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「ヘーゲルの弁証法とはある意見(正 テーゼ)に対して、それの反対意見(反 アンチテーゼ)とが対立するなかで、それぞれのいい点を合わせたもの(合 ジュンテーゼ)を考えだす論理」なんですか??学校でこう習ったのですが納得いかないんで・・・。わかりやすく教えてください。

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A 回答 (4件)

思想の例がいいんじゃないかと思って、参考程度に


自由は追求するととてつもない差別が生まれます。
一般的に貧しいものはより貧しく富めるものはより豊かになりますね。富の差が生じますね。
一方、平等は追求すると一切の自由を束縛します。
自由は制限され一番多い貧しいものにあわせると貧しくなりますね。貧しさの平等ですね。
そういう意味で自由と平等は。正と反ですね。
この正と反の壮大な文明実験が自由主義国家アメリカと共産主義国家旧ソ連の例と考えてよいでしょう。
この自由と平等を正と反とすると合とはいかなるものかということですが、自由で平等な足して二で割ったような国家は現実的に存在出来るかといえば、それはないでしょう。自由と平等の矛盾を内在し、それを乗り越える第三の道、それが合というものでしょう。
でも200年の文明実験でもいまだに解が無いところをみると合はわりと難しいことなんですよね。東洋的には中道とか中庸ですね。簡単にいいとこどりしたものが合というものでは無いということですね。
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この回答へのお礼

具体的な例を挙げての説明ありがとうございました。大変わかりやすかったです。

お礼日時:2005/01/05 20:43

ちょっとうがった観点をご紹介します。


たとえば、世の中の事物のすべてが真っ赤だったとしたら、われわれは青色の存在を知りえないばかりか、赤色でさえその存在を認識することはできなかったでしょう。赤ではないもの、たとえば青や黄色を認識してはじめて、われわれは「赤」や「青」といった「色」の存在を認識しうるようになるのだと考えられます。
そこで、「赤」(正)と「青」(反)との対立から、より高次の「色」(合)という概念にたどりつく、というような観点が、ヘーゲル解釈のなかから出てくるわけです。

いずれにせよ、「それぞれのいい点を合わせる」とする説明は、ちょっと語弊がありますね。
いい悪いは別として、対立する部分だけに着目せよ(うえの例でいえば、「色」だけに着目して「形」は無視せよ)、ということです。
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この回答へのお礼

わかりやすい説明ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/05 20:38

あまり詳しくはないんですが、植物に例えれば


「種」→「芽」→「茎・葉」→「花」→「種」

・「種」という主張(正のテーゼ)が否定されて「芽」になります。
・次に「芽」が否定されて「茎・葉」になります。
・「茎・葉」が否定されて「花」になります。
・で「花」が否定されて、また「種」になります。


「A」←<対立、矛盾>→「B」
       ↓
     「A+B(止揚)」←<対立、矛盾>→「D」
             ↓
          「A+B+D(止揚)」←<対立、矛盾>→

こんな感じで、ある主張(テーゼ)に対立、矛盾する主張(アンチテーゼ)があって、止揚(保存、高次元)へと移行していくと言った意味だと思います。

つまり対立、葛藤が繰り返されてより高みの段階にいけると言った意味だと思います。



赤ん坊も対立、葛藤を繰り返して成長します。
成長と共に、赤ん坊の世界に対する認識も大人のそれへと変化していきます。
つまり意識が成長すれば、対象である世界もそれに応じて変化していくんです。

そんな風にして、成長していけば、意識はいつかはやがて世界をも知り尽くすとヘーゲルは考えたようです。
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この回答へのお礼

図まで書いての説明ありがとうございました。助かりました。

お礼日時:2005/01/05 20:44

全然違うと思われます。


1.あらゆるものは、それ自身を否定する要素を内在的に持っていて、
2.その要素が外在化してもとのものと対立する。
3.これらの対立はもとのものも、その対立物をも否定したより高度なものを生み出す。
といった考え方なんじゃないでしょうか。
必ず対立物が存在すること(それこそがものごとの本質)、また新たに生み出されるものがそれらのいい点を合わせたものとは限らない、むしろそれら両方ともを何らかの意味で否定したものであることこそが重要です。
長谷川宏さんの「ヘーゲルを読む」(講談社現代新書)なんか読むといいです。現代的な問題を改めてヘーゲルを通して考えるような本ですので。
それにしてもどこの学校ですかね。そりゃでたらめというか、少なくともヘーゲル読んだことのない人のせりふですね。まあ、読んだことのない本の内容を教える、なんて社会科系の教師にはよくおられるようですが。
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この回答へのお礼

本まで紹介していただきありがとうございました。大変ためになりました。

お礼日時:2005/01/05 20:45

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Qテーゼとアンチテーゼの意味

この前、本を読んでいてでてきた「テーゼ」と「アンチテーゼ」の意味が辞書で調べてもよくわかりません。分かりやすく、教えてくだされば幸いです。

Aベストアンサー

哲学での用語法ですね。
アンチテーゼは誤解のある言葉です。
「反テーゼ」=「アンチテーゼ」として説明しているもの
がありますが、それはちがいます。

「魚とは海に泳いでいるものの総称である」
という主張(テーゼ)がある人から出されたとします。
これは一見正しいように見えるわけですが、そこには
落とし穴があります。そこをついて他のテーゼを出すの
がアンチテーゼです。

Q老荘思想とはどんな思想ですか

老荘思想とはどんな思想ですか

バカでもわかるようにやわらかくお教えください。
例え話なんかも助かります。

Aベストアンサー

老荘思想とは、老子や荘子という人物によって創始された思想です。老子と荘子は別に知り合いでも何でもありませんが、考え方がほぼ同じなので両者の思想をひとまとめにして老荘思想と呼ばれています。蛇足ですが、荘子とされる人物は複数(少なくとも3人)おり、老子も含めそれぞれ生まれた時代が異なります。

孔子の儒教が「人はこう生きねばならぬ」「物事はこうでなくてはならぬ」というガチガチに固められた道徳体系であるのに対し、老荘思想は「物事の善し悪しなんて考え方次第なんだから、気楽にあるがままでいいんだよ」という自由奔放さが特徴です。

自然を崇拝し、無私無我を理想とし、自然にあるがままにいるのを善しとします。
世の中に絶対的なものや、絶対的な価値観など存在せず、すべては相対的であると考えます。

たとえば・・・
・長生きすることは良いことだとされていますが、長生きするということはそれだけたくさんつらい思いや恥ずかしい思いをすることでもあるので、必ずしも良いというわけではない。
・ある人が60歳で死んでしまったとする。60年という寿命は春に生まれ秋に死んでしまう虫に比べればとても長いが、800年生きた仙人から比べればとても短い。その仙人の寿命だって、1万年生きる亀に比べればとても短い。長い短いなんて何と比べるかによって変わるもので、長い短いを決める絶対的な尺度なんかない。
・美人は多くの人に好かれるので良いとされる。でも、美人は悪党にも好かれてしまうし、妬みを買うこともある。神様への生贄にされたり暴君へ献上されたりすることもある。美人であるということが良いこととは限らない。
・大きいけど脆いヒョウタンがあった。大きいからたくさん水が入るが、脆いのでたくさん水を入れると自重で割れてしまう。なので水を入れるためのヒョウタンなのに使い物にならないと捨てられた。でも、そんなヒョウタンでもたくさん集めてつなげて水に浮かせば筏の材料になる。役に立つ立たない、有用か無用かは使い方次第だ。
・仁や義は美徳とされているけど、ヤクザも仁義を大事にしている。戦争になれば仁や義を名分に虐殺が行われたりする。世の中の悪行の多くが仁義を名分に行われていることを考えると、仁や義も絶対的に良いものというわけではない。
・あるところに染物を生業にしている一族がいた。一族は染めた布を冷たい川の水に晒しているので、アカギレやシモヤケの薬を愛用していた。一族の一人は領主である武将に献上し、武将はその薬を大量生産して兵に配った。おかげで武将の軍勢は冬の寒さにも耐えて敵を圧倒し、勝利することができた。薬を献上したものは褒美をもらって豊かになったが、ほかの一族はそれまでどおりの生活を続けた。同じ薬でも使い方次第で成功することもできる。
・知識人は知識をたくさんため込むけど、その知識の多さゆえに常識にとらわれて何もできなくなってしまう。知識は大事だけど知識に閉じこもるのではなく、知識を超えなければ意味はない。
・本には知識がたくさん詰め込んである。でも何かをするコツとか経験とか、文字にできないものこそ本当に大事なのであって、どれだけ文章を読んでも言外の知を読み取れなければ結局何も学べない。だが、知識人は本をたくさん読んで知識をたくさんもって、何もできないのに知った風な気分になって尊大な態度をとる。読書人の読書知らず・・・

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Q残酷な天使のテーゼの「テーゼ」の意味

新世紀エヴァンゲリオンの主題歌残酷な天使のテーゼの「テーゼ」の意味を教えてください

Aベストアンサー

テーゼ=These
でドイツ語です。
「肯定的に主張すること。そうする為の判断・命題。」
となりますが、元が哲学的な言葉ですのでそれなりの知識が無いと理解でき無いかもしれません。

ちなみに、反対語は「アンチテーゼ」antitheseとなります。

Q弁証法的な発展とは

[弁証法的な発展]とはどういう意味なのでしょうか。

検索してもさっぱり意味がわかりません。

簡単な例で教えてください。

Aベストアンサー

弁証法というと、ものものしいですが、基本は対話の構造です。
質問者さんは、日常でこんな経験をなさったことはありませんか。あることを主張する。そこに反論が来る。相手を納得させるためには、より説得力のある論拠が必要だ。それを考えて最初の主張を発展させていく……。これが弁証法です。

具体的に考えてみましょう。

A「焼き鳥は塩がうまい」
B「いや、タレの方がうまい」
そこで「塩だ」「タレだ」と言い合っていたら、平行線をたどるだけです。
ここでAの人は別の視点を持ってきます。

A「塩の方がカロリーが少ないから健康にいい」
このときAさんは最初の「塩がうまい」という主張から、より人の賛同をえられやすい主張へと転換しています。この転換を「発展」ということができます。

このように、まず、あることがらについて最初の分析をおこないます。…「テーゼ」
つぎに、それに反対する意見が出てきます。…「アンチテーゼ」
ここからこのふたつの対峙するテーゼを包括できるような第三のテーゼが生まれてきます。これを「ジンテーゼ」と呼びます。

あらゆるもののなかにこの弁証法の構造は隠れています。
わたしたちは、たとえばプレゼンなどのようなときにも、自分の考えを煮詰めていく段階でこれをやりますね。
最初に主張すべきことを考える。それに対する反論を見越す。反論に応えられるように最初の主張を練り直し、反論をも含んだものにしていく。

あるいは恋愛ドラマでも同じです。
主人公は恋に落ちる。
その恋を妨害する出来事や人が登場する。
障害を乗り越えて主人公は恋愛を成就させる。
→そのとき、主人公はかならず人間的な成長を遂げています。

テーゼはアンチテーゼの登場によって、より高次のジンテーゼへと発展します。
これをヘーゲルは「止揚」(しよう)と呼びましたが、まあ用語はどうでもいいことです。
こういう関係を「弁証法的発展」といいます。

弁証法というと、ものものしいですが、基本は対話の構造です。
質問者さんは、日常でこんな経験をなさったことはありませんか。あることを主張する。そこに反論が来る。相手を納得させるためには、より説得力のある論拠が必要だ。それを考えて最初の主張を発展させていく……。これが弁証法です。

具体的に考えてみましょう。

A「焼き鳥は塩がうまい」
B「いや、タレの方がうまい」
そこで「塩だ」「タレだ」と言い合っていたら、平行線をたどるだけです。
ここでAの人は別の視点を持ってきます。

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Qヘーゲルの弁証法

ヘーゲルの弁証法についてですが、
教科書では「正」を蕾、「反」を花、
「合」を実としています。
この例えが一体何を意味しているのかが分からないのですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3通りほどの「弁証法的運動」が語られています。それに、彼は何でもかんでも三拍子のリズムに無理やり押し込んでしまうクセのある人ですから、押し込んだモノによってはどうしようもない無理が出てワケがわかんなくなったりもしております。たぶん、彼自身、わかってない。

 が、きわめて大まかではありますが、「より全体的・包括的な見方、考え方へと上昇していく運動」とは言えようかと思います。「より全体的・包括的な方へ」です。それ考えますと、「蕾=正」「花=反」「実=合」という説明は適切とは思えません。「実」が「全体」であるかのように読めてしまうからです。No.2のkequさんが引用されている箇所は、そうは言っていません。「蕾と花と実は、同時に両立せずに交代するが、それらはその植物にとって一時的なあり方であり、それらが生まれ、消えていく過程そのものがその植物の全体である」といったあたりです。「その植物」とは蕾「だけではない」、花「だけではない」、実「だけではない」、しかして、そのすべてである、と。
 この「だけではない」というのが aufheben です。このドイツ語の動詞は、「捨てる」という意味と「保持する」という意味の両方を持つ、実にややこしい言葉なのですが、ヘーゲルはここに大きな意義を認め、好んで多用しています。「前段階の見方、考え方では、絶対的で固定的で自立的なものに見えていたものが、次段階では相対的・流動的・従属的なものとして、より全体的な認識のごく一部にすぎなかったことがわかる」、と、そんなときに、前段階の認識が「aufhebenされた」と言うわけなんです。大きく脱中心化され、価値を減じられたけれども、でも保持されているというわけで。

 ということですので、その譬えの意味は、実は「蕾も花も実も、それだけでは植物の全体ではない、それらが交代するサイクル全体こそが、その植物の全体像である」といったあたりです。

 このへんの説明で、実は別のところに書いた「仮面ライダー編」てのもあるんですが…すいません、ちょっと見つからなくて。

 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3...続きを読む

Q弁証法的唯物論って・・・

今心理学の勉強をしていて「弁証法的唯物論」(マルクスやレーニン、ヘーゲルの名前が出てきました)等の言葉が出てきます。
意味がわからないので、広辞苑で「弁証法的」「唯物論」「弁証法的唯物論」と調べてみたんですが、
読んでるだけではまったくわかりませんでした。
自分のメモには「批判的にうのみにせず考える」と書いてあるんですがこういう意味なんでしょうか。
それぞれの意味を簡単にわかりやすく教えてほしいです。

Aベストアンサー

 
  弁証法的唯物論は、マルクス主義の世界観で、マルクスが唱えたものですが、色々な複合的な成立事情があります。(もっと詳しい説明を書いたのですが、たいへん長いものになったので、簡単なものにします)
 
  まず、唯物論は、物質一元論のことで、古代哲学では、エピクロス派がそうで、ルークレティウスなどは、物質一元論の世界観を説きました。しかし、これらは、古代の唯物論で、「物質」とは何かの意味把握が現代・近代とは異なっています。
 
  近代的な唯物論は、スピノーザの宇宙観に似ています。スピノーザは世界を構成する一元論的実体として神=自然を考えました。この神=自然は、「必然法則」を持って展開しており、また変容しています。運動しているとも言えます。弁証法的唯物論の物質は、必然法則を持って運動している実体で、また、法則には、「物質の階層」があって、適用範囲が異なり、これが弁証法と連関しています。
 
  他方、弁証法の方は、これも古代からある「思索の方法」で、その祖は、ソークラテースにあるとも言われ、またソピステースがそうだとも言われます。dialectic と英語で言いますが、これはギリシア語の tekhne dialektike(テクネー・ディアレクティケー)から来ており、この言葉は、「議論の技術」の意味です。ソークラテースの弁証法は、「観念弁証法」と言われますが、これは、まず、問題を出し(テーゼ)、それに対する相手の答え(アンティテーゼ)を聞き、その上で、最初のテーゼも、答えあるいは反論としてのアンティテーゼも両方含め前提として、しかし、新しい展望の答え(ジンテーゼ=総合テーゼ)を得るというものです。これは概念あるいは命題の弁証法なので、「観念弁証法」と呼ばれるのです。
 
  精神の弁証法、あるいは観念の弁証法の大成者はヘーゲルで、ヘーゲルは、弁証法を、概念や命題や議論の弁証法だけではなく、歴史の展開の過程について、弁証法が成立することを論じました。
 
  ヘーゲルの歴史の展開の「自由の増大」とは、動物にせよ人間にせよ、認識の増大で、知識の増大であり、それは、「精神の認識能力」の展開・拡大であるということになります。ヘーゲルの歴史の展開の極限には、宇宙が自己についての完全な知識を得ることが見込まれ、つまり、宇宙とは精神であり、精神が、自己を完全に認識して行く過程が、歴史の過程だという考えになります。
 
  マルクスは、ヘーゲルの思想が、逆立ちしていると批判し、精神が弁証法的に展開しているというのは、実は、物質についての人間あるいは生物の知識の増大が弁証法的に起こっているのであり、またそれは単に「認識の弁証法」ではなく、実は、物質の世界そのものが展開しているのであり、この展開の一部が、人間の認識の進展であって、実際、人間の認識の展開の前提には、どのような社会に人間が生きているかがあり、どんなに優れた人間でも、そもそも前提になる生まれた社会が、未開段階であれば、未開段階の観念でしか、思考はできず、他方、文明段階の社会なら、思考は、未開社会の人とは質が違って来るのであり、人の思考は社会の段階で決まるのだとしました。
 
  マルクスの考えでは、技術や生産様式が社会を決定し、社会のありようが、社会成員の認識や知識や思想や文化などを決める。知識や思想や文化が展開すると、技術も展開し、従来の生産様式の社会とは矛盾する観念の勢力(アンティテーゼ)が現れ、これによって、生産様式や社会が変革されて展開する(ジンテーゼ)、このようにして、社会は展開して行く。これが社会発展の弁証法です。
 
  この社会の発展の弁証法を物質の世界にも拡張し、物質の世界の弁証法的運動が、物質のシステムの階層の弁証法的上昇をもたらし、より単純な法則の階層の物質世界から、弁証法的に、より複雑な法則が支配する物質の階層ができる。人間の社会の展開も、この物質の弁証法的展開の一部であるとする考え、世界観が弁証法的唯物論です。
 
  なお、わたしは観念弁証法の方に近いので、以上の弁証法的唯物論の見方は、違っていると言われるかも知れません。
 
  とりあえず、「弁証法」とは、ものを多面的に見る、捉えるということです。ある方向から見ると、円に見えるものは、必ずしも球ではないのです。別の方向から見ると、長方形に見える場合、これは、実は「円筒」だということになります。最初見た時、円(テーゼ)だと見えたものが、別の方角から見えると、長方形(アンティテーゼ)で、では、これは何なのか、二つのテーゼを総合して考えると、円筒(ジンテーゼ=総合テーゼ)だということになります。このジンテーゼは、テーゼを否定しながらも、テーゼも元に、その否定によって、より高い認識、より正確な認識に到達するので、テーゼを「棄てる」が、しかし、それは単に棄てるのではなく、上に「揚げた」形で棄てるので、ジンテーゼの導出を、揚棄(ようき)とも言います。普通、揚棄は、止揚と言われますが、どちらも、ドイツ語の Aufheben の訳で、これは「拾い上げる」というような意味です。ものごとを、一面的に見るのではなく、別の面からも見て、二つの認識を総合することです。特定の認識や考えに拘らず、ものごとを柔軟に多面的に見て、より正確な、豊かな認識を得るという方法ですが、これだけだと概念・思考・認識の弁証法です。弁証法的唯物論は、世界は物質から成っているという世界観で、かつ、物質や社会は、弁証法的に展開しているという考えです。
 

 
  弁証法的唯物論は、マルクス主義の世界観で、マルクスが唱えたものですが、色々な複合的な成立事情があります。(もっと詳しい説明を書いたのですが、たいへん長いものになったので、簡単なものにします)
 
  まず、唯物論は、物質一元論のことで、古代哲学では、エピクロス派がそうで、ルークレティウスなどは、物質一元論の世界観を説きました。しかし、これらは、古代の唯物論で、「物質」とは何かの意味把握が現代・近代とは異なっています。
 
  近代的な唯物論は、スピノーザの宇宙...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Qカントの考える自由

カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。
もし義務を果たせなかったとしても
「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。
そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。
人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して
初めて自由の存在を知る。

・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」

・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」

この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で
自由を知るとはどういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っていたのに、友だちから「良くなかったよ」と聞かされたとたん、読む気が失せてしまう。
日常ではよくあることです。

カントは、道徳的な行為の規則を作ろうと考えていました。
いつ、いかなるときであっても、世界中の誰でも従わざるを得ない、そのような規則です。

普段ならそれでよくても、道徳的な行為しようとするときに、こうした「自分が~したい」という気持ちは邪魔になります。
ですからカントは「性向に依存したもの」として退けたのです。

一方、しなければならないからする、というのは、どうでしょう。

明日試験だから、勉強しなければならない。
約束してしまったから、行かなければならない。
ここにはどこにも自由など存在しません。
こうした自分以外の要請から起こす行為を、カントは「他律」としてやはり退けます。
道徳的な規則の根拠を、こうした他からの強制に求めるのは間違いである、と考えたのです。

ならば、どのような規則ならば、誰もがすすんで従うことができるのか。
すすんで従うことが、喜びになるような規則は存在するのか。

人間と動物を分けるものは何か、というと、それは理性である、とカントは考えました。
動物は本能に支配されて生きている。
けれども人間は、理性を持つことで、本能から自由になっている。
カントのいう「自由」の中味はそれです。
自らの内側にある理性に従って生きることこそが、人間だけに与えられた自由である、と。

本能や欲望や欲求に惑わされず、理性の声に耳を傾ける。すると、自分が何をしなければならないか、ということが、おのずと明らかになってくるはずだ。
これが、カントの言う「義務」なのです。

どのような行動を自分がとらなければならないのか。
何をしなければならないのか。

このように自分に問いかけることによって初めて、人間は本能や欲望や欲求から自由になることができ、しなければならない、と、自分の理性が命じる行動をとることこそが、真に自由になることである、とカントは考えたのです。

こうしたことは『人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波文庫その他)
という本の中にあります。
カントの中では比較的読みやすい本ですので、もっと詳しいことがお知りになりたければ、ご一読ください。

「自由」という言葉を辞書で引いてみると
1.自分の思い通りにできること
2.拘束がないこと
大きく分けて、このふたつの意味があげられていると思います。

一般に、自分がしたいからする、というのは、自由意志に基づく行動である、と考えられています。
けれども、ほんとうにそうなのか。
感情や気分というものは、そのときどきの情況に左右されるのではないか。

さっきまで出かけようと思っていたのに、雨が降っているのに気がついたとたん、出かけたくなくなってしまう。
ある本を読もうと思っ...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
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Qニーチェのいう超人とは一体どのようなものですか?

連続投稿ですみませんm(_ _;)m
哲学でニーチェ先生を勉強しているんですが、難しくてさっぱりです…;

極論ですが永劫回帰とは、ようは地獄(現実)が繰り返される事を意味するんですよね?;
それを受け止め(運命として)精神的に乗り越える人のことを「超人」と呼ぶ、でいいんでしょうか?;
運命を変える人の事を「超人」というわけではないのですね;

なんだか納得できるような納得できないような…;
あと、個人的に「虚無」についても勉強してるんですが、これに打ち勝てるようなものは存在しないのでしょうか?(この質問は任意で結構です;)
もし、何か御存知でしたら教えて頂けないでしょうか?
勉強し始めたばかりで、誰が何が良いかも分かりません(><;)
本も難しいのが多くてどれがよいやら…;

Aベストアンサー

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。しかし「超人」は、永劫回帰のニヒリズムに対してさえ、「これが人生だったのか、よし、さらばもう一度!」と自己の生を肯定して、より強く生きていこうとする人なのです。またさらに言うなら、「超人」とは、自らが自分の運命をつくり出していく意志を持った人ともいえます。

◎「きみたちが、きみたちの父祖の子孫であることを、きみたちは、きみたちの子孫たちによって償うべきだとは、『過去に囚われるな、未来を見よ』という事なのでしょうか?」について

 この文章の私流の解釈は、「自らの過酷な『運命』や悔恨の『過去』(ある意味では運命とも言える「過去」)を、きみたちは、積極的に『未来』に働きかけることによって、その意味をプラスにすべきなのだ」といった具合です。つまり、肯定的な「未来」を創造することによって、過酷な「運命」や「過去」は自分にとって大切な存在になるのです。ところが、それに「囚われ」ているということは、「運命」や「過去」を呪っている結果であり、「超人」の創造的な生き方ではないのです。

◎「運命(過去?)を愛せよ、という割には「償う」という表現を使うのは矛盾しているような…」について

 自分の「運命」を呪い、現にあるものと違ったものであればよかったのにという考え方は、能力や財力のある者・健康な者に対するねたみや恨みが隠されており、それは弱者の考え方なのです。「超人」は、あらゆる「運命」と向き合い、それを必然なものとして受け入れ愛する人間なのです。なぜならば、その過酷な「運命」が自己を高め、より強大にしてくれる起爆剤を内包していることを、「超人」は知っているからなのです。そして、その過酷な「運命」を、自分にとってプラスの意味あるものにすることが「償う」ということであり、またそれは、過酷な「運命」から逃げず、それと向き合い、それを必然なものとして愛する「超人」にこそ可能なのです。なお最後に、またニーチェの言葉を紹介して締めくくります。 

「いまだに決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない」
  

ANo.1 ANo.2です。

◎「そもそも何故、『人間の人生も無意味な無限の繰り返しをしている』となるんでしょうか…;」について

 あらゆるものが救済も保障もされないで、同一の形で回帰するというのは、究極のニヒリズムの形式をいったもので、それは根拠に基づいた真理ではありません。ニーチェの独創的なインスピレーションによって考え出されたものです。しかし、もしそうした究極のニヒリズムの状況に立たされたなら、一般人は運命に流され、主体性を放棄し、ニヒリズムにからめ取られてしまうでしょう。...続きを読む


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