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まづ 土井健郎:『《甘え》の構造』に拠って用語や議論〔の背景・土壌〕を確認します。

(あ) 親子だけは無条件に他人ではない。

(い) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。

(う) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。

(え) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずると見立
てた場合だと考えられる。

(お) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明している。

  ( a ) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。
  ( b ) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。
  ( c ) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。

 
(か) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関
係自体が重視される時は 義理として意識される。

(き) つぎは さらにアマエが有効かどうかを判定するための資料になるかと思われる
説明文です。(第二章 《甘え》の世界)

  ( d )  親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく 
     その関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対
     して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。

  ( e )  親子以外の人間関係は それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ 
     疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも 
     ずいぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という場
     合は このような友人関係を指すのである。

  ( f )  要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。
     できれば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っ
     ている。
     それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最
     も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのであ
     る。
 


さて:
(く) たとえば《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは 
アマエであると見ることができるか?

(け) もしそうなら そのアマエをキッカケとして 愛――スサノヲ市民の個人とし
ての自治 および それにもとづく互いのマジハリ(交通)の 好悪・愛憎をないまぜ
にした共生の関係――が はぐくまれ得るか?

(こ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?

(さ) あり得るという志向性が 有効なアマエではないか?

(し) でも われわれは このアマエをどこかでまるまるすべて棄てて来てしまった
のだろうか?

(す) ほかの世界では どうなっているか? どういう考えだろうか?

(せ) オバマ大統領がヒロシマを訪問するという。この決断は アマエか? 核の問
題というよりは 遠慮が――双方によいことに――消えたか。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    11. 次の命題(判断・思想)としてのご見解について 考えがうまくはたらきません。
    ★ 親しみを増すにつれ、「遠慮」は増えるという立場です。「他者」とは「近づけば近づく
    ほど」遠ざかってゆくように見えるものだから、壊れ物のように扱う。愛情が増せば増すほど、
    愛を失うという怖れも同時に膨らむからです。疎遠であれば相手にどう思われようと傷つくこ
    とは少ないので、「無遠慮」になりがちです。

    12. 《親しき仲にも礼儀あり》では済まない《遠慮》なのですか?

    13. 他者の中で理解しえたというのは じつはわれの持っているものだけですよね。
    自己理解のみ。他者は ほんとうには知り得ない。(経験的な心などでしょうけれど)。

    14. 心は 《壊れ物》ではないと思う。もうダメだと思う心が つねに控えている。

    15. 愛情は嫌悪と綯い交ぜ。それらを価値自由(善悪の彼岸)でおさめる心が愛。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/25 10:40
  • うれしい

    №1への補足のつづきです。

    16. ★ 疎遠であれば相手にどう思われようと傷つくことは少ないので、「無遠慮」
    になりがちです。
    ☆ だんだんと考えがまわり始めたと思うのですが この《「無遠慮」になりがち》なこ
    とというのは 《甘え》の一つのかたちなのではないでしょうか?

    17. 《ほぼ無縁な人たち》に対しては アマエ関係に無く 義理の関係にも成ったわ
    けではない。しかも 《無遠慮になりがちである》と気遣うことは 大きく広くやはり愛
    であり ただしおことわりするかたちゆえ 実際のところは ある種の甘えである。

    けっこう上手に反論し得たでしょうか。つまり アマエの護教論は どこまで有効になり
    ましたでしょうか?

      補足日時:2016/04/25 11:01
  • うーん・・・

    30. 《子どもの頃に親らに甘える経験を経た者は 自立しやすい》という
    にゅうとらりんぐ説に 感覚的に(=おのれの経験から)同感しています。

    31. それは 《或る意味における無責任の感覚》をおぼえた者は 必ずし
    も大人になってもその感覚に片向くのではなく 自分の肩に荷を負う感覚を新
    鮮なものにおぼえ 積極性を発揮するようになる。のではないかと。

    32. ぎゃくに小さい頃から責任をになっている場合には よき人びとはそ
    のまま進んで行くでしょうが より少なく良き人たちは ここらで一服して責
    任を軽くしてみようという《知恵》をはたらかせるかもわかりません。

    33. あとは この土井健郎の本を読んだ経験があるので この質疑応答で
    も取り上げたことがあるのです。

    34. ただし もしそれが理論であるとして しっくりと来る実際の分析と
    しての実例が得られるかは まだはっきりしません。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/25 17:29
  • 46. ご自身にも ネット社会において:
    ◇ 《甘え》、《甘え体質》が潜んでいるに違いない。
    ☆ のですか?

    47. (せ) オバマの決断について。
    ◇ 「甘え」というよりは、「日本ならば、自身、アメリカ、ならびに日米関係を損なう
    ような言動はしないだろう」という目算、期待があってだと思いますが・・・。
    ですが、打算契約関係、義理的《甘え》には基づいているかもしれないですね。
    ☆ とにもかくにもとしては アマエが一枚加わっていると見られる筋もありかも知れな
    い。ですね。――これは おもしろい。です。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/25 18:12
  • どう思う?

    ☆☆(№7お礼欄) ぶっきらぼう式のほうが甘えているのか。
    縁側方式のほうによき甘えがあるのか。
    ☆ 縁側の哲学にあって 孤独の上にさらに着けた薄物をも剥がすような無遠慮を避けて
    まさに互いに縁側に来て座を占めるというのは ある種のアマエではないか。

    互いにそう提案し合意したに過ぎないのだけれど 《遠慮し合おう》という心には 甘え
    が潜まないか?

    ぶっきらぼう精神は もとから 遠慮無しです。甘えです。

    別様に言いかえるなら 《はだかのつき合い》というのは どこまで裸なのか?

    《孤独》は 裸なのか そうではないか?

    情報公開――ディスクロージャー――は はだかでなくてよいか?

      補足日時:2016/04/26 10:29
  • どう思う?

    ▲『坊ちゃん』に見るあまえ(1) ~~~
    彼(=坊ちゃん)も赤シャツの中傷にかどわかされると 最初信頼していた
    山嵐を簡単に疑ってしまい 以前氷水を奢られた時の代金一銭五厘を無理矢
    理山嵐に返さずにはおれなくなる。・・・
    △ ~~~~~~~~~
    ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から 
    氷水でも奢ってもらっちゃ おれの顔にかかわる。
    おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃいない。
    しかし一銭五厘だろうが五厘だろうが 詐欺師の恩になっては 死ぬまで心
    持がよくない。あした学校へ行ったら 一銭五厘返しておこう。
    おれは清から三円借りている。その三円は五年たった今まで返さない。返せ
    ないんじゃない 返さないんだ。清は今に返すだろうなどと かりそめにも
    おれの懐中をあてにはしていない。おれも今に返そうなどと他人がましい義
    理立てはしないつもりだ。

      補足日時:2016/04/26 21:18
  • どう思う?

    ▲『坊ちゃん』に見るあまえ(2)
    ・・・
    こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので 清の美
    しい心にけちをつけると同じことになる。返さないのは清を踏みつけるのじ
    ゃない 清をおれの片破れと思うからだ。
    清と山嵐はもとより比べものにならないが たとえ氷水だろうが 甘茶だろ
    うが 他人から恵みを受けて だまっているのは向こうをひと角の人間と見
    立てて その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけのことです
    むところを 心のうちで有り難いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
    無位無官でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万
    両より尊い返礼と思わなければならない。
    (『坊ちゃん』)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~
    (土井健郎:『甘えの構造』 § 3  1980(愛蔵版)pp.98-99 )
    ~~~~~~~~~~~~~~

      補足日時:2016/04/26 21:20
  • 政治家は ひとりの親となって国民を家族と見なして――無条件の愛で受け容れますよと
    までは言わないとしても――たとえ《愛する価値のないもの》をも愛することにつとめま
    す。
    タテマヘとしてでも・偽善としてでもその行動があることは まぁ事実でしょう。

    天皇皇后ご夫妻は どうでしょう?

    特に心打ちひしがれた《家族》の者には 無条件の親の愛を実行する姿があるように見受
    けられます。実際にどうであるのかは 分かりません。簡単に皇居に行って甘えるわけに
    は行かないからには。

    ぐらすさんは チェスタトンを超えてスーパーマンとして愛の人になるおつもりですか?

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/27 10:07
  • どう思う?

    《無縁》と言いますが 親や兄弟から始まって人の縁を持たない人間はいないはずです。

    だとすれば 一人の人間は その人を中心として円を描くように《縁》は出来て来て広
    がっています。

    だとすれば われの円(あるいは いくつかの同心円)としての縁の広がりは かれ・
    かのじょらのそれぞれとどこかで交じわる。

    だとしたら 《無縁》関係というのは とどのつまりでは無くなる。

    無縁というのは 直接のマジハリのない人たちの世界を《外》と呼び その外とは他人
    の関係だという場合の言い換えであると思われる。

    でもどうなんしょう。《旅の恥は掻き捨て》というのは 内のアマエ関係にない他人な
    ら 旅路で遭って少々のいたづらをしてもまた再び他人になるのだから 咎められない
    と言っていましょうか。

    そこで じつは共通の知り合いがいたと分かったときには どうなるのか。

    尻切れトンボにて。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/28 11:21
  • へこむわー

    ☆☆(№33お礼欄) じつは ねらっていた・・・ということは無いですよね。
    ☆ ちょっと冗談がきつかったかも。

    No.33の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/04 15:09

A 回答 (38件中1~10件)

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。



土居健郎は精神科医ですね。例えば「引きこもり」についても、多くの「精神科医」は随分見当はずれな見解を示しているので、
精神科医の思想・考察はひとまず眉に唾をつけて(苦笑)考えることにしています。

以下ランダムに

>親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずると見立てた場合だと考えられる。

>親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく、その関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対
して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。

親子の間に「遠慮のない」「甘え」が成立するのは、子供の内面に、まだ確立した「自我」が存在しない場合ではないでしょうか?度合いは当然違いますけれど、「親子」といえども「互いの個性」を持つ「他者同士」です。
「親子も他人の始まり」ではないかと思います。ただ「愛情を介在させた他人」ではあるでしょうけれど。

また親子の甘えは上記のようにシンメトリカルなものではないと思われます。親に対して子供は遠慮のない甘えを求めますが、親は子供に対し、大人としての「遠慮」=「配慮」が必要でしょう。

成人した恋人同士でも「甘え」は存在しています。けれどもすべての甘えの雛形が「親子関係」であるとは思えません。
親子の「愛情」と「大人同士の」愛情或いは恋愛感情は異質のものだろうと考えます。


>( b ) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。

「義理」と「人情」を秤にかけりゃ「義理が重たい」やくざの世界。

「義理」とはしがらみであり、或いは「情を断ち切り恩義に報いる」というものですから、「甘え」とは相容れないものでしょう。


> e )親子以外の人間関係は それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ、疎遠であるほど遠慮は増す。
友人同士など 親子以外の関係でも、ずいぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という場合は このような友人関係を指すのである。

親しみを増すにつれ、「遠慮」は増えるという立場です。「他者」とは「近づけば近づくほど」遠ざかってゆくように見えるものだから、壊れ物のように扱う。愛情が増せば増すほど、愛を失うという怖れも同時に膨らむからです。疎遠であれば相手にどう思われようと傷つくことは少ないので、「無遠慮」になりがちです。それはインターネット時代のコミュニケーションの状態を見ても分かるように思われます。

>日本人がふつう親友という場合は このような友人関係を指すのである。

ちょっと古い形の見方ですね。

>( f )要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。できれば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。
それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。

これはどういう根拠から導き出されたものでしょう? 

>できれば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。・・・と、いう断定の根拠がわかりません。

親子がそれほど「密着した関係」かどうかに先ず疑問が残ります。



『甘えの構造』では、「甘え」を Dependence としているようですが、ではそれに対して Independence を対置して考えた方が分かりやすいように思います。

「甘え」或いは「寄る辺」を求めるのは、それが「個人」として成立しているから、それによって、時に「自由=自己からの逃避」を欲し、
他者への依存・拠り所を求めるこころの働き、ではないか?逆に言えば、風雨にさらさせていない、「保護」された状態で、「depend」(頼る)必要はあるのだろうか?

>他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?

配慮、思慮を欠いた、行いはありえても、甘え、(依存)の関係にはなりえないと思います。
まだそこまでの信頼が育っていない場合には「寄る辺」にはなりえないから。

>(し) でも われわれは このアマエをどこかでまるまるすべて棄てて来てしまったのだろうか?

「頼る」という行為は予めあるものではなく、両者の関係性の中で育まれてゆく(育んでゆく)ものだろうと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。《甘え》の護教論を展開してみます。

1. dependence はニュアンスが違うでしょうね。ペンダントのように《引っかか
っている・ぶら下がっている》意味にもとづく《依存》とは違う。それだけではない。

2. あまえ・あまやかす・あまんず(甘みす)の語源が分からない。

3. あまた(数多)・あまり・あます(余)は 原義として《一定の枠の中におさ
まらず はみ出る》(大野晋)らしい。

4. あまし(甘い)は 《① 甘くておいしい ② 人を誘惑したりする上で 言
葉が巧みである ③ 刃物などの鍛えがゆるい ④ 手ぬるい ⑤ 人間がしっかり
していない。だまされやすい。愚かだ》とあります。(文献上の歴史的な順番です)。

5. つまり ②の扱いがむつかしいですが ④⑤が アマエにつながるとしたら 
それはやはり味覚の甘いから来ている。だとしたら 初めからマイナス・イメージで
はなかった。らしい。

6. ディペンダンスとの違いは クオリアの違いなのでしょうか。情感の要素があ
る。むしろそのような人と人との間に:
★ 予めあるもので・・・関係性の中で育まれてゆく(育んでゆく)ものだろう
☆ と言えるという線が考えられます。逆手に取りましたが。

7. その線ではさらに:
★ どういう根拠から導き出されたものでしょう?
☆ にも答え得ているのではないか。特には母と子との間の情感。
★ 「密着した関係」
☆ ですよね。

8. 次も 反論です。:
★ 親に対して子供は遠慮のない甘えを求めます
☆ そして
★ が、親は子供に対し、大人としての「遠慮」=「配慮」が必要でしょう。
☆ というのは それでも子どもの甘えを認め受け留めています。これこれの点では
遠慮は要らないと思ったら そうするでしょうし。

9. 同じく焦点をずらします。:
★ 「親子」といえども「互いの個性」を持つ「他者同士」です。
☆ というのは ものごころが着いて子どもも大人に成って来ているときの問題です。
しかも そういうときには 個性や独立心がはたらきますから 言ってみれば《義理》
という要素がからむ。と同時に その義理を踏まえつつも やはり《甘え》を言うこ
とが あり得る。のではないでしょうか。

10. 節度をわきまえ自覚した甘え。

補足欄へです。

お礼日時:2016/04/25 10:29

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。



『甘えの構造』の英訳テキストのタイトルが、"The Anatomy of Dependence" (1971)でした。で、Dependence には Independence という対義語がありますが、「甘え」「甘える」の対義語が見当たりません。

Aという言葉、概念に対して、Bという対概念「対義語」があれば、そちらからの「反照」を行い「関係性」を導き出すことで、Aも明らかになってくるのですが、この場合「甘え」の対義語は何でしょうか?

対義語が不明であると、じゃあそもそも「甘え」というのはどこから来たのか?という風に「甘え」を掘り下げていくことになります。

>4. あまし(甘い)は 《① 甘くておいしい ② 人を誘惑したりする上で 言葉が巧みである ③ 刃物などの鍛えがゆるい ④ 手ぬるい ⑤ 人間がしっかりしていない。だまされやすい。愚かだ》とあります。(文献上の歴史的な順番です)。

ここでは、1、2は、「魅力がある」「魅惑的」と、ほぼ同じ意味のようです。
3,4,5は、「未完成」「未熟」というような意味で「否定的」なニュアンスを含んでいるようです。

>5. つまり ②の扱いがむつかしいですが ④⑤が アマエにつながるとしたらそれはやはり味覚の甘いから来ている。だとしたら 初めからマイナス・イメージではなかった。らしい。

個人的には「未成熟」「未完成」にはマイナスのイメージはありませんが、一般的に解釈すると、これらには否定的な意味が込められているように思われます。

>6. ディペンダンスとの違いは クオリアの違いなのでしょうか。情感の要素がある。むしろそのような人と人との間に:
★ 予めあるもので・・・関係性の中で育まれてゆく(育んでゆく)ものだろう
☆ と言えるという線が考えられます。逆手に取りましたが。

わたしと、まだ未知の誰それさんの間に、情緒的な交流が生まれ得るのは、わたしと誰それさんとの関係の中に「予め」「潜在」していたのではなく、わたしとAさんとの邂逅によって、そのような道が拓けた、という言い方がわたしの中では自然です。
「わたし」と「他者一般」との関係において、だれとでも「甘え」得る間柄になるのではなく、特定の「誰か」との「親和力」の働きと言えそうです。

>日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最も望ましいものとして理想化するという事実を反映している。

うーん、ちょっとこの根拠が

>☆ にも答え得ているのではないか。特には母と子との間の情感。
★ 「密着した関係」
☆ ですよね。

よくわからないのですが・・・

>★ が、親は子供に対し、大人としての「遠慮」=「配慮」が必要でしょう。
☆ というのは それでも子どもの甘えを認め受け留めています。これこれの点では遠慮は要らないと思ったら そうするでしょうし。

そうですね。ただやはり、親は子供に甘えてはいけない、というか、配慮を失ってはいけないとは思います。「情に流されてはいけない」のではないか。

>★ 「親子」といえども「互いの個性」を持つ「他者同士」です。
☆ というのは ものごころが着いて子どもも大人に成って来ているときの問題です。
しかも そういうときには 個性や独立心がはたらきますから 言ってみれば《義理》という要素がからむ。と同時に 
その義理を踏まえつつも やはり《甘え》を言うことが あり得る。のではないでしょうか。

10. 節度をわきまえ自覚した甘え。

その通りだと思います。

11の「愛する他者への『遠慮』」について、

>12. 《親しき仲にも礼儀あり》では済まない《遠慮》なのですか?

「礼儀」といった「形式」ではなく、この場合の「遠慮」は、「躊躇」であり、風船を強く抱きしめて壊してしまうことへの「怖れ」の意味で使っています。つまり「近づきすぎることへの警戒」です。

>13. 他者の中で理解しえたというのは じつはわれの持っているものだけですよね。
自己理解のみ。他者は ほんとうには知り得ない。(経験的な心などでしょうけれど)。

その通りです。「わたしは世界を、その在るがままには見ていない、「わたしのあるがままに」見ている」(アナイス・ニン)

>14. 心は 《壊れ物》ではないと思う。もうダメだと思う心が つねに控えている。

心そのものが壊れなくても、もう駄目だという気持ちが勝ってしまう。

>15. 愛情は嫌悪と綯い交ぜ。それらを価値自由(善悪の彼岸)でおさめる心が愛。

愛は勿論「善悪の彼岸」で生まれ、生きるものです。

>16.★ 疎遠であれば相手にどう思われようと傷つくことは少ないので、「無遠慮」になりがちです。
☆ だんだんと考えがまわり始めたと思うのですが この《「無遠慮」になりがち》なことというのは 《甘え》の一つのかたちなのではないでしょうか?

似て非なるものでしょう。甘えが時として、相手を傷つけてしまうことは誰にも避けられない。どんなに愛情に満ちていても、人は相手の思う通りに愛せない場合も多い。
一方、疎遠でありながらも「無遠慮」というのは「愛情」に基づくものではなく、単なる「無思慮」ではないでしょうか?或いは相手を「甘く」見ている。

17.《ほぼ無縁な人たち》に対しては アマエ関係に無く 義理の関係にも成ったわけではない。しかも 《無遠慮になりがちである》と気遣うことは 大きく広くやはり愛であり ただしおことわりするかたちゆえ 実際のところは ある種の甘えである。

わたし個人としては、「甘え」あるいは「愛情」の領域で、無遠慮になれば、目の前の、風船、ガラスの一角獣を壊してしまう、という危惧がいつもあります。逆にこわしても平気の場合はほぼ無縁の関係です。個人的には「愛情」と「遠慮」の質と量は正比例するようです。

相変わらず一般化し得ない個人的な感想になってしまいました。(苦笑)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

いま№6までの回答をもらって読んだ結果なのですが ちょっと収拾がつかない感
じがなきにしもあらずですね。

18. アマエ理論の極右の観点からその護教論をのべてみましたが ぐらす_る
ーつさんからは 疎遠者への無遠慮の件で極左(?)に戻す発言があったくらいで
済んでいるかに思われます。

19. その件にしても 《単なる「無思慮」》かそれとも《相手を「甘く」見て
いる》かということのようで 必ずしも否定説でもないようです。

20. ただし あまり賛同を持って迎え入れられているわけではない。

21. №6にゅうとらりんぐ氏によると 《親と子は互いにめっちゃめちゃ甘え
てもよいのだ》級の肯定論が出されたとともに その《親と子とは 血がつながっ
ているだけで 互いに他人は他人である》という物言いもが述べられています。

22. わいわいえいと氏は アマエもそうだが 《責任》という問題はどうする
んだ? と問題提起があります。

23. それは ふつうに大人としてのそれを負うとも言えるし アマエのときに
は互いに適度に無責任になっている(それが許容されている)と考えるしかないな
ぁとも。

24. けれども ねむねこ氏は アマエる者の責任を舌鋒鋭く追及しています。

25. ぐらすさんは アマエ⇒無遠慮⇒ひとの心を傷つけやしないかというおそ
れを取り上げます。

26.★ ~~~~~~~~~~~~~
 >14. 心は 《壊れ物》ではないと思う。もうダメだと思う心が つねに控
 えている。

心そのものが壊れなくても、もう駄目だという気持ちが勝ってしまう。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 真理は この両命題の中間にある。か?

27.☆☆ 6. 情感の要素がある。むしろそのような人と人との間
☆ ということで 
★ 特定の「誰か」との「親和力」の働き
☆ を言っていると取っていただけるとありがたいです。

28.★ 「甘え」の対義語は?
☆ 《甘えない》でしょうね。つまり 《甘え合える関係にはない》。《まだ義理
という関係も生じていない》と。《同じ場にいない。いても 面識がない》。

29. 《内と外》の《うち》は アマエ関係にかかわっていると思われます。

とりあえずこんな感じになりました。

お礼日時:2016/04/25 17:09

追記



>けっこう上手に反論し得たでしょうか。つまり アマエの護教論は どこまで有効になりましたでしょうか?

ぶらじゅろんぬさんの、「甘え」についての質問(理論検証)の背景を知りたいと思いました。
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この回答へのお礼

№2補足欄を継ぎます。

35. かつての資料がありました。:
 ▲ ( dependency ) ~~~~
一般に西洋社会 特に合衆国の文化は 依存しないことの意義を誇張し過大に評価して
いると一般に考えられている。反対に 依存することは望ましくない 不都合なこと 
場合によっては恥ずかしいことだと思われている。

この先入観に注目して ネキ(*1)は 欧米社会において 《依存》が非常に侮蔑的な
意味を持つようになったのには 言語学的・社会史的な由来があると考えた。
言語学的には この言葉は ラテン語から派生したもので その辞書的意味は

  《つるされている( being suspended )
  あるいは ぶら下がっている( hanging down )》

のことで どちらも他者に対し邪魔あるいは迷惑になっている状態を示している。

対照的に 《依存》に相当するヒンドゥー・サンスクリット語の語源には悪い意味はな
く 《もたれて休む・避難する・安全感を求める》という意味である( Neki 1976 )。
 
ネキはさらに次のような興味深いことを述べている。すなわち 《 dependency 》と
《 independency 》とは 政治の主権に関して言えば 《属国》と《独立国》という正
反対の言葉であるが これまでの用法や解釈によらず 人間の発達という観点から見る
と 必ずしも《論理的に》反意語となるものではないと言うのである。


*1 Neki, J.S.: An Examination of the Cultural Relativism of Dependence as a
Dynamic of Social and Therapeutic Relationships 1976

( Frank A. Johnson : Dependency and Japanese Socialization――Psychoanalytic
and Anthropological Investigation into AMAE―― 1993
江口重幸・五木田紳共訳:『「甘え」と依存――精神分析学的・人類学的研究――』 
1997  p.17 )
~~~~~~~~~~~~
☆ でも大したことは言っていないようですね。(図書館で借りた本からの引用です)。

お礼日時:2016/04/25 17:38

こんにちは。



☆( b ) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。
◇この著者は《義理》を誤解しているのだと思います。
義理の世界というのは、
 御恩⇔奉公
 (親の)恩⇔(子の)恩返し・(親)孝行
に象徴されるように、親族・血族的繋がり(の延長上)の契約の世界。
古い任侠映画やドラマにあるように、たとえ、「一宿一飯の恩義」であったとしても、一度恩を受けたからには、自身の身命を投げ打ってでも、受けた恩を返さないといけない。
そして、受けた恩を返さない人は、「恩知らず」、「不孝者」、「卑怯者」の烙印を押され、世間から後ろ指をさされたり、社会的に抹殺されてしまう。つまり、そこには、有無を言わさぬ強い社会的強制力が存在する。
 ――私は見ていませんが、今やっている大河ドラマ「真田ホニャララ」に出てくる真田昌幸は、自らの領地の保全のために、主君を次々と乗り換え、「(日本一の)卑怯者」と呼ばれた(^^ゞ――

この世界は、いわゆる《甘え》が許される世界ではなく、極めて打算的な世界であり、強いシガラミの世界です。しかも、一度、恩を受けた側は、恩を受けた人への恩返しの無限返済の義務を背負わされる。だから、こうした世界では簡単に他人(ひと)から恩を受けてはいけない。恩義を受けると、将来、どんなひどい目に遭わされるかわかったもんじゃないですからね。

この世界での《甘え》は、ヒト対ヒトという個人的関係のものではなく、「《義理》というシステムへ」に対する期待・信頼に基づくものだと思いますよ。
そして、「このシステムを有効だと信じ、他者をあてにする」ことが《甘え》になるのではないでしょうか。

この本の著者は、「義理の世界」を美化して考え過ぎだと思いますね。
この世界はヤクザの世界ですからね〜、一度ハマると、蟻地獄状態に陥り、簡単なことでは抜け出せない。
忠孝の美談としてまつり上げられていますが、赤穂浪士の話なんて、まさしく、この世界の、この論理の話ですわね〜。


〜〜〜〜〜
( e )  親子以外の人間関係は それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ 
     疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも 
     ずいぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という場
     合は このような友人関係を指すのである。
〜〜〜〜〜
赤の他人、見ず知らずの人、まして、ネット上に存在する顔を有さない人には、遠慮会釈なしに辛辣な言葉を吐けるものですよ。誰でも非難、中傷なんて簡単にできてしまう。そして、実際に、多くの人が毎日のように行っている。
また、むしろ、親密度が増すに連れ、相手の立場や思いを斟酌し、甘えづらくなっていく、厳しい言葉を浴びさられなくなっていくことも珍しくない(^^ゞ
ですから、
大切なのは、「どのようなことが起きても、この関係は壊れない」という(無条件の)信頼ではないですかね。bragellone
そして、この関係性が損なわれ(始め)たとき、ヒトは「甘えすぎた」と思い、自身の言動を反省する。

心的距離感では、うまく説明し得ないと思います。


☆(く) たとえば《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは 
アマエであると見ることができるか?
◇発言者のただの《無知》を原因にして、こういうことが起きますよ。
そして、ネットなど見られるこうした主張の殆どは、発言者の無知に基づいています。
匿名性の高いネットだからこのようなことが起きるのかもしれませんけれど、ですが、それでも、こうした発言者の中に、自身を特権的な人間であり、いかなる発言も許されるという社会に対する強い《甘え》が存在するのは事実でしょう。

世間では、こうした声を《天の声》、《地の声》ともてはやすようですが、ただの妄言にすぎないことが多いように思います。

最近ですと、「保育園落ちた。日本、死ね!!」なんか・・・。
私は、この書き込みを読んだとき、思わず、
「オ・ロ・カ・モ・ノ」
「ルーピー」
という言葉が頭の中に浮かんできてしまいました。
そして、
「お前は何様のつもりだ。甘えるのもいい加減にしろ」
と思っちゃいました。
そう思ったのだから、しょうがない(^^ゞ


☆(こ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?
◇ネットの無責任な書き込み、発言、主張などは、《無縁》なるヒトへの《甘え》以外の何物でもないと思いますよ。
2歳、3歳児程度の「人はみな自分と同じことを考え、思っているに違いない」という強い確信、思い込みの上に成り立っている(^^ゞ
《唯我独尊》の上に成り立っている(^^)
そして、予想に反し、反論が来たりすると、パニクり、ひたすら感情的な言葉を浴びせ続ける。


☆(せ) オバマ大統領がヒロシマを訪問するという。この決断は アマエか? 核の問
題というよりは 遠慮が――双方によいことに――消えたか。
◇「甘え」というよりは、「日本ならば、自身、アメリカ、ならびに日米関係を損なうような言動はしないだろう」という目算、期待があってだと思いますが・・・。
ですが、打算契約関係、義理的《甘え》には基づいているかもしれないですね。

私は、文章を書いている内に、どうしても、過激で辛辣になってしまうな〜。
そして、私の中にも、「俺は特別な存在であり、如何なる発言をしても許される」という社会や「教えてgoo!」への《甘え》、《甘え体質》が潜んでいるに違いない。

まっ、そういうことで。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。(この質問はいちどやり取りしたのでしたね)。

36. ◇ ~~~~~~
義理の世界というのは、
 御恩⇔奉公
 (親の)恩⇔(子の)恩返し・(親)孝行
に象徴されるように、親族・血族的繋がり(の延長上)の契約の世界。
~~~~~~~~~~~
☆ と同時に にゅうとらりんぐ氏によると 親と子は どこまでも恩にも甘え
てよく 恩返しの義務などを負わないのだと。それでこそ アマエなのだと。と
いうニュアンスだと思うのですが。

37. もし甘えが現実であり有効だとすると そちらの無条件説にわたしは片
向きます。感覚として・経験知のおもむく方向としてです。

38. 今回は 総じてどちらかと言うと まとめづらいご見解ですね。

39. ◇ 《義理》というシステム
☆ が出来ているという見解ですか? たとえば クウキ社会というときにもそ
の人間関係や問題解決の運び方をめぐって この儒教の仁義礼知信なる徳も一枚
かんでいると。

40. わたしの感覚では 関係しているであろうが おもな作用をしていると
も思えない。というところでしょうか。儒教のその原理原則の問題はです。

41. あるいはつまり 徳の問題でありつつしかもそれがむしろシガラミとな
っていて儒教の世界は もし現実にそれがあるとしたら 雲や闇がかかっている
かに思われるということでしょうか。

42. ( e ) の甘えは:
◇ むしろ、親密度が増すに連れ、相手の立場や思いを斟酌し、甘えづらくなっ
ていく
☆ んですか。

43.◇ 大切なのは、「どのようなことが起きても、この関係は壊れない」と
いう(無条件の)信頼ではないですかね。
☆ これは ちょっとどこかから降って来た命題であるように受け取られます。
でも アマエに代わる原則なのでしょうか。

44. (く)について:
◇ 発言者のただの《無知》を原因にして、こういうことが起きますよ。
☆ これについて 逆説を思いつきました。↓

45. (こ):
◇ ネットの無責任な書き込み、発言、主張などは、《無縁》なるヒトへの《甘
え》以外の何物でもないと思いますよ。
☆ だとすれば そのアマエを どのように世の中のその意味でのネットワーク
の中に組み入れ組み込めばよいか? というアマエ説の逆説的活用があり得るの
かも知れません。

お礼日時:2016/04/25 18:06

甘え、とは、、、


甘えごころのに隠る心理、、、

なぜお二方から「責任」と言う言葉が出て来ないのでしょう。
不思議です。

投稿しようとしたら、ネコさんが回答してました。
私のは、 これを見る前の文です。
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この回答へのお礼

わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

★ なぜお二方から「責任」と言う言葉が出て来ないのでしょう。
☆ そうですね。そうですよね。かく言うわたしも 責任の問題を
アマエには からめていませんでした。

ねこ氏は 特にネット社会におけるアマエにかんして 無責任だと
いうかたちを明らかにしているようです。はっきりと その線でも
のを言っていますね。

いま考えたことですが アマエにかんしては――わたしの感覚では
―― 責任を問うというよりは そのアマエ行動について 社会の
仕組みの中のどこに位置づけ どのように組み入れるのか。といっ
た見方から 取り組んで行く道があるのではないか。とは思いまし
た。

つまりは アマエを――アマエであるのなら―― それとして受け
留めてやることが 先決問題である。という感じを持ちます。

無縁の関係が 何らかの義理のカカハリを帯び 実際にアマエの行
動を取っているなら 一気に遠慮のないアマエの関係の中に入れて
話をする。というようなです。

お礼日時:2016/04/25 18:22

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん、blueさん、ねこちゃん、yy8さん、そういえばねこちゃんお久しぶりですね。

今日は1行回答です。

何年前だったか、「depend on」ではなく「rely on」なる甘えについて話し合ったことがあります。ねこちゃんも覚えてゐるとおもいます。他には「満足な豚になりたい」と言い張るDさんという方がいました。ちなみに子が親に恩を返さなくてはならないなんて話は聞いたことがありません。親は子を【育ててやった】のではなく【育てさせていただいた】のであり、この時点ですでに【親が子に】おおいに甘えているのであり、【親が子に】感謝するのが普通です。また、親は子に甘えてはいけないなどという話も聞いたことがありません。親が子に甘えることを一切しなかったら?子は甘え方を誰から習うのでしょう。
親密になるほど遠慮が少なくなるというのはその通りだと思います。わたしは多くの職場を転々としていますが、たいてい入社当時は自分の周りに鉄壁を張り巡らせています。それが土壁になり板壁になりカーテンになるのは数ヶ月後です。そんなころになると「あいつムカつくよね」なんて愚痴の垂れ合いもできるようになります。愚痴の垂れ合いというのは醜態の晒し合いで、甘えの代表だと思うんですね。

>(あ) 親子だけは無条件に他人ではない。
:いえ、親と子も他人ですよ。別別の人間です。ただ【血がつながっている】だけです。子にとっては、たまたま自分が産まれたときに近くにいたのが親だったというだけです。たまたま近くにいたのが親でなくても一向に構わないと思います。

>( c ) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。
:そうでしょうか。一昨年末わたしが保護された精神科の閉鎖病棟は他人だらけでしたが、それでも3日目からわたしは甘えまくることにしました。ダンナより他人や通行人の方がずっとずっと信頼できたからです。人情も義理も、いつでもどこででも自然発生するのだと確信しています。


今日はこれだけです。長い1行でした。plapotaさんへの手紙にbrageloneさんからの伝言をそのまま書き写し、昨夜ポストに投函しました。
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この回答へのお礼

49. アマエの無条件なる肯定と ただし その関係にある親と子とが
無条件に他人ではないのだと捉えるときにはそれを否定するというご見解
ですよね。

ご回答をありがとうございます。

50. ただし その他人どうしであったとしても:
★ 人情も義理も、いつでもどこででも自然発生するのだと確信していま
す。
☆ なのですね。《無縁》は 《アマエ》関係に切り替わり得る。ただち
にその関係に入り得るのだと。

51. ふつうは 互いのあいだを隔てる壁があるけれど この壁も徐々
にやわらかい素材のものに変わって行く。ついに 不必要な遠慮を抜きに
した関係に成り得ると。

52. これは おもしろいですよね。ちからづよいですし。

53. わいわいえいと氏へのお礼で 番号付けを忘れました。そのお礼
欄全体を 48番としてつづけます。

お礼日時:2016/04/25 18:34

こんばんは。



☆☆ と同時に にゅうとらりんぐ氏によると 親と子は どこまでも恩にも甘え
てよく 恩返しの義務などを負わないのだと。それでこそ アマエなのだと。と
いうニュアンスだと思うのですが。
◇これは、現代的な親子観だと思います。
もちろん、親が自分の子供を育てるときには、将来、受けられるかもしれない子供からのリターンは期待していないと思います。
しかし、現代の日本社会は年金などの社会保障制度が整っており、取り敢えず老後の心配はありませんけれど、こうした制度を有していなかった、たとえば江戸時代の日本、そして、発展途上国の多くでは、年老いた親の面倒は子供が見なければいけない。
こうした時代、社会と現代の日本社会とでは事情が異なるでしょうから、現代的視点、親子観から過去を安易に推測し、判断するのは危険だと思います。
そして、近代以前の日本において、親孝行の孝は、社会から要請された強い義務であり、国家などからそのように子供は学校や寺子屋などで教育されていた。そして、こうした親子観、親孝行観は今日でも色濃く残っている。時に、◯◯党の先生方が「親の面倒、介護をするのは、子供の当然の義務だ」とのたまう・・・。

〜〜〜〜〜〜
43.◇ 大切なのは、「どのようなことが起きても、この関係は壊れない」と
いう(無条件の)信頼ではないですかね。
☆ これは ちょっとどこかから降って来た命題であるように受け取られます。
でも アマエに代わる原則なのでしょうか。
〜〜〜〜〜〜
にゅーとらりんぐさんの主張を私の表現で表したものです。
「小さな子供は絶対的に親を信じ、その関係性を微塵も疑わない」、そして、「これに、なぞらえられる関係」と言っているにすぎません。
同じ内容です。
このあと、「bragellone」で切れていますけれど、実は、この後に《聖なる甘え》という言葉が続くはずであった。
書いたつもりだったのですが、書き忘れたようです。
ですから、なにか特別なことを言っているわけではありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

◇ 現代日本と近代以前
☆ どっちが 生まれつきの自然本性に合っていますか?

意外と――感覚だけですが――現代人の親子観のほうが 自然であるように
思えます。

昔は 昔も感覚としては現代人のようであって そこへ親孝行の義理(?)
も同時に持った。――と言うと 安易に足して二で割ったことにしかなりま
せんか?



◇ 無条件の信頼
☆ と言ったほうが アマエで説明するよりも一般論として通用するという
ことですね。分かりました。


あぁ そう言えば《聖なる甘え》にも触れるのがよいようではありますが。
・・・


あと背景として 孤独論がかかわっており 孤独とアマエですね。

それとコミュニケーションの仕方の分類として 直接法のぶっきらぼう式と 
そこに互いに孤独を持ち寄れる場としての縁側をもうける方式とがあるとい
う見方があり これらの方式ともかかわらせようとしています。

ぶっきらぼう式のほうが甘えているのか。縁側方式のほうによき甘えがある
のか。

お礼日時:2016/04/25 20:48

やれやれ。

化石のやうな昔話を披露するといふ甘えもOKだと思ふのですが、brageloneさんは今や未来も含めた4次元的普遍的な話をしているのでせう?まあ過去も含んでOKだとは思うのだけど。いつも甘えっぱなしで澄みません。とか言っちゃって。これからも甘えますけどね、わたしが生きているのが最優先ですので。
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この回答へのお礼

まぁ 図星ですけれどね。

ご回答をありがとうございます。

あたらしいのは オバマのヒロシマ訪問をめぐって アマエ理論は何を捉えるか。
でしょうか。

あと №7のねこさんへのお礼欄に書きましたが このアマエも 孤独論とかか
わっていないか。ですし あとは
ぶっきらぼう派のほうは アマエ万能だと思っているのかとか。
縁側派のほうが よきアマエを活用しているのではないかとか。です。

まぁ こんなところです。

(あっ また番号づけをわすれちゃった)。

お礼日時:2016/04/25 20:52

細かいところに追記です。

【甘える】というのは【甘やかされる】のとはまるで違います。例えば【甘い】の対義語は【厳しい】ではなく【冷たい】であり【優しい】の対義語は【冷たい】ではなく【厳しい】というのと同じです。【厳しい】のは関心を持っているからです。親が子に厳しくするのも関心があるが故の一種の【甘え】だと確信しています。わたしとしましては【甘える】の対義語は【放棄】あるひは【自殺】なのではないかと思ひます。

ところで【世の親たち】というのは将来年老いたとき【子の世話になるのが当たり前】と考えるほど【無責任】なのでせうか。それほど自分の人生に対して【無責任】なのでせうか。自分の人生に責任を取るのが当たり前である、と当たり前に考えないのでせうか。むしろ【世の親たち】はいつでもどこでも是非ともできる限り【子孝行】をしたいと思ふのが当たり前なのではないでせうか。


発作中だからとりあえず送信。
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この回答へのお礼

そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

対義語ですね。そうですか。
★ 【厳しい】のは関心を持っているからです。親が子に厳しくするのも関心が
あるが故の一種の【甘え】だと確信しています。
☆ なるほど。こういう意味合いでしたら:
★ 【甘い】の対義語は【厳しい】ではなく【冷たい】であり
☆ については:

 甘え――(同次元・同範囲内での対義語)⇒厳しい
 甘え――(異次元・別領域での対義語)⇒冷たい

というふうにも捉えられるようですね。

★ わたしとしましては【甘える】の対義語は【放棄】あるひは【自殺】なので
はないかと思ひます。
☆ これも なるほどですね。だとしたら 【逃避】というのも候補にあがりま
すよね。

★ ところで【世の親たち】というのは将来年老いたとき【子の世話になるのが
当たり前】と考えるほど【無責任】なのでせうか。それほど自分の人生に対して
【無責任】なのでせうか。自分の人生に責任を取るのが当たり前である、と当た
り前に考えないのでせうか。むしろ【世の親たち】はいつでもどこでも是非とも
できる限り【子孝行】をしたいと思ふのが当たり前なのではないでせうか。
☆ ねこさあーん! どうでしょうか? 

わたしは こちらの見方に片向いています。論証の用意がありません。それに実
際の経験も限られているかも分かりません。

お礼日時:2016/04/25 21:03

甘えの中身は依存。


依存の対義語は自立。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうなんですけれど。つまり 言葉としてはその通りなんですけれど。

つまり 必ずしも当てはまらないという理由を述べます。

すなわち《自立》は いちおう成人した場合に言われることです。

未成年についての自立というのは 例外的なことになります。

ところが 《甘えとしての依存》は 成人してからも・そしてそうで
はない場合にも使われます。

しかもむしろ 赤子のときから幼児・少年といった年頃について用いる
ほうが合っています。

言いかえると 子どものときに当てはめる場合は 《甘えもあるが自立
もあり得る》といった情況ではなく そうではなく もっぱらアマエて
おり自立はまづない場合の問題です。

同じく言いかえると 大人についてアマエを言う場合というのは 子ど
ものときのアマエの延長線じょうにあると同時に 大人は一般に自立し
ているので 次のようになります。:

すなわち 基本的に自立していながら ときにアマエの行動にも出る。

こういう場合を問うていますし また もっぱらのアマエとしての子ど
ものときの場合についても問うています。

微妙ですが そういった趣旨ではあります。

お礼日時:2016/04/25 22:31
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