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どんな分野においても、一流になる人は「真剣」であると思います。

日本のプロ野球のレベルは高く、身体能力や才能に恵まれた人が集まってきます。その中で、一級の記録を残す人は、運もありましょうが真剣さが違うのだと思ってきました。

そこには、たかが野球、たかが将棋、たかが絵、などという心はなく、その世界へ心身ともにのめりこみ切っているように思えます。

さて、この人間の「真剣」という心はどこから生まれるのでしょうか?また、何者なのでしょうか?逆に真剣になれない人は何故そうなのか?などなど、真剣と言うことについて思うところを教えてください。

A 回答 (17件中1~10件)

26+ ニ氏へ下書き 真剣



毎秒進歩(おさないあゆむ2022-1)行動力と勇気
2021/03/26 03:11

「真剣」という心はどこから生まれるのでしょうか?
本心からそれが好きだから。

何者なのでしょうか?
本心からの充実感。

逆に真剣になれない人は何故そうなのか?
嫌いだから、もしくは本心から好きではないから。

真剣と言うことについて思うところを教えてください。
人の評価が気にならない。
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この回答へのお礼

>本心からそれが好きだから

>本心からの充実感

>嫌いだから、もしくは本心から好きではないから

なるほど。

お礼日時:2021/03/26 14:34

真剣てな言葉や概念ですね



( ̄~ ̄;)

まず、他人からの言葉で
「真剣にやれ!」
なんてな叱咤を受けた経験は誰でもあるはずなんですけど

この場合だと
真剣にやってなくて!
「真剣にやれ」と言われたら当然な話なんですけど
本人は真剣にやってたのに、他人から
「真剣にやれ!」
なんて言われた時は、( ̄~ ̄;)なんだかなぁ~

とはとは、良く思いましたよ

本人の思う真剣てなのと
他人が観て思う真剣てなのと

かなりの感覚の違いがしょうじてて

ニャンポコリンさんの言われるように

そもそも真剣って何なの?

他人に真剣だと伝わってこそ真剣なのか?
他人に伝わらなくても真剣なのか?

他人が感じるからこそ真剣なのか?

他人が感じないと真剣ではないのか?

ワシのテーマの、自他の境界線

【自分自身が思う事柄が他人にも当てはまる】

こんな感じで、真剣てな言葉や概念も
安易に他人の境界線を越えてしまってる場合なんかもありますもんね

境界線てな考え方ではなく
世間一般的な考え方や、常識てなあやふやな考え方で
真剣てなのを知識として言葉で使ってる場合だと

《名》
木刀・しないに対し、本物の刀。
 「―で立ち向かう」
2.
《名・ダナ》
いい加減や遊び半分でなく本気なこと。
 「―を通り越し狂気を帯びた眼光」

てな意味ではあるんですけど!
現代社会で日本刀のような真剣を使うことって!動画の王さんくらいですもんね

知識として使ってるだけの言葉であって
実際に真剣てな言葉って

かなり、難易度の高い言葉でもありそうですね

ちなみに、ワシに仕事で
「真剣にやれ」
なんて言葉をかけてきた人には
真剣ではなく、誰でも持てるような
木刀や竹刀程度の段取りやシステムを真剣に考えろと( ^∀^)(笑)

個人の能力に頼りきった業務って
意味がないですもんね

言い返したりしましたよ


配送業務って、とかく急がせて仕事を教えたり!忙しい配送コースを造ったり!

精神論や根性論にたよる会社なんかも多いもんなんで

木刀や竹刀で安全に配送できるのが
毎日仕事を続けられるシステムだと
個人的には思ってるんですけどね

実際に、今の仕事は真剣にはなってなくて
運転は真剣にしてください
なんて言葉は聞き触りの良い言葉に聞こえるけど

ハンドルをにぐるのは、真剣ってより
心や気持ちに余裕をもって握るのが1番だともおもってますもんね


真剣って言葉のいみから余裕てな言葉が連なったんですけど

ニャンポコリンさんには、ワシの回答が!どう伝わるのか?楽しみですよ

真剣につたわってるのか?
遊び心ある程度の竹刀なのか?

(  ̄▽ ̄)にっこりです
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この回答へのお礼

私の世代などは、もうすでにチャラチャラしていて、大学に行っても講義に出ず、真面目に勉強している人はわずかで、教授が出席カードを色分けして工夫しても、コレクターがいてそれを友人に配っていました。そうして遊びに行くのです。

私なんかは根が真面目で、王さんとか馬場さんの生き方に憧れを持ってはいましたが、真剣になれない自分をある意味持て余していましたね。
頭の中にはフリーセックス賛歌であるサザンの音楽が流れていて、皆今から思えば「盛りのついた猫」でしたよ、ホント。

「真剣にやれ!」的な先輩は山ほどいましたね。で、その先輩をよく見れば真剣じゃないんですよね。「なんだよ?」ですよ。
それは、親子でも同じ。近頃でも全く同じで、もう、そういうことを言う人も残り少なくなっているのではないでしょうか?

当時すでに、社会から「真剣さ」を学ぶことはできなくなっていたと思います。
一番の原因は戦争に負けて日本人が自信を根こそぎ失ったことだと思います。
民族の文化を若者に自信をもって伝えられる大人がいなくなって、ただ、義務感だけで教えようとしたことが、「精神論・根性論」になったのだと思います。

20代・30代の時の私の大きな悩みは、真剣になれるものがなかった、ということでした。

お礼日時:2021/03/26 15:06

真剣になる時とは 命がかかってるときとか 家族の為とかではないでしょうか



職業を持つ人でも間違えれば大怪我をするとか命の関わるとか

そういう場合は親権に成ると思います

道路を歩くときでもあんまりいい加減に歩いていると車に轢かれて死んでしまいます

生存がかかっている時 大切な人の存在や心が掛かっている時

人は真剣に成るのではないでしょうか。

まして国際会議で国の命運が掛かっているときとか 真剣じゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうですね、命がかかっているとき、家族の為、昔はお国の為。

日本人は戦争には強いという人がありました。それは、仲間が戦死すると、復讐に燃え上がるからだと。その文化は今の日本人にもあるように思います。

アメリカや中国が今も昔も強いのは、個人が個人の目標で真剣になれる人が多いからなのかな、とも思います。

お礼日時:2021/03/26 15:18

「真剣」・・・この二字のなかに、


意義ある人生のすべてが含まれる。

真剣であれば、知恵が出る
中途半端だと愚痴が出る
いいかげんだと言い訳が出る

真剣の人には、
ふざけも、油断も、怠惰もない。
見栄や虚飾にとらわれる事もない
勇気も出る。力も湧く。
だから、負けないのです。

真剣
そこには、健気さが放つ、
誠実なる人格の輝きがあります
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この回答へのお礼

うむ、そう思いますね。

しかし、時代としては「真剣さ」は疎んじられています。
何故なのでしょうか?

お礼日時:2021/03/26 15:21

本当の真剣は


責任感の強さ、自覚から生まれると思います
その自覚は、誓いから生まれると思います
何のための、明確な悟りからと思います

自我の奥の、底辺にある
真実の自我、究極の自我、本当の自我、もう一つの自我
の存在を見た人の誓願なのではないでしょうか、
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この回答へのお礼

責任感、自覚、確かにそうですね。
しかし、繰り返しますが、この言葉は現代人には響かない、いや、拒絶されると言っていいかもしれません。

何故だと言えましょうか?

まして、「誓い」など。

お礼日時:2021/03/26 15:26

真剣という心は必要または面白いから生まれる。


何者なのかってそれは集中です。
真剣になれない人はいないと思うよ。真剣になる時もあるんじゃないか。

真剣とはクリティカルパスにおける集中です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2021/03/27 05:50

近くの馴染みの神社、参道の桜の数が、半分に減った。


毎年、美しく咲いてくれていたが、老朽化して危険だという事で、アッサリと切られた。人は、生命に対して冷たいものだと思った。

染井吉野の様に作られた生命であっても、生きる時は炎の様に立つ。

生やさしくはない。

チェーンソーで切られる桜樹の耐え難い歯軋りと、生きて立つことの不動の精神を聴いた、この春であった。


人の高貴さは、自らのみならず、ひろく他存在に想いを寄せて、我が事の様に思いやれることにあると思う。
ところが、自分の人生にさえ、まるで他人事の様に接する人もいる。まるで自分ではない何かに支配されていて、人形の様に痛覚を奪われているみたいだ。

人を支配するものは何もない。
その自覚とともに、桜樹のように燃え立て。
たとえ邪な者が、自分勝手な理由でその胴を両断しようとも。

作られた命でさえも、ああも清々しく、輝かしい。
作られざるところのもの(=人の本性)が、どうして発輝しないだろう。

我々はこんなにも、生きることに飢えているというのに。
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この回答へのお礼

人間には、桜や動物を愛でる気持ちは当然ありますが、その心は近年急激に薄れていると私は思います。

人のことどころではなく、自分のことで頭がいっぱいいっぱい。六道輪廻どころじゃなく、四悪趣ですね。そう思いますよ。

私自身もイライラが多くなったし、疑い深くなっています。ただ、それでも私は大乗的でありたいと思うばかりです。

お礼日時:2021/03/27 06:00

> この人間の「真剣」



《この》の特定がやっかいです。 《ある人が真剣な状況》は、いろいろの場面でおきます。 心身ともにあることに集中するのは、危険の回避とか、細かい作業をする場合もおきます。 当人が金や名誉・恥辱が懸かっていると感じている場合にも心身とも真剣になります。

《一級の記録を残す人の真剣さ》というのは、高所から転落しそうな場合の真剣さ・化粧をしているときの真剣さ・面接試験での真剣さ・子を出産するときの真剣さ・ゲームやネットをやっているときの真剣さとは違っているように思います。 私のイメージでは、《一級の記録を残す人の真剣さ》というのは、《志向性に基づく行為を日常的に繰り返していて、その変動があまりない》ということであって、心身ともに集中しているのとは別だと思います。
もちろん、野球でも、サッカーでも、ピアノ演奏、彫刻、陶芸、囲碁、詩作、ダンス、遺伝子研究、天文研究、調理、商売(事業)、いろいろの分野で大きな成功し、その分野では著名という人はいます。しかし、懸命にやれば誰でも成功し著明になるのではないのは間違いないです。 懸命になることと、真剣になること、集中することと、それなりに優れた成果をえることとは、別です。 「たかが」と自分自身が強く思い続けていたら、《志向性に基づく行為を日常的に繰り返していて、その変動があまりない》ということにはなりにくいでしょう。 志向性を持ち続けることと、その志向していることについて「たかが」と感じていることとは親和性がないです。


同じことに志向性を持ち続けるのはどうしてか

ある種のことにオペラント行動を頻繁に繰り返し、長い期間変わらないのは、基本的には次の生理です。
https://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository …
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E8%85%B9%E5%81%B4% …
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E4%BE%9D%E5%AD%98% …
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この回答へのお礼

アカデミックな回答を頂きました。

学問的な理解はすぐにできそうもありませんが、学者ではない一般人の感覚で返答させていただきます。

「この人間の真剣さ」ということについて私は、「人が非常に高いモチベーションを持って何かにのめり込み切る」と、曖昧乍ら定義しています。
これは、一般大衆的な、論理的な帰結ではなく、経験的な帰結からのものであります。

それは「志向性」というものを超えていると考えています。王貞治氏自身が「これはもう、スポーツではなく、武芸の修行である」と言っているように、もはや、これは志向ではなく執念をもった「求道」ということではないかと思うのです。

「求道」なんていう言葉は、学問的ではないですが(笑)、これが一番適切に表現する言葉であると思います。
この求道という心は、おそらくですが、深層心理、潜在意識の深いところにあるものではないだろうか、と考えています。

深層心理とか潜在意識が科学的にどこまで解明が進んでいるのか知りませんが、モチベーションというものも、集中というものも、そこに含まれていると考えるしかないと思っています。

リンクは後でゆっくり読んでみます。

お礼日時:2021/03/28 19:31

自分の良心に対して真剣に成れればいいですねえ



自分の命や人生に対して真剣に成れると良いと思います。

ヤケクソや傍迷惑は良くないですねえ。

ギリギリまで真剣に考えられたら良いと思います。
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この回答へのお礼

>自分の良心に対して真剣に成れればいいですねえ

自分の命や人生に対して真剣に成れると良いと思います

その通りですね。

お礼日時:2021/03/28 19:34

深い哲学を保つ人格者に影響を受けて


「真剣」という心は生まれるのでないでしょうか

愚痴や言い訳ばかりの大人の影響を受けると
「真剣」という心は生まれないのではないでしょうか
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この回答へのお礼

子供のころの影響というものは、即、教育になるでしょう、良きにつけ悪しきにつけ。

まあ、縁や運というものも強くあります。だからこそ、人にはいいと思うものを薦めたくなります。また、自身にとっては、人の諫言には注意深く耳を傾けるべきだと戒めています。

お礼日時:2021/03/28 19:41

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