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まづ 土井健郎:『《甘え》の構造』に拠って用語や議論〔の背景・土壌〕を確認します。

(あ) 親子だけは無条件に他人ではない。

(い) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。

(う) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。

(え) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずると見立
てた場合だと考えられる。

(お) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明している。

  ( a ) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。
  ( b ) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。
  ( c ) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。

 
(か) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関
係自体が重視される時は 義理として意識される。

(き) つぎは さらにアマエが有効かどうかを判定するための資料になるかと思われる
説明文です。(第二章 《甘え》の世界)

  ( d )  親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく 
     その関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対
     して遠慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。

  ( e )  親子以外の人間関係は それが親しみを増すにつれ遠慮が減じ 
     疎遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも 
     ずいぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という場
     合は このような友人関係を指すのである。

  ( f )  要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。
     できれば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っ
     ている。
     それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最
     も望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのであ
     る。
 


さて:
(く) たとえば《おまえがわるい。全面的に一方的にわるい。謝罪せよ》と言うのは 
アマエであると見ることができるか?

(け) もしそうなら そのアマエをキッカケとして 愛――スサノヲ市民の個人とし
ての自治 および それにもとづく互いのマジハリ(交通)の 好悪・愛憎をないまぜ
にした共生の関係――が はぐくまれ得るか?

(こ) 他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?

(さ) あり得るという志向性が 有効なアマエではないか?

(し) でも われわれは このアマエをどこかでまるまるすべて棄てて来てしまった
のだろうか?

(す) ほかの世界では どうなっているか? どういう考えだろうか?

(せ) オバマ大統領がヒロシマを訪問するという。この決断は アマエか? 核の問
題というよりは 遠慮が――双方によいことに――消えたか。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    11. 次の命題(判断・思想)としてのご見解について 考えがうまくはたらきません。
    ★ 親しみを増すにつれ、「遠慮」は増えるという立場です。「他者」とは「近づけば近づく
    ほど」遠ざかってゆくように見えるものだから、壊れ物のように扱う。愛情が増せば増すほど、
    愛を失うという怖れも同時に膨らむからです。疎遠であれば相手にどう思われようと傷つくこ
    とは少ないので、「無遠慮」になりがちです。

    12. 《親しき仲にも礼儀あり》では済まない《遠慮》なのですか?

    13. 他者の中で理解しえたというのは じつはわれの持っているものだけですよね。
    自己理解のみ。他者は ほんとうには知り得ない。(経験的な心などでしょうけれど)。

    14. 心は 《壊れ物》ではないと思う。もうダメだと思う心が つねに控えている。

    15. 愛情は嫌悪と綯い交ぜ。それらを価値自由(善悪の彼岸)でおさめる心が愛。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/25 10:40
  • うれしい

    №1への補足のつづきです。

    16. ★ 疎遠であれば相手にどう思われようと傷つくことは少ないので、「無遠慮」
    になりがちです。
    ☆ だんだんと考えがまわり始めたと思うのですが この《「無遠慮」になりがち》なこ
    とというのは 《甘え》の一つのかたちなのではないでしょうか?

    17. 《ほぼ無縁な人たち》に対しては アマエ関係に無く 義理の関係にも成ったわ
    けではない。しかも 《無遠慮になりがちである》と気遣うことは 大きく広くやはり愛
    であり ただしおことわりするかたちゆえ 実際のところは ある種の甘えである。

    けっこう上手に反論し得たでしょうか。つまり アマエの護教論は どこまで有効になり
    ましたでしょうか?

      補足日時:2016/04/25 11:01
  • うーん・・・

    30. 《子どもの頃に親らに甘える経験を経た者は 自立しやすい》という
    にゅうとらりんぐ説に 感覚的に(=おのれの経験から)同感しています。

    31. それは 《或る意味における無責任の感覚》をおぼえた者は 必ずし
    も大人になってもその感覚に片向くのではなく 自分の肩に荷を負う感覚を新
    鮮なものにおぼえ 積極性を発揮するようになる。のではないかと。

    32. ぎゃくに小さい頃から責任をになっている場合には よき人びとはそ
    のまま進んで行くでしょうが より少なく良き人たちは ここらで一服して責
    任を軽くしてみようという《知恵》をはたらかせるかもわかりません。

    33. あとは この土井健郎の本を読んだ経験があるので この質疑応答で
    も取り上げたことがあるのです。

    34. ただし もしそれが理論であるとして しっくりと来る実際の分析と
    しての実例が得られるかは まだはっきりしません。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/25 17:29
  • 46. ご自身にも ネット社会において:
    ◇ 《甘え》、《甘え体質》が潜んでいるに違いない。
    ☆ のですか?

    47. (せ) オバマの決断について。
    ◇ 「甘え」というよりは、「日本ならば、自身、アメリカ、ならびに日米関係を損なう
    ような言動はしないだろう」という目算、期待があってだと思いますが・・・。
    ですが、打算契約関係、義理的《甘え》には基づいているかもしれないですね。
    ☆ とにもかくにもとしては アマエが一枚加わっていると見られる筋もありかも知れな
    い。ですね。――これは おもしろい。です。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/25 18:12
  • どう思う?

    ☆☆(№7お礼欄) ぶっきらぼう式のほうが甘えているのか。
    縁側方式のほうによき甘えがあるのか。
    ☆ 縁側の哲学にあって 孤独の上にさらに着けた薄物をも剥がすような無遠慮を避けて
    まさに互いに縁側に来て座を占めるというのは ある種のアマエではないか。

    互いにそう提案し合意したに過ぎないのだけれど 《遠慮し合おう》という心には 甘え
    が潜まないか?

    ぶっきらぼう精神は もとから 遠慮無しです。甘えです。

    別様に言いかえるなら 《はだかのつき合い》というのは どこまで裸なのか?

    《孤独》は 裸なのか そうではないか?

    情報公開――ディスクロージャー――は はだかでなくてよいか?

      補足日時:2016/04/26 10:29
  • どう思う?

    ▲『坊ちゃん』に見るあまえ(1) ~~~
    彼(=坊ちゃん)も赤シャツの中傷にかどわかされると 最初信頼していた
    山嵐を簡単に疑ってしまい 以前氷水を奢られた時の代金一銭五厘を無理矢
    理山嵐に返さずにはおれなくなる。・・・
    △ ~~~~~~~~~
    ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から 
    氷水でも奢ってもらっちゃ おれの顔にかかわる。
    おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃいない。
    しかし一銭五厘だろうが五厘だろうが 詐欺師の恩になっては 死ぬまで心
    持がよくない。あした学校へ行ったら 一銭五厘返しておこう。
    おれは清から三円借りている。その三円は五年たった今まで返さない。返せ
    ないんじゃない 返さないんだ。清は今に返すだろうなどと かりそめにも
    おれの懐中をあてにはしていない。おれも今に返そうなどと他人がましい義
    理立てはしないつもりだ。

      補足日時:2016/04/26 21:18
  • どう思う?

    ▲『坊ちゃん』に見るあまえ(2)
    ・・・
    こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので 清の美
    しい心にけちをつけると同じことになる。返さないのは清を踏みつけるのじ
    ゃない 清をおれの片破れと思うからだ。
    清と山嵐はもとより比べものにならないが たとえ氷水だろうが 甘茶だろ
    うが 他人から恵みを受けて だまっているのは向こうをひと角の人間と見
    立てて その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけのことです
    むところを 心のうちで有り難いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
    無位無官でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万
    両より尊い返礼と思わなければならない。
    (『坊ちゃん』)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~
    (土井健郎:『甘えの構造』 § 3  1980(愛蔵版)pp.98-99 )
    ~~~~~~~~~~~~~~

      補足日時:2016/04/26 21:20
  • 政治家は ひとりの親となって国民を家族と見なして――無条件の愛で受け容れますよと
    までは言わないとしても――たとえ《愛する価値のないもの》をも愛することにつとめま
    す。
    タテマヘとしてでも・偽善としてでもその行動があることは まぁ事実でしょう。

    天皇皇后ご夫妻は どうでしょう?

    特に心打ちひしがれた《家族》の者には 無条件の親の愛を実行する姿があるように見受
    けられます。実際にどうであるのかは 分かりません。簡単に皇居に行って甘えるわけに
    は行かないからには。

    ぐらすさんは チェスタトンを超えてスーパーマンとして愛の人になるおつもりですか?

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/27 10:07
  • どう思う?

    《無縁》と言いますが 親や兄弟から始まって人の縁を持たない人間はいないはずです。

    だとすれば 一人の人間は その人を中心として円を描くように《縁》は出来て来て広
    がっています。

    だとすれば われの円(あるいは いくつかの同心円)としての縁の広がりは かれ・
    かのじょらのそれぞれとどこかで交じわる。

    だとしたら 《無縁》関係というのは とどのつまりでは無くなる。

    無縁というのは 直接のマジハリのない人たちの世界を《外》と呼び その外とは他人
    の関係だという場合の言い換えであると思われる。

    でもどうなんしょう。《旅の恥は掻き捨て》というのは 内のアマエ関係にない他人な
    ら 旅路で遭って少々のいたづらをしてもまた再び他人になるのだから 咎められない
    と言っていましょうか。

    そこで じつは共通の知り合いがいたと分かったときには どうなるのか。

    尻切れトンボにて。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/28 11:21
  • へこむわー

    ☆☆(№33お礼欄) じつは ねらっていた・・・ということは無いですよね。
    ☆ ちょっと冗談がきつかったかも。

    No.33の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/04 15:09

A 回答 (38件中21~30件)

こんばんは、ぶらじゅろんぬさん。



まず、先の回答への「お礼」について

>政治家および公務員と言ったほうがよいでしょうか。

>北や南で あやしい飛行物体があれば スクランブルをかけます。その自衛隊と――好意的に見れば―― 一緒になって国民のためにはたらいていると思います。

>制度として当然のことでしょうけれど もっぱらの公民の人たちが アマエ関係の愛は かたちとしてだけでも 民間の人たちの自由な活動をも恃みつつそれらを先取りしていると思われます。


政治家であっても、公務員であっても、国民を保護するのは、彼らの当然果たすべき「ミッション」です。彼らはそのような役割を果たすべく、国民に(税金を以て)雇われているのですから。
自衛隊が被災地で様々な活動を、夜を徹してやっているのは「善意」でも「愛」でもなく、それが彼ら・彼女らに与えられた義務だからです。(ただし、嫌になればいつでも辞めることが出来る、という自由は保障されています)

わたしは「世のため人のため」という言葉が苦手です。ボランティアにしても、結局は自己満足だと判断しています。仮にほんとうに利己的ならざる動機から行われている行為があるとしたら、それはもはや、わたしの想像、理解を超えたものです。

天皇の行いにしても、二心あるとは思いませんが、これもやはりそのような「システム」の中で行われているに過ぎません。
言い方を変えれば、天皇家の人たちは、愛の発露さえ、システマティックに「管理」されていると云うことが出来るでしょう。



次に「坊ちゃん」に見られる「甘え」について。

山嵐に関して云えば、それが赤シャツの奸計によるものかは知りませんが、「あんな奴に奢られたままでは、癪に障る。渇しても「盗泉」の水は飲まずだ!」たとえ一銭だろうが五厘だろうが、嫌な奴に奢られたままでは気が済まない。といった坊ちゃんの潔癖症で、ここには「甘え」はありません。

清については、お前のものはおれのもの、おれのものはお前のものという一体感、共同意識があるのではないでしょうか?
これは清に対しての「甘え」というよりは、彼の中にある「優先順位」が、「銭金(ぜにかね)」ではなく、「気持ち」(或いは「誠意」)にある、ということではないでしょうか?
山嵐には別に敬意も何も持っていないから、気軽に「銭金」で解決する。けれども清との間を「金の問題」にしたくないという心の在り様でしょう。

清を「身内」として扱うことが、彼女の人格を尊び、一個の人間として扱うことと相反することだとは思えません。一個の人間として尊重し得るからこそ、「身内」と見做しうるのでしょう。



No14への「お礼」について

>ただし・ただし そこにおいて ぐらすさんは《外の他人》をも《内》に誘おうという《広義の愛》がある。
★ 「愛されうるための」「何か」を手に入れる必要があります。それは全ての人が手にしうるものか?
☆ その《袖触れ合う発端の縁》から《全ての人》についてすでに《大人の共生としての愛》が起こり得ると見ておられる。ぐらすさんの方が《人間性に根差したポジティブな希望》において世界を捉えている。

>ただしその《希望》が 《甘え》のことを言っているかどうか。
★ ところが一般に他者は無条件では愛し得ません。「あなたのこういうところが好き」という条件下の愛情です。
☆ となれば 甘えは幻想であると。

「希望」が前提になっているから「失望」がある。では、「無縁の他者」はもとより初めから「希望を持ちえない者たち」であるのか?
袖が触れ合ったからといって、それがより親密に成り得ると考えること自体がナンセンス=「幻想」か?

>他人どうしの《無縁》の関係なる世界に入ったら 《甘え》はどうなるか?

>他人どうしが何らかのかたちで相いまみえるという段階には入った場合だと思われます。《袖触れ合う他生の縁》なる出遭いの発端
は始まっている。
>そのとき 相手の人をどういうわけか《「愛する価値のないもの」》だと見なし《愛し得ない》とさえ判断するという場合。になると思います。
>他人どうしの無遠慮のままでいてよいと判断する。身内扱いの甘える関係にもむろん入らない。

>つまり《袖触れ合う縁》を縁とも見なさない。――ということではないのですか? つまりそれだけのことなのでは?

で、あるなら、「縁」というのはそもそも何処にあるのか?或いはまたどのように生じうるのか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ぐらす_るーつさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

★ 政治家であっても、公務員であっても、国民を保護するのは、彼らの当然果た
すべき「ミッション」です。彼らはそのような役割を果たすべく、国民に(税金を
以て)雇われているのですから。
☆ そうですよ。制度として構造的にあたかもアマエ体制を成すかのごとくアマエ
の役割りが〔模型的に〕分担されている。

★ 自己満足 / 利己的
☆ これもそうです。基本は 人間が物指しに成っており 人間たる自己が中心と
なるかたちで認識・判断がおこなわれ 行動に移ると考えます。

で このあたかもアマエ体制が あたらしい人たちにとっては どのように捉えら
れ どう手直しされて行くかと空想しますというお話です。


★ 〔・・・〕といった坊ちゃんの潔癖症で、ここには「甘え」はありません。
☆ ですから 義理を超えて他人行儀になったのでは? つまり 潔癖症の考えに
移る前では 甘えてい〔られ〕たのでは? と思うのですが。

アマエの関係でいられると思っていたのが そうではなく その:
★☆(編集しました) 山嵐には敬意を持てなくなったから、気軽に「銭金」で解
決する。
☆ のだと。

★ けれども清との間を「金の問題」にしたくないという心の在り様でしょう。
☆ 金銭の問題についても遠慮を取り除いたアマエの関係でいるのだと。


★ では、「無縁の他者」はもとより初めから「希望を持ちえない者たち」である
のか?
★ で、あるなら、「縁」というのはそもそも何処にあるのか?或いはまたどのよ
うに生じうるのか?
☆ 世界観は 自己中心的な認識と判断に――人間であるかぎり いかんせん・か
なしいかな――基づかざるを得ないということだと思います。

でも人間もよくしたもので この《自己とその場(身内)としての内←→無縁なる
他人どうしの外》の構図を そのままにして放ってはおかなかった。

《慈悲》という概念および理念を考えた。友情(慈)と憐み(悲)という《内》と
してのアマエや義理なる心を《外》にも広げた。スサノヲ人間語をアマテラス普遍
人格語へと揚げた。

曰く 三種の慈悲:
衆生縁:甘え得る身内〔扱い〕どうしの助け合い
法縁:《義理》を堅く保ち実践しうる人の思いやり
無縁慈悲:人間わざを超えたあたたかい心

草々不一にて。

お礼日時:2016/04/28 06:20

№16の私の意見に付いてのブラジュロンヌさんの再考を期待します。



手直し、あるいは修正、または見直しのために、リセットして見てもらえませんか。

ブラジュロンヌさんの《感性》は?、に関わる処だから。

重要な処だから、本気で臨んでみて下さい。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★★(回答№16) 山嵐に奢られたのは他人としての気遣い(遠慮)が言葉
から感じられます。
☆ 遠い所からこの地へやって来た新任の者に対する先輩としての気遣いを山
嵐はしてくれた。
この申し出に甘えてよいと坊ちゃんは思った。つまり 《他人行儀》にならな
くてよいと思った。
――のではないでしょうか。

言いかえると 《他人として奢られた》のであったなら 何となくの意味でそ
こで《借り》ができたと坊ちゃんは思っている。

つまり 決して心無い事務的なお返しではなく・上手に何かの機会を捉えて山
嵐の気持ちや感じている恩を無にすることないようにお返しをしようとする。
つまり そういうことを心がけ続けていたはずではないでしょうか?

そういう気配はないわけです。恩は感じるけれど もうそのお返しは永久にし
なくてよいと思っていた。のではないか。

もしこうだとすれば やはり甘えとして心におさめていた。と考えるのですが
どうでしょう。

清に対する気持ちとしては《おれの片破れと思う》と言っています。
この《一体感》は 甘えの特徴だと捉えます。

お礼日時:2016/04/27 22:45

坊っちゃんの姿勢について。



山嵐への姿勢と清への姿勢は、甘えごころと言うよりは気遣いと受け止めました。
山嵐に奢られたのは他人としての気遣い(遠慮)が言葉から感じられます。甘えごころが働いたから、とは言えないと思います。

清に対しては身内として、心の内を知り尽くした上での気遣い(思いやり)を感じます。

そう思うから、この件に於ける坊っちゃんの心情に「甘え」を持ち込んで考える事に無理を感じます。

出来れば、もっと言葉を駆使して見たいんですが、いかんせん僕の頭が、、、

この不足感を埋めてくれる、ぶらじゅろんぬさんの見解が欲しいところです。
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この回答へのお礼

いや 書いてあると思うんですが。ご回答をありがとうございます。

どうですかね。

▲ (山嵐に奢られたこと)~~~~~~~~~~~
清と山嵐はもとより比べものにならないが たとえ氷水だろうが 甘茶だろ
うが 他人から恵みを受けて だまっているのは向こうをひと角の人間と見
立てて その人間に対する厚意の所作だ。

 ☆ ここは 《気遣い》かもですが。

割前を出せばそれだけのことですむところを 心のうちで有り難いと恩に着
るのは銭金で買える返礼じゃない。
無位無官でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万
両より尊い返礼と思わなければならない。

 ☆ ここは 坊ちゃんが奢ってくれた山嵐に対してさえ威張って
  みせている。そうすることによってむしろ《甘え》を推し通そ
  うとしている。

▲ (清におカネを借りていること) ~~~~~~~~~
おれは清から三円借りている。その三円は五年たった今まで返さない。返せ
ないんじゃない 返さないんだ。清は今に返すだろうなどと かりそめにも
おれの懐中をあてにはしていない。おれも今に返そうなどと他人がましい義
理立てはしないつもりだ。

 ☆ 甘えていることについて理屈づけているのではないか。

こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので 清の美
しい心にけちをつけると同じことになる。返さないのは清を踏みつけるのじ
ゃない 清をおれの片破れと思うからだ。

 ☆ 理屈のだめ押しのような。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2016/04/27 20:19

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。



先ず「補足」へのレスポンスから

>政治家は ひとりの親となって国民を家族と見なして――無条件の愛で受け容れますよとまでは言わないとしても――たとえ《愛する価値のないもの》をも愛することにつとめます。
タテマヘとしてでも・偽善としてでもその行動があることは まぁ事実でしょう。

「政治家」が、それがいつの時代のどの国であったとしても、また如何なる「党派」であるにせよ、「国民」を「無条件に愛する」というような話は聞いたことがありません。無論そのような「フリ」をしなければ、成り立たないという事情はあるにせよ。

>天皇皇后ご夫妻は どうでしょう?

>特に心打ちひしがれた《家族》の者には 無条件の親の愛を実行する姿があるように見受けられます。

それと、例えば熊本入りした「ボランティア」の人たちと、違いは、ありますか?
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この回答へのお礼

そう来ますか。まづは ご回答をありがとうございます。

政治家および公務員と言ったほうがよいでしょうか。

北や南で あやしい飛行物体があれば スクランブルをかけます。その自衛隊と
――好意的に見れば―― 一緒になって国民のためにはたらいていると思います。

熊本だって どういうよい結果が出たかと問われても分かりませんが 緊急に集
まり夜を徹してそれ相応の対処をしていると思います。

ボランティアのチカラは その応援です。ボランティアだけで全体的に組織立っ
て対応することは かなわないわけですから。

天皇の場合も 制度としては:
☆☆ 特に心打ちひしがれた《家族》の者には 無条件の親の愛を実行する姿が
あるように見受けられます。実際にどうであるのかは 分かりません。
☆ ですよ。

かたちは 社会的で相互のよきアマエ関係なる体制としてあるかに見えます。天
皇を――義理としてでも――よろこんで迎える人びとが 映像では映し出されま
す。

ボランティアの人たちも つまりかれらも同じようにチカラを出し合いつつ 被
災者の人たちに寄り添ってあげるでしょうけれど。

つまり 《無条件のあたかも親子の愛を実行する姿が有る》のでしょうけれど。

制度として当然のことでしょうけれど もっぱらの公民の人たちが アマエ関係
の愛は かたちとしてだけでも 民間の人たちの自由な活動をも恃みつつそれら
を先取りしていると思われます。

つまり あたらしい社会では どうするのがよいか。というお話になっていくか
と思います。

お礼日時:2016/04/27 16:23

引き続き「甘え」の場を借りて、自分の思っていることを(苦笑)



「ああ、自分はもう十分に甘えることが出来た」という「実感」は、ワイルドのいう、「親の役目は、親を必要としない状態を作ってやる」こと・・・つまり子供が、親から得られるものは充分に受け取ったのだ。という充足感でしょう。

これがその後の、彼の「自分は受け容れられる」という安心感につながり、求めれば得られるという気持ちを持たせるのだと思うのです。

一方、親子の関係を離れて、「社会」という「外界」に出た時に、その外界から常に否定され続けた場合どうなるか?
彼の中には、自分の受け容れられる範囲は、実は極めて限定されているのではないだろうか?という疑問が膨らみます。
ここでは親から与えられた「十二分の愛情」も相対化されてしまう。
遂には、親から与えられた愛情を「特定の間柄によってもたらされたもの」という限定になる。

つまり、親から十二分に愛情を与えられ、十二分に甘え切ったとしても、それは必ずしも、その後の彼の絶対的な自己信頼には成り得ないのではないか?親の愛を「人間一般の愛に敷衍することは不可能である」という思いが彼を支配するようになる。

細かく見れば、親の愛とは言うまでもなく「無条件の愛」です。「あなたが、まさにあなたであるがゆえに」或いは「あなたがまさにあなたであっても」「あなたが、現にあなたであるにもかかわらず」・・・愛する愛です。

ところが一般に他者は無条件では愛し得ません。「あなたのこういうところが好き」という条件下の愛情です。
ということは、「愛されうるための」「何か」を手に入れる必要があります。それは全ての人が手にしうるものか?

チェスタトンの言葉にあります。

『真実の愛とは、愛する価値のないものをも愛することである』

これは正に親の子に対する愛です。

他者は=一般に人は「愛する価値のないもの」を愛し得ません。

で、あれば、スズメさんのご指摘にある

>人間性に根差したポジティブな希望という意味の‘甘え‘

は「彼」にとっては最早「幻想」でしかないのです。

問題提起としては、「十二分に甘え得た親と子の関係がその後の外界に於いて、どこまで一般化し得るのか?」というところです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 他者は=一般に人は「愛する価値のないもの」を愛し得ません。
☆ これが 内(身内)と外とに分けた場合の《外なる他人どうしの世界》
の問題なのだと思います。

ちなみに《無遠慮》というときそれは ふたつの場合に分かれますね。
遠慮なく親しい間柄であって 甘える関係にある。
そして 遠慮なく気を遣わないでいる他人どうしの関係。

他人どうしの《無縁》の関係なる世界に入ったら 《甘え》はどうなるか?

ただし問題は その他人どうしが何らかのかたちで相いまみえるという段階
には入った場合だと思われます。《袖触れ合う他生の縁》なる出遭いの発端
は始まっている。

そのとき 相手の人をどういうわけか《「愛する価値のないもの」》だと見
なし《愛し得ない》とさえ判断するという場合。になると思います。

他人どうしの無遠慮のままでいてよいと判断する。身内扱いの甘える関係に
もむろん入らない。

つまり《袖触れ合う縁》を縁とも見なさない。――ということではないので
すか? つまりそれだけのことなのでは?



ただし・ただし そこにおいて ぐらすさんは《外の他人》をも《内》に誘
おうという《広義の愛》がある。
★ 「愛されうるための」「何か」を手に入れる必要があります。それは全
ての人が手にしうるものか?
☆ その《袖触れ合う発端の縁》から《全ての人》についてすでに《大人の
共生としての愛》が起こり得ると見ておられる。ぐらすさんの方が《人間性
に根差したポジティブな希望》において世界を捉えている。

ただしその《希望》が 《甘え》のことを言っているかどうか。
★ ところが一般に他者は無条件では愛し得ません。「あなたのこういうと
ころが好き」という条件下の愛情です。
☆ となれば 甘えは幻想であると。



★ 問題提起としては、「十二分に甘え得た親と子の関係がその後の外界に
於いて、どこまで一般化し得るのか?」というところです。
☆ 《一般化》は 無理でしょうね。だってそのために《内と外。外なる他
人どうしの世界》があるのですから。

むろん《チェスタトンの真実の愛》を理念として持つことは よきことです。

ということは 少しだけ《甘える関係にさえあり得る共生としての愛》を自
分のまわりに広げればよい。となるように思うのですがねぇ。

お礼日時:2016/04/27 06:20

『坊ちゃん』に見るあまえ、見ました。


土井建郎という人が、どんな思いでこれを取り上げたのか、そしてブラジュロンヌさんは、なぜ
これを取り上げたのか、とても気になります。

また《甘え》にはいくつかの“パターン?”があるようだと考える切っ掛けになりました。

赤子の甘えを無条件、とすれば自立した精神から“起こす”意志的な、そして理的な甘えには 能動型と受動型と有るようだと。
また、自立した精神から“起きる”情的な無意識型があるようだとも。

眠くなって、頭が動かないから、とりあえずここまで。
言いたいことはまだあるんだけれど・・・、
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 赤子の甘えを無条件、とすれば自立した精神から“起こす”意志的な、
そして理的な甘えには 能動型と受動型と有るようだと。
また、自立した精神から“起きる”情的な無意識型があるようだとも。
☆ そうですね。《能動型と受動型》とですか。

受動型というのは 相手が気を遣ってくれて こちらが行きたいところ
へ誘ってくれたり 痒いところに手がとどくようにしてくれたりするの
をありがたく受け取るといったかたちでしょうか。

能動型は 《理的》も《情的》も だいたいいつも一緒になっているよ
うに思うんですけれど。
そして 意識的に甘える場合もあれば ふと知らずに甘えている場合も
あるかと。

無条件は赤子の甘えは 無防備きわまりないので 聖なる甘えと呼んだ
ことがあります。

坊ちゃんはですね。相手が 身内〔扱い〕ではなく外の他人であると思
ったら ただちにそれは 甘えていられないというふうに切り替わるぢ
ゃないですか。

つまり 他人に対しては 遠慮しなければならないのだと。

土井によると そういう内と外 身内と他人という分け方だと 信頼の
関係が しっかりとした判断の基準にもとづいていないので 倫理の観
念があいまい・あやふやであるというふうに批判点でもあると言ってい
ます。

身内のあいだのアマエ関係は それとして居心地のよいものではあるが 
いわゆる人格にもとづく人間関係ないし信頼関係には成っていない側面
があるのではないかと。

坊ちゃんの切り替えの早さがおもしろかったので。

お礼日時:2016/04/27 05:14

(く)、(け)、(し)


現実の経緯を無視してすべての責任を押し付けるのは
甘えと言っていいかもしれません。
ただその甘えから誤解を解こうとする流れは生じると思います。
その‘手段‘があるかどうかで
実行できるかあるいはあきらめざるを得ないか
という分かれ目になるんだと思います。
実行できれば
縁側から踏み込んだ理解のきっかけになるのだろうと思います。

(こ)、(さ)
まったくの他人に最初から誤解のない判断を求めるのも甘えと言えそうです。
ただし誤解を解きうるというのは
人間性に根差したポジティブな希望という意味の‘甘え‘
ということになりそうな気がします。

(す)、(せ)
ポジティブな希望に少しだけバイアスがかかった一つの賭け
みたいな面があると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

誤解から相手をむやみやたらに糾弾してしまうというアマエに対して その誤解
を解く手段があったときそれを:
★ 実行できれば 縁側から踏み込んだ理解のきっかけになるのだろうと思いま
す。
☆ それが 通常の流れでしょうね。

まったくそのとおりに思うと同時に 別様に〔と言っていいかどうか分かりませ
んが〕 そのアマエを社会の中に無理なく双方によいかたちで取り入れ組み入れ
るかたち。これは あり得るかという見方はどうでしょうかね?

すなわち:
☆☆(趣旨説明) (け) もしそうなら そのアマエをキッカケとして愛――
スサノヲ市民の個人としての自治 および それにもとづく互いのマジハリ(交
通)の 好悪・愛憎をないまぜにした共生の関係――が はぐくまれ得るか?

☆ 単純に捉えれば 《じゅうぶんに甘えたという――へんですが――満足感》
を得ることを経て世間やおのれ自身とも和解する道はあり得るか? です。子供
だましみたいですが。



★ ~~~~~~~~~~~~~
まったくの他人に最初から誤解のない判断を求めるのも甘えと言えそうです。
ただし誤解を解きうるというのは
人間性に根差したポジティブな希望という意味の‘甘え‘
ということになりそうな気がします。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは おもしろいですね。マイナス・イメージの側面もあるアマエについ
て 《希望》の問題として捉え できれば活用して行く。という道。
(これを 《ぶっきらぼう精神》と言ってはいたのですが)。



★ (す)、(せ) ポジティブな希望に少しだけバイアスがかかった一つの賭
けみたいな面があると思います。
☆ オバマの広島訪問ですが この場合の《バイアス》というのも その希望が
まだ主観的なものにとどまっているかも知れないということを言っているのでし
ょうから まさに《甘え》であると同時に互いのアマエの度量を広げて行こうで
はないかと暗に言ってその先頭を切った。
――というようなことでしょうか?

お礼日時:2016/04/26 08:21

わたし自身、「甘え」という言葉がなにを意味しているのかまだはっきりと掴めていません。



また質疑の流れの中で、肯定的に捉え得る「甘え」と否定的なニュアンスを帯びた「甘え」とがあるように思えます。

全体の流れに沿って考えると、先ず「親と子」の間の「甘え」ですが、これは「肯定的な甘え」と受け取れるでしょう。
ただこれは「愛情」のどのようなヴァリエーションなのかがまだわからない。
親が子を愛し、子が親を愛する、これは理想的な親子像です。親は子供を大人になっても、自立して巣立っていっても「愛し続けるでしょう」子供もおそらく同じように。

子供が親に無条件に甘えられる、これはもっとも望ましい形でしょう。オスカー・ワイルドが、「親の役目は、子供に、親を必要とさせなくさせることだ」というようなことを言っています。
これは、子供はもう十二分に親から「愛情を」与えてもらった。という充足感に因ると思います。
一方で、親も子供に対して、「ありったけの愛情を注いだ」という満足感があるのでしょう。

「十二分に愛された」「目いっぱい甘えた」経験は他者との関係を築くうえでも重要な要素です。

親の子に対する「甘え」の形は、このように「子供に愛を注ぐ」という能動的なものではないでしょうか?
「愛し得る対象が存在する」ということは、「愛される」ことと同じように、人を充足させます。
ですから、子は本能的に親に「受動的に甘え」、親もまた子供に愛情を注ぐことで「能動的に甘える」のではないか?

「義理」とか「親に孝、君に忠」などは、本能的な「愛の発露」として考えられる「甘え」ではなく、他律的な教義でしかありません。

また現実的に考えれば、小津安二郎が『東京物語』で描いたように、自立し、大人となった子供たちに、冷遇されるというのも、決して特殊な場合ではない。「日々の生活に追われている」うちに、表層で生きることに順応し過ぎてしまっているのでしょう。

「遠慮」という言葉については、遠慮がない=無遠慮イコール親密さを表すものではないということです。
「何を言っても」「何をしても許される」という「甘え」は単なる「無思慮」でしかありません。
「遠慮」は「慮る(おもんばかる)」こと。気遣うこと。親しいからこそ生まれる感情でしょう。

>他人どうしでしかない《無縁》なる関係においても アマエはあり得るか?

これは、先に述べたように、「あり得るか?」と問われれば、「そこまでの関係に至っていない」と答えるでしょうが、
甘えの関係が成立し得るか?と問われれば、当然、夫婦も恋人も、親友も、元は赤の他人であったのですから、「ありうる」
=「成り得る」でしょう。

子の親に対する「負債」のようなものは、現在でもあって、老々介護などの問題にもなっています。
ただ、どの時代でも、親は子に「世話になる」ことを「当然」とは考えていないでしょうし、むしろそのような状態を窮屈に感じていると思います。

世の老いた親たちに対する「債務者」は子供たちである前に「国」であろうと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「十二分に愛された」「目いっぱい甘えた」経験は他者との関係を築くうえ
でも重要な要素です。
☆ いやぁ うまく適切に言っていただきました。こう言いたかったのです。

★ オスカー・ワイルドが、「親の役目は、子供に、親を必要とさせなくさせる
ことだ」というようなことを言っています。
☆ これは わたしにはただちに 神と人間とに当てはまる捉え方だなぁと思い
ました。

ただし その神の愛は むろん目に見えませんし 思議すべからざるナゾだと思
います。

ということは 特に親の側としては 基本として《ぶっきらぼう精神》でいるこ
とのほうが 互いのあいだで何かと遠慮も短慮も深慮も浅慮をも通り抜けて行け
るのではないか・・・という我が田に水を引くことになってしまいますが。

★ ですから、子は本能的に親に「受動的に甘え」、親もまた子供に愛情を注ぐ
ことで「能動的に甘える」のではないか?
☆ 質問者つまり求答者としましては さらに煮詰まって来ました。

かつて 赤ん坊について《聖なる甘え》という捉え方をしました。つまり 無条
件で(有害か無害かの意識なく しかも無防備なまま)《本能的に親に「受動的
に甘え」》さまを言っています。

つまり 《受動的》かどうかさえ関係ないそのさまです。
この《本能的な》行動は しかしながら 人間としての本能であると捉えたい。
なぜなら やがてものごころが着き大人になって社会人として自立したあとでも
ともかく《甘え〔合い〕》として――たとえば 助け合いやあるいはユヅリアヒ
として――その痕跡をのこしている。と見てもいいとすればです。

のこった論点としましては:
○ 義理ないし孝行について 経験則であろうが 規範として律するオシヘに過
ぎない。か。

○ 親がその《自立し、大人となった子供たちに、冷遇されるというのも、決し
て特殊な場合ではない》問題。
○ ただ働いたあとの《世の老いた親たちに対する「債務者」は子供たちで
ある前に「国」であろう》という問題。

○ 《「遠慮」は「慮る(おもんばかる)」こと。気遣うこと。親しいからこそ
生まれる感情でしょう》という見方に《いや 親しいなら互いに甘えを許容する
はずだ》という。総合できる?

○ 他人は 漠然とながら《甘え関係への途上にある》とは言い得る。

お礼日時:2016/04/26 07:54

甘えの中身は依存。


依存の対義語は自立。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうなんですけれど。つまり 言葉としてはその通りなんですけれど。

つまり 必ずしも当てはまらないという理由を述べます。

すなわち《自立》は いちおう成人した場合に言われることです。

未成年についての自立というのは 例外的なことになります。

ところが 《甘えとしての依存》は 成人してからも・そしてそうで
はない場合にも使われます。

しかもむしろ 赤子のときから幼児・少年といった年頃について用いる
ほうが合っています。

言いかえると 子どものときに当てはめる場合は 《甘えもあるが自立
もあり得る》といった情況ではなく そうではなく もっぱらアマエて
おり自立はまづない場合の問題です。

同じく言いかえると 大人についてアマエを言う場合というのは 子ど
ものときのアマエの延長線じょうにあると同時に 大人は一般に自立し
ているので 次のようになります。:

すなわち 基本的に自立していながら ときにアマエの行動にも出る。

こういう場合を問うていますし また もっぱらのアマエとしての子ど
ものときの場合についても問うています。

微妙ですが そういった趣旨ではあります。

お礼日時:2016/04/25 22:31

細かいところに追記です。

【甘える】というのは【甘やかされる】のとはまるで違います。例えば【甘い】の対義語は【厳しい】ではなく【冷たい】であり【優しい】の対義語は【冷たい】ではなく【厳しい】というのと同じです。【厳しい】のは関心を持っているからです。親が子に厳しくするのも関心があるが故の一種の【甘え】だと確信しています。わたしとしましては【甘える】の対義語は【放棄】あるひは【自殺】なのではないかと思ひます。

ところで【世の親たち】というのは将来年老いたとき【子の世話になるのが当たり前】と考えるほど【無責任】なのでせうか。それほど自分の人生に対して【無責任】なのでせうか。自分の人生に責任を取るのが当たり前である、と当たり前に考えないのでせうか。むしろ【世の親たち】はいつでもどこでも是非ともできる限り【子孝行】をしたいと思ふのが当たり前なのではないでせうか。


発作中だからとりあえず送信。
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この回答へのお礼

そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

対義語ですね。そうですか。
★ 【厳しい】のは関心を持っているからです。親が子に厳しくするのも関心が
あるが故の一種の【甘え】だと確信しています。
☆ なるほど。こういう意味合いでしたら:
★ 【甘い】の対義語は【厳しい】ではなく【冷たい】であり
☆ については:

 甘え――(同次元・同範囲内での対義語)⇒厳しい
 甘え――(異次元・別領域での対義語)⇒冷たい

というふうにも捉えられるようですね。

★ わたしとしましては【甘える】の対義語は【放棄】あるひは【自殺】なので
はないかと思ひます。
☆ これも なるほどですね。だとしたら 【逃避】というのも候補にあがりま
すよね。

★ ところで【世の親たち】というのは将来年老いたとき【子の世話になるのが
当たり前】と考えるほど【無責任】なのでせうか。それほど自分の人生に対して
【無責任】なのでせうか。自分の人生に責任を取るのが当たり前である、と当た
り前に考えないのでせうか。むしろ【世の親たち】はいつでもどこでも是非とも
できる限り【子孝行】をしたいと思ふのが当たり前なのではないでせうか。
☆ ねこさあーん! どうでしょうか? 

わたしは こちらの見方に片向いています。論証の用意がありません。それに実
際の経験も限られているかも分かりません。

お礼日時:2016/04/25 21:03

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