【汝裁く莫れ】
日本の昔にもその傾向がありましたが、国政や統治のための、国民感情を把持していくには、仮想敵国に対する煽り立ては麻薬的に有効です。
先の大戦後、ある意味で当然ですが一国を統率して国際の中で伍していくために、国民の統率が大事な課題となっている東アジアの諸国があります。
そのために歴史的に深いかかわりのある隣国への敵愾心をあおることも利用されている面があるかのようです。これは双方にとって克服しなければならない不幸な事です。
【仮にその支えとなっている反日思想を除去してしまった場合、そういう国々の国民の心の支えは空しくなり、ふらついてしまうでしょうか?(QNo.5827301)】という質問を歴史カテでいたしました。
また、関連してhttp://questionbox.jp.msn.com/qa5817520.htmlという質問もあります。
個人としても私たちは、何かと人を判断判決して、自己を保持・把持して日々いろんな関係を判断し決め付け、生活をしています。
『汝、裁く莫れ』は自分の一方的固定的評価や判断が不当であることへの忠告だと存じます。
【質 問】
1. みなさまは、他人への固定的判断の不当性を感じたことはありませんか?
(自分が他人へした、固定的判断。或いは他人から自分にされている判断)
2. そういう固定的判断の克服や消却にはどんなことが有効でしょうか?
No.11ベストアンサー
- 回答日時:
断言というか、、、要するにニーチェはこんなことを言いたかったんじゃないかと。
例えば目の前にバナナらしきものがある、しかしこれは幻想であって実は無いかもしれない。
でも、存在するように見える。
腹が減っているように思えるが、目の前にあるものが本当にバナナで、本当に自分は腹が減っているのなら、このバナナを食べるとハッピーになるかもしれない。
が、しかし、、、、
と迷ってないで、バナナだと思えて、腹が減っていると思えたら、
「目の前にあるのはバナナ、そして私は腹が減っているから食う」
でいいってことじゃないかと。
どっち着かずで疑ってばかりいても前に進まないじゃないですか。
「やはり偽者か」となるか「うめー」となるかは、バナナだから食おうってアクションを起さないと、永久に本物なのか偽者なのか わかりっこないじゃないですか。
遠くから眺めているだけでは、何も進展無いじゃないですか。
イエスの話は、、、
ニーチェ流に、とにかく解釈を試みないことには、何も始まりませんので、<新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる> ってことの表現がこの箇所だと思います。
つまり古い体制の集団に新しい思想をもってきても、古い体制はそれを受容できない。
だから、新しい思想は新しい人種にもっていく。
というのが、その例えだと思います。
例えば古い体制の集団に新しいアイデアをもっていっても、今までとは違うので、拒絶されるでしょ?
古いので柔軟性が無く、変わることを恐れる老人なわけです。
しかし 心が若い つまり柔軟性がある人なら、のびるので取り入れられる。
従ってアイデアを拒絶されたとしても、それは正しくなかった証では無いこともあるわけです。
古い体制にそぐわないだけの話。
新しい柔軟な精神を持った人達が、時代を動かしていくわけです。
これを思想の脱皮と古代から表現されているわけです。
蛇信仰は爬虫類の蛇を神様だと信仰しているのでなくて、古い思想からの脱皮、つまり生まれ変わるって概念。
<そのために> 一旦形を作らなければならないわけです。
そして自ら形どったものから脱皮する。
それを繰返してきたんです、人類は。
あ、木胡桃。 これ コケモモって読んでましたけど、きくるみなんですね。
いただきまーす。
あぁそうですか。実行性、積極性の面からも受け取ることが出来るのですね。
木胡桃さんは本当に、私の界とは異なる界からのお話で開けますね。
蛇信仰。私たちもラージャ瞑想ヨガをやっていますが、蛇はプラナというか生命と意識の力で、その統率がまぁプラナヤマってやつですね。
パタンジャリでいうと四番目段階。ヤマ、ニヤマ、アサナ、そしてこれ。頭蓋の大脳に入ってプラチャハラ集中、ディヤーナ瞑想、サマディの一体ですね。
水神は確かにそう爬虫類、インドは竜でなく蛇ですね。ブラフマも不顕現の時には蛇を従えて静に座す。
何度も顕現しまた、自己に溶解させる。そんな回帰性が蛇ですね。
木胡桃って苔桃のことでしたか。博識だなぁ。
百万年も少女でいる仙女みたいだなぁ。
No.12
- 回答日時:
No.6&7です。
バケツの底に穴が空いているようです。
打つ手がありません。
★★ (No.6お礼欄) 今回の私のこの質問を離れて、熟読させていただきます。
☆ 《この質問を離れて》ではなく わたし bragelonne の真意を離れて わたしの文章をどうにか読もうという魂胆と受け取ります。
★★ (No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~
汝、裁く莫れ。
人を決め付けないということなのでしょうが、人は決め付けて、何とか硬い甲羅で自分を保護・確保して生きておりますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《硬い甲羅で自分を保護・確保して生きている》というのは 《固定的判断》や《論断》の問題とは微妙に違います。《意志行為としての判断》は あくまで動態です。つねに過程です。いかに頑なな決めつけの場合でも わたしの削除された質問が復活したように 変わるものです。
《甲羅でおのれを保護する》あるいは《蚕のように繭の中にくるまる》というのは 心理的な自己防衛としての反応になります。心理的というのは 何らおのれの心とは関わらずに その場の成り行きによって取る反応という意味です。それであっても 自己防衛ならやはり《甲羅による自己防護》であるのだから 同じではないか? いいえ 違います。
心にかかわらず・心とは別にその場の成り行きで反応するというのは ほんとうには《意志行為としての判断》ではないからです。まだ自分がないということでしょう。それも むろん社会人であるなら すでに《個人としての自由意志の発現》だと見なされますが 本人は何とも不本意なことでしょう。
ですから 問題は 意志行為としての・あくまで動態的な過程におけるところの判断・論断 これが 大事です。動態だということは 軌道修正があるということです。妥当性を求めて つねにどこまでも境地を互いに――互いにです 互いに――揚げて行きます。
どうか 大海原とその海域が おのれの心だと思ってください。甲羅も繭も要りません。おのれの自由な船を浮かべて航海して行ってください。
《規範》は 《心》そのものではありません。おのが船に旗をかかげているようなものですが 旗じたいが 《わたし》でもなければ《こころ》でもありません。《汝 さばくなかれ》なる規範は 愚の骨頂です。布や板や石に書かれた文字ではなく 胸のこころの奥の奥のそのまた奥のわが真実なるこころのさらに奥のなぞにしたがって 堂々と大海をすすんで行ってください。。
度々ありがとう御座います。
いえ、 bragelonneさんの真意を無視するつもりはないですよ。
私自身の狭い質問の世界を離れて、もっとゆっくり丹念に勉強します、ということですよ。
とても難しいのですが、そうするより読解ができないのです。
ありがとう御座いました。
No.10
- 回答日時:
“汝裁く莫れ”
宗教色の濃い言葉ですが、出所はキリスト教ですか、仏教ですか。
質問の‘姿勢’を見ると多分に、他者を批判(裁く)的な見方をすることに罪悪感とか、嫌悪感とかをご自身が感じているようですね。
また人間として、そうした姿勢に疑問を感じたりもする、と言うことでしょう。
凡人は(多くの人は)過去を振り返り、反省するという作業を通して、こうした気持ちに気づくのではないでしょうか。
もしそうだとすると、理性の働きに頼ることが“有効”でしょう。
“情”の面では精神的な修行が必要なので時間がかかりますが、“理性”を働かせるのは現代人の得意とするところだから。
でも、内面の葛藤(理性対感情)はいつまでも残ります。
またhakoburuさんの回答はとても参考になりました。
無論仏教やインド哲学にないものはありませんが、この句はイエスの言葉として引用しております。
私は西洋に伝わったキリスト教徒いうものを好んではいませんが。
ありがとう御座いました
No.9
- 回答日時:
> 『汝、裁く莫れ』は自分の一方的固定的評価や判断が不当であることへの忠告だと存じます。
:「一方的・固定的」というベクトルは生あるものにとっては必須の要件と私は捉えます。
この必須性(という熟語があるかどうかわかりませんが)と不当性とのバランスをどのように取っていくべきか(取っていくと納得いく道がひらけるのか)、という視点が必要であるように感じました。
「汝犯すなかれ」と言う場合、性欲(という必須生)を無視してその忠告(というかこの場合は戒めということになるのでしょうが)を受け止めようとしても不毛の結果に終わるのとおそらく同じことではないかと思われます。
「一方的・固定的」という態様が人間にとって「必須の要件」であると考えるのは、「生きよう」とするエネルギー自体が「一方的」であらざるを得ず、また、そういった自己を認めアイデンティティとして確立する必要性が精神的に求められている以上、それは「固定的」な要素が不可欠だろう、と考えるからです。
しかし、それのみで満足しきれないのもまた人間という生き物の性のようです。
それは、他者への想像力が備わっているために、他者にも同様の「必須の要件」があることを知って(感じて)いるからなのでしょう。
生きる以上立ち止まることはできず、立ち止まらない以上、他者との軋轢は必然的に生じてきます。
自他の「必須性」が衝突するわけですが、双方にとって「必須」なわけですから、これを、一概に悪と決め付けないことから始めるのが妥当ではないかと思うわけです。
以前、このカテで教えていただいたことですが、自らの内なる排他性(必須性)を常に監視し続ける、という内容が記憶に残っています。
捉えどころのない波のように流動する内面と(常に、だと疲れるので)時おり対峙し、時には満足し、時には修正し、うまくいけば喜び、間違えたら謝り、ということの繰り返しが単純なようで最も「有効な克服法」になるような気がします。
無学ですが、散見するところによると稀代の聖人たちの教えにしても「完璧(に固定できる、且つ一方的に普遍的)なもの」は存在していないのではないでしょうか。
「生の原動力としての必須性」を「消去」しようと(いう不可能性に邁進)するのではなく、修正しつつ対峙していくということが、最も柔軟で、柔軟であるということは、常に変動していかざるを得ない自他にも対応できるという意味で無理が生じにくく、無理が生じにくいということは、ある意味で普遍性の獲得に最も近い方法なのかもしれません。
自らに言い聞かせるつもりで記述しましたが、口幅ったい表現、尊大な物言いも混在していると思います。
ご寛恕のほどお願い申しあげます。
ありがとう御座います。
【生きよう」とするエネルギー自体が「一方的」であらざるを得ず、また、そういった自己を認めアイデンティティとして確立する必要性が精神的に求められている以上、それは「固定的」な要素が不可欠だろう、と考えるからです。】という考えもありますね。
今回のこの質問は、
士大夫三日会わざれば、刮目してまつべし。
孔子とは誰の事かとおもいきや、おらがとなりの丘のことか。
イエスはナザレに帰った。しかしなんだ大工の子どもだ、っていうことで何も行えず、また行わなかった。
とか
大聖市井に隠る。や大声俚耳に届かず。
というような事にも関連したものでした。
ともすれば私たちは、何とか硬い甲羅で自分を保護・確保して生きておりますね。
そのようなことを憂えての問題でした。
ありがとう御座いました。
No.8
- 回答日時:
>日本の昔にもその傾向がありましたが、国政や統治のための、国民感情を把持していくには、
>仮想敵国に対する煽り立ては麻薬的に有効です。
現状の若者を中心とした偏向した右傾化というのは、サブカルチャー化しているようです。
押井守さんの作品を支持する若者がわっしょいわっしょいやってる感じです。思想も芸術や
ファッションと同じですからいいんですけどね。でも、いくら面白くても「偽史」は「偽史」
であるとちょっと疑いながら、面白がるぐらいのセンスが必要だと思います。
ネオナチのフーリガンだの、一人っ子政策の申し子の中国人の若者だの、嫌中だの、嫌韓だのとか、
流行りですから、どんどんやってくれていいとは思いますけど、だけど、歴史的事実は結局は
一つであって、それを多面的に見る人間がいて、自分は今どっちの方向から見ていて、なぜ
そう見方をしているのかっていう認識は必要ですよね。
なぜ台湾人は親日で、同じ立場の中国や韓国は反日なのかって、インフラ整備は同じようにやって
るはずじゃないかなって、もともと日本より進んでいる国に攻め取って文化を押しつけられたら
プライド傷つけるのはあたりまえで、まだ遅れている国に文化を与えたらありがたがられるのは
あたりまえなんです。
なんだかそういうことを冷静に踏まえずに、あんまり免疫のない鬱積したナショナリズムに、
サブカルチャー的なものでわっしょいわっしょいやられて、すっごい表層的な愛国心が、
オタクを中心にバーチャルな優越感をくすぐってるだけっていうのは何か萎えます。
No.7
- 回答日時:
No.6の回答を終えてから 気づきました。
わたしの削除された質問【Q:昭和天皇の戦争責任】(その一のほうです)は おかげで復活しました。
これなどは 《固定的判断》あるいは勝手な《論断》が 解きほぐされて 直った事例です。
そういうこともありますから 気長にまいりましょう。
つまり つねに妥当な論断――そして さらに色をつければ 社会公共のための発言であること――をこころがかけてまいりましょう。
汝、裁く莫れ。
人を決め付けないということなのでしょうが、人は決め付けて、何とか硬い甲羅で自分を保護・確保して生きておりますね。
よく熟読させていただきます。
No.6
- 回答日時:
No.3です。
★ 自分の支柱として、人を論断して生きていますね。 / それはみにくいなぁと存じているのです。そういうものを克服したい思いからの起質問です。
☆ 何ら《みにくい》とはわたしは思いません。
わたしは 竹下登は 人間の顔をしていないと論断していました。小沢一郎は もう二十年遅いつまり過去の人間だと論断しています。
別に《支柱として》はいないのですよ。強いて言えば そういう反応です。精神衛生上の判断です。(消極的な支柱にはしていますかね。でも 支柱を求めて そういう判断を持つのではありません)。
問題は 表現の自由のもとに そのおのおのの判断を明確に根拠や論拠を示して明らかにすることです。という意味は 誰もがそうするということは 互いに妥当性を求めて 経験合理性に照らし合わせて推論を競うことになります。弁証法過程を互いに歩むことになります。
いつまでも同じ次元における・つまりそこにとどまり続ける競争ではなく まして――議論の過程でけんかになったとしても――勝ち負けを誇るためにでもなく 言わば世の中の心の境地の水準が少しづつ上がっていくことを願ってのことです。(まあ このような願いが 妥当なことであるかどうかをめぐっても 対話や議論を重ねなければなりませんが)。
どうか《論断》にこそ意を用いて行ってください。願うらくは その推論をたしかなものとして 発表してくださるようのぞみます。
公共の仕事に就いているひとは あたかも人格的な批判のような論断にも――条理を尽くした話であるならば――答える説明責任があるとむしろ考えます。
No.5
- 回答日時:
>人は彼は、彼女は○○だという認識を持って、自己の落ち着きをしていると存じます。
>それを克服したい、その不当性をりかいしたい、といおうご指導をお願いしてつもりです。
今ニーチェ読んでいるんですが、、、
ニーチェいわく、断言しろ でしたよ。
そうですか。
それも一つの方法ですね。それでいいなら。無論、私も古来の方と同じようにそうやって断言して今もこの柔弱なるガゆえに敢えて断言して生きていますが。
士大夫三日会わざれば、刮目してまつべし。
孔子とは誰の事かとおもいきや、おらがとなりの丘のことか。
イエスはナザレに帰った。しかしなんだ大工の子どもだ、っていうことで何も行えず、また行わなかった。というようなことに関連しているとも思っています。
ともかく人は固定観念を形成するものですね。
古来、地上のそういう性癖をどう反省しどう抜け出るかの質問でした。
木胡桃さんは今もニーチェを手にお取りになられて、何時までも若々しいですね。
ありがとう御座いました。
No.4
- 回答日時:
人に対する判断と言うもの自体が断片的であるような気もします。
人の関係性とは流動的であり、さらに言えばなんら固定されているものでもなく、他者が何者であるか、自身が何者であるか、そういった事柄は知るべきことであるかもしれないが、囚われるべきことではないと思います。
プレーンな関係で居ると言うのが、望ましいと思います。
何らかの判断によって損なわれるようなものは、人の間には存在しないと思います。
士大夫三日会わざれば、刮目してまつべし。
孔子とは誰の事かとおもいきや、おらがとなりの丘のことか。
イエスはナザレに帰った。しかしなんだ大工の子どもだ、っていうことで何も行えず、また行わなかった。
というようなことに関連しているとも思っています。
ともかく人は固定観念を形成するものですね。
古来、地上のそういう性癖をどう反省しどう抜け出るかの質問でした。
ありがとう御座いました。
No.3
- 回答日時:
われが我れに還ることを促すことです。
わたしがわたしである自己到来を得させることです。それには 対話しかありません。どこまで行っても 話し合いです。
対話をどれだけ重ねても ということは その《固定的観念》の非を指摘し分からせても 一向にその観念があらたまる気配はないという場合が 往々にしてあります。聞く耳を持たないという場合です。いえ 聞く耳を持って聞きましたという反応や姿勢は見せるのですが 一向に中身はあらたまらないという場合です。
こちらの存在を無視した発言や行動に移ったら その決定的な事態に際してなら もうその相手は死んだ者と見なして 放っておいてもよいでしょう。相手にすることはありません。
ただ 中途半端に部分的には 妥当性のある話しに耳を傾け納得したということさえあって しかも けっきょくは何も変わっていないという場合があります。苦労します。手はありません。
bragelonneさんありがとう。ご訪問くださりましたか。
今日、お食事は済みましたか?私も46年いた大学で何も出来なく、道真ではないが怨霊に化しています。
そういうことかもしれませんが、ここ三十年は、11時就眠、3時起床で、bragelonneさんとのご挨拶のときは、無論食事は未だです。でも年寄りっていいもので、食欲も人への要求も何もなく為りますね。
そんな人間でも、自分の支柱として、人を論断して生きていますね。
それはみにくいなぁと存じているのです。そういうものを克服したい思いからの起質問です。
ありがとう御座いました。なにとぞよろしくお願いします。
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