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昭和20年代までは紙芝居屋も立派な職業でしたか?それで食べていくとも可能でしたか?

A 回答 (8件)

隠居したじいさんの暇つぶしです

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昭和一桁生まれの人から 「昭和25年ごろ「演劇の仕事していた。

紙芝居もしていた」と聞いたことあります。
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昭和初期から昭和35年頃まででしょうか?


街の路地裏まで遣ってきて、紙芝居を語るおじさんも、立派な職業です。
ただ、それだけでは苦しかったようで、行商なども遣ってましたよ。

紙芝居業は、紙芝居の作家や画家を雇い、「貸元」として紙芝居屋に有料で紙芝居を貸し出し営業させるという制度で成り立っています。
ですから、紙芝居屋は、5円前後で飴や煎餅を売って貸元に紙芝居の借り賃を払う
駄菓子も仕入が必要。
路地裏を周る時間も、下校の3時半から日没までの2時間程度。雨の日は休み。
だから、紙芝居屋だけでは成り立たず、行商等の副業も遣らないといけなかったのです。
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私が小学生の40年代前半まで来てたね。


その時は、今で言えば年金暮らしの年配のおじさんがタバコ銭稼ぎになってた感じでしたよ。
でも、その前は、勤め人より稼げたそうです。
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終戦後の昭和20年から30年にかけて、紙芝居やさんが街にやって来ましたよ。


水飴に、薄い煎餅を絡ませ、1円から5円位で紙芝居を見る子供たちに、売って居ました。
飴を買わないで、紙芝居を見てる子には、見せないなど、意地悪もして居ましたよ。
当時の人気は、何と言っても、
「黄金バット」でした。
漫画も、読む本も無い時代、循環の紙芝居は、私たちの唯一の楽しみでした。
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紙芝居屋の目的はあくまでも飴などの駄菓子を売ることであって、紙芝居はそのための「人寄せの道具」でした。


要するに、飴を買ってくれた子どもにのみ紙芝居を見る権利が与えられたんです。
紙芝居は「おまけ」だったんです。
紙芝居屋というのは、実は正体は「飴屋売り」で、形を変えた姿だったんです。
1個10円で売っても、20人集まったら200円・・・それを何か所もやるんです。
当時は子供が多くて娯楽が少なかったですから、大勢集まったわけですね。
1日1000円の売り上げとしても、20日やって2万円・・・
昭和20年代でサラリーマンの月収10000円、30年代で15000円程度でしたから、十分に儲かる商売と言えます。
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解釈


飴屋が飴を買ったら人々に紙芝居を見せた。

おこちゃまは
紙芝居を見たさにお金を払うと飴も貰った。
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紙芝居屋も立派な職業ですよ。


子どもからは絶大な人気がありましたしね。
昭和30年代前半までは、それで食べていくことも十分可能でした。

日本が高度成長する以前(昭和35年以前)は市民生活は戦前とほぼおなじでした。
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