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ソ連末期のアネクドートです。ブレジネフやゴルバチョフのどのような歴史的行動を描写しているのか教えてください。

「ソ連末期のアネクドートです。ブレジネフや」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • ちょっとした解説もつけて下さると幸いです。

      補足日時:2020/03/01 17:34

A 回答 (2件)

スターリンは、レーニンの下で1917年のロシア革命に参加し、1924年にレーニン没後にその後継者になりました。


後継者争いをしていたトロツキーを「左翼冒険主義者」として追放し、亡命先のメキシコで暗殺しました。
そのようにしてソビエト連邦で権力を握ったスターリンは、1928年から急速な工業化や農業集団化を進め、反対する者を「国民の敵」として「粛清」しました。
「運転手を銃殺せよ」とは、この「粛清」を揶揄したものです。
しかし、スターリンは1941~1945年の第二次世界大戦(ソ連が参戦したのはドイツのソ連侵攻が始まった1941年)の独ソ戦(ロシアでは「大祖国戦争」と呼ぶ)を戦い抜いて勝利に導いた英雄でもあります。

1953年のスターリン没後にソ連を指導することとなったフルシチョフは、「スターリン批判」を行って闇に葬られていた「粛清」の実態を公表して断罪し、粛清で処分された人たちの名誉回復を行ないました。
これが「運転手の名誉を回復せよ」という発言の元ネタです。
フルシチョフは、資本主義陣営との対決姿勢(「冷戦」と呼ばれた)の緊張を緩和するために、資本主義と社会主義の併存を容認する「平和共存」路線をとりましたが、その路線に反対する勢力との争いに敗れて1964年に失脚・引退し、その後をブレジネフが継ぎました。

ブレジネフは、アメリカを筆頭とする資本主義陣営と対立しながらも、これといった業績や成果もあげられず、ソ連社会は長期的な停滞状態となりました。ブレジネフの時代の1979年に悪名高いアフガニスタン侵攻を行い、これに抗議するアメリカなどが(日本も)1980年のモスクワ・オリンピックへの参加をボイコットしました。
ブレジネフの政策は、急進的(左寄り)になったり保守的(右寄り)になったり場当たり的で一貫しませんでした。
経済は停滞しているのに、政府は「順調に進んでいる」と言い続けていました。
これを、「何も成果をあげない=寝ている」「政策が場当たり的=左右に体をゆする」「真実を伝えない=だれも列車が止まったとは分からないだろう」というように言っているのでしょう。

ブレジネフの後も、アンドロポフ、チェルネンコといった指導者がいましたが、同様に鳴かず飛ばずでした。

そういった閉塞したソ連を打破しようとしたのが1985年に登場したゴルバチョフで、「改革」(ペレストロイカ)や「情報公開」(グラスノスチ)を進めましたが、その結果として1990年のソ連の崩壊を招くという皮肉な結果となりました。
ブレジネフたちの国民に真実・実態を伝えないやり方に対して、正しく情報を公開する(これが「グラスノスチ」)ことを、列車が動いていないなら「動いていないと叫ぶことだ」と言っているのでしょうね。


・・・という風に、いちいち解説しないといけないものは、もはや「風刺」ではありません。
お笑い芸人がいろいろ「お笑いネタ」を言っても、誰も笑わない(理解できないから)というのと同じ状態です。

このような解説を書かないといけない、ということ自体が「お笑い」であって、「風刺」そのものですなあ。
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スターリン 個人崇拝と大粛清


フルシチョフ スターリン批判、雪解け
ブレジネフ 特にこれといった言い方はないが、スターリン体制への回帰
ゴルバチョフ ペレストロイカ
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この回答へのお礼

すごくよく分かりました‼
丁寧な解説ありがとうございました。

お礼日時:2020/03/01 20:29

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