電子書籍の厳選無料作品が豊富!

こんばんは。

質問の内容は題名の通り、生きる価値とは何かということです。
こういう質問サイトで
「私には生きる価値がないから死ぬ」という人がいたりします。

生きる価値って何と考えると簡単なようで難しいです。
生きがいを見つけて、恋人を見つけて結婚をしたり、自分が好きな趣味を見つけて
それに没頭する……こういうのはなるほど、「私の人生には生きる価値はある」と思います。


逆に生きる価値がない状況ですが、大学受験を失敗した、ブサイクだから……といった、どこか人生で躓いたときや、比較によって起こると思います。
ただ、生きる価値とは、この世に生まれたことに既に存在していると思うのです。
確かにつらいことも多いことは事実ですが、その分いい事と言いますでしょうか、
そういうことも存在していると思うのです。
ただ人間はどうしても欲が発生します。特に問題なのは他人との比較です。
他人と劣っているから生きる価値云々と言い出すのはないでしょうか。


ただ、この世に生まれたという価値は、他人と比較もできないし減りもしないと考えています。
……でもブサイクだから、大学受験を失敗したとか、仮にそういう理由だからお前は生きる価値はないと言われても、生きる価値は依然存在しているように思います。
だってそういう理由だから生きる価値がないというのは、おかしくないでしょうか。
誰かがその人の生きる価値を否定できるのでしょうか?
それに、それならそれで、また違う道があるように思えます。

ざっと考えてみました。うーん。纏まりはあまりないですが、
生きる価値とは何だと思いますか。生きる価値というのはそもそも無いという考えでも大丈夫です。
それでは、よろしくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

今の時代、特に日本ですと、生きる意味や生きる価値について、悩みやすい状況です。

そして、それは正常であり、逆に悩まない人が見る幸せ・成功・愛・平和は、嘘と言い切っても良い程です。

それを確認した上での話しなのですが、生きる価値と言った時に、例といて挙げられている全ては相対価値の事だと思うのですが、今の時代、特にこの日本では、生きる価値が相対価値に留まっているからこそ、悩みの原因でもある事に気付く良い機会でもあります。

生きる価値、そこに絶対価値が入らねばなりません。

その絶対価値、絶対性、絶対世界を受け入れる事ができるかどうかが生きる価値について整理整頓が起きる道です。絶対があってこそ、今の様な多様に乱立する全ての相対を統合共存させる事が出来て、幸せ・成功・愛・平和を実現する道が明確に観えます。

重要な事は、人類が今まで得ることが出来なかった生きる事の絶対価値ですね。これを明確に理解する事が第一歩です。そこから、全ての相対価値に整理整頓が起きる事でしょう。
    • good
    • 0

>生きる価値とは……



死にそうになると見えてくるもんなんだなぁ。

V:価値
S:希少性(Scarcity)

とすると、 V = f (S) が成り立っていて、
fは線形ではないものの正の相関関係が認められますね。

病気や怪我で一時的に生きることが困難に思われた時には生きる価値が大きくなるし、また残された人生の時間が減少している老人どもは、生きる価値を認めやすくなる。

人間の根源的な不幸は、生きる価値が最大になった時点で、その価値を奪われる宿命にあるんだな。

ここを押さえておくと、新興宗教の教祖様になって大儲けできるかも知れんぞ。
    • good
    • 0

質問の内容は題名の通り、生きる価値とは何かということです。



○ 哲学者、宗教家は「生きる意味・価値」が答えられないと哲学者、宗教家は名乗れませんね。
答えは簡単なのですよ。「結果ではなく過程で得た経験や知識を得るために生きているのです。」
過程が厳しければ厳しいほど、より強く鍛えられるのですね。だから、立派な哲学者、宗教家は「我に艱難辛苦を与えたまえ」と望むほどなのです。
楽な人生には少ない報酬が厳しい人生にはより多くの報酬があるということでもあるのですね。
苦しくて自殺を考え、それを乗り越えた人生には立派な成果があるものです。つまり肉体生命の生き易さではなく心が本当の自分だと知っているからなのですね。
みんなおぎゃと生まれると必ず死ぬことになっているのです。それ故、結果は持って帰れるものではないことは明らかでしょ。学歴も会社も家庭も社会も国家も経験を積むための舞台でしかないのですね。舞台をどんなに美しく飾ってもいつかは取り壊すものなのですね。村も町も津波で綺麗さっぱりということもありましたね。つまりね。「生きる価値」とは「日々生きて様々な環境で心の格闘を経験すること。」それが全てなのです。
    • good
    • 0

 生きる価値は、その人の独断だ、というのが自分の意見です。



 ニーチェは言いました。神は死んだと。お前を意義づけてくれる絶対的価値など、どこにもないのだよと。しかし絶対無だからこそ、逆説的に、お前の思いは、絶対無の中でお前自身が信じる価値によって意味を付与された、唯一無二の絶対的思いなのだと。

 ・・・話はわかるが、常人には難しい。でもこれが、ニーチェの言う超人だと思います。


>ただ、この世に生まれたという価値は、他人と比較もできないし減りもしないと考えています。

 これが超人の思想です。自分がこの世に生まれ事実への、誰かが保証するような絶対的価値などない、と認める事によって、逆に自分への思いによって、自分への価値が生じる・・・。


>……でもブサイクだから、大学受験を失敗したとか、仮にそういう理由だからお前は生きる価値はないと言われても、生きる価値は依然存在しているように思います。

 ブサイクであっても、大学受験を失敗しても、そんなのは関係ないんですよ。自分に生きる価値があると思った瞬間に、自分に生きる価値が生まれるんです。
    • good
    • 0

「心の浄化と命への道」 



人間の心の意思とは目、耳、鼻、舌の細胞の意見や意思である。人間の視力は新車や大邸宅や宝石を見ると私も欲しいと思います。必要も無いのに数億円、欲しいと思う事から人間の欲望の炎が燃え盛り不幸が始って来ます。人間の欲望には限りがありません。何処かの大統領夫人のように自分の靴を3000足も持ったりします。金の延べ棒が3トン持っていようが貴方が転生

する時には来世まで持って行けません。持って行けるのは信用、才能、宇宙的な記憶等です。そして人間的な進化の学位ぐらいのものです。これ等は皆無形のものです。人間の視覚、聴覚、味覚、嗅覚等の細胞は物欲細胞として知られています。必要以上の財産や生活物資を欲しがります。入手が困難になると怒りますし悲しみますしヒガミます。これ等は人間の心のエゴや性と

して知られています。これ等の心に付随する悪魔細胞を従順な宇宙的な細胞に変化せしめるには丁度、禁酒や禁煙をするように一大決心をして沸き起こる不快感と信念を持って戦わねばなりません。この事は誰かが貴方に代わってやってくれる訳ではありませんので貴方自身が苦労にもめげずに心の純化をして行くのです。そして進歩して命への道を歩いて行くのです。貴方の

愛しい家族が一緒に暮らしていたとしても、たった一人で他界しなくてはなりません。此れは真実です。人の世は移り変わる仮の姿に過ぎません。移ろい行くものです。貴方のものは何もありません。貴方のたった一つのものは宇宙の意識である貴方の叡智と命です。これは永続するものですし「永遠の者で知る者」です。貴方はどうしたら心の浄化が出来るのか一日中の自分

の想念や感情を一日の終わりにノートか手帳に記入していきます。貪欲、利己主義、嫉妬、憎悪、不和、分裂等の悪想念を左側に記入していきます。そして反対側の右側には宇宙的な良き想念を記入していきます。慈しみ、奉仕、感謝、調和、誠実、信念、理解等の良き想念を記入していきます。最初の内は悪想念が60%~70%位はあるものですが次第に悪想念を思わなく

努力して行き良き想念だけ思うように努力しますと次第に心が浄化して行きます。全ての言動は想念や感情が元になって発露するからです。心が浄化されますと美男、美女の顔に変化して行きます。顔に美醜を吹き込むのはその人の想念感情で「人間は自分が思う通りの者になる」からです。何時も不平不満ばかり言動していると、そのような顔になりますし自然界等の恵み

に感謝している人は立派な人相になって行きます。この原稿の初めに述べましたように自分のものは一切が無いと悟りますと欲望の炎に左右されなくなって来ます。そして悟りの生活を続けて行けるようになりますが次にどうしたら命の道に歩む事が出来るようになるかと言う事ですが真の貴方は貴方の命でもある宇宙の意識(叡智、神、生命、潜在意識)です。これは貴方の

前世からの宇宙的な記録係であり教師でもあります。貴方の心に日夜、色々な印象や指示で貴方の心を教え導いています。直感、映像、魂の知覚、アイデアー、警告、閃き、衝動等です。人間の心はこれ等の各印象や指示に従うべきです。何故なら此れは貴方の内部の創造主である神の指示であるからです。或る時はこうしないと危険ですよ、又、こうすれば失敗しないよ、

あれを食べなさい。トイレに行きなさい等、数え上げたら限りが無いほどです。貴方の宇宙の意識は貴方の肉体と心を創造しました。これは転生し新しい肉体になる度に造り替えられていますが宇宙の意識は前世の記憶を保っていますので心は此れと一体化する必要があります。心を空しくして話中にしない事です。心を静寂にして自分の幼い頃の事を思い出すように前世の

各生涯を思い出す事が出来ます。(HP「永遠の生命」の過去世の記憶を得るにはを参照)その時に貴方は真の自分の宇宙的な過去世の履歴書を閲覧する事が許されますがエゴが多いと過去世の記憶の部屋の中をチラリと見る事しか許されません。命に至る道は容易ではありません。イエスも言われたではありませんか「命に至る道は狭くて細い」と何故なら自分自身で想念観察を

行い心のプライドを捨て全てのエゴを捨て去る事は大変な事であるからです。しかし現在、地球上の人々は15~16回目の転生者が多くて来世へ転生が出来るかどうかの瀬戸際の人々が多いのも事実です。「永遠の生命を得る可能性を示さない人は魂が除去される」という宇宙の生命の法則があるからです。

参考URL:http://www.geocities.jp/eiennoseimei3/index.htm
    • good
    • 0

こんにちは。



こういうソーシャルネットのサイトは常連さんが沢山いて、皆さん持論を持っています。
このサイトの外側には遥かに多数の人がいて、子育てのサイトだとか旅行好きのサイトだとか
無数のサイトに無数の人々がタムロしています。

哲学論議など無縁の、大部分の人々もそれぞれ自分の宇宙観・価値観を持っているけれど、
多くの場合わざわざそれを語ったり他人と優劣を競ったりはしません。

哲学的な議論が好きな誰かが、「生きる価値とはこういうものだ」と言い切ろうとしても、
全く別な価値観を持つ人は一人も消滅することはありませんし、言葉で表現しないだけで
大部分の人はその意見に重大な関心は寄せないでしょう。 それは単なる個人的な理屈であり、
無味乾燥な言葉遊びに過ぎない、と感じるからです。

私は、それが既に必要十分な答えだと思っているのです。 無数の人々が、自分の人生の様々な
出来事や経験してきたこと、それらの連なりの中で築き上げられていく自分の人生と言うもの。
別に言葉にして説明する必要も、それこそ意味も乏しい行為だ。 そう考える人は少なからず
いるはずです。

例えば、子供に恵まれなかった夫婦が万に一つも、と諦めていた中での妊娠、という事実は
哲学的思考だとか科学的概念体系だとか、理屈という言葉の整合性の塊など見向きもせずに
くずかごに放り込んでしまうでしょう。 同時に高齢出産や遺伝子異常などによる死産や
障害を心底心配し、また覚悟したりもする。 そこに言葉で付け足すことも余りありません。

友人が頭の半分を吹き飛ばされ、非現実的な悪夢の恐怖の中で硝煙と血と埃の匂いに咽び、
正気を保とうと必死な戦場の兵士の頭の中では、「生きる」ということは価値だの理由だのの
言葉などではなく、左手首の腕時計の下で脈打つ血管のリズムであり、口を閉じた鼻の荒い呼吸、
自分が持つ銃のアクションがジャムを起こさず弾丸を撃てるか、の手順の反芻であり、
自分の頭や胴体に敵のライフルのレーザーポインターが赤く輝かない様に、発狂寸前の集中力で
周囲を警戒することそのものだったりするものです。

お読みの通り、それを言葉にしても所詮空疎なコトバに過ぎません。 アドレナリン分泌の
体内感覚の1万分の1の手応えしか見出せないでしょう?

穏やかであれ波乱万丈であれ、地球上に人間だけでも70億を超える「人生」が生々流転を
繰り返し、巨大な地球を覆う雲のように動いているのが神様から見た(神がおられたとして)
生命の諸相でしょう。

人の意識や思考を形成する要素として、言葉はそれ程巨大な比重を占めません。
だけれども、だれでも母国語で書いたり話したりする範囲では筋が通らなかろうが、屁理屈で
あろうが知っている単語や言い回しを頭の引き出しから引っ張り出し、並べ替えて辻褄合わせを
すれば簡単に文章は作れる。

でも、難しい言葉を集め、どこかの哲学者の名前や理屈を持ってきて並べても、肝心の語られる
自分の人生が空虚であるならば、自分でも理解も納得も出来ない迷宮をせっせと造り続けるような
作業になってしまうでしょうね。 誰かのためのルーチンワークなら恩恵を受ける人々がその価値を
裏付けてくれるでしょうが、空虚な人生を送る人が自分のために続ける迷宮建造ならば、出口を
求めて彷徨う為に自ら迷路を造り続ける・・・悲しい機械仕掛けのマリオネットの無意味な反復動作
のようにも思えてくるのです。

価値、という単語は特定の物差しをあてがった場合の長短・軽重などの序列線上の暫定的な位置を
示すに過ぎません。
人の数だけ無数の物差しがあり、一つの事物に無数の測定面があり、更に無数の変化・変質する
(計測する世界自体も含めて)流動的なものについては、「これ」とか「誰」といったような
独立して存在している「個」の絶対値の測定、それがゼロか無限大か、などの思考は、全てが
最初から論理的に破綻しているように思うのです。 極めて限定的な与条件の中でのみ成立する。

生命は水のようなものです。 例えば、落下している雨滴のようなものです。

遥か空の高みで水蒸気という「生命素」或いはエントロピーの異常な極小域が集まって重力に抗し
切れずに落下する。

生まれたばかりの頃は自らを形成する小さな埃の核以外には混じりけのない水滴だったのが、
落下を続けるうちに空気中の汚れを身に帯びて粘性を増し、時には砕け散り、希には隣に落下中の
水滴と繋がって一粒になり、何とか球形を維持しようと震えながらもがき続けて、やがてはかない
刹那の落下を終えて地面に衝突、一瞬でその雨粒の形は失われてしまい二度と戻ることはない。

けれども、その雨粒だった水は決して失われることは無く、地に沁み、河となり、やがて大海に
至って海流に混じります。 やがていずれかの海域で再び水蒸気となり空に登り、雲として境界の
無い世界を流れて、またどこかの森や街や、全てのものの上に降ります。

命、について深く考えるとき、生あるものが必ず滅することを深く当たり前のこととして大らかに
考えるとき。 命を一粒の独立したものとして考えることに既に、意味や価値を問うことの
根源的な破綻を読み取ってしまうのです。

命は、大きな群、或いは巨大な流体の流転の相として見る視点をバックボーンにした方が
矛盾が無いように思うのです。

だから、一人の人間が、その人の人生の中だけで理解・納得出来る価値観や世界観があれば
それが何であれ等価であろうとも思います。 野球やゴルフを幼少時から必死で続けて、
それで世界に名乗りをあげることの何と素晴らしいことか、と今は思えてならないのです。

だから、一人の人間として、ただ自分と言う人間の人生を考える。

それでよいのだと、道路に寝転がる猫でも思ったりするのです。

にょ。
    • good
    • 0

個別に言えば、自殺は任意であり、それをどんなに重罪に


しても、結果として罰するすべがない以上、否定する事に
意味はありません。
しかし「個別」ではなく、社会的には、自殺を許容する規範を
有する社会集団は長期的に淘汰され、結果的には、社会は
常に自殺を否定する方向に収束します。
この「一次的に意味はないゆえに二次的に普遍的意味を
生じる」というのは、社会的な話だけではありません。

物質に「目的」はありません。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰として、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。
(「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものです。短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
    • good
    • 0

神は私どもに将来と希望と平安のある人生を与えようとしています。

だれも無目的にこの世に生まれてきたわけではございません。確かに私どもは自分に与えられた役割とか目的とか価値を素直には認識することができません。ある一部の方々は小さい時に自分の好きなことを見つけてこれぞ私の歩む道だと自覚し、生涯をそれに沿って歩む幸いな人がおります。

聖書には「あなたの若い時に作り主を覚えよ」という言葉があります。50代60代になっても人生に迷っているのは確かに悲惨な状況だと思います。もし私どもが神に出会うなら、生きる目的や価値は重要な問題ではなくなります。つまり私どもが本来帰るべき場所に帰ることができれば、植木に水を差すようなことでも、雨の日に濡れながら家に帰るような時でも十分ハッピーになれます。言って見れば面白くもおかしくない時でも十分ハッピーになれます。私どもが不幸なのは私どもがどこから来てどこにゆくのか明確な答えを見出してないからだと思います。

「生きる価値があるのか」そのようなご質問に対する答えは私どもの作り主に帰るか否かにかかっています。私どもの作り主は私どもをこの地上に置いた方ですから、彼こそがその意味を知っている方であります。つまり多くの人が人生に生きる価値がないと述べていることから、その内の多くの人が自分の作り主のところに帰っていないということができます。

ご質問は「生きる価値とは何か」ということだと思いますが、それぞれ与えられているものが異なると思います。もし何らかの回答といえるものが提示できるとすれば、それでは自分の生きる価値はなにかということになるのではないかと思います。

長い話を短くはしょって申し上げますと、私にとって生きる価値は第一に与えられたこの肉体を健康に保ち、その健康を用いて一生懸命に働き、与えられた子どもの生活と精神を守り、十分に自立できるまでサポートすることであると思います。その間に子どもや周りの方々との楽しい時間を心に蓄えて、時が来たら静かにこの世を去ろうと思っています。いまこれ以上の幸いな人生は想像できません。人生の曲がり角でいろいろの選択がありましたが、最善の道を歩んできたと思います。このような楽しい人生を送ることができたこと、そのことに十分生きる価値があったと思います。

プロテスタントのクリスチャンですが、誰にでも神に出会うチャンスがあります。聖書にある通り「人にはできないが神にはできる」世界だと思います。
    • good
    • 0

僕も青年期の時は、「人生とは・・・」みたいな哲学書や人生訓のようなエッセイとか評論を好んで読んでいました。



この「相談室」での質問にも、あなたが言うように<生きる価値とは何か>とか「友達が出来ない」とかで悩む人たちが大勢いて、それはそれで悩むのもいいとこじゃないかと考えています。

<生きる>と言うことと<価値>と言うことをそんなにたやすく結び付けていいのかと、今になっては思います。冷静に考えれば、2つの言葉をくっつける接着剤は、すべての事象をどのような基準でもいいから評価判断したいと言う欲求でしょうね。
それは、あなたが言うように他人との比較をして自分を推し量るという考え方でしょうか。

そう考えると、自分という存在を他人との比較をしないで把握するということは非常に難しくて、他人との比較で推し量る癖がある日本人の方が正常ではないかとも思います。
もちろん、「他人」と言うものを、神や仏様、正義、常識と言い変えてもいいでしょうね。

僕は単純に、「生きる」ということと、「価値」を結び付けることが間違いの始めだろうと思います。
「生きる」と言うことは、生物学的な、社会的な問題です。
それは、「価値」と言う言葉を必要としないものです。
ただそこにいる。それが、「生きる」です。
    • good
    • 0

「ただ、生きる価値とは、この世に生まれたことに既に存在していると思うのです」


同意見です。


10代のころはそんなことを延々と考えたりしましたね。

生きる価値とは、生まれた時点で、他人の役に立つ。
ということです。
他人のために働き、他人のために生きるのです。

親が子を作るのは、自分たちの利益、欲望を満たすため。
子がほしいという時点で誕生する価値が生まれ、成長の喜びを満たすため
親は育てる。

学校や塾へ行けば、教師が儲かる。
その時点で彼らにとっては、生きてる価値があるということ。

極端な話
動くテレビは存在価値があるが
動かないテレビは一般の人には、存在価値は0

しかし、リサイクル業者などには、価値が生まれる。
存在する時点で、生きる価値は生まれている。

不細工は美人を求める人にとっては、存在価値はないでしょう。
しかし、化粧品メーカーや整形クリニックなどには
生きる価値は生まれている。

大学受験合格を求める人には、失敗した人はやはり価値はなく、
しかし、社会人を求める人からは、価値は生まれる。

「だからお前は生きる価値はない」

全てにおいて価値がないのではなく、
言った人にとっては価値がないだけ。

価値がないというより、そこにしか価値を見出すことができないだけで
別の他人からすれば価値は生まれている。

逆に、死を迎えれば、火葬場、葬式屋などにとって価値が生まれている。


生きてる価値は自分が決めるのではなく他人が決めること。
万人に生きてる価値を求めることが不可能。

そんな意見です。
参考までに・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
まず、私と考えが反対だと思いました(悪いということではありません)
それは
>生きてる価値は自分が決めるのではなく他人が決めること。
の点です。
私としては生きる価値は、自分で決めてもいいという考えです。

しかしながら仰っていることはなるほどその通りだと思いました。
生きる価値は必ず誰かによって見出されていっていますね。

お礼日時:2011/06/09 15:55

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す