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ものごとのよしあしは ヤマシサ反応をとおして知ります。

すでに定義した恰好で表現しますが ちょっとよからぬことを思ったりすれば胸の高鳴りが起きます。さらにこれを実行しようとするなら 顔は赤くなったり青くなったり 冷や汗を搔き舌はしどろもどろになります。

こういった〔生理的なとも言える〕感覚の反応が ヤマシサ反応です。

そこでは さらに恥づかしさを覚えますし その感覚だけではなく 恥ぢという観念を意識します。

恥ぢを基準として捉えるなら 反応がヤマシサにかかわっていると考えられ そのとき心に思ったことや実行しようとしたことは 《よくない》ことだと規定できると思われます。

よいことに対して その負の状態を――なぜなら ヤマシサ反応を起こしたときには 生まれつきそなわった自然本性のふつうに自然な状態が傷つけられこわされると気づくからですが この《よいについてのマイナスの状態》を――《あしきこと または わるいこと》とよぶのだと見ます。

よしあしは 簡単に 善悪ともよぶようになっています。



     *



ひとはなぜ よからぬことを考えたりするのか?

ものが ふと曲がるがごとく ひとは・その心は ふと寄り道をする。道の横に入る。ふと へそを曲げる。

道草を喰っているとき むしろその心のゆとりゆえに 赤子のときから親しんできた自然本性の自然な状態から ふと逸れる。離れる。逸れたい・離れたいと思う。

自然本性という善が あくまでうつろいゆかざるを得ない相対的なチカラとしてあり さらには存在じたいが 朽ちるべきものとしてあるところから その善のあり方に挑戦したいと思う。

自然本性なる善は いったいどこまで善なのか? これをたしかめてみたいと考える。じっさいにやってみる。善に対して その反対のことを思い浮かべる。マイナスとなることをやってみたくなる。

ひかりも曲がると思ったからかどうか。

これらは 基本として ウソ・イツハリの問題だと思われる。ホントウが プラスで ウソがマイナスです。


マイナスは プラスを基にしてあらわれる。



☆ お考えをどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • 悪は 全体としての善――つまりは 人間という存在そのもの――の中におさめられている。という恰好ではないかと思います。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/21 04:27

A 回答 (7件)

色々いっぱい考えてるひと


でも納得感も共感は得られない

丁寧に対応されているけど
話すほど不快感しかのこらず
時間を無駄にしたとしか思えないひと

めんどくさいから、そっと距離を取られて
周りにだれも寄り付かないひとだね

正しい理屈、理論はシンプルでいて響く
シンプルでもなく、心に響かない
(納得感共感がない)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

№5でのコメントで お応えしているかと思います。

善と悪とは 別のものです。表裏一体とはならないでしょう。

お礼日時:2021/01/17 12:34

老子



善なるものはわれこれを善とし、不善なるものもわれまたこれを善とせん
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この回答へのお礼

意味が取れません。定義がないのです。

独り善がりなだけではないのですか?



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2021/01/17 00:11

善と悪を別の物として考えているのでしょうか?



表裏一体ではないでしょうか
そもそも「善と悪」自体を決める立ち位置で同じ行為が悪にも善にもなります
戦争なども自国が正義(善)で敵国は悪です
利益を受ける者には善行で、その犠牲者からは見れば悪行です


ウソ→悪・マイナスの定義も固定観念では?
良いウソもあります
「嘘つき族」の中ではウソは悪でもマイナスでもなく普通ですね(文化や常識の違い)

自分の善悪基準とあまりにも違う人とは距離を取った方が賢明ですね
大体面倒な事になるか、ともすると危険なめに遇うこともあります
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 善と悪を別の物として考えているのでしょうか?
☆ もちろん そうです。


★ 表裏一体ではないでしょうか
☆ 同じ一人の人間が その意志行為として 或る時はプラス 別の時には マイナスの内容のことをおこなっている。でも 表裏一体とは言わないでしょう。



★ そもそも「善と悪」自体を決める立ち位置で同じ行為が悪にも善にもなります
☆ なりません。ヤマシサ反応は 単なる主観的な感覚ですが けっきょく誰の感性にも同じく起きると言えます。その一般的な共通要素を基にして 反応にしたがってそのやましいことを止めるのは プラスの善であり 反応にさからって我意をとおすのは マイナスたる悪です。


★ 戦争なども自国が正義(善)で敵国は悪です
☆ そういう問題(そういう視点の問題)ではなく ひとを殺すことが織り込まれているからには マイナスの善です。決まっています。


★ 利益を受ける者には善行で、その犠牲者からは見れば悪行です
☆ 受益か被害かは 確かに立ち場の違いで互いに錯綜します。転換され得ます。主観の内部における思わくやその行動に際してのヤマシサ反応が 判定基準です。


★ ウソ→悪・マイナスの定義も固定観念では?
☆ ウソをつくと思ったときも実行するときも反応が起きます。


★ 良いウソもあります
☆ ウソは 善をそこなうもの(つまり悪)ですが そのウソが 或る人に対しては事態の好転をもたらすとして迎えられることがあるというだけのことです。

手段が 悪で 結果が善とみなされるということです。


★ 「嘘つき族」の中ではウソは悪でもマイナスでもなく普通ですね(文化や常識の違い)
☆ 価値観が錯乱しただけのことです。


★ 自分の善悪基準とあまりにも違う人とは距離を取った方が賢明ですね
☆ ふつうに自然で一般的な常識としての善悪観を おしえてあげましょう。


★ 大体面倒な事になるか、ともすると危険なめに遇うこともあります
☆ おしえてあげるのは 互いにしたしく話し合えるようになり信頼関係が築かれたと思えたときです。

お礼日時:2021/01/16 17:58

提示理由、


事実だから。
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この回答へのお礼

悪は善から出ない という事実があるわけですか?




☆☆ ~~~
ひとはなぜ よからぬことを考えたりするのか?

ものが ふと曲がるがごとく ひとは・その心は ふと寄り道をする。道の横に入る。ふと へそを曲げる。

道草を喰っているとき むしろその心のゆとりゆえに 赤子のときから親しんできた自然本性の自然な状態から ふと逸れる。離れる。逸れたい・離れたいと思う。
・・・
~~~
☆ という《善から悪が出る》論です。

お礼日時:2021/01/16 13:03

〉悪は 善から出る。


否定。
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この回答へのお礼

その心は? つまり 理由をのべてください。

お礼日時:2021/01/16 12:45

ホントウが プラスで 嘘がマイナス おっしゃいますが



プラスはマイナスを元に表れるって言うのは言い得て妙という感じです

ただ癒ばっかりではホントウの答えには行き着かないと思います

本当は真実・真理であり 嘘は動機があるかどうかに関わらず事実でない

そこに「やましさ反応」が表れるのではないでしょうか

しかし人によっては「本当のことを言ってたら」商売上がったりだ

という人もいます。

光は重力で曲がります 道理が曲がってはいけません

道理は物理を越えた真理に近づかなければならいのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ~~~
ホントウが プラスで 嘘がマイナス おっしゃいますが

プラスはマイナスを元に表れるって言うのは言い得て妙という感じです
~~~
☆ ええっとですね。ここでの基本は 《プラスが 元のから善なる存在であり マイナスはそのプラスという基礎の中から出てくる。つまり 善がなければ 悪は生じない。善のタハムレとしてマイナスの善つまり悪が生じる》という命題です。

もっとも 《悪を知ったゆえに善が分かる または マイナスを知ったがためにプラスというものの価値が理解できた》という場合は よくあることなはずです。



★ ただ癒ばっかりではホントウの答えには行き着かないと思います
☆ この《癒》が わかりにくい。おしえてください。


★ 本当は真実・真理であり 嘘は動機があるかどうかに関わらず事実でない
☆ 真実は 相対的な主観真実。真理は 基本として 絶対性なる内容でしょう。

ウソはウソとしては現象しており 現象として事実です。



★ そこに「やましさ反応」が表れるのではないでしょうか
☆ ウソの場合は 最初思った時点からヤマシサ反応は出ます。実行に移すときにも出ます。


★ ~~~
しかし人によっては「本当のことを言ってたら」商売上がったりだ

という人もいます。
~~~
☆ ですから それは 悪であると知りつつ――おまんまを食って行かねばならないからには―― ウソをつくという場合です。

必要悪は 善になる というわけではありません。


★ 光は重力で曲がります 道理が曲がってはいけません
☆ 道理が曲がるのではなく 道理を知りつつそこから逸れる人間の心が曲がるのです。


★ 道理は物理を越えた真理に近づかなければならいのです。
☆ 道理は 非知なる真理の仮りのすがたであるとは考えられます。

お礼日時:2021/01/16 12:44

悪い人間は自らが悪いという自覚がないので、悪から善に至ることはないです。

悪人とは元来、善に対して、無自覚なんだと思います。

善人から悪人に転じることはあっても、悪人から善人に至ることはありません。
「悪は 善から出る。善は うつろいゆかざる」の回答画像1
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


わたしの考えを勝手にそのまま交えてコメントします。

★ 悪い人間は自らが悪いという自覚がない
☆ そういう場合は 或る意味で善意ですね。つまりは 悪行〔につながる振る舞い〕であることを知らなかったという場合でしょう。

もちろん問題は 確信犯の場合です。



★ 悪い人間は自らが悪いという自覚がないので、悪から善に至ることはないです。
☆ ふつうはそうでしょうが 人間万事塞翁が馬であって まま 怪我の功名で善事にみちびかれることがないとも限りません。

問題は 確信犯の場合です。初犯は 情状酌量され得ます。




★ 悪人とは元来、善に対して、無自覚なんだと思います。
☆ そんなことはないと思います。よほどワルばっかりの環境であったとか まったく世の中に生きるということの教育や知恵の伝授が薄かったとかでなければ――ものごころがつくにつれて―― ものごとのよしあしを知るようになるとは思うのですが。




★ 善人から悪人に転じることはあっても、悪人から善人に至ることはありません。
☆ でも 罪の自覚がお有りなのでしょう? 悪人正機とも言いますし。

パウロは 頑固なユダヤ教徒であって イエス派の人びとを迫害しました。ころしました。たぶんその悪人から善を基礎とする生活者に変身したと思われます。

お礼日時:2021/01/16 09:03

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