています。

これは私たちが求めているサービスであり、国によっては怠慢を行うところもあります。

日本はかなりまじめな方だと思います。

つまり裁判においては国も国民も同等であり、話し合いをしているだけなんです。

「話し合う前に良い悪いを結論してはいけない。」

そのため、訴訟を妨害することが民主政治では最も罪深いことになります。

ところが訴訟の前に当人同士が話し合う(示談)と言うのがあります。

もともと、話し合いが目的なので、これは良いとされます。


定義においては、意見を言い合う場が公に設置されているだけですから、

いちゃもんであっても受理されます。

さらに判決に対して疑問を持つ、再度訴える事は出来ます。

(前の裁判で結果が出ているのに、不満だという理由で何度も繰り返すような場合は却下されますが)


友人同士、またはネットなどのSNSで誰が悪い、誰が良いと意見を交わすことはできます。

しかし、これは当事者を交えた話し合いではありませんよね?

当然ながら、当事者が不満を持てば、噂をしている人と話し合う必要が出てきます。

この召喚(話し合い)に応じるのは社会人としての義務なんです。

しかし、

「え、ちょっと身内での議論をしただけだよ。

 そこまで束縛したら、何も話せないだろう?

 それは道理としておかしい。」

となりますよね。

そこで、

「しかし、あなたが使っていた道具では、

 公の意見として広く伝わることになります。

 それを自覚していましたか?

 身内だけではなく、他の人を巻き込んで広がると自覚していましたか?」

「それは知りませんでした。反省しています。」

と言う議論が焦点になるでしょう。

ここまで来ると当人の不誠実さを立証するのはグレーですよね。

訴訟を起こす効果が分からなくなります。


しかし今回の事件では「拡散希望」としていますから、確信犯です。

呼び出されて、当事者と話し合いになるのは仕方がないです。

つまり、誤情報であるかが問題ではなく、

当事者との話し合いが必要であることが重要です。


間違いがあるから訴訟により罰せられるという理解では正しくなく、

当事者が話し合う必要があると思い、話したい人を選んだというだけです。

「身内の話として納めることが出来たのに、

 SNSの効果を知っているあなたが、どうして拡散に協力したんですか?

 まずは、その真意を聞きたい。

 それは当事者同士が行う裁判以上に大事だと思ったのか聞きたい。

 私刑を意図する気持ちがありませんでしたか?

 それは民主政治に反していませんか?」


また、

話し合いですから、当事者ではない人も訴訟を起こすことが可能です。

つまり、質問者さんが本件の成り行きに怒りを感じているわけですから、

訴訟を起こして訴えることが出来ます。

このときに法律の専門家を雇い、支援を仰ぐことが出来ます。

しかし、訴訟の結果(相手の方を一時拘束するわけですから)

その費用は負けた側が持つ場合が多いです。

また、道理として明らかに負けると分かっている側に与する弁護士はいないでしょう。


これらを総合的に判断して、自分の意思で動くことが出来ます。

大人は個人として前に出て、戦う事を求められます。

また裁判を利用しない場合は、個人が公に意見を言う場が無いんです。

SNSで代替えしようとすれば、国家の方針に反しますから、想像以上に大きな罪になります。

しかし国と言う個人はありませんから、

何らかの法律を定めて行政が訴訟を行うか、

被害を受けたと感じた人が訴えなければ、裁かれることはありません。

万事大事にせず、効率よく生きるというのが賢いという訳です。


そうであっても私たちは、SNSを利用しながら、

訴訟のリスクを念頭にし、勝算を抑えつつ、意見をしないといけないのです。

便利であっても、扱いを間違えてはいけませんよね。

ネットでは安易に使われる「拡散希望」という文化は不味いですよ。

「公になるとは思いませんでした。」

と言い訳ができないですよね。

逆に拡散を防止したという証拠を残すべきでしょう。


民主政治、その仕組み、裁判や訴訟の意味を正しく理解し、

身近に危険があることも承知で、

SNを道具として上手に扱う必要があるという事ですかね。


以上、ご参考になれば。
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