人生のプチ美学を教えてください!!

私は今、自由とは一体何かと悩んでいます・・・
今の日本の社会は「自由」というモノがとてもあやふやに見えるのです。若者は自由を得たいがために、学校に行かなくなったり、親や教師に反発したりしていると思うのですが、ただ束縛から逃げるだけが「自由」なんでしょうか?
また今一番知りたいのは、不登校の方やフリーターの方にとっての「自由」とは何かです。
ご回答お待ちしております。

A 回答 (15件中1~10件)

自由とは”組織に所属していない状態”ではないでしょうか?



・学生であれば学校や家族やクラブ活動など
・会社員であれば企業など

そもそも束縛があるのはある何かに関わっているから発生するのです。

しかし、組織に所属しなければ生活できない人がほとんどでしょう。

自由になる為に必要なもの。
・食料
・住居
・衣服
です。
これらを得るには経済力が必要です。

若者の求めているのは自由ではありません。
やりたいことだけを主張しているでけのただのわがままです。
不登校は精神的なことなのでここでの言及は控えます。(しかし、自由ではありません。家族と言う組織に所属しています。)
フリーターも生活するのにバイトしてるでしょう。でしたら、バイトしている企業での組織に所属していることになります。

老人の孤独死って聞いた事がありますか?
彼らは、自由を得た結果なのです。
誰にも指図されることはありません。しかし、何もすることなく、話す相手もいない・・・それが自由です。

DYBIさんは、勘違いしているような気がします。
”自由=幸せ”だと思っていませんか?
自由ほど苦痛はありません。

この回答への補足

babuoさんにとっての自由とは一体なんですか?具体的な解答が欲しいです。

補足日時:2003/08/21 20:37
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
babuoさんの答えは一つ一つが的を得ていて、感心させられました・・・。若者の求めているのは自由ではなくわがままであるという箇所には驚きながら納得させられました。しかし最後のところは私も引けません。自由=幸せとは思ってはいません。私は自由=試練に耐えて得るものようなものだと思っています。babuoさんとは一度話をしてみたいです。

お礼日時:2003/08/21 20:36

「自由」とは、”自分の考えが自分の判断であること”だと思います。


とすれば、誰もが自由と言えます。

社会の仕組みを受け入れる自由,反抗する自由。
社会や他人の指示を受け入れる自由,反抗する自由。
社会や組織に属する自由,属さない自由。
現実を受け入れる自由,空想する自由。
幸せだと思う自由,不幸だと思う自由。

では、不登校の人やフリーターの人達にとっての「自由」とは、何か?
人それぞれだけど、自分の生き方を正しい(正しいかは別として)と思う自由とか、実は社会に振り回されている自分の生き方を自分の考えだと思う自由でしょうか。

いいんじゃないですか。
不登校だって、フリーターだって。
社会に振り回された生き方をしたって。
いつか気が付くかもしれないし、
そのまま自分の考えを貫き通すのもいい。
みんな自由ですよ。
物質的な便利さや心が楽な生き方は別として。
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自由は常に不自由と隣り合わせにあると考えます。


もちろんその二つの間に無限の混在状態が存在しますが・・。
現在の日本では、基本的には競争原理が働いていますから、どちらかというとネガティブな思考が先行しがちになることはしょうがないことだと考えられます。
つまり、本当は誰の所有でもない土地を耕し自分の食べる分の食糧を確保出来ていれば、生物としては満足すべき状態でしょうけど、誰の所有物でもない土地は存在せず。ましてや「消費」という行動によって生命を維持していかなければならない以上、私たちは常に不自由な状態を物理的に強いられていると私は考えているのです。
仕方なく物質主義を謳歌しているのだと。
私たちは環境的にはもはや自由にはなれないのではないでしょうか。
だから、心に自由を求めてさまようのだと思います。
心に自由を求めた結果として不登校や引きこもりといった現象が起きてくるのではないでしょうか。
彼らは逃げたいのではなく、ありのままの自分自身を認めてもらいたいだけだと私は感じるのですが・・。
現代は「一般的」という名のもとに社会ルールに対して適性を持たないものを排除しがちですが、新しい社会ルールが作られるにしたがって排除されていく人々は増えるばかりです。犯罪者などは残念ながら排除しなくてはなりませんけどね。バランスよく共存できるのが一番なんですけどね。
私にとっての自由とは「人工物に対して価値観が存在しない状態」ですが、実際にはこの日本という社会で生きている以上、私は内面を隠して生活しています。
ちょっと思想的になっちゃいましたが、DYBIさんの質問で私が感じたことを書いてみました。
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いつもなら、惰性でこなすその一歩を、踏みとどめることかな。


この巨木をきれば、俺の生活はもっと豊かになる。
この巨木を財源に、俺は豊かになる。
だから伐る。
 
ayamati:「おい、その一歩、待たないか?」
 
木のことをもっと考えろってことだな。
目先を効かさないと、自分以外の存在についても気付かない。
そういうのは、不自由なんじゃないの?
登校している人間、社会参加している人間、こんな安い区分で人間を見るというのも、どうかしているとは思うが、何かに追っかけられている(君の言う逃げているという表現が当てはまる)人間は、自由じゃないな。
逃げ切れてない。
ある不登校の当人にとっては、学校なんてどうでもよく、ある乞食その当人にとっては、勤め先なんてどうでもよく、眼中にないといってしまえばそれまでだ。
逃げる必要もない。
どう生きるかは考えても、学校や既存の社会存在に、頭が縛られることはない。
 
今、自分自身は自由なのか?考えてみればいいと思います。
 
踏み出そうと思った足の先に、草が生えていたので躊躇した。蟻がいたので躊躇した。
こういう人は、自由を少し知っているんじゃないかな。
ウンコがあったからよけた。
そんなことは当前。
もし、学校がウンコなら、既存の社会システムがウンコなら、避けて当前です。
堂々とウンコ踏んで、にこにこ笑って歩いているやつは、ウケを狙ってるのか?
それとも糞と知らないのか?
ウンコのほんの隣にも、足の踏み場があることを知らないのか。
 
だけれど、そうやって避けることをしないで、目の前の糞を踏んで生きて行く人間の方が、長生きはしそうですね。空虚な時間を。
 
自分の足の踏み場に困惑する。
そういった人のほうが、善く生きれるんじゃないかな?
ウンコを踏んでしまう人よりも。

>若者は自由を得たいがために、学校に行かなくなったり、親や教師に反発したりしていると思うのですが、ただ束縛から逃げるだけが「自由」なんでしょうか?
 
自分より弱い奴から逃げる馬鹿が何処にいる?
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お礼ありがとうございます。

大切なこと忘れてました。自由って人類にとって、永遠のテーマかもしれません。個人にとっては、そのときの、環境に左右されやすいと思います。
 僕は、大学で数学を学んでいましたが、学ぶことに疑問が生じ、休学して、都会を離れました。逃亡といえば逃亡ですが、自分からは、逃げられないし、心の中では、解決へ動いていました。ただ何事にも陶酔することは、避けました。目覚める方向で、歩んでいました。かなりつらかったです。その時に、自由とか不自由だとは、感じていなかったと思います。ただ疑問を解決したいだけでした。僕の場合2年後に解決できましたが、答えは、様々だと思います。解決は、イコール答えでもないし、どんな束縛があっても自由であると思う方もいるし、一見、お金も権威も愛情も何でもそろっている方でも、不自由な方もいます。個人的には、千差万別に思います。あえて言えば、「その人をきちんと受け入れて、その心をきちんと表してくれる存在とのコミュニケ」は答えに近いような気がします。
 アドバイスにならなかったらごめんなさい!
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感覚としては、逃れることだけが「自由」だろうと思います。



自由とは[法則]から外れること。
スッキリです。

人間の法則、自然の法則、、、ゴマンとありますが、、、
そこから抜け出す瞬間の感覚。
かなり大切です。


倫理としては、良かったのか悪かったのかは、たいていやってみなきゃわかんないので(ほんとは後になってもわからないんだが)自由を感じたかとはあまり関係はないだろうと思います。

たとえば自由を求めて不登校をします。
それで、良かった人と駄目駄目になった人がいます。


僕の場合は「自由」は感覚のみです。
価値ではありません。
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いつもなら、躊躇しているその一歩、踏みとどまっているその行動を、勇気を以って成し遂げること。


それが、小さな自由の第一歩。
かな?
 
なんでって、それが、自分の思いを、遂げることになるからです。
自分の思いというものを、それが「意味のあること」にする。
くすぶっているだけで、そのうち火が消えていってしまうようじゃ、なんだかんだ言い訳しても、あかんのです。
それは、燃え残りならぬ、思い残りがあるってこと。

それでは、人間的成長は望みにくいと思います。 
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はじめまして。

きりん先生です。

 現代の若者にとって自由とは、端的に言ってしまえば、社会という現実からの逃避だと思います。言葉を失ったことに対するいらだちが原因だと思っています。
 身体的に精神的にも成長しているのに、誰も一人前として扱ってくれない、さらに、彼らの言葉に誰も耳さえかそうとしない。彼らの叫びは誰にも聞こえはしない。社会により、強引に切り取られた彼らの言葉、その代わりに与えられた孤独・・・・・

 また、若者たちは社会参加を拒むことで、モラトリアムを続けることで、万能感を常に抱いていること。それらも彼らは、自由だと受け取っていると思います。

 わたしにとって自由とは、か細く社会で生きながらも、表現の自由、また自己の言葉を所有することだと思っています。

 
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#4 delmondo です



 私が考える自由は『生きる上での選択の自由』
 です。自分が何を食べるか、何を選択するか、
 どうすべきか、どうしたいか等…その都度、
 自分の信念や思想(時には状況・事情)と照らし
 合わし選択する自由を持っています。感情が
 優先されるときもあれば理性が優先されるときも
 あります。そのとき可能な限り『世間体』『先
 入観』『圧力』を排除します。そうすることが
 より自分の求める自由に近づくからです。

 『自由』という概念は『信念や哲学、思想等が
 ある程度構築されて初めて有益に働く概念』では
 ないでしょうか。無論『哲学・思想が未完だと
 自由は存在しない』ということではありません。
 『未完であればあるほど有効に働かない』あるいは
 『働きにくい』というだけです。DYBI さんの
 目に、不登校やフリーターの自由が奇異に映る
 のはそのためではないでしょうか。

 答えになりましたでしょうか?
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単純な僕なりのお答えします。

それぞれの考えがあること、自由という認識も様々ですが、ものごとにある見解を見出すことでひとつ自由になれるような感じがします。
 絵を描いていましたが、僕の場合絵画理論を見出すことにより描かないでもいられるようにもなりました。
 数学に没頭する日々もありましたが、数学とは何か?この疑問に答えを見出して、数学から離れることが出来ました。僕の経験は、いずれも、その枠から離れ1歩大きな世界からその世界と自分を見てその見解を見出した時に僕は自由を感じました。20代の頃は、いろいろ深く悩みましたが、その時の思考は、今活かすことが出来、すごく大切だと感じています。
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この回答へのお礼

解答ありがとうございます。
<ものごとにある見解を見出すことでひとつ自由になれるような感じがします
私もそう思います。しかし、私はその見出した見解がただの思い込みやシッタカだったら、自分や他人をだましてしまうという恐れがあると思います。

お礼日時:2003/08/21 20:52

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