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デリダの「赦しは、赦しえないものだけを赦す」についてどう考えられますか?

A 回答 (7件)

台風がすごいらしいですね。



今、こうして、PCに向かって、書き込んでいる事を、
被災者は赦してくれるのでしょうか。

デリダはほとんど、名前しか知りません、
>「赦しは、赦しえないものだけを赦す」
この、言葉にだけ考えてみます。

「赦す」・・・何を、誰が赦す事が可能でしょう、
もし、殺された人は、殺した人を赦す事は可能ですか。
主観的なことと客観的なことを混同するとおかしくなります。
主観的に「赦せない事」これは確かに、赦せないでしょう。

しかし、

私は、今此処にいますが、なぜ此処にいるのでしょう。
私は、私の身体とともに、今此処にいますが、絶対的に、
排他的に、今、此処を、占有しています。あなたも同様でしょ。

赦すのではなく、最初に「赦された」お返しではないでしょうか。

デリダと無縁な、的外れ回答でしたら、お許しください。
個別な事にもあまり関心がありません。
台風の被害が少ない事、むやむやむやを祈ります。

この回答への補足

tobey様「福音」に付きましては次回の質問時に又よろしくお願いいたします。

fishbowl66様、hakobulu様、いつもご回答いただき誠にありがとうございます。次回も又よろしくお願いいたします。

補足日時:2005/09/06 20:47
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

「赦しは 赦しえるものだけを赦す」
と限定することに我慢がならないといったところでしょうか。

「赦しは、赦しえないものだけを赦す」

は崇高(超越論的な)な理念であり、不可能であるからこそこうした理念が人間には必要ではないかと、いったところでしょうか。

お礼日時:2005/09/06 20:33

アウシュビッツについて言及されていますが、「赦し」と「免責」は一緒にされない方がいいかと思います。

赦すということは、罪を免除することではありません。

先におすすめしました本の中でC.S.ルイス(ナルニア国物語の作者)がこう述べています。
----------
真の赦しとは、あらゆる事情を考慮した後で、罪をしっかり見つめることだ。どんな弁解にも惑わされず、罪の中にあるすべての恐怖、汚さ、卑劣さ、そして悪意の面を見つめ、それでも罪を犯した人と全面的に和解することだ。赦しとはそういうことであり、それ以外ではない。
----------

赦しというものは、当事者間に限定して考えた方がその本当の意味がわかります。
mineosanの中で赦せない人、赦せない行為があれば、それについて突き詰めて考えてみてください。結局のところ「赦し」は哲学(傍観)という立場で見ている限り、真の意味での理解には及ばないかと思います。

ちなみにmineosanのおっしゃった福音による赦しは「崇高な理念による赦し」ではありません。
人は理念によって人を赦すことはできません。憎しみとは理性を超えた感情のうめきですので、頭の中で考えて赦すということは不可能です。
では、福音による赦しは何かというと「私たちは愛されている、赦されている、だから赦せる」という単純な図式です。
人は思っているよりも単純で弱い存在です。
私もこのことにより、以前は吐きそうなほど嫌いだった人を、今は心から愛しています。

この回答への補足

「崇高な理念による赦し」というものはあり得ません。
あり得ないからこそ「崇高な理念」となりうるわけです。

補足日時:2005/09/06 19:45
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

「赦し」と「免責」を同一とは考えておりませんし、
福音による赦しは「崇高な理念による赦し」とも述べてはいません。

お礼日時:2005/09/06 19:43

ご返事ありがとうございます。


>「絶望状態」であって「赦し」も存在しない状態なのではないでしょうか。

:そうは思いません。
本人が「赦せる」と思った時の状態を客観的にみると、そういう事ではないか、と思ったわけです。
それが安易な赦しではなく、赦しえないものを赦すという矛盾である以上、こう考えざるをえないと思い、また、その可能性はあるのではないかと推測したのです。

絶望状態になる直前に、憎しみのエネルギーを使い果たしかけた事によって出来た情念の間隙から、
かろうじて「赦す」という意志が浮かび上がり、
矛盾が矛盾でなくなる可能性はあるのではないか、ということでもあります。
この場合の「赦し」は、相手の為であると同時に自らの為にも必要とされると考えられるので、
それも矛盾が矛盾でなくなる一因かと考えます。

 ----------

補足もありがとうございます。
うかつな事は言えない内容ですが、
「アウシュビッツにおける人間の行為」への赦しは不可能だと思いますし、可能である必要もありません。
しかし、その「行為をおこなった人間個人」に対して、
被害者、またはその関係者が先の「赦し」を与える可能性が「全く無い」とは思いません。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

起こりうる全ての心理状態を否定するものではありません。ただ可能性を追求する場合には「現実性」を考慮しなければなりません。
憎しみの滅失が赦しに昇華しうるか疑問ですが、それ自体部外者の想像ですので現実に直面しない限りは何ともいえないところです。ただ赦しを与える可能性はゼロに近いと考えます。

お礼日時:2005/09/06 19:10

ご返事ありがとうございます。


「>単に崇高な理念に過ぎないのか、あるいは{それを可能にする「何か」があるのか」

・「崇高な理念による赦し」は、
おそらく「ここで言うところの赦し」という範疇には含まれないような気がするので、
すなわち「理屈」が関与してくると思うので、違うと思います。

・可能にする「何か」は、確信はありませんが、ある「ように」思います。
例えば、「憎しみ」が「憎むことをしている人自体」を破壊する寸前まで発露された後。
「逆カタルシスの発散」とでもいったような、物理的に「憎むエネルギー」が枯渇した場合です。

無論、「憎み尽くす」ことが前提必要条件(個人差があるので絶対条件ではなく)になります。
ですから、「心神耗弱状態⇒無罪」が、この為(憎み尽くす為)の期間が短すぎる段階においては、
受け入れ不可能な判定である、というのは論理的意味で当然のように思います。

この回答への補足

どうもありがとうございます。

これは補足なんですが、なぜデリダの言葉が意味を持ってくるかといいますと、「なに」を持ってしても「アウシュビッツ」への赦しは不可能であろうと思われるからです。
或る人々にとって。

補足日時:2005/09/06 12:33
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

補足でも述べましたように、なにを持ってしても赦しが不可能であろうと思われるような事例がありますが、それはさておき、

>例えば、「憎しみ」が「憎むことをしている人自体」を破壊する寸前まで発露された後。
「逆カタルシスの発散」とでもいったような、物理的に「憎むエネルギー」が枯渇した場合です。

は「絶望状態」であって「赦し」も存在しない状態なのではないでしょうか。

お礼日時:2005/09/06 14:13

回答ではないのですが、「無条件の赦し」ということについてのひとつの参考として、こちらの本をおすすめします。



-------
「憎しみ続ける苦しみから人生を取り戻した人々の物語」
【著者】アーノルド,ヨハン・クリストファー
【出版社】いのちのことば社 フォレストブックス
【価格】\1000円 
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キリスト教系の本ですが、宗教臭さが薄く、いろいろな方々の体験談が淡々と書かれています。
中には、自分の娘を誘拐され、殺されたにもかかわらず、犯人の更正を心から願うようになった女性の話も載っています。

ここに掲載されている一文を抜粋します。
「赦すことを拒否するのは、人を殺すことより悪い。
殺人は一時的な衝動によるものであるのに対し、
赦しの拒否は、冷徹で意図的な選択だからだ」

この回答への補足

直截的に

「キリスト者になりなさい」
と仰っていただいた方がスッキリするのですが。

補足日時:2005/09/06 23:58
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

「赦しえない」程度がよくつかめませんが、
「何か」とは「福音を受ける」ということですね。

お礼日時:2005/09/06 12:02

デリダという方の思想は知りませんが、参加していいでしょうか。



簡単に赦しえることというのは、実は自分にも幾許かの責任があることである場合が多い。
だからこそ、赦しえないと思っていても事態の展開次第で赦しえる場合がある。
これは自分にも責任があるのだから、純粋の意味での「赦し」とは言えない。

しかし、全く自らの責任の範疇外で起きた、
本当に赦しえない出来事に対して赦しえることができた時、
それが本当の意味での「赦し」と言える。

以上、無責任な感想です。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。

もう2,3歩踏み込んでいただきたいのですが

問題は、
>本当に赦しえない出来事に対して赦しえることができた時
しかも無条件(つまり赦しを請われもせず)に人間にとってそれが可能かどうかということです。
又それは単に崇高な理念に過ぎないのか、あるいは{それを可能にする「何か」があるのか}という問いなのですが。

お礼日時:2005/09/05 20:30

「赦しは、赦しえないものだけを赦す」


あたりまえの事では、
「デリダの」と言う形容詞について
ご説明戴ければありがたいのですが、
何しろ、彼らは、難解な文章が多いですから。

この回答への補足

どうもありがとうございます。

人道的にも到底赦しえない(残虐な行為、事件)が存在した(する)という前提でお願いいたします。

さらに追加して事件に関しては(心神耗弱状態⇒無罪)
といった事例にも言及していただければ。

補足日時:2005/09/05 19:39
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