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ソ連も中国も同じ共産主義国家だと聞きましたが、
どうしてソ連は滅びて、中国は残ったのでしょうか。

両国の思想や制度に、何か大きな違いがあったのでしょうか。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

76年に毛沢東が亡くなり文化大革命がおわります。


78年に、資本主義者(走資派)として追放され、復権した鄧小平の元で中国は改革開放をおこない、政治は共産党独裁社会主義だけれども、市場は資本主義で原則OK、としました。先富論(富める者から富め)、黒猫白猫論(黒でも白でもネズミ--お金--をとる猫がいい猫だ)という、社会主義ではないことを主張し、始めたわけです。抵抗する地方幹部には鄧小平自らが出向いて叱責し、社会主義市場経済というシステムが発生しました。
沿岸部、都市部から経済活動がもうけのためにはじまり、米中和解がなった中国に外国から投資がおきました。働いたぶん儲かるのなら、人は動きます。

方やソ連は、やった人もやらない人も同じようにお金が手に入る。本来なら、みんなで働いてみんなで豊かになろう、という人間性善説に立った社会システムにこだわって、現実的に経済が機能しなくなっていました。
ジャガイモ作る人は、ノルマはたしたらオシマイ。出来上がったジャガイモが、倉庫でだめになる、という状況です。倉庫の人は、保管する仕事はしているので、そこでオシマイ。鉄道は、もって来ないからいっちゃうよ、で、空の貨車引いても仕事をしたことになります。これではいけません。
そのソ連にレーガン政権が「軍拡競争」をしかけます。対抗して軍備を整える必要がありますが、お金はドンドンなくなります。しかし、お金をもうける経済システムは、機能しない。で、とうとうソ連は競争の体力がなくなって、崩壊したわけです。
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 大局的には・・・


 ソ連は西側諸国と比べて、経済圏がはるかに小さいのに、同じ程度の軍事力を維持をしなければならなかったこと。

 No.1の方の指摘のように、中国は中越戦争の結果(実質的にベトナムに対して、敗北に近い戦いとなった。)、経済を資本主義化しないと国が守れないということが明らかとなり、人民解放軍が鄧小平路線を支持し、経済開放に向かった。

 短期的には・・・
 ソ連がアフガニスタン内戦に介入し、社会主義傀儡政権を作ったが、内戦が戦闘が泥沼化して、10年間戦い続ける結果となった。
 このため巨額の戦費を費やして、ソ連経済が崩壊状態となり、戦線末端に補給物資が届かなくなるなどの問題が恒常化し、撤退の羽目に追い込まれた。
(1979年、ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。
 軍を戦いに行かせておきながら、補給物資を届けることができない共産党政権に対して、軍の支持がなくなり、共産党一党独裁政権であるソ連の命運が尽きた。

 ウィキの抜粋
「エリツィンは、1989年3月の人民代議員大会選挙にモスクワ選挙区から出馬して当選し政界への復帰を果たす。この年民主綱領派のリーダーとなる。翌年の1990年5月にロシア共和国の最高会議議長(実質大統領)に就任。同年7月13日にはソ連共産党を離党宣言し世界に衝撃を与えた。1991年6月12日に行われたロシア共和国大統領選挙では57.3%の得票率を獲得して当選し、同年7月にロシア共和国大統領に就任。同年8月にソ連のゲンナジー・ヤナーエフ副大統領が起こしたソ連8月クーデターの際には戦車の上からロシア国民に対しゼネストを呼びかけるなど徹底抗戦し、民衆もこれを支持。結果としてクーデターを失敗に終わらせた。

この事件の後、ゴルバチョフの求心力が低下し、代わってエリツィンの影響力が増大する。同年11月6日、エリツィンはソ連共産党系のロシア共産党が活動することを禁止した。12月8日、エリツィンはウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS)の樹立を宣言することで合意した(ベロヴェーシ合意)。ソ連崩壊は避けられなくなり、12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任。ソビエト連邦はその歴史に幕を下ろした。」

 アメリカでさえ、ベトナム戦争で多額の戦費を浪費して、ドル危機が起きましたし、ブッシュはイラク・アフガニスタン派兵の長期化で、赤字国債乱発をおこない、世界的な金融危機を発生させて、世界中を不況にしてしまいました。(クリントン政権下で行われた世界的金融自由化によって、アメリカの作ったバブルが世界的なものになってしまいました。)

 長期の泥沼の戦いは、悪影響だけが残ります。
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2つの理由が挙げられると思います。

1、旧ソ連圏が大きすぎた。2、経済の発展速度の違い

まず1についてですが。中国のが完全に支配下においている地域は中国のみ(当たり前ですが)それに対しソ連は広大な範囲を支配下においていました。東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア・・・。これら全ての国において大きな影響力を持っていました。
 
加えて、「ソ連」という国も大きかった。現在のロシアに加えて、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、アフガニスタン、リトアニア・・・。ソ連崩壊後にソ連連邦から独立した国だけで10を超えます。
これだけの国を自国の体制化に置くということは、それだけの固有の文化・宗教・風俗を有する民族を自国の体制化に置かなければならないということになります。

中国の「主役でない」地域の人々とソ連の「主役でない」人々の数の違い。これが統治をソ連にとって難しくします。

もともとの不満に加えて、経済がうまくいっていないことが拍車をかけました。資本主義国家に比べての社会主義国家の経済の停滞。現在の中国はGDPで毎年8%以上の成長という景気の良さですが、ソ連は毎年のマイナス成長。「独立して、資本主義国家になりたい」という願望が各国に生まれました(ちなみに今の中国は社会主義市場経済をとっています) 資本主義国家を採用するということはソ連の崩壊につながったのです。
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米中和解があったから。


長期の持久戦となったときに、最終的には生産力がどっちがある?特に高度な兵器を作れる力がどっち?ということになった。これが冷戦の構造。
ソ連+中国 VS アメリカ+西欧諸国
で、あったのを、
ソ連 VS 中国+アメリカ+西欧諸国
という構造にした。これが米中和解。
で、ソ連がグダグダであることに気づいた鄧小平は、「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕るのが良い猫」として、資本主義に変えちゃったわけです。
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