dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

聖書の冒頭は「太初に言(Logos)ありき」ですが
ファウストは「太初に行ありき」です
言葉と行動、どちらも大切ですが、
貴方は、
どちらが初めだと思いますか
どちらを支持します

私はLogos主義に反対します

A 回答 (9件)

仏教に造詣の深いatoiti先生がとことんアンチ聖書派であることはよくわかりました。


言葉と行動どちらも大切ですが、本当に大切なのは行動でしょう。

パウロは信仰心が第一だと述べていますが、
ヤコブの手紙では、
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」(ヤコブの手紙2章14節)ともあります。

ただ、聖書の教えの神髄は「愛することを学ぶ」ことです。
聖書はわかりやすく雑に言えば、「人を愛し、人の罪をどんな罪人であってもとことん許す」ことです。

イエス・キリストは人類史上もっとも「やさしい慈愛に満ちた」人であり神でした。

そして、批判的に聖書を読むのではなく、幼子のような「すべてを純粋に受け入れる気持ち」になって聖書を読みなさないと教わりました。

atoiti先生は難解な仏教を十分理解しておられる。
それは素晴らしいことであり、尊敬に値します。
ですが、聖書には聖書なりの良さ、深さというものもあるのです。

たしかにキリスト教は歴史の中でさまざまな罪を犯してきました。
ですが、それは愚かな人間がやらかしたことであって、純粋な聖書の教えからは逸脱した行為でした。
歪曲し、自分たちの政治的な?権力維持のために都合の良い解釈をし利用したのです。
神、イエスの教えから離れてしまったためです。

是非、atoiti先生がもし聖書全体を一読してみたいと思うのなら是非、旧約も読んでみてください。
特にヨブ記、詩編、箴言、伝道者の書だけでも。

なぜ、神が存在するのならこの世に悪や悲惨な人々が存在し救済されないのか?
そして、全体を読んだとき、きっと仏教とも通じる点を見つけることかと思います。

それでも、atoiti先生のお考えが変わらずにアンチ聖書派でしたら、それはそれでいいと思います。
仏教の教えで十分素晴らしいことであると思います。
尊敬に値します。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます
キリスト教の果たした功績は一々述べるまでもなく
大変大きいものです、
現、法王も、キングも、マザーテレサも、内村鑑三も、遠藤周作も
尊敬すべきキリスト教徒です、が、
聖書は、
自然科学ばかりでなく、社会科学との.矛盾も、時代と共に鮮明になりました
二重人格者とならなければ、敬虔な信者にはなれないでしょう
過去の宗教だからです
仏教は、
科学が進歩する程、経典の正しさが証明されるのです
未来の宗教だからです

お礼日時:2020/05/09 08:31

社会構築主義の考え方で「人間関係が現実を作るのだ」という考え方がありますので、


人間は言葉がないことには始まりません・・・・

たしかケネス・ガーゲンが登場してきた時に
「言葉が世界を作るのだ」と発言し、多くの学者が「おお!そうだよ!」的な空気があったかと。
そういう発言が出てきたのは聖書のヨハネの福音書の冒頭部分の影響かも知れません。

<社会構築主義のwiki>
https://ja.wikipedia.org/wiki/社会構築主義

ちなみに社会構築主義の考え方が正しいかどうかは私にはわかりません。
あくまで一つの考え方として・・・・
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
社会構築主義の
「人々はお互いの言葉のやり取りの中で『意味』を作っていく」
と言う意味で言葉がないことには始まりません
しかし
聖書の「太初に言ありき」は、初めに結論ありきですので
ガーゲンの「言葉が世界を作る」は、これから作る、と言う意味で
使い方は全く違いますね
影響と言うより、聖書の否定、反発にみえますが

お礼日時:2020/05/08 08:26

歴史を見れば一目瞭然、人類は間違いだらけ、神に選ばれ導かれたユダヤ人でさえ生き残りはしたがソロモン王時代と比べると雲泥の差、イエス

・キリストの救いと聖霊の助け御言の糧を受けなければ永遠の命は得られない‼️
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
歴史を見れば一目瞭然、聖書は間違いだらけ
イエス・キリストの救いと聖霊の助け御言の糧を受けると
悲惨な歴史を繰り返すように思えますが
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage5.html#raberu1

お礼日時:2020/05/08 08:34

言葉!が有れば命じることができる、行いは土塊のアダムの鼻から神の息を入れた、全て命ずるとその当利になった。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
その言葉が愚かな場合、神はいない事になりますね
聖書は、
人間本来の自主性、主体性、能動性を否定する命令に思えます

お礼日時:2020/05/07 06:41

言葉が先。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
言葉の分らない赤ん坊は、行動で、体験で学びます
無智な子供は、親の言葉を無条件で信じます
でもでも、
成長して大切なのは、自ら考えて行動し、得る結果だよね
聖書が、何処までも他力に思えるんですよ
他力と自力、両方必要かな

お礼日時:2020/05/07 07:01

これは「言」VS「行」の問題では無いと思います。

西洋の文学は、最近のものはともかく、基本聖書から来る教養や見方を前提としていて、ゲーテを聖書の言葉をふまえて敢えて「はじめに行いありき」と言ってるわけです。聖書のアンチテーゼては無く、一種のバリエーションとして読者に提示したくて、登場人物に言わしめているのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
「太初 に言ありき」 は聖書のヨハネ伝福音書の冒頭にあります。 しかし、
ゲーテは、はじめにあるのは 「言葉」ではなく、
人間の「行」であると考えたのではないでしょうか。
「太初に行ありき」だ。 これまでの文脈でいえば、
人間の可能性は、その 「行動 によって運命を切り開いていくカ」がはじめにある。
○○主義 のように、理論、 ロゴスがはじめにあるのではない。
人間 には不可能を可能にする力 、矛盾した具体的問題 を解決する知恵がある。
その力、知恵の発揮から出発すべきであって、それなしに、
どんな立派な理論を作ってもだめだ
彼はこうした人間の可能性を信じ「楽観主義」を信頼したのではないでしょうか。
端的にいって、巨人ゲーテのもっとも東洋的な側面であり、
東洋的発想ではないかと思われるのですが

お礼日時:2020/05/07 07:48

「言葉=設計、計画、企画、ヴィジョン→行動→行動累積→業(カルマ)」と昔々、カフカ著作集やフロイト著作集を翻訳した「高橋義孝」先生の「ファウスト」を読んだとき、こう考えていました。

atoitiさんのお考えは義孝先生と一致するのでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
義孝訳のファウストは知りません、夢判断程度
ゲーテの汎神論的な宗教観は
行動による知識と知恵で確率されたもので
「太初に言ありき」を否定したように思えたのです
初めに・・ありき・・・ありきと決める事は
初めに計画、企画、ありきは、ロゴス中心主義は
現実で得た人間本来の能力を、押え付ける
落とし穴の様に思えたのです

お礼日時:2020/05/07 07:25

聖書は神の書です。

創世記には「光あれ」など神が言葉を発して創造を行っている。
ゆえに、言葉が最初であると考えるのが妥当でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
神の言葉か、不完全な人間の言葉か
行動で得た結果を見れば明白ではないでしょうか
悲惨なキリスト教の歴史を見ると、神の書には思えません
「太初に行ありき」は不完全な聖書の否定に思えたのです

お礼日時:2020/05/07 07:33

まず「行」でしょう。


言葉なんて生物の歴史38億年から考えればたかだか数百万年です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
ファウストは聖書の「太初に言ありき」に納得できず
「太初に意 りき」「太初に力ありき」と言い換え、
最後 に「太初に行ありき」と翻訳してみて初めて心から安堵したそうです

お礼日時:2020/05/07 07:37

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!