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(かなり昔、何千年も昔からある風習だと思いますが、)人は仏前や墓前に花を供えてそれを供養します。この行いの動機や意味、またそれを花でもって為すのは何故か、という事を問いたいと思います。
私は、花でもってそれを飾ると言うのは人のやさしさの表れと思うのですが、廃れた墓を綺麗に掃除し、花をもってそれを供養することで、供養した人の方が、(心に)笑みや満足を得て帰って行っている様に思えます。ある人にとっては問うまでもない当たり前の事かもしれませんが、その意味を言葉にするとどうなるのでしょう。
その花や行為には何が込められておるのでしょうか。
人間にとって死とは何であるのでしょうか。
質問するかしないか数週間迷っていたのですが、上述の様なこと、皆様に質問して回答をあおぎたいと思います。
よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 人が金銀、宝石などで廟や仏像を飾り、また、それをたった一輪の花で供養したとしても、次第に無数の仏を見るであろう、と記述してあるのは法華経ですが、これは約二千年ほど昔からある経典ですので、ここに記載されている風習の起源はもっと年代を遡る事になると思います。また、ロボットが墓碑に花を手向けるシーンが印象的だった天空の城ラピュタなどを見るにつけ、この行為がとても素朴な事であると私は思いました。もしかすれば、数千年と言わず、数万年の昔からこの行為は為されてきたのではないかとさえ思います。一先ず補足させて頂きます。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/09 15:33
  • この場をお借りして、ご回答いただけた皆様に御礼を述べたく思います。
    この度の質問にご回答下さりありがとうございました。
    ただ、どのご回答をBAにするか迷っており、もうしばらく考えたいと思います。

    No.22の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/16 18:32
  • この場を借りてBAを決めた流れを述べたいと思います。
    自然な気持ちを素直に述べてくれた回答、自然の成り立ちからアプローチした回答、論理的にその理由を探るのが難しい事を述べてくれた回答、日本文化から考えて下さった回答などなど、色々聴く事ができて良かったです。
    私の気持ちとしては、一番合点の行く、自然な気持ちを述べていたただいた回答群の中から選びたいなと思うのですが、あくまでもそれは私の個人的な性向によるものであって、頂いたご回答それぞれに分があることを忘れて居るわけではありませんのでご了承下さい。敢えて自然な気持ちを外して回答して下さった方もおられると思います。

    、、、という事で、一番新しい23番さんの回答が纏まっていて良かったので、これをBAとさせていただきます。
    ありがとうございました。

    No.23の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/18 15:44

A 回答 (23件中1~10件)

あなたがかつて生きていてくれて、ありがとう。


という意味ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ふむ、ありがとうという気持ちの表れですか。
自分にとってその故人がどの様な人であったかによって、起こる気持ちも変わってくるかもしれませんが、墓前にてありがとうと目を瞑って言える様な間柄では、花を手向けた人は、その故人から実に多くのものを貰ったのでしょう。幸せは、一種他者からの贈り物であるとも思えました。

お礼日時:2016/05/08 23:34

ほとんどの哺乳類の眼細胞は主に明暗だけに反応する桿体細胞で構成されていますが、人間はそれに加えて、色を識別する錐体細胞が他の哺乳類より顕著に発達していると中学校か高校で習ったことがあります。

ですから哺乳類の中では人間は例外的に色を敏感に識別して、それに興奮する。他の生物で色にことさら敏感に反応するのは昆虫が筆頭で、鳥類も人間以上に識別が可能なようです。また日本の河川に住むオイカワ(ヤマベとも呼ばれる)は繁殖気になると雄が色鮮やかになりますので、魚も色の識別ができる種がいるようです。

そもそも、この地球上に花が出現して来たのは今から8千万年ほど前、恐竜たちが大分衰退してしまったころですので、ほとんどの恐竜は花を見たことがない。それ以前は植物は風や水の流れを利用して受粉していたのですが、あるとき自然は昆虫を媒体にして受粉させることを思い付いた。たまたま昆虫は色を識別できる眼細胞をもっていたので、植物の受粉器、すなわち、植物の性器の周りに色を付けた方が受粉の確率が高くなる。そこで植物たちは競って性器を色鮮やかにして昆虫を引きつけ生き残りを謀る方向に進化して来た。これが花なんですね。

だから花は人を喜ばせるためにこの世界に出現して来たのではない。植物が生き残りのために昆虫を興奮させ喜ばせるために、花をできるだけ派手に目立つようになった。たまたま、人間にも色を識別できる錐体細胞が他の哺乳類と比べて豊富ににあったために、そのおこぼれをもらい、人間も昆虫や鳥類と同じように色に興奮でき、それが生殖機能にも影響を与え、人間は色を見て昆虫や鳥類並みに色をい見て喜べるようになっているのではないでしょうか。事実、女性方が花のように着飾る衝動に駆られるのは結婚適齢期と言う生殖機能が最も高くなった時期ですし、小鳥たちも春の生殖期に雄たちが最も色鮮やかになりますから。

花を愛でると幸福感が味わえる。多分幸福感が根の深い所で生殖行為の感覚に繋がっているからなのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ふむ、独特な見方だと思いました。人が、美しい色合いを見て幸せを感じるのは何故か。夕焼けとか、晴れた日の透明度の高い海とか、街の夜景とか、花以外にも人に幸福感を与える色合いは存在しますが、花の生まれを考慮すれば、それは生殖行為の感覚に深いところで繋がっているかもしれないと。景観の良い場所がデートスポットになっていることを考えれば、視覚的に幸福感を得ることが、互いの気持ちを高める事に繋がっているのかもしれません。
思っても見なかった展開の話になりましたが、グッドが現時点で3件、納得された方もそこそこいると言うことですね。
質問に頂いたご回答を引き付けると、その墓に眠る人を喜ばせたくて花を手向ける、ということになるのでしょうか。
見晴らしの良いところに墓を建ててやりたいとか、花を手向けたいとか、そんな事を考えるのは何故か。少々強引な気もしますが、猪突さんのご意見参考にさせて頂きます。そういう形で死を克服したいという人間の気持ちの表れかも知れないと思いました。

お礼日時:2016/05/08 23:53

生前のリアルな関係を丸くオブラートに包んで


至らなかった感を含めて
過去の現実の軋みすべてを無に溶け込ませるように
美しい花という善意に紛らせる。
そうした‘故人との関係の微調整‘という意味合いを持つのではないでしょうか。
過去を美化する心理的な傾向と同じ精神の発露として。
つまり仕方のないことは仕方のないこととして
ポジティブな方向へ前傾しようとする
心の表れとして。

死とは生前の軋轢からの解放という面もあっていいのかもしれません。
様々な軋轢には自己責任を越えた経緯や流れが関与しているもので
そうした不可抗力にいつまでも敵意を向けるのは
人間流ではないように思います。
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この回答へのお礼

ふむ、こちらもまた中々私には無かった観点です。
過去の事は水に流して、、というやつでしょうか。死別という隔たりが、故人との関係を内面的に修復するのに役立つという事でしょうか。

回答者それぞれに、墓の中に入っている人のイメージがあるのが回答から読み取れて、なるほどー、という思いで読ませていただいています。

香とか、花とか、食べ物とか、灯とか、色々な供えものがありますが、どれもが生者に必要なものばかりの様な気がします。それらによって死者の世界と生者の世界とを繋げているのか。。

供養というのは、供養する対象を自分の中に納める心的行為なのかもしれません。

また、質問とは趣向が異なりますが、古代の王墓については別の解釈が必要な気がしました。王とはどの様な存在であったかと言う事が大事になってくる様に思います。
故人が、供養する人にとってどんな人であったのか、が、大事なのでしょうか。。もうしばし思惟して見ようと思います。

お礼日時:2016/05/09 00:08

亡くなった時は、花を手向けますね。


それは、その人への花向け・別れの挨拶ですよね。

墓前は、「お久しぶり」って挨拶のように思います。
特別な時って、よく花を贈りますよね。
そういう事の延長線上だと思うのですが。
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この回答へのお礼

ふむ、これは私にもよく分かる回答ですね。
退職おつかれさま、入学おめでとう、私とお付き合いして下さい、怪我は大丈夫?などなど色々なシチュエーションで花を用いますよね。

墓前に花を手向けるのは、まるで故人が生きているかの様に人は振舞って、故人の死を受け入れているのかもしれません。その時に生じる人の心の機微が気になります。
はじめはよく墓の掃除をしていたが、次第に足が遠のき、月一回が年一回に、そして三年に一回、十年に一回と、生者が故人の墓を必要としなくなっていく事もあるかと思います。お参りとは何でしょうね。自分の中の故人の思い出と対話する事なのでしょうか。或いは仏前の場合は、自分の中の仏に参っているのでしょうか。
ふむ、、。

お礼日時:2016/05/09 00:19

お礼ありがとうございます。



その人の中で生き続けるってことじゃぁないんでしょうかね?

その人にとって大切な人は、その人と共に最後まで
寄り添い生き続ける内なる存在が「相手を大切に思う」と言う
人間の本質に触れた時、表現方法が「花を手向ける」行為でしょうか。

短く言えば「思いを現す」となるのでしょうけどね。

「忘れがたき特別な思い」ってのが、人間が人間らしい
眼に見えないだけに核の部分だと思います。

スパンとストライクの言葉が出そうで出ないんですけどね(笑)
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この回答へのお礼

そうなんですよ・・その事の核心をズバリ言い表すことが私もできないでいます。この問は素朴でありますが、それをちゃんと理解できているのかどうか。内心、分かっているつもりではいるんですけどね^^;
もしかすると、人類が言葉を獲得する以前に存在した気持ちであるのかもしれません。

お礼日時:2016/05/09 18:21

《何千年も昔からある風習 人は仏前や墓前に花を供えてそれを供養します》


仏前という観念が何千年も昔からあるとは思えないです。墓前と言うべきか不明ですが、古い埋葬の中で1体が多数の色の花を意図的に入れられていたことがわかっています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3 …
現在の日本の仏教などでは供花は遺体・位牌・墓・仏像などを飾り、お参りする人に対する効果を生むことを期待してなされます。 http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=48  http://kokotomo.net/2009/01/399 単純化して言えば《飾りで印象づける・荘厳に仕立てあげる》という面があるようです。
家庭内で仏壇のようなもの位牌を置き花を飾るという習慣が、多くの文化圏で見受けられるということはないです。 むしろ珍しいです。
いわゆる仏像は、金色に輝き、光背を付けたり、その仏像を安置し、献花・供花で(崇拝者・信仰者に向けて)飾り付けたりするのは、崇拝者・信仰者・迷える人がそれをスゴイ・並のものとは違うと感知しやすいような造形にする構想に基づくものです。
一般的に言えば、「供花献花する飾り立てる人のやさしさの表れ」というものではないでしょう。 親や子、配偶者、祖先や恋人の墓に花を手向けるときには、その墓に埋葬されている人に向けて捧げているのだと思いますが、その場合でも「捧げ手になっている人の心の優しさの表れ」と考えるよりも、「捧げ手になっている人の捧げられている人物への思いの表れ」と考えた方がいいと思います。 花とは限らず、酒や飲食物を置く場合もあるし、単に手を合わせる、黙祷する、思い出に浸るという場合もありますが、それらを「優しさの表れ」と考えるのは、間違いだと思います。

人間が知性?を持っているため、先を想像することができ、まだ迎えてはいない死を考えることができるのは確かですが、私も、また私が知っているほとんどの人は、死を頻繁に考えたり想い浮かべたり想像したりすることは《全くない》ようです。友人知人、親、配偶者、子が死んだような場合でも、「自分の死」や「死一般」について合計数時間掛けているというようなことはほとんどないと思います。そういう面から考えるならば、「人間にとって死とはその程度のもの・他人事」です。悩み多き人、思春期にある人、自殺願望・希死念慮が問題にされてしまう人でもそのヒトの就寝中を除いた覚醒時間中の大半は死について考えているのではないです。

花(花びら)を多量に使う宗教行為は結構ありますが、薬物的効果(化学的効果)を期待していることが多いようです。 香や音も宗教行為では重要視されていて、視覚効果と相乗することをねらっているようです。
なお、長い人類史、あるいは一国のある文化圏で、似た行為がしばしば見られたとしても、それらの行為をしているのは、実に様々な事情が絡んでいて、人によってずいぶん違うケースがたくさんあると考えるべきです。 一つの因果ですべてが説明解釈出来ると考えるのは、勘違いです。 
多色の華麗な花を大量に多く使うようになったのは、たぶん、最近の日本で特徴的な流行です。

No.2 回答者 cyototuさんの色覚の説明は面白いですが、「花を愛でると幸福感が味わえる。多分幸福感が根の深い所で生殖行為の感覚に繋がっているから《人は仏前や墓前に花を供えてそれを供養する》」というのはおかしいです。幸福感や生殖行為の感覚に繋がっている程度は花よりは飲食の方が強いです。幸福感や生殖行為の感覚に繋がっているという説が成り立つとしても、《だから花を》とはならないです。幸福感や生殖行為の感覚に強く繋がるものを崇拝などの対象にする信仰はけっこう多いです。それらを別にして花を手向けに使う理由説明をするのには無理があります。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>その場合でも「捧げ手になっている人の心の優しさの表れ」と~中略~それらを「優しさの表れ」と考えるのは、間違いだと思います。<

ふむ、、川崎で中学生が殺された事件現場や、パリのテロ現場では、おびただしい数の花が沢山の人々から持ち寄られましたね。犠牲者を追悼する意がありましたが、それは優しさではないのでしょうか。墓前においても、花を捧げるときには優しい気持ちになると思うのですが。故人への思いの表れ、それは優しいものであると私は思いました。しかし何を優しいとするか、その範囲は人それぞれのイメージによって規定され得、異なるイメージを抱いた人の意見が間違っているということにはなりませんから、元高校生さんのご回答も納得できるものでもあります。

>私も、また私が知っているほとんどの人は、~中略~ヒトの就寝中を除いた覚醒時間中の大半は死について考えているのではないです。<

うーむ、、統計を調べたわけではないのでなんとも言えないのですが、多かれ少なかれ死について思いを巡らす人は少なくないと私は思います。私は中学一年の時、死について作文を書いて表彰されたことがありますが、そのようなモチーフで書いたものが表彰された事自体が、人が死について関心が薄いという事を否定しているように思われます。終活という言葉もありますし、高齢化の進む現代日本では、死について、死に対しての思索は益々行われていくものではないでしょうか。

>花(花びら)を多量に使う宗教行為は結構ありますが~中略~たぶん、最近の日本で特徴的な流行です。<

補足にも記しましたが、この(死と)花にまつわる風習は少なくとも古代にもあったことであり、証拠を探せば世界各地で見られることであると思います。その原型がどのようなものであったか、少なくともその根源は、流行とはかけ離れた人間性にまつわることだと思われ、この度質問いたしました。経緯や事情は様々あれど、その元となるものは相違無いのではないでしょうか。

合理的に説明すれば、葬送は遺体から発生する流行病を防止する効果があります。しかし花を手向けるのはこのような合理性の範疇にはない行いです。人は多く合理性によって説明され得ない行いを日々為しますが、その内で、心理的には説明のつくものと、心理的にさえ説明のつかないより深い、人間の原理によるものがあると思います。ここで文字数が、、。

お礼日時:2016/05/09 18:48

あほなさん こんばんは



「遺体に花を供える」と言えば。
私は小動物の死骸に出会うと土葬して花等の植物を植えてあげます。
何か解らないのですが、生命が繋がるような気がするのです。
自分の気持ちも、とても善いことをした気持ちになれます。

思いだしたのですが、私は子供の頃、犬を飼っていました。
ある日、その犬が亡くなると悲しみと共に死に対する恐怖も生まれました。
そこで、犬を土葬した後に苗木を植えました。すると、心が落ち着きました。
他の所にも、余った苗木を植えました。
数年すると、犬を土葬した処の苗木が大きく育ちました。
犬が木を育てたと思ったのです。

植物は、様々な死骸を微生物が分解することで育ちます。
そして、やがて人間等の動物の為に実を付けます。
命は循環するのです。

「遺体に花を供える」のは花を供える人の気持ちを落ち着かせ、生き物の命を繋げるためかもしれません。
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この回答へのお礼

その気持は良く分かります。私もハムスターを公園に埋葬する時に、ひまわりの種を撒いた事があります。大きな木の袂に埋葬したりすることもありますね。しかし、上の方でグラスルーツさんがお答えになってますが、切り花や摘んだ花を備えることも多いです。
確かに生き物の命の素は循環するものですが、死というものが隔たりを生じるものであると認められていることも無視できません。

また、葬儀には風葬(鳥葬?)、土葬、水葬、火葬(現代日本はこれ)、集落から離れた野に捨てる、など色々あります。合理的に説明すれば、死者を送ることは死に纏って起こる流行病を防止する為でもあります。ですが、花を供えるのはそのような合理的な説明の範疇にはない行為であります。
そのような合理的な説明のつかない行いの意味は何か、問いたくなったのでした。

死とは寂しいもので辛いものであるから、その慰めに花を供えるのか、死者、故人を弔うことで心の安寧を得るのか、色々のシチュエーションがあると思いますが、人が花を供える理由を、これ、と特定することができないでいます。寿命で亡くなる人と、そうでない人に対する気持ちも異なるでしょうし、この点では下の元高校生さんの言うように、ケースは色々あるということになります。

お礼日時:2016/05/09 19:02

#6関連で。



私の回答に対するmoto-koukousei さんのコメントありがとうございます。

>それらを別にして花を手向けに使う理由説明をするのには無理があります。

に関してですが、私の論述にもう一つ重要な要点を書いて置くべきであったことを投稿直後思い至ったのですが、それは私のブログで書き込めば良いと考え、敢て再投稿を控えていたのです。でも、この欄の読者には鋭い方がしばしば居られることをmoto-koukousei さんが改めて証明してくれました。

もう一つ重要な要点とは、幸福感が花のもっている色と密接に結びついている証拠がどの民族でも共通して描く浄土ないし天国像にあります。どの天国でも天国の初級編には、色とりどりできらびやかな花が咲き乱れています。死後の世界を天国のように色とりどりな、だから、幸福感を味わえる世界としてあげたいと言う残された者の気持ちが花を手向ける行為として現れているのだと思います。

んで、色は色事の象徴でもある。この睦み事の幸福感を色と捉え、色と表現した事情は、やはり、きらびやかな花や夕焼けや朝焼けの夢のようなの色を見て興奮できると言う、哺乳類の中では人間が例外的に色に反応できる結果なんじゃないかな。
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この回答へのお礼

祖父の臨終に見えた叔母の話によると、祖父の最後の言葉は、「桜、綺麗なぁ・・」だったそうです。臨終の際に桜の夢を見ていたのでしょう。
安らぎとは何か、それは興奮とは趣向が根源的に違うと思うのですが、色がそれを演出しているのは有り得る話だと思います。

うろ覚えですが、維摩経では次のような描写があったと記憶しています。病床にある維摩が説法する折、多くの大衆、修行者がそこに居合わせておりました。そして、ある天女の神通力により花びらが舞うのですが、菩薩たちの体にはその花びらは付かず、大弟子や舎利弗の体にはその花びらが付いたのです。舎利弗は、それを(修行者に相応しく無いことと見て)取り去ろうとするのですが、その天女は、「どうして花を取り去ろうとするのですか?」と舎利弗に問います。

そんなことは気にするなよ、それこそこだわりだという意味と私は読むのですが、花を供えるという行為の本体はその気持であり、花はそれを代わりに運ぶものであります。

>だから、幸福感を味わえる世界としてあげたいと言う残された者の気持ちが花を手向ける行為として現れているのだと思います。<

それが故人の幸せを願う心の表れというのは、一つの答えであると思いました。
花があなたには相応しい、そういう気持ちではないかと私は思いました。花を持たせる、祝福するという意味があるのかなと。そう思えば、仏を供養するのにも、故人を供養するのにも、花が用いられる理由が分かる気がします。
元高校生さんが貼ったリンクも良い参考になりました。

お礼日時:2016/05/09 19:37

追記:



花を供えたりはしませんが、墓を作るのは人間だけではないことを現物を見て私は知りました。

昆虫のアリも墓を作ります。ベルギーの研究仲間で、今から30年程前にアリの社会学を物理学の非線形力学系のモデルとして分析し、アリが効率良くエサを集めるためには情報伝達が苦手で示された方向に行けずに間違った方向に行ってしまうアリが決定的な役割を演じていることを明らかにして世界的に有名なったドネブーと言う先生がいます。アリの巣には働き者のアリと怠け者のアリが一定数の割合でいるのですが、その中から働き者のアリを除いてしまうと、怠け者のアリの一部が働き者になり、前と同じ割合で働き者のアリが出て来ることも明らかにしたのも、確か彼だったと思います。

彼のベルギーの研究室に行くと、縦横高さ30cm X 40cm X 15cm 程の上の開いた容器に 3mm程のアリが一つの巣を作って入っています。内側の壁には滑る塗料が塗ってあり、アリは外に出られないようになっています。赤いセロハン紙で包んで中が見えるようになっている試験官が数本横たえてあり、そこがアリの巣になっています。赤い光りはアリは見えないので、アリにとっては試験官の中が真っ暗になっています。

その容器の片隅に底辺の直径が 2.5cmほどのピラミッド状の小山がアリの死骸で築かれていました。それはアリの墓場だそうです。自然界でもそのようにアリは葬るのですが、雨や風で直ぐにかき消されてしまうので、自然界ではアリの墓場は滅多に見られないとのことでした。しかし、墓場作りは普通のことだと言っておりました。

アリは死の意味を理解しているようです。決して死んだアリをただの物体とは思っていない。意識なるものを人間の専売特許のように考えている人もいるようですが、このようなアリの行動を見ると、意識とは何か、それは、どの程度の複雑な生物から始まったのか、いろいろ考えさせる事象だなとの印象を私は持ちました。
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この回答へのお礼

合理的に説明すれば、葬るという行為は病気の流行を防いだりする効果があります。蟻が巣の外に仲間の死骸を搬出するという習性はよく知られているようです。
蟻が、仲間の死骸を一定の場所に集めるのはそういった衛生上のニーズがあるからであると説明することも出来るでしょう。それがピラミッド型という幾何形体を為すのも、蜂が幾何形体の巣を作るのに似た理由があるのかもしれません。
しかしながら、これらは蟻が葬儀を行っていないという論拠にはなりません。蟻と話せるわけではないですから。
物を見たわけではないのでイメージですが、蟻が死の意味を理解していて、あるべき場所に仲間の死骸を集めるのは、死者の国と生者の国を分けて考えているからかもしれません。その理由が合理性に基づくものなのか、合理によって説明できない精神性に基づくものなのかはわからないですが。。

お礼日時:2016/05/09 19:49

私の父が亡くなった時のことを思い出しますと、最後に顔を見た時から


わずかの時間で、真っ白な灰になってしまい、なんかあっけないものだ
なと感じた記憶があります。

昔はもっと厳粛な「死」の姿というものを人々は目の当たりにしたと思
います。だからせめてその悲しさ、惨さをやわらげるために野に咲く花
を手向けたのが始まりだと思います。

何故花だったかといえば、やはりその色彩と香りでしょう。色彩が生殖
行為に結びつくのではというcyototuさんの説は、フロイト的といえるの
でしょうか?
私はコスモスの花が大好きで、道端に咲いていれば仕事中でも、しばし
見とれてしまうことがあるくらい。女性を連想するのは間違いないです
ね。

香りも色彩と同程度に人の心に食い込んできますね。日本人は香りに敏
感だということですが、安っぽい柔軟剤の匂いはどうも好きになれませ
ん。

人間は、花の命を使わせてもらっているということになるのでしょう。
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この回答へのお礼

>・・・その悲しさ、惨さをやわらげるために野に咲く花
を手向けたのが始まり・・・<

共感できます。死が痛ましいものであるという受け止め方はとても自然であると思います。人間の精神は自然界とは異なる世界を構築していますが、仰るように考えるのはとても透明であるように思えます。無理がないというか。

>人間は、花の命を使わせてもらっているということになるのでしょう。<
 
そうですね。。原始の時代、まだ人の精神が未発達な状況においては、死を受け止めることが今ほど多様な相を持っておらず、それはシンプルな現実であったのであり、花を供えることはかろうじて行われる慰めであったのかもしれません。

お礼日時:2016/05/09 19:56

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