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人の感じる幸福感とは、ずいぶんあやふやなものである。同じ条件でも、それを幸と感じ不幸と感じ人がいる。その理由は主に、グルメ思考によるのではないでしょうか。
例えば、片耳の聞こえなかった人が、長い間ステレオを聴いてみたいと思って果たせなかったのを、新型ヘッドフォーンができて聴けるようになった。音質は悪くても、「長らく夢見たステレオ!」という興奮があり、感激がある。一方普通のオーディオマニアは、「なんだこの音質は、使いものにならん」と切り捨てる。
異性も、経験が多くなるとグルメ思考になり、もっといい女を男をという思考になる。
貧しく育った人が、多少両親が不仲で居心地の悪い家庭であっても、生活上支障がない状態になれば満足するが、衣食住足りて当然という感覚のある人は、ちょっとの家庭の不仲でえらく不幸な思いになったりする。
悩みすぎて心身症にかかってしまった人が、とにかく肉体的不調さえ取れれば、精神的な悩みなんてどうでもいいとレヴェルを落とすことができる。
とにかく、あまりいい例は思いつきませんが、同じ状況でも、その人の土台によって、幸福感は全然違ってしまうわけです。

これを逆手に取ることはできないものなんでしょうかね。つまり、今現在不幸な思いを、満足に変えるには、その土台をさらに不幸にして、今の不幸を不幸と感じないレヴェルにまで、生活の地を落とす意外に方法はないんでしょうか。もっとうまく「グルメ思考」から脱却する方法はないんでしょうか?

A 回答 (6件)

そのグルメ思っていうのは、過去の経験から蓄積された不足の感情によって作られた欲求であることが多いと思います。


おもしろいことに、不幸だと思う感情、怒りの感情など、心の中に湧き上がってくる感情を真剣に味わうっていうんでしょうか、そこから目をそらさず、見つめ続け味わい続けると、不思議なくらいその感情をすっと消えていくことがあります。

ほとんどの人が否定的な感情が湧き上がってくると、それを頭の思考に置き換えて言い訳したり、逃避行動に移したり、その感情自体を本気で向き合おうとしない場合が多いです。
でもその感情があること自体を認め、よく観察し、それがどんなものか味わい始めると、感情は姿を消してしまうことが多いです。

どうしてそうなるのかは、よく分からないんですが、不足の感情、満たされない思いっていうのは、自分自身から目をそらしてることから始まるんじゃないかと思うんです。
幸せの青い鳥の話と似てますが、己の感情を見てあげる、抱擁してあげる、共感を持って自分自身の心に近寄ることで、何らかの不足感が解消するのかなって思います。
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この回答へのお礼

社会って欲を煽りますよね。あれって、お答えのようなグルメ嗜好に陥ってしまった度量の小さな欲張り嫉妬深い人間たちを利用しているんです。だから、みな「悟り」みたいなものに至ると、経済が成り立たなくなっていくんでしょう。ただ、また別の段階に入るのかもしれませんね。でも、いいお答えをいただきました。自分を省みる事は大事です。それによって確かに冷静に穏やかになれるでしょう。敵をよく観察すればおのずと消えてゆく、その秘儀にみな近づいていけばいいのです。

お礼日時:2007/05/10 22:31

こんにちは。



「グルメ思考」からの脱却ですか、むずかしいですねえ。

>「比較の幸せ」っていうはかないものはあるんです。

とされているので
>今現在不幸な思いを、その土台をさらに不幸にして、
>今の不幸を不幸と感じないレヴェルにまでにすること


結局、「比較の幸せ」であり、はかないですね。
一度病気になることも戦争することも、結局は
「比較の幸せ」の肯定であるのだと思います。

ちょっとわからない点ですが
>そういう低レベル(人間レベル)のものは
>そこらじゅうにあふれていますね。

比較することで、幸福感を得ることが低レベル(人間レベル)
とされていますが、それを低レベルと考えるか高レベルと
考えるかはそれぞれの価値観によると思われます。
そして、世の中に絶対的な価値観や幸せは存在しないのだと考えます。

人は、人や物と、国と、環境と、時には昔の自分でさえくらべっこを
しないと生きていけない生物なのだと考えます。
それは宗教と通してでも、えらい哲学者さんの世界でも
存在する人が常に持ち続ける思考です。
そしてその価値観が物質的に豊かになったこの
現代社会を作り上げたといっても良いのかもしれません。
万物の尺度は人間であると唱えたのはプロタゴラスだったでしょうか、
おっしゃるとおりそれが 人間レベルであると思います。

そのような人々が集まったものが社会であるわけですから
お互いが比較の幸せのために一生懸命です。
しかし、みんながそれを求めて、争い、一人勝ちさせない為に
みんなで不幸を背負わないために、利害を調整するために
弱者を保護するために、つまり安全に比較の幸せを求めるために
ルールや価値観をせっせと作るわけです。

それは、共同体で生きていく上で大事なことですし
必要なことです。しかしそのルールや価値観こそが
絶対的な幸せと思う必要もありません。

でも、もしかしたら
ひとつの宗教や思想、社会理念、価値観を全人類が絶対的な
幸福と教育されることは「グルメ思考」からの脱却につながる
のかもしれません。
世界中のみんなが、LSDを同時にキメてものすごい幸福感が
体を支配すればそれは「グルメ思考」からの脱却かもしれません。

しかし、ひとつの価値観を絶対的な幸福だと信じる社会が
住みやすいかどうかは、現在の我々にとって
やはりまた人それぞれの考え方次第なのでしょう。
ふう、やはり難しいですねえ。
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この回答へのお礼

比較の問題でしか自己を保てないのだとしたら、人間はさびしく浅ましい生物ですよね。そして、不幸になれば今の状態も幸せに感じるということは、やはり比較でありはかないものというご意見、確かにそうかもナと思いました。人間であることに悲劇さえ覚えてしまいます。
たいへん力のはいったご考察、たすかりました。

お礼日時:2007/05/22 22:38

>「けんこうを理解するために病気になり必要があり、平和を理解するために戦争を起こす必要がある」



「知らなくてもよいことを知らずにいる幸福」もあると思います。平和を理解せずとも、この平和ボケした日本の中にいてそろそろ戦争という刺激が欲しくなりました?(笑)。実際憲法が改悪され、あなたも参戦したらトラウマによって本当の幸福すら味わえなくなるかもしれないですよ。現実って「御託」をはるかに凌駕してしまうものです。幸福論を語るうちが幸福というわけです。「触らぬ神に祟りなし」、知ってしまった不幸もあるわけです。

あの頃の価値観でいえば戦死して名誉をこうむれば幸福だった男子に対し、お腹を痛めた母親や帰りを待つ家族にとってみれば不幸だった。

bossambaさんは比較対象の一例として「戦争」を挙げたと思いますが、「戦争」ひとつの中に回答としての実例としてもとりあげることもできましたのであえて述べました。

蛇足ですが三輪明宏氏が「憲法は戦争をとどめる『お札』のようなもの」と言っていました。彼にとって愛した故郷の長崎が、被爆によって一瞬ですべてを破壊された。彼の過去は完璧に幸福な思い出として蘇るでしょうか?

気になったので補足しました。

とはいえ
>グルメ思考
という表現は納得できます。私はテレビで溢れんばかりのグルメ番組というのが大嫌いなのですが、今の日本を象徴しているようですね。

美味しいものを一度口にするともっと美味しいものを、と限りなく続くのが人間の欲望の怖さです。飽和状態は当然あってもいいものですがそこに甘んじることは醜いものです。上昇志向が尊いものなら創造となりますが、基本的な欲望は質的に地下に向かうものですからそれに歯止めをかけないと。それが理性の尊さであり、幸福な人間とはそのような理性、意志を鍛錬できる者ではないかと。
「もっと」には限りないんですよね。実際この物質社会はその「もっと」を満たそうとして環境や精神の破壊を引き起こしていますよね。人が幸福を物質的なものに投影し続けていたら、「比較級の幸福論」も同じこと。だから欲望は物質も、幸福の価値観も多様性を生む。追えば追うほどかなえられない。「人よりももっと~をもちたい」という原動力は死への衝動のように思えてきます。幸せって運動会のあんぱん競争じゃないんだから(笑)。

ある本で、物質的な豊かさを手にした人が虚しさを訴え続けていた。ある日大海原で久々に大自然と戯れていたら自分が手にしたものへの満足感とは比較にならないくらい「幸福だった」と言っていました(ノンフィクションです)。その虚しさへの問いは、誰にとってもの共通項のように思えますね。特に色々なものを手にしていく過程で、その問いというのは純度を増していくように思えます。


不満足という満足、お腹いっぱいのちょっと手前、空腹感が満たされる直前、くらいの8分目あたりが私にとって心地よい感覚で(ダイエットにもなるので)すが、ついつい食べ過ぎてしまうのはストレスがかかっている・・・不幸な状態ですね・・・。
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この回答へのお礼

知らなくてもよいことは知らないほうが幸せだということは真実ですね。ただ、それによって幸福を得られる場合もあるわけです。すさまじい体験は人生を悪く変えてしまうことのほうが多いでしょう。そしてグルメ嗜好に限りがなく、もしあったとしても同じスパイラルを描いて落ち着きません。なにか考えをやめる必要があります。それは時として社会の動きにのらないことなんでしょうね。
ダイエット感覚もなるほどと思います。8分目って大事ですよね。

お礼日時:2007/05/22 22:42

心理学でなんというのか忘れましたが、不幸な人がもっと不幸な他人の話を聞いて癒されるという作用。

。。。

不幸だと思ったら、もっと世の中には不幸な人がいっぱいいて、自分はまだマシって認識することで、楽になるってことですね。


もうひとつ。

漫才師のほとんどは根がすごく真面目なのだそうです。
その中でぬきんでて人を笑わせるほどの名漫才師。
彼らは貧困家庭に育っているそうです。
それも普通の貧困ではなくどん底。

どうしてその貧困のどん底の家庭から名漫才師が育ったのか。
彼らは、その貧困・不幸を笑いに変える術を子供の頃自ら編み出したらしいんですね。
それで子供心に不幸を笑い飛ばして、家庭に笑いを振りまくことになった。


ダウンダウンの松本人志。
彼はよく子供の頃を話をネタに人を笑わします。
子供の頃のすさまじい体験談をこれでもかと語って人を笑いの渦にひきづりこみます。
彼自身が自浄しようとしているトラウマだとも思うんですね。

不幸を笑いに変えれたので、生き延びてこれたわけです。
その才能があり、その技術は子供の頃から鍛え上げられていた。
実体験と長いキャリアがあるので、笑いの世界では強いです。
不幸があふれていた=笑いのネタが豊富。


というわけで、他人の不幸を聞いて自分はまだマシと思うパターンと、不幸を逆手にとって笑うというパターン。

今回の幸福感のパラドックスでいけば、コインの裏表の後者に軍配があがるでしょうか。
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この回答へのお礼

「比較」の幸せっていうはかないものはあるんです。そういう低レベル(人間レベル)のものはそこらじゅうにあふれていますね。ダウンタウンはよく知りませんが、不幸を笑いにするということは、とんでもないことだと思いますね。それは才能です。でも、天才にしかなしえない業です。私も、「笑い」こそもっとも強烈な芸術だと信じているんです。「笑い」に生涯をささげたいとも感じています(漫才とかじゃないですよ、なにかプチ芸術とか)笑いで不幸を中和する情熱ですね。つまりプラス思考。

お礼日時:2007/05/10 22:49

同じかどうか分かりませんが、似たような気持ちで質問したことがあります。

回答を参考にしてみてください。

幸福感にしても満足感にしても感情や感覚を軸にしている限り、はかないものなんじゃないでしょうか。
幸福と幸福感は別、と考えたほうがいい気がします。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2777086.html
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この回答へのお礼

参考ページ読みました。たいへん興味深いです。そして、ご回答者さんのお考えに私も100パーセント賛同いたします。残念ながらこの回答には決定的に言い切るタイプはありませんでしたね。理屈を先行させているからです。結局人間は「感情」が圧倒的に強いのでしょう。なので、「理屈」の教育は無効に終わってしまいます。そもそも誰かの回答にありましたが「理解」と「納得」は違う。あるいは、「納得」のないものを「理解」と呼べるのか。人間的な体験と、机上の理屈とは別のものです。やはり、実感を伴わなければ分からないものは分かりません。私の答えは、「けんこうを理解するために病気になり必要があり、平和を理解するために戦争を起こす必要がある」ということです。これは、とてつもない精巧なシミュレーションとか、擬似病気体験薬などが発明されれば可能になるかもしれませんね。人間的な体験がないと、感情は動かないし幸福感も操作できない、そういう結論になりそうです。

お礼日時:2007/05/10 22:44

なかなか良い点に気がつかれたと思います。


多くの人々が信じる世俗的・物質的な幸福は、他の何か(例えば、過去の自分、他人、世間)との比較によって、得られるものです。普通、人生は、不如意・苦に満ちています。
人は、他の何かとの比較によって、自己の幸福度を計る傾向があります。
比較するものとの関係で自己の幸福感が変わります。

しかし、それは間違いです。そのような比較によって得られる幸福感は、一時的なものであり、はかないものです。
状況が変わると、比較の対象が変わると、幸福感は失せてしまいます。即ち、仏教でいうところの「諸行無常」です。

真の幸福というのは、自分の内(心)に作り上げる精神的なものであって、外から得られるものではありません。

心の中に絶対的な幸福を造りあげれば、永遠の不動の幸福が得られます。精神的な向上、霊的な向上こそが、心の中に絶対的な幸福を造りあげる道であると思います。
そのためには、まずは、どのような状況においても、自分を取り巻く全てのものに感謝することであると思います。
精神的に向上すると、幸福を他者と分かち合うことが自分の幸福になります。さらには、他者に真の幸福をもたらすことが自分の幸福になります。

精神世界の本を読まれると、多くのヒントが得られると思います。
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この回答へのお礼

「比較」ということがキーなんですよね。私もずいぶん「比較」病をわずらってきました。本当におっしゃるとおり、「比較」で安定しようというほど危ういものはありません。価値観って相対的ですから。今日の幸せが明日の不幸かもしれないし、逆もあります。

>心の中に絶対的な幸福を造りあげれば、永遠の不動の幸福が得られます。精神的な向上、霊的な向上こそが、心の中に絶対的な幸福を造りあげる道であると思います。

この境地は当たり前のことなのかもしれないですね。何か人間は落とし穴にはまっているんです。

お礼日時:2007/05/10 22:35

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