No.1ベストアンサー
- 回答日時:
鎌倉時代に道元という曹洞宗の僧は、老子の無為自然を自然=じねん、と呼び、人の生き方、あり方について考えていましたね。
物事の状況に、合わせ、だからこそ、こだわりを持たず、臨機応変に生きる、という人の生き方ですね。この生き方こそ、真の自己のあり方であると道元は考えたのですよね。真の自己のあるべき姿、真自の発見を、言葉で表したのは、彼がはじめてではないですか?そこから、一物ある、悪い意味での、物事へのこだわり、執着に注意するように、とわれわれ日本人なら、自己のあり方=真自を日常の作業習慣のなかで学んでいますね。早速のご回答ありがとうございます。
<道元>が<物事の状況に、合わせ、だからこそ、こだわりを持たず、臨機応変に生きる>ということを説いているのですね。
<真の自己のあるべき姿、真自の発見を、言葉で表したのは、彼がはじめて>なのですね。
<真の自己>は自分だからこそ発見できにくいのでしょうね。
No.6
- 回答日時:
№5です。
コメントをありがとうございます。必ずしも結論の出がたい領域に入って来ていると思います。
あるいはつまり 同じ主題で同じ何らかの対象をあつかっている
かも分かりません。ただそれを説明する表現が違っているといっ
たような情況。・・・
《わたし》と《わたしの奥なるわたし》という主題です。
単なる資料のようにして わたし(ぶらじゅ)の側の説明の仕方
を述べてこの問への回答を終えたいと思います。
《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》
は もしそれがあるとするなら 人間の心の窓を真理(神)へ開
くきっかけであるかも知れない。
ところが わたしが何かを疑うとき その疑う対象や疑っている
内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことば
がある。
《世になぜ善と悪があるか》と疑っている主題がどう展開するか
このこととは別にわたしは わたしが今疑っているということを
知っているというそのことについての言葉がある。
それは ほんとうは疑うべきではないのではないかという隠れた
思いであるかも知れない。
それは いやいや疑うべきであり 疑って必ずや真実を明らかに
しなければならないという義憤でありうる。
――そういった・あいまいだがわづかにでも意味のとれる言葉の
ようなものが 心の奥に動きを見せるときがある。
これらは そうとすれば 限りのある・移ろいゆく・あやまちう
る存在である人間にも みづからに得られる真実のことばである
ように思われる。
けれども――いまの問題は―― この真実のことばが いかに
なぞの真理のことば(超自然なる場ないしチカラ)から遠いかを
わたしたちは 見なければならない。
今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないの
だ。だからである。
思惟の成果も せいぜい座右の銘になるのが 落ちである。
《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に
用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさら
にその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》
に伴なう真実の言葉とがある。
後者は いかなる国語にも属さないと考えられる。そのあと 判
じるようにして いづれかの国語において意味を取るかたちであ
る。
これらふたつの種類の言葉は いづれも或る種のかたちで 《わ
が精神が旋回しつつ運動する》かのようである。
旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには しかも そ
の解とは別に 解は もはやあたかもどうでもよいと思わせるか
のように奥のほうには 真実のことばが控えている。
――とわたしたちはいま言おうとしている。二つの種類の言葉で
ある。
けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語に
も属するとは思われないような音や声》として こころに語られ
るかのようである。
《よくやったぢゃないか》とか 《そのとおり。そこに われ
われはあるのだ》とか きわめて単純な安心のことだったり も
しくは 或る種の仕方で意志の一時の休息のごとくであったりす
る。とも言い得る。
もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしたちはなおこ
のわが心の真実としての《親しき内密のことば(verbum verum
intimum )》をも超えてさらに窓を 開かねばならない。
☆ アウグスティヌスの『三位一体論』の一部を 勝手に脚色し
たものです。お粗末でした。
《わたし》がふたつに分かれているか。または 《わたしの言葉》
が二種類に分かれているか。でしょうか。
度々のご回答ありがとうございました。
また、辛抱づよく長くお付き合いして頂きまして、恐縮しています。
<《疑いを持ったゆえ思考すること》に伴なうふつうの日常生活に
用いるのと同じ言葉と そして《その疑いや思考をあたかもさら
にその奥にあって見守りつつ思惟をかぶせるように及ぼすこと》
に伴なう真実の言葉とがある。>
日常とくに意識していない状態で動いている私とは別に、もう一つの私が存在している、と思います。それぞれの私が、引用文の前段の言葉と後段の言葉とに対応している、と思います。
<けれども心の奥からの真実の言葉は 《わが日本語やどの言語に
も属するとは思われないような音や声》として こころに語られ
るかのようである。>
人類という生物の共通の原言葉なのでしょうか。赤ちゃんの喃語なのでしょうか。(しかし、喃語としては知性がありますが)
No.5
- 回答日時:
№4です。
別の角度から考えてみました。★★(【Q:超自然的な力(神など)すなわち物的証拠のない何かを信じる
ことは、進化論的にみて人類の生存に役だってい】№24お礼欄)~~~
<《信じる(霊性)》ということをすでに始めている段階の社会では こ
の信じるの対象――《超自然のチカラ》――を 互いのあいだの信頼関係
をつよめ保つために 引き合いに出す>のですね。
<《神に誓って;天地神明にかけて》というような文句>が働くわけです
ね。
<このことは 個人にとってその主観内面においては 心のやすらかさを
保つために役立っている》。
これが、小さい神の芽生えになるのでしょう。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この場合は 《〈わたし〉の奥なる〈自我〉》は必ずしも引き合いに
出されてはいないのだと思います。
全体としてのわたしにとって あるいは わたしと自称する存在(行為主
体)の全体にとって そのわたしの背後においてのように《小さい神》が
あたかも感じられる・・・と言っているのだと思います。
ところで park123さんは:
〇 《〈わたし〉は いわゆる代名詞ではなく もともとは固有名詞であ
った》
☆ という考え方をご存じでしょうか?
〇 《〈わたし〉という固有名詞から出発したが そしてそのときには
だれのだれべえという呼び名が 代名詞であったが じっさいの使い勝手
がよくないので ぎゃくにしたんだ》
☆ といった捉え方です。史実かどうかの問題であるよりも 《わたし》
とは何か? についての一つの答えを出しているかも知れません。
その考え方によるならば 《わたしと自称する生き物》が この世にふた
りといない掛け替えのない存在であると暗に言っています。
つまり――わたし(ぶらじゅ)の言いたかったことは―― この固有の呼
び方として始まった《わたし》にこそ 《ちいさい神》がめばえる・・・
のではないか? です。
だとするなら 《自我》と規定する何かが そこに入る余地はない。とは
思うんですけれど だめですかねぇ。
無理に《自我》なら自我という自己規定を持ってくるから われにとって
の神は あたかも立派さをきそう《おおきい神》が必要になってくるので
はないだろうか・・・と。
度々のご回答ありがとうございます。
ご存じだと思いますが、私の説明は、説得力のある根拠がなく、私の感じだけで綴っていますので、箸にも棒にも掛らない戯言と思って頂いても結構です。
<考え方によるならば 《わたしと自称する生き物》が この世にふた
りといない掛け替えのない存在であると暗に言っています。>ですね。
私は、<掛け替えのない存在>に対で、やはり<掛け替えのない>自我があるのだ、と思っています。たとえば、私が本を読んでいる時、私(自分)は何をしているのかな、とふと思うものが自我だと思っています。bragellone様の私が、私の私と自我とに分けられたのかな、とも思っています。
それから、書き方が不用意だったのですが、引き合いに出す、というのは、神(大きな神の方)を引き合いに出す、のことでした。
幼児は私を使えんませんね。自分のことを○○ちゃんと呼びます。私は、固有名詞なのか代名詞なのか、むづかしいです。
No.4
- 回答日時:
コメントをありがとうございます。
★ (№3お礼欄) 私の感覚上、私の奥に、固い自我が隠れており
☆ という《感覚》について考えてみました。
《わたし》と《自我》とは 別のものであるという感覚ですね。
ひょっとしてそれは 《わたし》系の独語 Ich や英語 I のほかに ラ
テン語のエゴ( ego )があるといった事情にかかわっているでしょう
か?
的外れかも分かりませんが エゴとイッヒやアイとは まったく同じ
一つの語です。訛っているだけです。というお話をかかげます。
▲ (OnlineEtymologyDictionary: I (わたしが)) ~~~~~~~
http://www.etymonline.com/index.php?term=I&allow …
△ I (pronoun.)
1. 12century. shortening of Old English ic, first person singular
nominative pronoun,
☆ 英語でも元は 《 ic 》であった。
2. from Proto-Germanic *ek/*ik :☆ これがさらに古いかたち。
(☆ アステリスク(*)は 文献にないが推構した形だと言っています)。
3. (cognates: 姉妹語として:
Old Frisian ik,
Old Norse ek,
Norwegian eg,
Danish jeg,
Old High German ih,
German ich(イッヒ),
Gothic ik,
4. from PIE *eg-, :☆ とPIE(原インドヨーロッパ語)での元々
の語が推構される。
5. (cognates: ☆ その旧いかたちの兄弟語:
Sanskrit aham,
Hittite uk,
Latin ego (source of French Je, Italian io, Spanish yo),
Greek ego,
Russian ja(ヤー),
Lithuanian aš.
6. Reduced to i by mid-12c. in northern England,
it began to be capitalized mid-13c. to mark it as a distinct word and
avoid misreading in handwritten manuscripts.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 英語の《 I 》は ギリシャ・ラテン(いづれも ego )あるい
はサンスクリット( aham )から訛って来た(簡略化して来た)かたちだと
見られます。
(サンスクリットのアハンは → アカン→ アガン→ アゴ― → エゴ―とい
う変化を思うとよいようです。cf. ハハ(母)∽カカ(嬶)→かあさん。)
エゴイズムというふうに使うと いわゆる《他者のことよりも自分をつよく
押し出す》という意味での自我・エゴという感じになっています。
《わたしを大切にする主義》なんでしょうが。
質問者さんは:
★ 《わたし》の奥の《固い自我》
☆ としては 何か純粋なわれといった感じでとらえておられるのかどうか。
主流かどうかは分かりませんが 日本の伝統のひとつに 《則天去私》があ
りますね。《無私の精神》とも。
どうなんでしょうかねぇ。おそらくみな あくまで互いにおのおのの《わた
し》を活かすためにという基本があった上でなのだとは考えたいですね。
再度のご回答ありがとうございます。
語源についてのご説明は了解しました。
考えていたのですが、私と自我が別と感じている理由は、”私”は和語もどきであリ、”自我”は漢語もどきであるため(和語と漢語の厳密な区別は無視しています)、私には自我は固さが感じられた、ようです。
私の思っている自我は、何か純粋なわれといったものでもなく、<《無私の精神》>という立派なものでもなく、たんに生物的な・価値には関与していないもの、です。
No.3
- 回答日時:
わたしたちは 《ふと われに還る》ということがあります。
あやまちを侵したとき・まちがひをやらかしたとき ああわたしは
何てばかなんだ! と気づき われに還ります。
この《われ》が わたしの《わたし》です。間違いなくわが《おの
れ》のことです。
《自我》という言葉は 哲学にふさわしくないという議論を添えま
す。
《 das Ich; the 'I' 》というのですから 《われ・わたし・わたく
しなるもの》のことです。
《自我》というのは ただの飾りのような言葉です。無駄に重畳と
なっているように思います。
定義があいまい(多義性)であってそのように意味をひとつだけに
定めないで用いる文学用語としては使い甲斐があるのかも知れませ
ん。
たとえば わたしの中で エス(リビドー:無意識)の欲動とそし
て規範にしたがう規律を重んじる超自我とがぶつかり合うところを
つねに均衡させつつよく行動するというのが 《自我》だと言うば
あい そうだとしても それもふつうの《わたし》のことにほかな
りません。
《わたし》が いくつかの条件や情況を総合して思考し判断し行動
します。
わたしが思い考えるのであって 自我が思い考えるのではないわけ
です。
早速のご回答ありがとうございました。
<定義があいまい(多義性)であってそのように意味をひとつだけに
定めないで用いる文学用語としては使い甲斐があるのかも知れませ
ん。>ですね。
それでも、私の用語感覚(当然、他者と共有できるはずがないでしょう)でコメントします。
私の感覚上、私の奥に、固い自我が隠れており、その奥に<エス(リビドー:無意識)>と<超自我>が見張っているいるような気がします。
<《ふと われに還る》>の<われ>が、私なのか自我なのか迷っています。
「確かに、<《自我》というのは ただの飾りのような言葉です。無駄に重畳と
なっているように思います。>ですね。
<わたしが思い考えるのであ>るが、私は自我に頼っている、という気がします。
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